あなたにあえて
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はだい悠
お父さんへ
ご心配かけて本当にすみません。お店のほうは一人でさぞかし大変だろうと思います。忙しいときにこんな事になってしまってとても残念です。
私はだいじょうぶです。平気です。食事はまだ取れないのですが、薬はきちんと飲んでおりますから。それに、お医者さんからは手術が成功したので、二週間もすれば退院できるだろうという事を聞いておりましたので、それからはどんどん良くなっていくような気がしています。ですから今は、一日も早く元気になって、再びお父さんのお手伝いをしたり、お花に水をやったり小鳥にえさを上げたりする日が来るのをとても待ち遠しく思いながら、そしてその事だけを楽しみに毎日がんばっています。
私は今、人生っていうものはどうしてこんなに思いがけないことが突然起こるんだろうって、とても不思議な思いをしています。お父さんの事だってそうです。あの日を境にして私の人生は百八十度変わりました。それまでは毎日がどんよりとした曇り空でしたが、それ以後は毎日が光り輝く快晴となりました。あの日とは、私とお父さんがはじめて出会った見合いの日のことです。それまで私はいつも写真の段階で断られてばかりいて、見合いはなかなか実現しませんでした。そこでお父さんとの見合いが決まったとき、嬉しい反面、ほんとにそんな男の人がいるんだろうかと疑いながら、もしかして変な人ではないかと大変不安でした。でも見合いの席で初めてあなたを見たとき、そんな人ではないとなんとなく判って安心しました。それにあまり話さなくても、とてもやさしく誠実そうな印象を強く受けました。
そしてやっぱり私の印象は間違いではありませんでした。新婚旅行のとき、不慣れな場所で何かと私が戸惑っているときに、あなたは決して嫌な顔しませんでしたね。我が子を見守る父親のようなやさしい笑みを浮かべて、私を助けてくれましたね。そのとき私はつい嬉しくなって決意しました。どんな事があってもこの人に一生ついていこうと。その後今日まで、なにがあってもあなたの優しさは変わりませんでしたね。あなたは知らないと思いますが、新婚旅行先で、私にとってとても良い事が他にもあったのですよ。いく先々で偶然にも私たちといっしょになるカップルが居ましたよね。誰が見てもうらやましがられるくらいに洗練されていて、いつも幸せを振りまいているようなカップルがいましたよね。
ある夜、私が一人でホテルの廊下を歩いていたとき、その奥さんが思い余った表情で、いきなり私の前に現れると、私を無理やりロビーに連れて行き、今にも泣き出しそうな顔をして、夫に対する不満を話しはじめました。他にもいろいろなことを話したのですが、今でも忘れないではっきりと記憶に残っているのは、大体次のような内容です。
その奥さんは言いました。あなたは良いわね。だんなさんは優しそうで、頼りがいがありそうで。内の夫は最低だわ。何一つ自分で決められなくて、私に頼りっぱなしなの。そのくせ私一人で何かを決めると、自分を無視したって起こるの、まるで子供みたいなの。だからしょっちゅう喧嘩ばかりしているの。わたしたち本当は結婚するべきじゃなかったの。帰ったらすぐ別れるわ。と。そのとき私は、その奥さんが本当に困っていた様だったので、出来るだけ真剣な表情をして聞く事に勤めていましたが、心の中では、あなたのおっしゃる通りよ。私の夫はあなたの夫と違って、優しく思いやりがあって、包容力もあってとっても男らしい人よ、と誇らしく思うあまり、うれしさがこみ上げてくるのを抑えることは出来ませんでした。
わたしたちの生活が始まったとき、私はとても不安でした。特に家の仕事は私にとって何もかも初めての経験でしたから。おなたの足手まといになっているのではないかと思ってとても気がかりでした。でもそんななかで、おなたのお母さんや近所の皆さんが優しく親切に接してくれた事は、私にとってものすごく幸運な事でした。それに私はあなたの事を何でも知っている先生のように尊敬していて、ひそかに先生と呼んでいたくらいですから。だからどんなに厳しい事を言われても絶対に平気だったのです。それにもかかわらず、あなたは一から順番に丁寧に教えてくれたので、覚えなければならないことがたくさんあってとても大変でしたが、いまにして思えば、本当に楽しいくらいのとても充実したやりがいのある毎日でした。そう言えば、私はあなたに怒られたことが一度もありませんでしたね。喧嘩したことも一度もありませんでしたね。そもそもあなたの怒った顔を私は見た事がありませんでしたものね。少し機嫌を悪くしたのを見た事がありますが、でもそれは、私が悪かったのだし思います、あなたが一生懸命働いているときに私がお客さんとおしゃべりしていたのですから。でも少し弁解させていただきますが、大事なお客さんから色々と相談を受けると、どうしても断る事が出来ないのです。それにお客さんにとっても、私と、近所の噂話をしたり、私に家庭内の不安や愚痴を言ったりすると気分が晴れるらしいのです。それによく夜遅くはで飲み歩いていた時期がありましたね。あのころは麻衣も思春期に入った頃でしたから、私とばかり話するようになって、お父さんを避けるようになっていましたから、それであなたが寂しかったんだろうと思います。でも麻衣は決してあなたの事が嫌いで避けるようななったのでない事は、その後の麻衣の成長振りを見ればあなたにも納得いただけると思います。麻衣が世間の人たちから褒められることほど私たちにとって嬉しい事はありませんでしたね。これもひとえに誠実で頑張り屋なあなたのおかげだと私は思っています。昔のことが懐かしいです。みんなみんな夢のようです。みんなみんないとおしいです。あなた本当に長い間ありがとうございました。私はとても幸せでした。もう一度あなたと仕事がしたいです。お花に水をやらなければ、小鳥にえさも、

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