午後の風
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はだい悠
通りを走り抜けるバイクの音さえ睡魔の化身となって押し寄せるような静かな午後。出窓のレースのカーテンが緑色の風をはらみ大きく揺れる。
ソファーのひじ掛けを枕にうとうとしかけた法子は、
「あっ、いけない、ユウタを迎えに行かなくては。」
と言いながら勢いよく飛び起きた。だが、次の瞬間、目を虚空に投げかけたまま、四秒、五秒、ぼんやりとする。そして、激しくまばたきすると、
「あっ、そうそう、迎えに行かなくても良かったんだ。」
と言いながら、おなかに両手をあてながら今度はゆっくりとソファーに背をもたせかけた。
自転車のスタンドを立てる音のあと、
「ノリちゃんいる?」
と言う若い女の声が窓から聞こえてきた。
「良子。」
だわと、思うまもなく、玄関のほうから、
「こんにちは、上がっても良い。」
という声が響いた。返事をさえぎるかにような、軽やかな足音と共に、良子が法子のいる居間に、あっという間に現れた。
「ねえ、元気、気分はどう?」
「すごく良いわよ。」
「そうよね。もう安定期に入ったし、はじめての経験じゃないもんね。ねえ、玄関、開いてたわよ。良いの?」
「掃除をして、そのままにしておいたのね。日本茶にする?それとも紅茶?」
「わたし、冷えたお水が良いわ。ちょっと外れた住宅街だから。変な人はあまり見かけないけど、でも、無用心よ、気をつけて。あっ、どうもありがとう。実はね、今日は試運転なの、電動式自転車の。ここは坂道が多いでしょう、ものすごく楽よ、、、、これからユウくん迎えに行くんでしょう。」
「行かなくても良いの。」
「まあ、どうして?」
「自分で帰ってくるって。」
「ひとりで?だいじょうぶ?うちの子は小学生だから安心だけど。ユウくんはまだ無理じゃないの。」
「うん、だいじょうぶと思うわ。こことここを通ってくるようにとちゃんと教えてあるし、危ないのはあそこの信号の一箇所でしょう。そこだけ気をつければ、、、、」
「子供って寄り道するもんよ。」
「パパと約束したみたいなの。ママに心配させないようにまっすぐに帰ってくるって。なにせ自分から言い出したのよ。ママはもう迎えにこなくても良いって、自分ひとりで帰ってこれるって言ったの。」
「ママのこと大変だなあって思ったのかしら?」
「さあどうかしら、年中組になったから、少しお兄ちゃんになったのかもね。」
「あら、ユウくん、お帰り。」
「ただいまは言った?聞こえなかったわ。」
「言ったよ。」
「良子おばちゃん、いや良子おねえちゃんに、こんにちはって。」
「ねえ、良いわよ。ユウくん、元気がないわね、どうしたの?」
「帽子とカバンかけてきなさい。上着もよ。」
「ユウくん、えらいわねえ、、、、ところでさ、聞いた話なんだけど、幼稚園の先生のなかにメクラの人がいるんですって。だいじょうぶなの?もし事故にでもなったらどうするの、責任問題になるわよ。」
「あっ、そうね、考えたこともなかったわ。」
「目が見えなくては、大勢の子供たちを見れないでしょう。目が見えても大変なのに。」
「そう言われてみればそうね。ちっとも気がつかなかったわ。」
「他のお母さんたちはなんにも言わないのかしら?」
「うん、そういえば、あんまり聞いたことがないわね。」
「それにさ、法子と同じように、おなかが大きいそうじゃない。ほんとうに大丈夫なの、だれが決めたのかしら?お母さんたちには前もって相談があったの?」
「なかったわ。あそこは何でも園長先生がひとりで決めるみたいだから。まあ、いずれにせよ、今の所は園長先生を信じるしかないわ。ユウタ、こっちにきてジュースを飲みなさい。あら、まだ着替えてなかったの。ほら、そこのテーブルの上のコップについであるでしょう。飲んだらすぐ着替えるのよ。あのように小さくうんを言うときは、あまりよく聞いてないときなのよ。」
「あたしそろそろ帰ろうかしら、あっ、大事なこと忘れていた。このまま帰ったら、来た甲斐がなくなるとこだったわ。今度の会どうする?来週の金曜日なんだけど。カタログは、あっ、自転車においてきちゃったんだ。」
「そうね。お茶を飲んで、おしゃべりをするだけなら良いんだけど。これから何かと忙しくなるし、色々とかかるようになるでしょう。しばらく控えようかと思っているの。」
「そうね。そうだわね。じゃあ、わたし帰るわ。カタログはいらないわね。どうもご馳走さん。」
昨日と変わらない朝からよく晴れた穏やかな午後。すべての家事を終え、法子はソファーにもたれかかった。でも昨日のようには目を閉じなかった。壁掛け時計を見た。幼稚園が終わる時間に近づいているのがわかった。
法子は昨夜、ユウタが眠った後、夫の正人と、ユウタの寄り道について話し合ったことを思い返した。
夫の意見は、あの年頃の子供の好奇心はおさえようにも抑えようがなく、寄り道は確かに危険を孕んでいるものではあるが、かと言って厳しく監視してそれをおさえるのも良くないので、今はとにかく難しい微妙な年齢であるカから、あまりうるさく言わないで辛抱強く見守っていくしかないだろうと言うものであった。結論としては、車に気をつけて、知らない人には付いて行かないようにと言うだけで十分だろうと言うことであった。
ぺたぺたと走る足音が聞こえできた。玄関のドアがあけられ、
「ただいま。」
と言う大きな声が響いたあと、勢いよくユウタが居間に駆け込んできた。
「ママ、のどが渇いちゃった。」
「そう、その前に帽子とカバンをね。ねえ、ユウタ、どうしてそんなに走ってきたの?何かあったの?」
「うっ、うん、ない、、、、」
「さあ、どうぞ。ちゃんと腰かけて飲みなさい。」
「ふう、お魚さん、いっぱい見たよ。いっぱい流れてきたの。」
「どこで?ああ、おじさんたちが釣りをしているところね。落ちついて飲みなさい。」
「わあ、いっぱいって、おじさんたちに言ったの。ほんと、ほんとに見たの。いっぱいお魚さんが流れてきたの。」
「ああ、判った。ユウちゃんはそれで走ってきたのね。遅れたので急がないと思ったのね。良いのよ少しぐらい道草食っても。いつもの帰り道なんだから。ただ知らない道だけは行っちゃだめよ。」
「ねえ、ミチクソって、なに?」
「ミチクソじやなくって、み、ち、く、さ。道草よ。」
「ミチクソ、ミチクソ、ミチクソ、、、、」
「もう、ママは忙しいの。もう飲んだわね。これ洗うからね。」
−−−−−−−−
「、、、、ねえ、ママ、メクラってなに?」
「、、、、えぇとね。目が見えないってことよ。」
「目が見えないって?」
「そうね、、、、」
「チエコ先生って、メクラなの?」
「ユウちゃん、ちょっと待ってね、ママこれ洗い終えるから。さあ、終わった。ええと、なんだっけ。ユウちゃん、こっちに来て、良い、ユウちゃん、こうやって目を閉じて、開けないで、さあ、歩いてごらん。」
「わあ、怖いよ、ママ歩けない。」
「だめ、目を開けちゃ。今ユウちゃんは目が見えないよね。さあ、歩いて、こっちよ。」
「あるけない、こわいよ。」
「どう、怖かった。」
「だって、夜みたいなんだもん。」
「でも、チエコ先生は目が見えなくても歩けるのよ。」
「どうして、こわくないの?」
「さあ、どうしてなんだろうね。すごいね。」
「すごいんだ。」
「そう、すごいんだね」
「すごい、すごい、すごいんだ。」
「そうだね。でも、チエコ先生は、歩けるだけじゃないんだよ。ユウちゃんと遊んだり、おもちゃを運んだり、椅子を片付けたり、みんなといっしょにご飯を食べたりして何でもできるでしょう。えらいね。」
「えらい。パパやママよりえらい。」
「そうね。パパやママよりえらいかもね。」
「エライ、エライ、エライんだあ。」
「だめ、そんなに暴れちゃ、ママ、痛いって。」
次の日も、ユウタは走って帰ってきた。そして着替えを済ませると、喉が渇いたと言って、さっそくジュースを飲み始めた。その様子を横で見ながら法子がやさしく言った。
「ねえ、ユウタ、今日、幼稚園だあったこと、ママにお話しして。」
「ええと、ええと、なんにもなあい。あっ、あのね、おまわりさんが、トンネルでパンを食べてたよ。」
「トンネルで、おまわりさんが、パンを食べてる?おまわりさんだって、パンぐらい食べるでしょう。」
「トンネルの暗いところで、おまわりさんが、ひとりで、、、、」
「あっ、ユウタ、そういうことなの、どうも変だと思った。ねえ、ユウちゃん、どうやってトンネルを通ったの?正直にママに教えて。あそこを通るには、、、、あっ、急な土手を降りたでしょう。破れた金網をくぐったでしょう。そうでしょう、ユウタ。パパと約束したでしょう、危ないから寄り道しないって。、、、、まあ、仕方がないか。少しぐらいなら良いわ。でも、今度からは絶対に破れた金網なんかくぐったりしちゃだめよ。あぶないからね。」
「ねえ、ママ、チエコ先生って、目が見えないんだよね。ナオちゃんが違うって言って、ほんとうだよって僕が言って、ナオちゃんとけんかしたの。目が見えないけど、チエコ先生はえらいから何でもできるって言ったの、でも、ナオちゃんは、違う違うって言うもんだから。ボク、帰ってくるとき、チエコ先生が歩くところにお花の箱を置いたの、階段のところにあったお花の箱を、、、、」
そのとき自転車の止まる音がした。
「ノリちゃん、ノリちゃん、いる?」
と叫ぶ良子の声に、いつもと違え響きを感じ取った法子は、急いで窓から顔を出して答えた。
「いるわよ、なあに?」
「ユウくん、帰ってきてる?」
「来てるわよ。」
「あっ、そう。ちょっと前にね、幼稚園のほうから救急車が走って来て行ったから。何かあったのかと思って。ユウくんは帰ってきてるのね。なんでもなかったのね。良かった。じゃあまたね。」
「わざわざ、どうもありがとうね。、、、、ねえ、ユウタ、聞きたいことがあるの、良い?」
「うん。」
「さっきの話の続きだけど、お花の箱を置いて、、、、それからどうなったの?」
「うん、ナオちゃんが、ボクのほっぺをパシッとたたいて、あぶないじゃない、て言ってね、お花の箱を元に戻したの。」
「ねえ、ユウちゃん、こっちに来て。」
「なあに?」
「ママに、ユウちゃんのこと抱きしめさせて。」

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