第八悲歌二部
小礼手与志
孤独と群集のなかで、わたしはかつて体験したことのないような思いがけない感情に遭遇した。
ある日、わたしは長い間の悲願であったかのように、仕事を完璧なまでに仕上げた。
そして、それまでのように達成感に浸りながら、
ビールで祝杯をあげても良かったのであったが
なぜかわたしは、突然虚脱感に襲われた。そして、それは見る見る永遠の憂愁と
倦怠に変わっていった。わたしはどうしてよいかわからず
幼児のような無力感に打ちひしがれ呆然として耐えるしかなかった。
またある秋の日の夕暮れ。街はいつものように華やかで喧騒に満ちていた。
しかし、気がつくとわたしは目的のない野良犬のようにさ迷い歩いていた。
町の光も音も、わたしの体をすり抜けていった。血はさらさらに乾いて
枯葉のように風に飛んでいった。わたしには何もなかった。
わたしは何者でもなかった。
わたしには寄りかかるものがなかった。
わたしは無限の虚空の中を本能だけで歩いていた。
またある冬の夜。足音を天空にとどろかせ、
血も凍りそうな恐怖を撒き散らしあいつがやってきた。
天の軍勢を引き連れて、わたしを壊しにやってきた。
あいつの息吹で、木々がざわめく。
そして、星がゆれるほどのうなり声を上げると、つぶやくように言った。
「もういいかげん、強情を張るのはやめないか。」と。
それまでは、これらと似たような体験はなんどかあった。
しかし、それらはあくまでも、青春の憂愁や退屈や虚無と同じもの、または、その延長線上にあるものとして、そして、自然への素朴な畏敬の念の現れとして、その他の様々な感情の中のひとつに過ぎないといった程度のものでしかなかった。
というのも、かつては、「いまは、このように打ちひしがれて、不安な状態にあるが、自分はこんなものではないし、こんな状態も長くは続かないだろう、これからは多少は困難が待ち受けて入るだろうが、人並みに努力をすればいつかはきっと、社会の一員として何者かになっているだろう。
そのときには、このような空しさや憂いや恐怖から開放されて、充実した生活を営んでいる人間になっているだろうという確信があったからであった。しかし、ここに述べられたようなことは、それまでよりは切羽詰っており、極限的であり、自分はこれだけの者であり、これ以上の何者でもないということが、はっきりと直覚されている。
だが、わたしは、なぜか壊れなかった。
一夜明ければそれほど苦もなく、気晴らしと娯楽と仕事の生活に戻ることができた。
孤独と群集のなかで、わたしは究極の真理にめぐり合った。
あるときわたしは次のようなことに気づいた。
思考の始まるところに行為は終わり。行為の始まるところに思考は終わると。
またあるとき、わたしは次のようなことに気づいた。
なぜだれも公言したがらないのか、真実とは肉体ではないか、生存ではないか
欲望ではないか、生活ではないか、自己防衛こそ真実ではないか。
またあるとき、わたしは次のようなことに気づいた。
XXとは永遠の不在のことである
永遠の不在への限りない接近、そして夢幻の交わり。
いまこのように、昨日までのことを書いていることで、わたしは、知らず知らずのうちに入り込んでいた迷路から抜け出せそうな気がしているし、また今後書き続けることで、新たな不安や混乱や絶望に陥らないで済むような気がしている。
だから、なぜ書くかということもはっきりしてきている。それは決して行為を否定することでもなければ、思考に肩入れすることでもないことは明らかである。
何故なら思考と行為の本質的な違いを知っている今となっては、そうそのような考え自体が意味をなさなくなってきているからである。
わたしにとって書くことは、あくまでも何もやることがないときの暇つぶしともいえるし、誰もためでもなく、自分のため自己満足のためともいえるし、また深い狂気に陥り精神病院の厄介にならないためでもある。
今日、わたしはついに発見した、長いあいだ胸につかえていた真理を。
そして、はっきりと、次のように言葉で表明することができる。
今日、わたしは次のように思っている。
自分の頭の働きに、あまり頼り過ぎないようにしよう、と。
何故なら、自己の根源を
親や社会や自分の肉体に求めないで、自分の思考に求めることは、
とくに、若いときに陥りやすい過誤であるから。
というのも、その取り付きやすさと
親密性のたるに、内省的な青年にとっては、
たしかにひとつの魅力的な方法だからである。
しかし、そこには原理的な欠陥が隠されているように思われる。
それで年齢に関係なく
あまり頼りすぎると、出口のない迷路に踏み込むような気がするのである。
今日、わたしは次のように思っている。
人間の目には宇宙は膨張しているようにしか見えない、
しかし、神にとっては。
今日、わたしは次のように思っている。
自分をどこに置くかによって、たとえば、すべてを枯らす砂漠か、
すべてを凍らす極北の地か
それとも永劫の闇の超宇宙か、
それによって世界はなんと美しく瑞々しく見えることだろう。
今日、わたしは次のように思っている。
世界を論理的に説明し始めると、世界はいっときその動きを止めてその
構造の隅々まで見せてくるが
説明を止めると、世界はふたたび動き出して、以前と少しも変わらない
あるがままの姿を見せ始める。
今日、わたしは次のように思っている。
決して洗練された感覚ではなく、ひとつの夜明けが、
ひとつの真昼が、ひとつの夕暮れ
ひとつの月夜が、わたしの感覚の本源に横たわっているような気がする
今日、わたしは次のように思っている。
何気なく考えたり、ふと何かを思い浮かべたり、
深い意図もなく独りごとを発したりするときにも
過去のおびただしい数の人間と生き物の体験と思いが関わっている
ということに気づいたら
そして、現在のおびただしい数の人間と生き物がそうさせているのだ
ということに気づいたら
孤独者は孤独者でなくなるだろう。
今日、わたしは次のように思っている。
生き物であるわたしだけでなく
町や国や地球も生き物のように生きているのです
だから、わたしだけでなく、町や国や地球も狂うときがあるのです。
今日、わたしは次のように思っている。
いつ頃からだろうか、身近なものだけで、
たとえば、目で見、耳で聞き、手で触れるものだけで
十分に生きられるとなんとなく判り始めてきていたのは。
今日、わたしは次のように思っている
心が限りなく透明に近づいて、
思いやりや優しさだけの世界になってしまうんですから
悪霊も簡単に入ってくるわけですよ。
今日、わたしは次のように思っている。
すべてのこだわり、すべての引っかかり、すべての迷いから開放されたいま
頭の中には悪魔の親分が住み付くようになりました。とてもつらいです。
今日、わたしは次のように思っている。
モフクノミニスカート、ソレハナイヨ。
あなたは宇宙を壊すつもりですが、それとも作り変えるつもりですか。
今日、わたしは次のように思っている。
野良猫の目をした若い女
野良猫はどうにか生きられるだろうが。
今日、わたしは次のように思っている。
電車に乗り合わせた多くの無名の人々の中から世界を見ること
それこそ真実であることは、二十年前と少しも変わっていない。
今日、わたしは次のように思っている。
あなた方が、自分から見ても周りから見てもふさわしいように行動するなら
わたしは自分の思いのままに想像するだろう。
今日、わたしは次のように思っている。
人間は自分というものが、この広大無辺宇宙の前では、
あまりにも小さすぎる
存在であるということを知っているからこそ、幻影のなかを恍惚として
永遠で無限の宇宙を漂うことができるのです。
今日、わたしは次のように思っている。
わたしは自分自身に関しては一流の専門家だと思っている。
であるから、わたしは、客観的に
だれの目にも明らかである自分の容貌や体型や行動パターンに始まり
わたし自身の性格や趣味
それに他人にはわからないような内面的なものまで、
完璧に近いほど知っているつもりである。
とくにわたし自身の長所や短所、美点や欠点については
これは先祖や親から譲り受けたものであるとか
育った環境の影響によるものであるとか言って、
自己分析をしながら、少なくとも他人よりは
自分のことをはるかに知っているつもりである。
だがそれでもなお、わたしには気づかない
つまり他人には知ることができるが、
わたしには知ることができないような、長所や短所
美点や欠点がわたしにあるとしたら、そして、それが、
いわゆる経験によって学び得たものか
または両親からの遺伝によるものか、分析不可能なものであるとしたならば
それはわたしにも記憶にないような幼いころに、
母や姉たちのやさしい眼差しや
肌のぬくもりのおかげで身についたものなのです。
今日、わたしは次のように思っている。
人類の究極の目的は平和であると、
崇高な思想のごとく語られることに対して、わたしはかつて
そうではないと、これもまた崇高な思想のごとくであったが、
それを越えた何物かが
精神的な何物かがあるにちがいないと確信していた。しかし、
いまでは、そのことは
人類の究極の目的は平和である、というのと同じくらいに、
純粋にして正当な思考活動による
自然的産物であり、きれい事のように思える。というのも、
そういう考えを生み出した
目の前の現実というものがすべてではないかと
思うようになってきたからである。
言い換えれば、絶えず創造と破壊のエネルギーで荒れ狂う宇宙のなかを
漂着する先が永遠の生命か、それとも暗黒の破滅かもわからないままに
ただひたすらに突き進む生命活動がすべてである。
しかも、その過程がすべてであり、もっとも重要視されるという
生命活動が。だが、これもきれい事か。
今日、わたしは次のように思っている。
はたして、数秒後の自然な死に絶えられるだろうか。
余裕をもって死にたい。
今日、わたしは次のように思っている。
はたして、今まさに、人間の過去も未来も消滅しようとしているとき
無限の孤独に耐えられるだろうか。わたしは最後の人にはなりたくない。
今日、わたしは次のように思っている。
どうやらわたしは長生きしそうです。困ったことです。
ますますふやけていきそうです。
ますます不安げで頑固になっていきそうです。
残りあと何年、あと何ヶ月と決めたら、
どんなにか生き生きと楽しく生きられるでしょうに。
今日、わたしは次のことに気づいた。
肉体と魂の二元論を認めるまでに四十年かかった。
今日、わたしは次のことに気づいた。
鏡に映ったように、自分を客観的に見ることの重要性が理解でき、
またそのことを冷静にできるようになったのは、
どうやら四十過ぎてからのようです。
今日、わたしは次のことに気づいた。
若いころからずっとわたしを惑わし続けてきた
女性の美しさについてのことが
どうやら、ようやくほぼ完璧なまでに判りかけてきた。
今日、わたしは次のことに気づいた。
それは精神が生き物である証拠でしょうが。
わたしが安定するのは、
テーブルに卵を立てることができるくらい偶然なことです。
しかも、かすかな振動で卵が倒れるように、その時間は非常に短く
ちょっとしたきっかけですぐ不安定な状態になるのです。
どうでも良いことにこだわるように
何でもいいからよりどころを求めるように、
わたしたちが何かに熱狂するように
それは、あたかもひとつの病理のようです。
今日、わたしは次のことに気づいた。
家族の呪縛から解放去れ。社会の呪縛から開放され、
キリストの呪縛から開放され、マルクスの呪縛から開放され、
観念の呪縛から開放され、物質の呪縛から開放されたとき、
わたしはなんとも心細く情けないものになっていました。
そこで、わたしは
自分自身を呪縛しなければならなくなったのです。
今日、わたしは次のことに気づいた。
心が引っかかりやこだわりから完全に時は放たれると、
そこには、良いことや美しさや
天使に混じって、悲惨なことや悪魔まで顔を出すのです。
今日、わたしは次のことに気づいた。
ようやくありつけた一杯のお茶をすするとき
永遠に生きられそうな気がする。この単純さ。
今日、わたしは次のことに気づいた。
たしかに、普通は、良く見えるところ良く見えるところといって、
人間はみんな
高いところに昇りたがりますが、でも、そこからは案外、平面的で
生気のないもののようにしか見えません。地べたからのほうが、意外と
個性的にいきいきとみえるんですよ。もしかしたら、、、、
今日、わたしは次のことに気づいた。
なぜ今まで花が美しいものとして、わたしの興味をひかなかったのか
それは、花よりも美しいものがずっと
わたしの興味の対象にあったからです。
今日、わたしは次のように決断した。
これといった成果もなく、今日一日が終わろうとしている。
まあ一休みをして、それよりも、ひとまず買い物に行き
何かおいしいものを作って食べましょう。
今日、わたしは次のように言って自分を慰めた。
明日は天気が良いことを願いながら眠りましょう。
あとは行ける所まで行くしかないから。
今日、わたしは自分自身を叱咤した。
なぜお前は微笑まないのか、何か損をするとでも思うのか、
馬鹿と思われることが
そんなに怖いのか、見知らぬものの笑顔で、
お前はどんなにか気分が晴れたことが
あったではないか。
今日、わたしは予感した。
もしかしたらわたしに、不安や混乱や絶望を克服して
勝利者のように話すときが来るのではないかと。まさか。
今日、わたしは書くことの新しい意義を発見した。
まじめには、それは世界との現実的な関係ではなく、
世界と幻想的情緒的な関係を持ちたいため。
わたしにとって、それは夢であり、喜びであり、生きがいである。
冗談では、ボケないように手と頭の運動のため。
今日、わたしはある系譜を意識した。
動物のような純粋な恐れと諦めをいだき
植物のような素朴なしぶとさとひたむきさを持ち
常に賢く機知に飛んでいるだけでなく
言葉よりも、相手の表情や動作から
より多くの意志や感情を読み取ることのできる
物静かで奥深い知恵を備え、いつも誠実で忍耐強いだけでなく
穏やかな微笑をたたえ、優しさと思いやりに満ち溢れ
歴史に冷静な眼差しを投げかけながらも、
決して表舞台に登場することなく、その裏側を、
大河のようにとうとうと流れ続けるおおらかで粘り強く生きる
心情豊かな名も無き無数の人々の系譜を。
今日、わたしはある疑問をもった。
では、いったい、だれが魔法を解くのか。
今日、わたしは次のようなことを考え自分を元気づけた。
空腹なときに買い物をすると、冷静さを失って、
余計なものを買ってしまうように
いわゆる一般的にいって、満たされていないときに何かをしようとすると
自分を見失ってとんでもないことがしでかすことがあるように。
もしお金に困っていたら、
なるべく銀行や郵便局には近づかないようにしよう。
またもし、失業していたら、
なるべく朝に人々が出勤しているときは出歩かないようにしよう。
またもし孤独と劣等感にさいなまれていたら、
男女が群れ集う場所には出かけないようにしよう。
またもし、不恰好で、おしゃれに無頓着であったなら
美しく着飾った人々の集まりには参加しないようにしよう。
またもし憎しみや敵愾心に遠ざかっていたのなら、
政党や組合の集会には参加しないようにしよう。
それならば、そこまでわかっていながら、
お前はなにをそんなにうらやむのか。
美しい女性はお前から遠さかれば遠ざかるほど、ますます美しい
存在になるということを知っているではないか。
そこまでわかっていながらお前はなにをそんなに寂しがるのか。
愛情に支えられた家族の喜びや楽しさの裏側にはそれと同量の苦しみや
悲しみや憎しみやわずらわしさがあるということを
知っているではないか。
そこまでわかっていながら何をお前はそんなに不安がるのか。
あわただしさと厳粛さのなかで、
おびただしい人々によって野辺の送りが行われても
生きているものだけが物を言うことができるということを
知っているではないか。
そこまでわかっていながらお前はなにをそんなにあせるのか。
人々が栄誉を得ることは、
しょせん人間同士の褒め合いではないかということを
知っていたではないか。
そこまでわかっていながらお前はなにをそんなに迷うのか。
欲望には際限が無いということを、
また幸福は日々の生活のなかにあるということを
十分に知っているではないか。
そこまでわかっていながらお前はなにをそんなに恐れるのか。
宇宙の果ても知らなければ、今どこで星や生き物が生まれ
今どこで星や生き物が死んでいるのかも
まったく知らないということを知っていたではないか。
今日、わたしは白昼夢を見た。
わたしは、悪人狩りに出ていた。
「おうい、こっちだ。」
わたしは声のするほうに急いだ。他のものもたくさん集まってきた。みんなを呼んだ知識人風の男が少し興奮気味にいった。
「ほうら見ろ、俺の思ったとおりだ、こんなところに隠れていやがる。俺にはこいつの考えていることが、手にとるようにわかるんだよ。何せいつも悪いことばかりを考えている悪人だからな。こいつらは考えることばかりじゃなく、やることまで一緒なんだよ。みんなこんなひと気ないじめじめとしたところが好きなんだよ。さあ、みんな、引きずり出すのを手伝ってくれ。このやろう出てこい。世話をかけるんじゃないよ。みんな、こいつらはとんでもない悪党なんだ。なにせ過去の過ちを認めないだけじゃない、そんなこと本当にあったのかと疑うようなとんでもないやつらなんだ。それどころじゃない、徒党を組んで、純真な子供たちをたぶらかそうとしたり、真実を伝えようとする人を誹謗中傷したり、デマを飛ばして人々のあいだに争いの種を撒き散らしているやつらなんだよ。さあ、みんな良く見て、悪党面をしているだろう。」
わたしは見た。でも、それほど悪そうには見えなかった。それよりどこかで見たような顔だと思った。知識人風の男はさらに話し続けた。
「なあ、みんな、こいつらのために、今までどんなにひどい目に合わされてきたか知っているか。今までどんなにに迷惑をかけてきたか知っているか。もしも、もしもだよ、こいつらをこのままにしておいたら、将来どんなひどい目に合わされるかわからんぞ。なあ、みんなこのまま生かしておいていいと思うか。こいつらは本当にどんなやつらか知らないだろう。こいつらはな、自然破壊者だし、動物虐待者だし、弱肉強食主義者だし、帝国主義者なんだぞ。こいつらはみんな、平和の敵、進歩の敵、科学の敵、正義の敵、人権の敵、幸福の敵、夢の敵、理想の敵、民主主義の敵なんだぞ。こいつらを生かしておくとわれわれの未来はとんでもないことになるんだぞ。みんなもそう思うだろう、このまま生かしておいて良いわけないだろう。なあ、そう思うだろう、お前はどうしたら良いと思う。たずねられた男は躊躇なく言った。
「たたき殺したほうが。」
「おまえは?」
「はりつけ。」
「お前は?」
と、その知識人風の男がわたしに言った。わたしは思わず答えた。
「し、、ば、、り、、く、、」
「なに、よく聞こえない、お前は、もしかしたら反対なのか。」
「いえ、とんでもないです。」
「あれ、お前、こいつに良く似ているなあ。知り合いか?」
「いえ、まったく知りません。」
そのとき近くにいた見知らぬ男がわたしに言った。
「あれ、お前、いつかあいつと話していなかったか。」
「なに言ってんだよ、あんなやつまったく知らないよ。」
知識人風の男は、さきほどの答えを求めた。
「それで、おまえは、どうしたいんだ。」
わたしは落ち着いて答えた。
「火あぶりにしたほうがいいと思います。火あぶりにすると悪魔が苦しがって中から出てくるという話ですから。この際どんな悪魔なのが見たい気もしますから。」
「それは迷信だよ。そんな非科学的なことを言ってはいけないを。こいつは悪魔なんかじゃない、悪人なんだ。なあ、みんな、磔にしようと思うんだけど、良いかな?よし決まった、それじゃ磔だ。」
悪人はロープで縛られ泥道を引きずられて行った。わたしは人ごみにもまれながらついていった。
今日、わたしを飽くなき憂愁が襲う。
そこでわたしは憂いから逃れるために色々なことを考えた。
その一
日常生活のなかに、具体的な楽しみや喜びを見出すこと。
たとえば、食べることに、人に会うことに、労働することに
天候の変化に、季節の変化に。
その二
できるだけ大きな、かつ明確な目標を持つこと。そうすれば、
つまらないことにこだわって
トラブルを引き起こしたり、些細なことを気にして
複雑な人間関係にまきこまれたりしなくなり
いつも晴れやかな気分で建設的に生きられるだろう。
その三
ときには嘘でもいいから自分をひとかどの人間と思い込むこと。
その四
ときには、自分はこれといって特別なことはしないが、
テレビで取り上げられるような犯罪者ではないと思うこと。
その五
ときには、意識的でも良いから、上ばかり見てないで下をも見ること。
その六
数十億年後には地球はなくなっているだろう。だが
いま生きているほとんどの人はそんなことをまったく気にしていない。
であるからして、現在、これから年老いてどんな死を迎えるのだろうかと
思い憂えてはいけない。
それよりも、少なくともあと十年はなんとか健康で元気に生きられるだろうと
思うべきである。
そうであるならばさらに、十年後の生活の糧をどうやって得ようかなどと
思い煩ってはいけない。
少なくともあと一年はなに不自由なく生きられると思うべきである。
であるならさらに、一年後の生活資金の枯渇を思い憂いことはしないで
少なくとも今日一日はなんとか楽しく過ごせると思うべきである。
であるならさらに、みぞれにぬれながら
さ迷う野良犬のような寂しさのなかで
雑踏に母親を見失った幼児のような心細さのなかで、
ひそかに忍び寄る死霊のように
血も滞りそうな憂いに襲われるとき、まず顔を洗い、深呼吸をし、
空を見よう。
そして、一歩一歩着実に歩み始めよう。
そうすれば生きようといている自分を発見するだろう。
あなたには、まだ見たこともないような
美しい風景がいっぱいあるではないか。
あなたには、まだ食べたこともないような
おいしい食べ物がいっぱいあるではないか。
今日、ついにわたしは明日について何かを言わなければならなくなった。
明日だれかがわたしを拒絶したら、わたしは他の誰かを捜し求めるだろう。
もしも十人の者がわたしを拒絶したら、わたしは十一人目に期待をかけるだろう。
もしも百人の者がわたしを拒絶したら、わたしは百一人目に話し掛けるだろう。
もしも千人の者がわたしを拒絶したら、わたしは千一人目に呼びかけるだろう。
明日寂しげで頼りなさそうで今にも力尽きて倒れそうなわたしを見て
声をかけて励ますものがあれば、たとえそれが誰であろうと
わたしはオアシスの水を飲むように、それを受け入れるだろう。そして
全身に力がよみがえってくるのを覚えながら、わたしは
わたしを励ましてくれた人々に満面の笑みで心からの感謝をするだろう。
明日もしも大人であることに戸惑う青年がいれば、わたしは次のように言うだろう。
大人って間違うんだな、大人って迷うんだな、大人って苦しむんだなって気づいたとき
あなたは大人になっているのです。
明日もしも生きることに悩む青年がいれば、わたしは次のように言うだろう。
生命について考えその大切さを思うことよりも
また生命を感じその向かうところを信じることよりも、生命をありのままに受け止め
踊るような軽やかさで生命そのものを生きるように、と。
明日もしも孤独に苦しむ青年がいれば、わたしは次のように言うだろう。
あなたの肉体は確かにあなたのものかもしれません。
でもあなたの頭のなかに思い浮かぶことは、はたして、あなたのものでしょうか
そして、あなたの感覚のすべても。
今日、ついにわたしは青年たちにはっきりと物を言わなければならなくなった。
わたしは、あなたがたとは絶対に妥協しないでしょう。でも、あなたがたは
わたしたちのすべてを奪うことが許されている。