初期詩篇




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          小礼手与志







突然夏はやってきた。木の葉はいっせいに陽光をはじき、震音を奏でる。
初夏の乾いた風はわたしを怠惰な眠りから醒ます。

僕の飢えた魂は眠りを嫌う。
不眠とは何の産物であろうか。
肉体の疲労をものともしない。
日々に取り付かれた魂は、
その奥底に潜む魂は、
その倦怠に飽きてしまった。
何かを求めようとじっと周りを見つめる。
思いは屋外、神秘の腹。
ひとり孤独の憂愁の極点。
僕の飢えた魂は眠りを嫌う。
見よ、容赦ない熱風、容赦ない太陽。
憩いの木陰の永遠のまどろみ。
孤独な聖者の瞑想にあこがれる。
   





もし自然がいまだ僕に身近なものなら。
僕の内臓がそれを許すなら。

それほど強くない午後の太陽が、
木々の間から不定形な形となって、
僕の周りに舞い落ち、
伴奏者の風が震音を奏でながら、
やさしく吹き抜けるとき、
苦悩にしぼんだ僕の脳髄は、
真綿のように解きほぐされ、
とろけで、喜びに浸る。
木々のように陽光を浴び、
風にふるえ、いっさいが充実するなら、
もし自然がいまだ僕に身近なものなら、
僕が僕を忘れることが許されるなら、
僕は僕の生を望むだろう。






かつて僕は思った。
人と人とのデリカシーを。
もう少し世界が苦悩していたらと。
僕は仲間たちと安らぎを得ようと、
僕は世界の苦悩を信じた。
僕は血と内臓で精神を作った。
罠とは知らず、僕は血と内臓で精神を作った世界の一員と。
一つ一つ僕の胃はものの見事に消化した。
どうやら僕の胃は特製らしい。
だが、どうしたわけか、仲間は僕の前から遠ざかってしまった。
僕は呪う、どうしてくれるのかと。
もういまさら君たちのものは食えぬ。
食べれば心も体も分解してしまうだろう。
ああ、僕は成すすべを知らない。






何が怖いのか、乳飲み子よ。
なぜにこの静かな夜半に泣くか。
お前の泣き声は私に涙させる。
お前の恐怖の訳を知る私に。
お前のそばには優しい母がいるというのに。
お前は何に怯えているのか。
お前の泣き声は私を悲しくさせる。
お前の小さな意志を読み取る私に。
恐怖にはただ泣くというそのすばらしさ。
お前を包む世界はそんなにも暗いのか。
お前のそばにはやさしい母がいるというのに。







風邪をひいた。
顔が回りだす、鼻先から額のほうへと。
そのうち体が大きな円を描いて回りだした。
すると記憶が回り始め、宙に浮いた。
次に思想が回りだし、遠心力は地上を振り切った。
地上には価値がなくなり、未練もなくなった。
そして寒々と妄想から醒めた。






やさしいあなたは、胸をいっぱいに膨らませて、可愛い間違いをやったね。
「もう、桜の花は散ったのね。」と。
だから僕はうれしくなってこう答えたんだよ。
「ええ、もう桜の花は散ったね。」と。
そうしたらあなたは恥ずかしそうに言ったね。
「あっ、桜と梅を間違えたわ。」と。






今の君の失われた時は、予期せぬ小さな眠りであった。
わずかな時間に、あれや、これやと、考えていた君にとって、
小さな失われた時は、思いがけない悲しみだ。
老いた君の失われた時は、若い日の情念の彷徨いだ。
報われることのなかった感情への回想だ。
老いた君の悲しみは、いつ果てるともない、若い日々への回想だ。






喧騒に満ち、汚物が散らばる海岸で楽しむよりも、
君はひとり、霧が吹き寄せる日解けない海辺にたたずむ。
時折、怪しく君はその姿を隠す。
先程僕は君とすれ違った。
君はありドームのような黒い工場から出てきたらしい。
酷なる暑さの中にも、君は灰色の作業服に身を固め、
従順な子供のように歩いていた。
そして、君はこの幽寂な海へ、僕はあの喧騒の海へと。
僕はあの時君を哀れんだ。
顔の醜さに。
焼け爛れたその顔に。
僕は忘れた君のこと、苦痛のために。
今君は、悠然とたたずむ、霧の中。
君の安らぎはこの千変万化の海。
喧騒の海よりも、汚物にまみれた海よりも、君のさまざまな海。
君は真に海を愛する人。
許せ、君を憐れんだこの僕を。






なぜに君は悲しいのか。
この意気躍動に満ちた陽光を浴びながらも、
万人に一日の生きがいを与える、
この朝のすがすがしい冷気を前に、
君は何が不服で、何が不満足で、
そんなに苦悩の奈落に自分を突き落とそうとするのか。
君はこう答えるか。
あまりの太陽のまぶしさに視神経の痛みを嘆くと。
それとも、朝の冷気に君のやさしい心が痛むのか。
僕は知っている君の哀しみを。
陽光は恵み深く、朝の冷気はすがすがしいにもかかわらず、
不眠の朝を迎えた君にとって、それはひとつの喪失だということを。






冬の寒さとともに、
春の新しい息吹を感じたく、もう少し待ってみようと考えた。
春はすべてが期待通り、すべてが思いのまま。
風に乗せた香りの上に、やわらかく僕の脳髄を解きほぐした。
だが、すべてが順調なのに、退屈や労は僕に望んだ。
あのよう社内なの太陽を恋せよと。
そしてついでも、その秋も、そして冬も。
それにもうひとつ、
今年の春の中に大事なものを忘れてきたというのだから、
来年まで待てと言う。






僕は責められた。
何も悪いことはしてないのに。
「君は言葉を大事にしない。」と。
僕は昔から無口なのです。
それとも聞き役はそんなのかしら。
僕は攻められた。
何も悪いことはしてないのに。
「君は、思ったことをしゃべらない。」と。
僕にはあなたたちの言うことが本当に判らないのです。
それとも聞き役は損なのかしら。






午後の冷えた遊技場の、
喧騒の部分世界から見える小景は、
電話ボックスの少女の閉ざされた世界。
陽光に生気を奪われたバスを待つ男。
突然吐き出されたように風が吹きぬける。
だが少女にも男にも判らない。
初夏の風がはるか後方を吹き抜けているのを。






人々はひっそりと家の中に閉じこもってしまった。
夜更けに、
僕は、
一日の生活の矢物が吐き出され、
ぬらぬらとしたドブくさい夜気に包まれた路地を歩く。
そんなとき、忘れかけていた記憶が、
花を突き刺す悪臭のように、僕の心に訪れた。
かつて酒気にまみれ、同じような路地を歩いたとき、
崩れそうな僕の心に言い聞かせた言葉、
「眠るな、誤魔化され、眼を閉じてはだめだ。」
と、突然僕の心によみがえる。
だがそんな時空を超えた言葉にも、
ただ喪失感だけ付きまとい、
哀切は夜気とともに僕を取り巻く。






静かな午後、僕らの前には、しぶきを軽快に上げる噴水。
細い水の流れ。
落ち込むしずく。
水面に移る僕たち。
君の存在を確かめたく、僕はたずねた。
「これからどこへ行こうか。」と。
その後、心にふとわくものがあった。
先程の質問には意味がないと。
僕が本当に聞きたかったのは、未来と過去と、
そして現在の違いはなんだろうかということだった。






いまだ明けぬ、ほの暗いイチョウの木の下。
空に刺しだす放射状の枝の下。
永遠の景色の安らぎに、
枯れ草の上に和むとき、
酒気にまみれまどろむときに、
ぼわぼわとした春の暖気は飲まれる相手に不穏がり、
ひっそりと静まる。
ふと古い屋敷に、永遠の夏の日差しが、
ひとりの老女を追い求め、不意の不幸を照らし始める。
魂はさまよう、冷え込む体の中、
永遠の生の中。そして、
春の風のように生暖かく、頬を伝わる悔恨の涙の中を。






裏切られた空しい心。
何に裏切られたのか。
君は今日も白昼に眠っていたではないか。
君は何を待っていたのか。
冥府を、天国を、地獄を、君は裏切られ目覚めたのか。
青空を、下を吹きぬける涼風を。
これはすべて期待通りだよ。
何が悲しいのか。
真昼の太陽を拝めなかったことか。
何が恨めしいのか、太陽の付きまといか、青空の付きまといか。






友と称する者よ。
君は見知らぬ通行人だ。
見知らぬ通行人に恨みの忠告をすれば、恥じずにはいられないだろう。
すれ違う通行人の行く先を干渉するな。
後姿を互いに見守ろう。
苦悩なる道への出発。
悲しく見よう、その滅びを。






今、家に通じるこの道を歩む。
春の開放された太陽に照らされ、
いまだ新芽を出すのが場違いのように、
軽やかに残財する枯れ草の道。
幼い頃、ここに座り、枯れ草をむしり、
天空に放り投げ、唇に落ちる草の味をかみしめた。
今、ここに座って思う。忘れられた時間を。
夢に現れた実在を疑い、郷愁への悲しみの涙で過ごした、苦悩なる一時期を。






それは雲ではない、無残に刈り払われた草地。
彼方の山は夏の山ではない。
冷え冷えとした秋の山。
秋にはこのような錯覚がなんと多いことか。
僕は弱々しい神経を知る。
かき乱された脳髄は、たわいもなく今年の秋を求める。
去年とは違う今年の秋を。
けれど僕は知っている。
無意味な時空への抵抗を。
そして僕は知っている弱々しい僕の脳髄を。












突然、煩瑣な思想、せせこましい情欲を脳裏から抹殺した。
僕のあの得体の知れない、久しく巣食っている、憂鬱にして崇高なる脳の業だ。
苦しく絶望的に感知する。
知らずにいれば愚鈍になれるものを。
それは恐ろしく済みきった人類未踏の地。
僕を包囲する荒涼とした地。
ああ、抹殺したい、もし崇高なる魂が許すなら。






朝の夢の決裂とともに、重苦しい起床。
空腹を感じる腹をぶら下げ、現実に向かって出かける。
昨夜の泣き言はすべて夢想。倦怠のほろ苦さ。
怠惰な人生は唯一の生きがいと感じながら。
怠惰なやからを嫌悪する。
時間の長さに退屈し、汗にまみれて帰ってくる。
この一日、そうこのような一日が、
僕を長々と沈滞させる悲哀の原因だ。












今に人々は、強力な倫理や道徳を望むようになるだろう。
己の無知さから弱気ななった大人たちに育てられた者たちが、
その青年期の放蕩さ故に、その価値の喪失さ故に、
生活の安定とともに、自らを規制する倫理や道徳を、
その自由の束縛として熱烈に望むようになるだろう。












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