はなみずき



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          はだい悠






 突然のように電車は止まり、ドアが開く。
 ホームに飛び出すように降りて歩きだすと、いつもの灰色の表面が水で湿っているのに気づく。所々には小さな水溜りがある。カイは雨が降ったのかと思い、ホームの外に目をやると、ビル群の上空が、黒々とした雷雲と、透き通るような青空で、くっきりと分かれているのが目に入ってきた。
「なんだ、雷雨だったのか、ちっとも気がつかなかったなあ。だって、ずっと夢を見ているような気分だっもんな。」
と、カイは自然とこみ上げてくる笑みを覚えながら思った。

 駅を出るとカイは、反射を重ね弱められた陽光のせいか、鏡よりはずっと自分を格好よく映し出す楽器店のショーウィンドーに、
「今日は、いつもよりは、だいぶ良い顔に映っているに違いない。」
と思いながら、何度も自分の姿を確認しては、満ち足りた表情でゆっくりと帰り道を歩き始めた。少し興奮気味に軽い足取りで。そしてカイは、かつて経験したことがないような幸せな気分に浸りながら思う。
「    きっと、あういうのを、運命的な出会いって言うんだろうな。だって、あまりにも偶然すぎるもんな。  いつもなら、授業が終わると、あいつらと三人で、ブラッと校門を出て、どういうわけだか、左に曲がって、そのとき一番近いやつが意味もなく、地面から突き出た石の円柱にケリを入れる。本当なら、校門を出たあとそのまま真っ直ぐに行って、目の前の横断歩道を渡れば、最も近い駅まで一直線なんだけどね。  誰かがケリを入れたあと、そいつはその勢いで今度は、歩道のガードレールに飛び乗り、その上をバランスを保ちながら歩くのだが、それを三人が次々とやるもんだから、いつのまにかに、それが競争みたいになっちゃって、その距離もだんだん延びていって、結果的にはそれが習慣みたいになってしまって、最も近い駅からはますます遠ざかるばかりになってしまって、結局は一つ遠い駅まで繁華街を通って歩かなければ、ならなくなってしまっていたんだけどね。  だが、それはオレに言わせれば、オレたちが賑やかな繁華街を歩いてみたいと無意識に思っていることが、そういう訳のわからない行為に駆り立てているようにしか思えないんだけど。  でも、繁華街を通ったからって何か特別に面白いことがあるわけじゃない、どこかの店に入って遊ぶわけでもない、それは学校で禁止されているから。  それでも三人が横一列に並んで歩きながら、頭に浮かんだことを適当にしゃべって、ダラリダラリと三十分もかけて次の駅まで歩くのがとてつもなく楽しいんだよね。そして駅にいてもすぐ電車には乗らないで、駅前を通り過ぎる女子高生に目をやりながら、グダラグダラと話しているのが、こりゃまたとてつもなく楽しいんだよね。  ところがだ、今日は違ってた。あいつらがテストの点数が悪くって補習に残されたので、オレひとりでかえるはめになってしまった。でもオレひとりでケリを入れるわけにもいかないから、だって格好つかない盛んな、それで校門を出るとすぐ目の前の横断歩道をわたって、真っ直ぐに一番近い駅に行ったのだった。そして、いつもよりだいぶ早めに帰りの電車に乗ったのだった。しかも、いつもなら決して乗らない前のほうに。そして、そしてだ、華やかな桜の花が散ったあとに、新緑に囲まれてひそやかに咲くはなみずきのようなあの娘を発見した。これを偶然と言わずして何を偶然と言おうか。トゥテルザトゥルース、オレは今まであんなに可愛くてきれいでスタイルが良くて清潔感があって大人しそうな女の子を見たことがない。    それにしてもだ、どうして今まで噂にならなかったのだろう。あんなに美しかったら、何線のどこで乗ってどこで降りるとか、どこの女子高に行ってるとかいって、学校の男どもの話題を独占しても不思議ではないんだけど。    あっ、そうか、あの娘はもしかしたら転校生なのかもしれない。するとこのオレが第一発見者ということになるな。  うん、そこでだ、もしオレが明日学校に行って彼女のことをみんなに話せば、きっとオレが最初ということになり優越感に浸れるかもな。  さらにだ、もしオレが誰よりも早く彼女がどこに住んでいて、どこの女子高に通っているかを知っていれば、まるで自分の彼女のことのようにそのことを話して自慢できるだろうな。そのためにもぜひ調べなければ。  もうあいつらとは付き合わない。あういうのをネガティブな付き合いっていうんだろうな、あいつらと話したってなんの為にもならない、勉強や政治の話をするわけでもない、いつもテレビゲームやアイドルの話ばっかりだ。もうあんな付き合いはごめんだ。トゥテルザトゥルース。以前からあいつらと付き合うのはもうやめようと思っていたんだ。アザラシのような目をした肥満気味のアザや、おやじ顔のオヤジ。それに比べたらオレはもう少しましだと思っている。だが、いつも三人で歩いているからモテない三人組と思われるのは実際かなわんからなあ、、、、」
 もう空は完全に澄みわたっていた。

 カイは爽やか過ぎる初夏の空気を思いっきり吸い込んだ。


 翌日の放課後。カイは昨晩勉強もしないで練りに練った計画をさっそく実行に移した。
 カイはまず昨日と同じ時刻に駅に行き、彼女が乗ってくる電車を待った。やがてホームに入ってきた電車のひとつの車両に、彼女の姿を発見するとカイは、冷静さを装いながら同じ車両に乗り込んだ。気づかれないようになにげなく。しかし、彼女の姿をよく観察できるように、少し離れた反対側のドアの前に立った。
 電車はゆっくりと走り出す、彼女は座席に座って本を読んでいる。他に空いてる席は一つか二つだけ。
 カイは帰り際学校であったことを思い出していた。
「    もうこれで良いのだ。インファクト、あいつらと付き合うのはもうやめようと本気で思っていたんだから。『みんな、オレは人生をもって真剣に考えてみたいんだ。こんなふうに毎日しょうもない事話し合ってさ、だらだらとすごしたくないんだよ。オレたちは今までに一度だって地球温暖化の問題や、パレスチナの問題について話し合ったことがあるか、ないじゃない。  オレは人生をもう少し有意義に送りたいんだよ。それにさ、オレたちはもう十七、来年は十八、そして卒業だ。このまだとなんにも良いことがなく高校生活が終わってしまうよ。オレは一生に一度の青春を灰色で終わらせたくないんだよ。なあ、わかるだろう。    でも、ところがだよ、最近なんだかとんでもないことが起こりそうな予感がしてきたんだよ。なんて言うか、奇跡の出会いって言うか、運命の出会いって言うか。だからみんなとは付き合えない。もう今日で終わりにしたいんだ。』っていったら、あいつらリアリィに驚いていた。ほんとうに目を丸くしてさ。アザなんかアホみたいにポカンとロなんか開けてさ。」


 電車が止まり。三人の女子高生があわただしく乗り込んできた。そして、カイの視界を邪魔するかのように立った。そのため彼女の姿がよく見えなくなる。しかしその反面、盗み見るようにじっくりと観察できるようにもなった。  スピードが徐々に上がっていき、ホームの影が光の強弱となって彼女の顔を印象的に照らし出す。カイは思った。
「ガムをクチャクチャかんで、上のほうを見ながら周りのことなどちっとも気にせずに大きな声でしゃべりまくって、おまえらほんとうにバカじゃない。これに比べたらあの娘はこんなブチャイクとは全然違う、比較にさえならない。完璧すぎる。白いブラウス、水色の細い紐のようなネクタイ、紺のスカート、なんて清楚なんだろう。まるで桜の後に、新緑の木立に囲まれてひっそりと咲くハナミズキのようだ。女子高生はやっぱりシンプルが一番だな。そのほうが中身が充実していそうで賢く見える。それに比べてこの前の三人、斬新なデザインのブランド物らしいが、確かに人目を引くかもしれないが、でもどうしても中身が伴ってなさそうに見えるから、みんなバカっぽく見える。トゥテルザトゥルース、そもそも、ブチャイクやデブやアシブトは何を着たって似合わないのだ。  こいつらが乗り込んできたとき、それまで爽やかに流れていた空気が急によどんでしまい、心地よい緊張感で張り詰めていた空間もなんだかだれてしまったような気がしたよ。  美しいものは空気を浄化してその場を神聖にするって言うけどほんとうかもしれない。そういえば、いつだったか誰かがテレビで言ってたっけ、美人は空間の精だって。絶対に間違いない。」


 電車が徐行し始めると、その彼女は本を閉じカバンに入れる。カイは思った。
「なんだ、こんな近くに住んでいたのか。オレが降りる二つ前の駅じゃないか。    いや違う、乗り換えするみたいだな。」

 カイは彼女を追ってホームに降りた。そして五分ほど待つと電車がきた。カイはふたたび気づかれぬようにそっと乗り込んだ。そしてときおり彼女に視線を投げかけなかがら思った。
「    どんな出会いにしようか。    彼女が急いで階段を下りてくる。オレはホームの陰から急に出て来て階段を上がろうとする。するとそこで衝突だ。オレはカバンを落とす。そこで彼女は申し訳なさそうにどうもすみませんと謝る。オレは、いやボクのほうこそ悪いんだと謝る。それがきっかけで。  いや、それじゃありきたりすぎる。もっとダイレクトに、本を読んでいる彼女の隣に座って、『読書が好きなんですか?実はボクも好きなんです。』って言って、さらに続けて『どんな本が好きなんですか?』って聞くんだ。でもちょっと大胆すぎて失礼かな?でも、そういう積極性が、おとなしめの彼女には男らしく頼りがいがあるように見えて、ボクが一段と魅力的に見えるはずだ。そうなれば、オレに心が動くのは間違いない。」
 先程と違い今度はドアの前に立っている彼女は、電車が止まるたびにさりげなく身をかわして、乗り降りする他の乗客の邪魔にならないように気を使っているのがわかる。
 ドアの窓からぼんやりと外の景色に目をやっている彼女の姿は何か物思いにふけっているようで、カイは今まで目にしたことがないようなタイプの女の子を見ているようで激しくひきつけられた。そして、彼女はいったいどんなことを考えているんだろうとか、どんな家にどんな家族と住んでいるんだろうかと想像をたくましくした。
 乗り換えてから五つ目の駅で彼女は降りた。

 カイは気づかれぬように後をつけ、その自宅を確認した。


 次の日。カイはいつもより早く家を出た。そして彼女が乗り換える駅のホームで彼女が来るのを待ち、やがてやって来た彼女と同じ車両に乗った。
 彼女はカイが高校に行くために降りる駅から二つ目の駅で降りた。カイは昨日の様に跡をつけた。歩きながらカイは思った。 「    そういえば、ずっと独りぼっちだな、友達がいないのかなあ。たぶん転校してきたばかりだからだな。」

 跡をつけて十分後。奇妙なほど人気ない通りを歩いていると、突然のように目の前から彼女の姿が消えた。その場所に急ぎ足で近づくと、そこは学校の校門のようだった。カイはその校門の前をゆっくりと歩きながら好奇心いっぱいの目をその内部に向けた。彼女姿はもうどこにもなく、きちんと整備された豪邸の庭のような広場を通って、アスファルトの道が右のほうに消えていた。カイは校門の前を通り過ぎようとしたとき、それがたった一度きりのチャンスであるかのように、じっくりと目を凝らしてその門柱に掲げられた表札を見た。カイはつぶやくように言った。
「  市立、   XXXX学園。   こんな静かなところに学校があったなんて、、、、あの字はいったいなんて読むんだろう?」
 カイは振り返るようにしてもう一度校舎のほうを見ると、見えなくなる校舎とポプラ並木の間に、遠く観覧車が目に入ってきた。


 校門を離れて歩き出したカイは、次第に早足になり駅へと急いだ。そして駅に近づくとさらに速くなり。最後は駆け込むようにして電車に飛び乗った。学校にではなく家に戻ったのだ。
 家に着くとカイは、さっそく工務店を経営している父親の測量用の望遠鏡を取り出してそれをバッグに入れると、ふたたび家を出て電車に乗った。


   三十分後。カイはあの観覧車に乗っていた。そして観覧車がある高さまで来たとき、カイは望遠鏡をバッグから取り出し、今朝待ち伏せをし、その跡をつけたあのハナミズキのような女子高生が入っていった学校の方角に焦点をあわせ、レンズに目を当てた。まもなくカイは思わず声を上げた。
「なにもかも計算どおりだ。パーフェクトだ。、、、、でも、どこにも人影が見えないなあ。たぶん今は授業中かなんかだろうな。」 と、そのとき緑の陰が視界に入ってきて校舎が見えなくなった。
 カイはなおも観覧車に乗り続けた。二順目三順目四順目になっても何も見えず、五順目になってようやく人影が見えるようになった。その度にカイは、彼女の姿を注意深く追い求めた。やがて大きく声を上げた。
「「おっ、これはあまりにもできすぎだ。こんなにうまくいくなんて。ひとりで座っている。また本を読んでいる。あそこはきっと図書館かなんかだろうな。まじめなんだ。もうこれで彼女の性格がわかるぞ。あっ、違う女の子が近寄ってきた。本を読むのをやめたぞ。きっと、友達思いなんだろうな。うっ、あれ、なんで、手話なんかで話しているんだろう?」
 そのとき緑の陰が視界をさえぎった。六順目。もう休み時間は終わったようだった。

 観覧車から降りるとカイは、学校には行かず家に帰った。そして、自分の部屋に入ると、まっさきに辞書を取り出して、先程どうしても読めなかった漢字の意味をし調べた。
「  ろうあ、  ろう、と、あ。聞こえないことと喋れないこと。耳が聞こえず言語を発声できないこと。コミュニケィションの手段として手話を持ちいる。」
 カイは辞書を机の上に放り投げると、無表情に、いや不機嫌そうにさえ見える表情でベッドに横たわった。そして焦点の定まらない目を天井にむけたあと、ゆっくりとまぶたを閉じた。
 やがて勢いよく飛び起きると、急にテレビゲームを始めた。とくに子供のころから好きだったものを中心に。母親から夕食の声がかかっても気づかぬくらいに夢中になってやり続けた。夕食後も続けた。調子がよいと子供のように声を上げて嬉しがり、うまくいかなかったときは子供のように顔をしかめて悔しがり、夜遅くまで、疲れて眠気を覚えるまでやり続けた。

 次日も、学校から早めに帰ってくると、自分の部屋に閉じこもり、いきなりテレビゲームを始めた。そして、この日も夜遅くまでやり続けた。


 その翌日。カイは学校から帰ってくると、さっそくテレビ画面に向かった。だが今日は昨日と少し違っていた。カイはどこからか手に入れてきた二本のビデオテープと数冊の本をカバンから取り出すと、テープをセットして本のページをめくり始めた。
 画面には手話をしている様子が映し出されている。
 カイは独力で手話の勉強を始めたのだ。そして夜遅くまで、疲れて眠気をおぼえるまで、それをやり続けた。


 それからいつか後。カイの手話は目覚しい進歩を遂げ、どうにか日常会話を理解できるまでになっていた。
 次の日。カイは昼前に学校を抜け出すと、カバンと一緒に買ったばかりの一冊のスケッチブックを手に持って、あの例の観覧車に乗り込んだ。それは何度も乗るカイを怪しみ始めた観覧車の係員に対して、自分は絵に興味ある人間で、特に風景が好きでこうやってスケッチしているんだということを偽装するためだった。

 ある高さまで来るとカイは、望遠鏡を取り出し、方角を例の図書館らしい部屋に合わせレンズに目を当てた。カイは独り言のように言った。
「パーフェクトだ。あそこはきっと彼女の指定席に違いない。今日は隣には人がいる。きっと同級生かなんかに違いない。」

(……ミ、チ、コ、、、、、ま、じ、め、、、、……)

「ミチコはまじめってことだな。ミチコっていうのか。」

(……ひま、、、、、なにもない、、、、……)

「今は何もすることがないから暇ってことだな。」

(……ここ、、、、座る、、、、良い、、、、……)

「ここに座っても良いかってことだな。きっと信頼されてるんだな。みんなに親切なんだ。」
(……このあいだ、、、、こうえんかい、、、、よかった?、、、、わたし、、、、つまらない、、、、先生すすめる、、、、だけどわたしきょうみない、、、、将来のことよくわからない、、、、ミチコは?)

(……わたしはとてもよかった。勉強なった。……)

(……おそらく、わたしには関係ないから、、、、……)
(……わたしは将来、福祉の仕事をやりたいの、、、、とてもよかった。それより教えて、花の名前、駅前の花壇を見る?あそこのナデシコとペラルXXXのあいだにある、花の名前なの。……)

(……チュウリップ。……)

(……いや、ちがう、白い小さな花なの。……)

(……パンジー、、、、……)

(……ちがう、とにかく、、、、小さい、白い、とっても、可愛い。……)

(……わたしわからない、雑草じゃない?……)

(……ちがう、わかった。こんど調べる。金曜日の午後の休み、わたしいつも、記念図書館に行くの、あそこにはいろんな本がおいてあるから、そのとき調べる。……)

(……ちょっと遊ぶ、、、、ミチコ、まじめ。……)

「ミチコはまじめすぎるから、もう少し遊んだほうが良いってことだな。」

(……わたし、金曜日の午後、いつも映画館、映画見る。外国の映画。字幕ある、日本のない。今度いっしょに行こう。ちがうはなし、、、、……)

「ところでってことかな、、バイザウェイってことだな。」

(……ミチコは下着どうしてる?自分で買う?わたしは自分で買いたい、自分の好きなものを……)

(……わたしは、お母さんが全部買う。でも最近は、、、、……)

 このときカイは思わず望遠鏡から目を離してしまった。そして思い直してふたたび目を当てると、二人の姿は森の緑に隠されもう見えなくなっていた。


 その日、夕暮れ前に家に帰ったカイは、ミチコたちの手話でどうしても判らなかったところを懸命に勉強した。

 次の日もカイは観覧車に乗り込んだ。そして、ある高さまで来ると、すぐさま望遠鏡を取り出して目に当てた。さっそく二人の姿が入ってきた。二人はすでに話し合っていた。

……ほんとうに驚いた、昨日、話した花の名前、わかったの。どうしてか、わかる?不思議なことに、今朝その花のところに名札が置いてあったの。この花の名前はイチゴですって。……

……えっ、どうして、不思議。……
……わからない。こんなことがあるなんでとても不思議。でも、イチゴってあんな可愛い花してたのね。食べるのは大好きだけど花はまだ見たことがなかったから、あんな素朴な花なんてちっとも知らなかった。話は変わるけど、このあいだ先生が薦めてくれた本、カネコミスズさんの詩集、かって読んだ?……

……わたし、詩なんか読まないから。マンガは読むけど。……

……それも読書よ。……

……あれって、ほんとうは、わたしたちじゃなくって、先生はミチコにだけ薦めたんじゃない。ミチコは買ったの?……

……まだって言うか、買えなかったって言うか、、、、……

……どういうこと?……

……駅前の本屋さんで、その人の詩集を見つけたんだけど、その本、棚の一番高いところにあって、どうしても手が届かなくって、店員さんに頼めばよかったんだけど、でもどうしても言い出せなくって、でも今日は思い切って言ってみるわ。……

 このとき緑の陰が視界をさえぎった。


 翌日もカイは、ミチコのいる図書館に望遠鏡の焦点をあわせていた。彼女はいつものように本を読んでいる。そこへ昨日の女の子が現れた。するとミチコはただちに本を読むのを止めて、その女の子に話しかけはじめた。

……ねえ、昨日またとても不思議なことがあったの。あの本今日は買おうと思って行ったの。それでその場所を見たらないの。誰かが買ったのかしらと思って、ちょっとがっかりしてなんとなく下のほうを見たら。あったのその本が。目の前に、手が届きそうなところに。とっても不思議だと思わない?……

……ミチコまじめ、、、、だから神様がご褒美をくれたんじゃないの。……

……まとか、そんなこと偶然よ。それよりもっと良いことがわたしに起こったの。……

……うれしそうな顔して、なに?なに?……

……わたし、、、、すきな、、、、すきなひとがいるの。もちろんまだ片思いよ。その人は高校生で、朝わたしが乗り換える電車に乗っているの。いつも、ひとつ離れた、反対側のドアのところに立ってね。……

……どんな人なの?……

……とても誠実そうで、目は一重なんだけど、なんとも言えないの、やさしそうで。とくに横顔が素敵なの。……

 このときカイは思わず望遠鏡から目を離した。そしてこみ上げてくる笑みを覚えながら思った。

「まさかオレのことじゃないだろうな。オレは外見的にはチャラチャラしているように見えるけど。ほんとうは根はまじめで頑張りやなんだ。もしかしたら彼女はオレのそういうところを見抜いたのかなあ。それにしてもオレってそんなに横顔が素敵だったかなあ。」

 その日の午後。カイは雲に乗っているような気分ですごした。

 夕方。カイはこれといった用事もなさそうにブラッと食堂に入っていった。すると、夕食の準備を終えて新聞を読んでいた母親が話しかけた。
「今日はお父さんが早くかえっ来るそうだから、夕食はそれからだよ。」
「判ってるよ。」
と言いながらカイは椅子に腰をかけると、ゆっくりと落ち着いた声で話しはじめた。
「ねえ、お母さん、ボクが結婚する人どんな人でもかまわない?」
「なんだよ、藪から棒に。あれは嫌だよ、わたしより年上と男の人は。」
「そんなんじゃないよ。これじゃやっぱり無理かなあ。」
「なんだ好きな女の子でもできたのか?ふうん、可愛いのか?でもなんだなしょせん片想いだろう。それもお前の一方的のな。」
「そんなんじゃないよ。」
 カイはそう言いながら少し顔を高潮させ不服そうにテーブルの上に目を落とした。そして少し間をおいてからふたたび話しはじめた。
「ねえ、お母さんたちは恋愛結婚だったの?」
「まあ、世間的にはそういうことになっている。でも、ほんとうのこと言うと恋愛なんてもんじゃなかったね。計算って言うか、打算って言うか、早い話国民の義務って感じかな。」
「愛してなかったの?」
「もちろん愛していたよ。今でも大好きだよ。でも恋愛と結婚ま別だからね。それから恋愛っていうのは、だれにでもできるって訳じゃないのよ。よく覚えておいて、あれは特別なの。恋愛って美しいものなの、美しくなければいけないものなの。そうね、あえて言うなら、美しい男と美しい女の特権みたいなものかなあ。お父さんとお母さんを見れば判るだろう。その二人の子供がカイだよ。まあ、どうせ、失敗に終わることは目に見えているんだけどね。」
 そう言いながら母親は少しからかうような笑みを浮かべてカイの顔をのぞきこんだ。するとカイは怒りで顔を真っ赤にしながら、
「そんなことはない、絶対に成功してやる。」
とはき捨てるように行って食堂を出て行った。


 翌日の朝。カイはミチコが乗り換えをする駅のホームで、期待に胸を膨らませながらミチコが来るのを待った。そして、やがてやって来たミチコと一緒に同じ車両に、できるだけ気づかれぬように後ろのほうからそっと乗り込んだ。ミチコとはひとつ離れたドアから。
 ミチコはいつものように席に座るとさっそく本を読み始めた。カイもいつものように反対側のドアの前に立ってなにげなく外の景色に目をやった。

 カイは自分のほうを見ているミチコと目が合ったときのことを思うと、心臓がどきどきして夢見ごこちになった。カイはそれとはなく、その恍惚とした瞬間を期待しながら少し間を置いて二度三度と、ミチコのほうに目をやったが、ミチコは相変わらず本に目を落としていた。
 その後もなんの変化もなく続き、そして何度目にか見たとき、彼女が顔を上げて、カイとは反対側のドアほうに熱い視線を投げかけているのが目に入ってきた。カイはミチコの視線の先を追った。するとそこにはひとりの男子高校生が立っていて、カイと同じようにまでの外に目をやっていた。カイはその男は同じ高校の同級生で、クラスは違うが名前は知っていた。ユキオカといった。
 カイは激しくいらだった。
「なんであいつがよりによってここに乗っているんだよ。彼女が見ているのは間違いなくあいつだ。ということは、、、、なに、彼女が好きな人って言うのはあいつのことか。」
 カイはさらに激しくいらだち動揺した。
「たしかにあいつは顔は良い、格好も良い、勉強もできる。女の子にも人気があって正直言ってもてる。いつも女の子と話している。それも毎日違う女の子とだ。しかもみんな可愛い娘ばかりだ。彼女が学校に何人もいると言う話だ。ほかの学校にも何人かいると言う噂だ。誰かが繁華街の裏通りを私服姿で大人の女性と二人で歩いていたのを見たと言う話もある。あいつはきっと悪いやつに違いない。ほんとうは女の敵なんだ。見たところ男の友達はひとりもいないみたいだからきっと性格も悪いぞ。そんな男に引っかかったら、純真無垢な娘はひとたまりもないぞ。遊ばれて捨てられるだけだ。絶対に止めさせなければ。彼女が傷つくだけだ。」


 ショックの大きさに深く落ち込んだカイは、その日は学校にも行かないで、夕方まで色んな所をぶらぶらしてから家に帰った。そして、さっそくユキオカ宛てに手紙を書いた。



 やあ、こんにちは。ユキオカ君。いや、はじめましてかな。おい、ユキオカ、お前女の子にもてるからって、最近少し調子こいてんじゃないか。おい、ユキオカ、こんど、お前が女の子といちゃついていたらどうなるか判ってんだろうな。オレはお前のようなにやけた男が女の子と話しているのを見ると虫唾が走るんだ。やい、ユキオカ、もう二度と女の子となんか話をするな。たとえじっと熱い視線で見つめられたり、甘い声で話しかけられたりしても決して応えるな。無視して相手にするな。良いか、判ったか。これもみんなお前の身のためだ。

 やい、ユキオカ、お前のような遊び人はあの娘にふさわしくない。あの娘にふさわしいのはこのオレだけだ。なぜかって、それはオレがお前より誠実で一途だからだ。やい、ユキオカ、オレはお前の悪い噂をいっぱい知っているぞ。火のないところに煙は立たないっていってな、お前はあっちこっちで手当たりしだいでやっているそうじゃないか。表では人のよさそうな笑顔を振りまいて善人ぶってるみたいだけど、裏ではだいぶあくどい事をやってるみたいじゃないか。オレは何でも知っているんだからな。オレはお前のような人間は絶対に許せないんだ。その気もないのに悪魔のような冷酷さで清純無垢な乙女を誘惑してもてあそぶやつをな。
おい、ユキオカ、お前のような女たらしはあの娘を幸せにできない。あの娘はを幸せにできるのはこのオレだけだ。なぜかって、それはこのオレは絶対に浮気することなく、生涯ずっとひとりの女性だけを愛し続けることができるからだ。お前みたいに毎日とっかえひっかえやってるやつとは訳が違うんだ。

 おい、ユキオカ、お前のような世間知らずはあの娘を幸せにできない。それは、今までちやほやされ甘やかされて生きてきたお前と違って、オレは今まで色んな辛いことや苦しいことを経験してきた人生の達人だからだ。

 お前にはわからないだろう。どんなに頑張ってもてようとしても、女の子から全然あいてにされなかったときの寂しく悲しい気持ちが。お前はしょせん世間知らずのお坊ちゃんなんだよ。
やいユキオカ、お前には判るか。どんなに頑張っても報われないものの気持ちが。みんなより努力し一生懸命頑張っても世間の偏見や差別に苦しむ者の気持ちが。オレには判る。だがお前のような世間知らず人間にはわからないだろうな。だからオレはあの娘を守ってやれるんだ。お前にはできないが。

 やい、ユキオカ、トゥテルザトゥルース、お前はヘンタイだろう。いつも女の子とばかり話して、男と話しているのを見たことがない。そういうアンバランスな人間がヘンタイになるんだ。ヘンタイになってパンティを盗んだり痴漢をしたり覗きをしたりするんだ。おい、ヘンタイ野郎、お前にはあの娘と付き合う資格はない。だからあの娘には絶対近づくな。もし近づいたらその自慢の顔がどうなるかわかってんだろうな。

 最後に警告しておく、あの電車には絶対乗るな。朝の通学電車のことだ。どうしても乗るなら十分、前か後にずらせ。それも絶対に前のほうには乗るな、できるだけ後ろのほうに乗れ。

                恋愛の魔術師より



 翌日の放課後。カイはその手紙をこっそりとユキオカの靴箱に入れるチャンスを狙った。だがどうしても人の目が気になりなかなか成功させることはできなかった。カイは怪しげに振舞っていることに気づかれないようにするあまり、少し慎重になりすぎていたからだった。冷静に、人に気づかれないように、すばやくと、自分に言い聞かせるが、そのことがかえってあせりとなって、結局失敗が続くばかりだった。
そんなとき、美術室を出ると、そこで待っていた二人の女の子となにやら話しながら廊下を歩いてきたユキオカと、カイは偶然のように出くわした。カイは三人とすれ違うとき耳をそば立てた。
「今日はずっと忙しいんだ。これから行かなければならないところがあって。」
「ふう、残念ね。どうしてもユキオカ君にわたしたちのクラブに入って欲しかったの、、、、」
「    でも、今日は、」
 カイは三人をなにげなくやり過ごしたあと、振り返り距離をおいてつけた。そして、玄関のところでユキオカと別れて話しながら戻ってくる女の子たちの会話に、カイはもう一度耳をそば立てた。
「ぜひ入ってもらいたいなあ。いつ話しても彼ってほんとうに爽やかね。」
「もてるわけだよ。    ボランティアなんだって、、、、」
「そうなんだって。彼ってね、ラブレターをもらってもきちんと返事を書くんだって。こういう理由で付き合えないからって。」
「だから人気が衰えないのね。」
「それを鼻にかけるところみじんもないしね。」
「生徒会長に立候補したら絶対に当選するね。」
 カイは二人の女の子の後ろ姿を目で追いながら思った。
「ばかめ、あいつが当選するわけないだろう。オレたち男どものあいだでは、すっげえ評判が悪いんだぞ。裏でなにをやっているかわかんないくせに。なにがボランティアだ。パフォーマンスだよパフォーマンス。」

 カイは校舎の外に出たユキオカのあとを急いで追った。
 歩きながらユキオカは道に落ちている空き缶を拾った。カイは思った。
「なにをする気だ。俺なら思いっきり蹴っ飛ばすんだけどな。あいつゴミ箱に入れやがった。人が見てるからな。格好つけやがって。これがあいつのパフォーマンスだな。」
 本屋の前を通りかかると、ユキオカはそのほうに向かって歩いていく。そして入り口に近づくと急に早足となり、目の前を歩いている親子連れを追い越すと、割り込むようにしてドアに手をかけた。カイは思った。
「それ見ろ、これがあいつの正体だ。いたいけな子供をけ散らして割り込んでやがる。、、、、なんだ、ドアを開けてやってんのか。通り過ぎるまでドアを抑えている。またあいつらしいパフォーマンスか。そのうちに化けの皮をはいでやる。」

   二人は電車に乗る。少し混んでいる。
 騒々しく乗り込んできた小学生の群れに取囲まれるようにして立っていたユキオカは、次の駅で目の前の席があくと、その小学生の群れを自分の体で無理やり押しのけるようにしてどけると、少しも表情を変えることなく平然と席に座った。
「それ見ろ、あれがあいつのほんとうの正体だ。」
と、カイは皮肉な笑みを浮かべながら思った。

 次の駅で老人たちが乗り込んできた。そのひとりにユキオカは平然と席を譲った。カイは思った。
「あいつはいったい、なにを考えているんだろう、だんだん判らなくなってきた。」

 それから数分後。ユキオカは電車を降りて、静かな町外れの住宅街を歩き始める。カイはなおも跡をつける。やがてユキオカはXX福祉施設と書かれた門の間に消えていった。カイはその前を通り過ぎながらそれを読む。
「なんだ、嘘でもないのか。」
と、カイは元気なくつぶやいた。そして、少し遠まわりをして家路についた。しかし、家に着くまでずっと気がめいり暗く沈んだ気持ちだった。

 カイは家に帰るとすぐさま手紙をカバンから取り出すと、それを散り散りに破り、ゴミ箱に捨てた。そして、この間のようにテレビゲームを始めた。夜遅くまで。疲れて眠くなるまで。

 次の日。カイはいつもより少し遅れて観覧車に乗り込んだ。そして、さっそく望遠鏡に目を当てると、もうミチコたちは話し合っていた。

……わたしは今まで、嫌なことって、あんまりなかったの。たしかに他の人たちのように、みんなと大勢で遊んだりしたかったけど、でも、寂しいなんて感じたことはなかった。お父さんとお母さんがいつもそばにいて優しくしてくれたから、毎日がとても楽しかった。でも、ときどき思うことがあるの、もしも、わたしの下に妹や弟がいたらもっと楽しかったんじゃないかって。……
……ミチコはもっともっと幸せになれるよ。ミチコのような頑張りやさんが幸せになれなくて、いったい誰が幸せになれるの。ところで、あの人とはどうなっているの?……
……まだ、見てるだけ。……
……ねえ、思い切って話しかけたら。あっ、ちょっと無理かなあ。もし、いきなり手話でなんか話しかけられたら、きっとびっくりするだろうね。あっ、ごめん。……
……良いのよ。気にしないで。おそらくたいていの人は驚くよね。……
……わたし、ミチコを応援したいんだけど、何かきっかけがあればね、ちょっとした手がかりでも良いんだけど。名前とか、どこの高校に通っているとか。……
……そんなに気を使ってくれなくてもいいのよ。はじめから、、、、あっ、そうだ、今度の金曜日記念図書館に行くんだけど、、、、……
 このとき緑の陰が二人を隠した。


 翌日の昼休み。職員室で、カイは担任の先生から、苛立ち気味の声を浴びせられる。
「なにを考えてんだお前は。満足に早退届も出せないような人間が新しいクラブを作るだと。その前にやるべきことがあるんじゃないか、もう少し勉強に身を入れるとか。ずっと下がりっぱなしじゃないか。このままだと補習クラス行きだぞ。それでなんのクラブなんだ?」
「えぇっと、シュワ、手話クラブ」
「手話クラブだと。お前が、頭おかしくなったんじゃないか、まじめに考えてんのか。」
「はい、真剣です。」
「それでなにをやりたいんだ?」
「まず、手話を勉強して覚えて、ボランティアとか、、、、こまっている人たちのために、、、、」
「何か魂胆があるな。」
「いえ、まったくありません。」
「まあいいか、せっかくの頼みだから、聞いてやらないわけにも行かないがな。でもその前に実績を作らないとな。部員の人数とか、実際の活動ぶりとか。まずその前にだ、きちんと早退届を書いて出さないとな。」
 職員室を出たカイは、これで第一関門突破とつぶやきながら思わずほくそえんだ。

            二部に続く 










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