実験的韓国語会話(日記形式)




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                  真善美




真面目に取り組めば取り組むほど
挫折してしまう人たちのために





 2008/10/3 

 身の程知らずというべきか、ついに韓国語を始めてしまいました。

  というのも、これまで、「私の方法」(今のところ仮称ですが、でもあえて言うなら、憶えないで覚える方法でしょうか) なるものを適用して、英語、スペイン語、中国語と、学んできたのですが、まだ、どれも十分に習得したとはいえない状況だからです。
 ( 現在のところ英語の習得率は60%、スペイン語は10%、中国語は20%位でしょうか。)

 それなのにまた新たに外国語を始めたわけですから、身の程知らずというよりも、少し無謀ではないかと思えなくもないのです。

  だが、これまでに「私の方法」を上記の三外国語に適用しているといっても、厳密に言うと、必ずしもそうではないのです。

  というのも「私の方法」というのは、文字や文法の知識に頼らずに、母語話者によって話される音声だけを頼りに、(この場合はNHKのラジオ講座ですが) 外国語を身につけようとする方法なのですが、
でも、私が英語を始めたときには、もうすでに文字や文法の知識が頭に入っていただけでなく、辞書やテキストを積極的に参考にしながら勉強していました。

  それから、スペイン語や中国語を始めたときも、いくら音声だけを頼りにといっても、それまでの悪習が抜けきれなかったのか、それとも私自身がまだ「私の方法」に十分に信頼を寄せきれていなかったのか、
やはり、文字や文法辞書やテキストを見て大いに参考にしていましたから。
それで、私に上の三外国語が身についてきたのも、完全に「私の方法」のおかげだと言い切るには少し自信がありませんでした。

  そこで、今新たに韓国語を始めるということは、完全な形での「私の方法」の最初の適用例となるのです。

  それが韓国語を始める最大の要因だったでしょうか。

 これまで「私の方法」については、英語、スペイン語、そして中国語編においてウンザリするくらいくり返し論述してきましたが、今改めて述べると、前述のように、最初はその外国語の文字や文法を覚えないで、その外国語の母語話者によって話される音声だけを頼りに、その外国語を学び身につけようとする方法なのですが、この方法は言語というものが発生して発達していく過程においても、
また、私たちが赤ちゃんのときに日本語を話せるようになる過程においても、
文字や文法などはまったく必要なかったということ、
それから私たちが学校で英語を学び始めたときに、まず文字や文法を覚えたということが、その後の英語の会話力だけでなく、英語力そのものの発達に致命的ともいえる悪い影響を及ぼしたということ、
なぜなら、話されている言葉だけから言語を学ぶということは、
その言語の持つ特有の構造を無意識的に覚え獲得するということであり、
文字や文法を覚えるということは、
意識的にその言語の持つ特有の構造を身につけようとすることになり、
それは、その言語の持つ特有の言語空間を正常に構築させるどころか、構築そのものさえも妨げてしまうことになるのです。

つまり、それは具体的なものより抽象的なもの、直接的なものより間接的なものに重きを置こうとすることであり、
すべての言語が、私たちの世界の具体的なものや直接的なものに基礎をおいて、発生し発達してきたという事実にいちじるしく反するからである。

 「私の方法」とはこのような事実をもとに考え出された方法なのです。

 その良いところは、少なくとも最初のうちは文字や文法を覚える必要がないこと。
(これは私のように、年齢的にほとんどその能力を失った人間にとってはうってつけなのであるが、もちろん若い人や能力のある人はその限りではないが。でも、くれぐれも気をつけなければならない。
その場合、学校の授業のように、文字や文法に頼りすぎると言葉の発達の基礎を成している会話能力の進歩を妨げ、ひいては言語そのものの発達を妨げるということを。)

  つまり、文字以前の世界、または子供が言葉を覚えたときのように、
私たちの言語に対する意識を文字や文法のような抽象的なものを覚えるためにではなく、音声という実態的具体的なものにだけ傾けることによって、
音声に対する感受性を高めて活性化することになり、その言語の持つ言語空間(この場合は外国語であるが)を構築し発展させることが出来るからである。

  そして、この方法の最大の長所は、
それほど負担にはならないということである。
負担にはならないから飽きない、飽きないから長続きがする。
長続きがするから、その進歩の歩みはのろいが、その成果が確実となる。
だから学校の授業のときのように外国語に拒絶反応を起こすことはないだけでなく、挫折することも決してない。




 2008/10/6 

 どうやら文法についてはまったく気にする必要がないみたいです。
というよりも、むしろそれに対してはできるだけ無意識的であることが望ましいようです。
 それよりも、私たちが日本語の発声にたいしてまったく無意識的であるのとは正反対に、できるだけ意識的部あることが求められるようです。
とにかくまずは、日本語との発声の違いを知ることのようです。



 2008/10/9 

 う〜ん、どうしても聞き取れない音がある。
もしかして最初のつまづきか?




 2008/10/13 

 ついに図書館からハングルに関する本を借りてきました。
でもこれは、決して「私の方法」で勉強することに行き詰まりを感じたからではありません。
むしろ「私の方法」を補完しより確実なものにするためです。
というのも、はっきりと聞き取れない音があるからです。
直に聞いている日本語でさえ聞き間違うことがあるのですから、ラジオ音声だけからでは仕方がないことかもしれません。
それは主に語頭のm音とか、n音、それから語尾のm音や、n音、そしてng音なのですが、でも、音声からすべてを学ぼうとするからには、これらを正確に聞き分ける必要があります。
とくに音節末の子音である

m音  

n音  

k音  

ng音  

は終声(パッチム)と呼ばれ、これらをはっきりと聞き分けたうえに、さらに他にも幾つかある終声(パッチム)の種類を知り、そしてそれらを覚えることが、これからハングルを習得する上で如何に重要であるかが判ったからです。

  そのためにはハングル文字を覚える必要が出てきたのです。




 2008/10/14  

 最初は本当にうまく行くのだろうかとちょっと不安でしたが、「私の方法」が真実であることを改めて確信しました。
言葉の意味を聞いて判るようになるには少なくても四、五日はかかるようです。




 2008/10/17 

 「私の方法」では、単語の音声を聞き、それを聞こえたように発声するというのが、どれほど重要であるというのが判っていながら、形 (文字) に頼りがちになります。
つまり文字でその単語の意味を認識してしまうと、それで身に付いたと思い込む癖があるようです。
どうも何十年間にわたって染み付いた悪癖からなかなか抜けだせないようです。
でも「私の方法」を信じて、地道に、愚直に、繰り返し聞き、繰り返し発音しながら学んでいくしかないのです。





 2008/10/23 

 どうやら変則というものがあるようです。
でも、これはそれなりの理由があってそうなっているのでしょうから、そういうものとして受け入れ、辛抱強く繰り返し聞いて覚えるしかないのですよ。

  スペイン語の動詞の活用に比べたらたいしたことないですよ。




 2008/10/31 

 最近、ふと、どうしても覚えられない単語は文字を利用すれば少しは楽かなと思うときもある。
でも、これこそが悪魔の誘惑である。
最も年齢的にもいまさら覚えることはほとんど不可能なのではあるが。





 2008/11/3 

 最近「読字障害」というドキュメンタリーをテレビで見ました。
  結論だけを言うと、私たちにとって、文字を読んだり書いたりすることと、言葉を聞いたり話したりするということとにはなんら関係ないということです。
つまり文字を読んだり書いたりすることが多少苦手であっても、その人の知的能力の有無とはなんら関係ないということです。
それはそうでしょうね、私たちは歴史上、文字を知らなくても偉業を成し遂げた偉人や預言者を沢山見ていますから。
人間の知的能力というものはもっと広大で深遠なものです。




 2008/11/3 

 とにかく繰り返し聞くこと。
そして耳に聞こえるようにくり返し何度も声に出して言うこと。
単語や意味や、文の理屈や法則は後から自然とついてくる。
そうすれば、私たちが日本語を聞いて自然と理解するように、ハングルも聞いて自然と理解できるようになるはずです






 2008/11/13 

 ついにハングルの辞書を手に入れました。
これは文字を覚え、それで単語を覚えようとするものではありません。
(覚えられる人はそれでいいのですが)
 ハングルにおいて、パッチムがいかに重要であることが判ったのですが、ラジオの音声だけでは、どうしてもそれらを正確に聞き分けられないからです。
とくに終音の

   パッチム

   パッチム

   パッチム

   パッチム

はハングルが上達するためには絶対に聞き分けなければならないのですが、それがほとんど出来ないからです。
でも、
「繰り返し聞くこと、そして耳に聞こえるようにくり返し何度も声に出して言うこと。」
が、最も重要であることにも依然と変りはないです。






 2008/11/15 

 どうしても文や単語を聞いてその意味を理解すれば、それで良いと済ませてしまいがちです。
声に出して反復することがなんとも面倒くさいようです。

 どうも私たち人間は言葉を意味や形で理解することに、つまり頭で理解することに特別の力を発揮するようです。
そしてそのことが知的とされ、それで充分だと思いがちのようです。
これは長年の学校教育のおかげなのでしょうが、もしかしたらその方が楽だからなのかもしれません。
でも、それと外国語が身につくとはまったく別のことです。






 2008/11/23 

 文字を覚え、単語の意味を理解して、テキストの文章を見て、そしてその内容を理解することがいかに容易で楽なことか。

  それに比べたら、音声を聞いて理解することは、なんと時間がかかり難しいことか。

  だから学校の授業ではその方法を採っているんでしょう。






 2008/11/27 

 いまだハングルを聞いて、それを聞き分け、その意味を理解すると、それでよいと思いがちですが、でも、それではとにかくだめなのです。
まったく同じように自然に発音できるようになってこそ完成に近づくのです。

 とにかく繰り返し聞くこと。
そして耳に聞こえるように発音できるまでくり返し何度も声に出して言うことです。
単語の意味や文の理屈や法則は後から自然とついてくるのです。

  そうすれば日本語を聞いて自然に理解するように、ハングルも聞いて自然に理解できるようになるはずです。






 2008/11/28 

 
  ネイティブのように発音することはなかなか容易ではないことが判りました。
少し時間がかかるようです。

  それにしても、発音のことをうるさく言う先生方は、(これはどの言語においてもいえるのですが) なぜみんな不正確というか、なんかちょっと変なんでしょう。
これでは言ってることとやっていることが違うじゃないかと、ついツッコミを入れたくなりますが、でもこれは仕方がないような気がします。

どうも外国語を学ぶことに誠実な方ほどその傾向が強いようです。

  私が思うに、これは言葉を音声からではなく、その言語の文字から始めて、そして文法や法則を真面目に学んだ所為だと思っています。





 2008/11/29 

  単語を音声だけから覚えるのはほんとうに大変です。
何度もくり返し聞かなければならないのですから。
それに比べたら音声を文字で表現する方法はなんと便利なことでしょう。
だから文字を利用した学習法が発展したのでしょう。
でも、何度も言うようですが、それと外国語が身につくということは別のことのようです。






 2008/12/3 

  音声に順応するのは無意識的である。
だから自分を信じるしかない。






 2008/12/13 

  求められるのは幼な子のようなひたむきな好奇心だけ。





 2008/12/23 

  本当に身についているのかどうか判らない。

学校の勉強方法の成果とはテストでより良い点数を取ることであるが、
「私の方法」の成果とは、音声を聞いて意味が判り、そして同じように話せることである。
それさえわきまえておればよいのだが。
でもなんとなく、、、





 2008/12/26 

  言葉を音声だけから学ぶというのは、とにかく時間がかかるし成果が目に見えない。
だから、それよりはるかに成果が実感できる文字や文法を覚える勉強方法が発達したのか。
  それで会話が出来るようになるとも限らないのに。






 2008/12/29 

  くり返し聞くことはそれほどでもないのですが、なぜかくり返し発音することがとても苦痛です。
  そのためつい手を抜きがちです。
おそらくこれは、くり返し聞くことは、その意味を理解できることによって、今どのくらい身に付いているかをはっきりと確認できるのですが、つまり、それによって達成感らしきものを感じることが出来るのですが、
くり返し発音することは、それが単調でちょっと神経を使うせいもあるのですが、どうしても身に付いているという実感がわかないため、いま単語や文を声に出して反復していることが、今後はたしてどのくらい役立つのだろうかと疑心暗鬼になるからでしょう。

 でも、それが確実に役立っていることは今までの成果によって実証されていることです。





 2008/12/31 

  どんどん新しい表現が出てきてなかなか覚えられない。
時間が足りないのだ。
それで無理に覚えようとすると、こんがらかってしまう。
初心に帰って無理をしないことだ。
  つまり、覚えようとするのではなく、とにかくくり返しくり返し聞いて、いつ聞いてもその意味が判るまで続けること。





 2009/01/04 

  縮約形なるものが沢山あるようです。
参考資料が欲しい。





 2009/01/05 

ついに文法書を手に入れました。
でもこれはあくまでも参考資料です。
無意味な混乱を避けるためです。





 2009/01/06 

  うむ、なかなか覚えられない。

身に付いているのか身に付いていないのかもよく判らない。
おそらく、知識として覚えるなら、つまりその出力がペーパーテストに良い結果として現れるような覚え方なら、これまでの内容ならもうとっくにすべてを覚えきっているに違いない。
でもそのやり方は、会話能力を身につけるのに、少しも役立たないだけではなく、その能力の発達を妨げているということを、これまで何度も述べてきた通りなのだから、たとえどんなに不安になろうが、けっして迷うことなく「私の方法」を信じて前に突き進むしかないのだ。





 2009/01/07 

ハングルを学べは学ぶほど神妙な気持ちになっていきます。

歴史を異にする民族の真髄に触れているからでしょう。





 2009/01/09 

  文字を覚えて文章を理解すれば、それで外国語が見に付いたとするなら、どんなに楽なことでしょうか。
それがこれまでの学校教育だったのです。
でも、そのやり方ではテストの点数は良くなるが、会話ができるようになるためには、なんの役に立っていないことは、これまで何度も述べてきたとおりです。

  つまり、
「聞くことは聞くことによってしか、話すことは話すことによってしか上達しない。」
ということですが、
でも実際それを実践することはとても大変なことのようです。
なぜなら、時間がかかるだけではなく、地道な努力と忍耐力が必要とするからです。





 2009/01/11 

 ハングルの発声の基本とはなんだろう。
判らない。日本語も意識したことないのに。






 2009/01/12 

  進歩の実感がなかなかわかない。

色んな人の体験談からすると、どうにか日常会話が出来るようになるまでにはだいたい二年ぐらいかかるみたいですが。
どうしても、
「聞くことは聞くことによってしか、話すことは話すことによってしか上達しない。」
ということが忘れがちになります。





 2009/01/14 

 ハングルの基本とはなんでしょうか、それが判ればもっと効率よく学ぶことが出来るでしょうに。
でも、そのことはそれほど重要でないかも、なぜなら、日本語だってぜんぜん知らないのだから。






 2009/01/15 

  つくづくラジオ音声の限界を感じます。
生の音声はどんなに豊かな情報を発していることでしょうか。

でも、生の音声はくり返し聞くことはできないというのも事実です。






 2009/01/16 

  なかなか覚えなれない。
本当にこの方法で身につくのだろうかと心配になる。
だが、
「聞くことは聞くことによってしか、話すことは話すことによってしか上達しない。」
ということ、 これは真理である。






 2009/01/17 

  単語が覚えられない。
文字なら覚えられそうな気がする。
でもこれは悪魔の誘惑である。
言葉の本質は聞くことでありはなすことである。

そのためには、
まず音声としてのハングルに対する受容体を肉体に構築しなければならない。
とにかく
聞くことは聞くことにより、話すとは話すことによってしか上達しない
のであるから。






 2009/01/19 

 どうやらハングルの上達のコツは如何にパッチムを聞き分け、そしてそれを自然と話すことが出来るかということにあるようです。
とくに次のパッチム
  

  

  

  


は最も重要なようです。






 2009/01/21 

 とにかくつまづきそうになったら、次のことを思い出すこと。
     「聞くことは聞くことによってしか、話すことは話すことによってしか上達しない。」
ということを。






 2009/01/23 

 どうも、「語学を勉強する。」という堅苦しい態度から抜け出せないために、
「今なにを話しているんだろう」
というような、素朴な好奇心に満たされた幼な子のような純粋な気持ちにはなかなかなれないようです。
それが上達させる最大のコツだというのに。





 2009/01/24 

  これまで幾度か、次のような仮説
「本に書かれた文字を通して、文法や単語を覚えることが、言葉を話すことになんら役立たないということだけではなく、返ってその会話能力の発達を妨げる。」
ということが、もしかしたら真実かもしれない。

まだ検証はされていないが。





 2009/01/29 

  最近確実に身についてきていることを実感しています。
ハングル会話を聞いて、それを日本語に訳さなくても、なんとなく内容が把握できるようになりましたから。
でも、まだ文法的な理解や分析が頭をよぎります。
もしそのようなものが頭にチラチラしなくなったとき、つまり私たちが日本語を話すときのように、そんなものがまったく頭に浮かばないようになったとき、そのときこそハングルが完全に身についたといえるのではないでしょうか。






 2009/01/31 

  これまでにウンザリするくらい何度もも述べられてきたこと。
  まず、何かを言いたいために言葉が生まれ、それから文字や法則が考え出された。
その逆はない。
  つまり、どんなに文字を覚え法則を理解しても、言葉を話すことは出来ない。

ということは真理である。

    このことを図で表すと次のようになるだろうか。
  参照




 2009/02/04 

  どうやらハングルの音声に対する受容体の芽のようなものが形成され始めたようです。

  これさえ出来ればしめたものです。
あとはこれを大事に育てていくだけです。
  それから、最近、特別に覚えようとしなくても、声に出してくり返し言っているうちに、いつかよみがえるような形で体のどこかに記憶されているような気がしてきました。





 2009/02/07 

  どうしても声に出して反復することを怠けがちになります。
これが進歩の基本だというのに。
  もし、ネイティブの人に厳しく発音を指導されたらどんなに上達が早まることでしょうが。






 2009/02/09 

  言葉を文字として覚えることは、その言葉のもつ抽象的意味だけを知ることであるが、
言葉を音声として覚えることは、その言葉の抽象的な意味だけではなく、その言葉にまとわりついている情緒的感覚的な広がりや雰囲気的なものを知ることでもある。  





 2009/02/14 

  どうやら音声を通してハングルに反応する受容体のようなものが、はっきりと判るほど私の肉体に出来上がってきたようです。
これでますますハングルの言語世界が拡大していきそうです。






 2009/02/16 

  この辺でそろそろ「私の方法」の欠点を述べたいと思います。

  それは「私の方法」というのはラジオから流れる人工的な音声に依拠しています。
そのため、その音声は何度でも繰り返し聞くことができるという長所を持っているといっても、つねに豊かで無限に近い情報量を発信している本物の肉声とは比べ物になりません。
それで時間をかける割には上達の速度は思ったより遅いかもしれないということです。

  だから、もし実際に母語話者を目の前にして学ぶことができたら、その上達の速度は確実に早まることでしょう。
そしてもし、その人が特別な感情を抱く人であったなら、私たちの語学力はきっと長足の進歩を遂げることは間違いないでしょう。




 2009/03/04 

  それでは最後に反省めいたことを述べることにします。
  これまで「私の方法」を適用してハングルを学んできました。
でも、その適用の仕方がそれほど徹底していたとは思えないのです。
どうしても単語の意味をを頭で覚えようとしたり、また文の意味を理解できさえすれば、それで身に付いたと思い込んだりしがちだったからです。

  そこで反省を交えて思うのですが、もし、「私の方法」を適用する上に当たって、その具体的なやり方をハングルの基礎的なものから始めて次第に複雑なものにしていくという体系的な方法にすることが出来たら、もっと効率よく学ぶことが出来て、その上達の速度か速くなるような気がするのです。
  このことはすべての言語に当てはまるような気がするのですが。

  でも、ハングルを学び始めてまだ六ヶ月の現在の私には、ハングルにおいて何が基礎的なものなのかまだ判らないのです。
  そこで誰か、経験豊かな方にぜひその方法を考えていただくことを願うばかりです。

  それから半年の期間で、基本から応用までやって、そして日常会話が出来るまでにハングルを身に付けようとするのは、少し短すぎるようです。
もう少し基本に時間をかけ、全体としては数年かけて習得するようにしたほうがより確実に身につくように思います。
  私たちが子供のとき日本語を数年掛けて身につけたように。
  でも、英語に比べたらはるかに短いのですが。


さて、それでは、そろそろハングル文字の勉強を本格的に始めることにしましょうか。
というのも、
「読むことは読むことによってしか、書くことは書くことによってしか上達しない。」
のだから。
  でも、ハングル文字が読めなくても聞いたり話したりできるようになるなら、もしかして語学に関して新しい地平が開けるかもしれない。


 2009/3/27 

  最後の最後に雑感を述べます。

  最近、文科省から、これからの英語教育に対する新しい方針が示されたようです。
英語の学力を上げ、英語を話せるようにするために、覚える単語の数を増やして、さらに授業を英語でするようなのです。
「絶対的に貧困な会話能力のうえに、学力も少し落ちている、だから、それで、」
ということで。
  たしかに合理的に考えたら、その通りなのでしょう。
  でも、もうあきれて、ナンモイエネエ〜 です。
  これが、官僚、学者、評論家などの、いわゆる近代合理主義者たちの考えることなのです。
  永久にバカをやっていろっていうカンジです。

  でも、私たちはもうそんなことにかまってはいられません。
来るべき時代のために準備しなければならないのです。

  ではその来るべき時代とは、それは
現代のような語学教育が行き詰まり、それに代わる新しい方法が求められる時代のことです。
そのときになれば「私の方法」の真価も認められるようになるでしょうから。

  でも、現在「私の方法」について述べられていることがまだ仮説的で全体的な内容にとどまっているために、それでは各言語に関して具体的にどうすればいいのかがほとんど述べられていないことです。
そこでそれらをもっと科学的に、そして各言語に合わせて「わたしの方法」を具体化することこそがその準備なのです。

  たとえていうなら、かつて恐竜たちが我が物顔に振舞っていた時代に、ひっそりと隠れるようにして生きていた哺乳類が、いつか自分たちの時代が来ることを信じてひそかに準備していたその準備のようなものです。

  恐竜というのは、上記の近代合理主義者のことで、哺乳類とは「私の方法」のことで、まさにピッタリですね。
なにしろ、彼ら近代合理主義者たちは、ときには権力的 (我が物顔) に、ときには強圧的 (暴力的)に振舞いますからね。
そして「私の方法」はいまだに地下にもぐっていますからね。

  恐竜が滅びたように、いずれ彼らも滅びる、いや、彼らも自分たちの間違いに気づくでしょう。

  今までウンザリするくらい何度も述べてきたのですが、
彼らの間違いの最大のものは、
言語において、
聞くことは聞くことによって
話すことは話すことによって
読むことは読むことによって
そして書くことは書くことによってしか、
上達しないということを知らないことにあります。
なんでもかんでもそれらの能力をペーパーテストで計ろうとするため、子供たちに不必要な圧力をかけ、そして精神的に追い詰めて、会話能力を身につけさせるどころか、かえって語学嫌いにさせているということにまったく気づいていないということにあります。

  私から見れば、莫大な教育費をかけ、いつまでもこんなことをやっているのは、狂気の沙汰としか思えません。

  私たちの考えるという能力、いわゆる物事を抽象し概念化し分類化し体系化するという能力は、人間を人間たらしめる本当にすばらしい知的能力であろう。
だが、その知的能力が、それが生まれるもととなった言語能力と、どのような関係が在るのか良くわからない。
そして人間が本来持っている知恵と、それらの知的能力がどういう関係にあるのかもよくわからない。
というのも知恵は、人間が言葉を話せるようになったからといって、それによって豊富になったとは思えないだけでなく、文字を使用するようになっても、決してそうは思えないからだ。
むしろそれらによって減退したのではないかと思われなくもないからだ。
  そこのところが本当によく判らない。

  おそらくその辺に所に、なぜいまだに役人や政治家が独善的に物事を決めて、それに対して庶民は必要以上に屈従的になり、その結果として間違った言語教育が最善のものであるかのように行われることの秘密が隠されているような気がするのだが。

 だが今は次のようなことだけは言える。
 その昔、人間が言葉を話すようになって個人の生活の質が変わった。
だが、それによって人間の思いや感情が発達したのではない。
それ以前に伝えたい思いや感情が醸成され充満していたから言葉を話すようになったのだ。
そして人間は言葉を話すことによって見えないものが価値を持つようになった。
  さらに人間は文字を使用することによって個人の生活の質だけではなく社会の質も変わった。
だが、そのことによって知識や技術が発達したのではない。
それ以前に伝え広めたい知識や技術が豊富に蓄積されていたから文字が使用されるようになったのだ。
そして人間は文字を使用することによって見えないものに支配されるようになった。

 人間が生まれつき持っている知恵はいずこに。

 現代は何が現実で何が幻影なのか、そして何が知恵で何が知識なのかよく判らなくなっている。
なぜなら、言葉を話すことによって生まれてきた見えないものの価値とは、それがどんなに幼稚で滑稽であっても、現実から遠ざかれば遠ざかるほど、より価値があるとされるからだ。
さらに文字の使用によって発展してきた学問や研究によって、知識が豊富になり技術が進歩してきたが、それによって人間が人間らしく生きられるようになったとは到底思えないからだ。

 技術の進歩は本来人間が持っている知恵を破壊しているだけではなく、人間社会そのものも破壊しているからだ。

 未来を支える若者は否応なしに生きる知恵を剥ぎ取られて萎縮しおどおどしている。
かつてはもっと力強く生きられていたはずなのに。

 私はどうしても、未来をだれもが平穏にくらせるような世界としてではなく、地球の全的な破局におびえているような世界としてしか思い浮かべることができない。

 いずれにせよ、近代合理主義者たちが頭で考え、それを言葉で表現されたものは知識には違いない、だが、決して知恵ではない。

  たしかに前述のように考えるということは人間を人間たらしめている素晴しい知的能力ではあるが、でもそれは、私たちが行う精神活動のすべてではない。
人間の精神活動というものは、そのほかにも感じたり意欲したり思い浮かべたりするという、もっと深くて広いものである。

  というのも人間のすべての精神活動は、私たちがが生まれつき持っている知恵が顕在化したものであるからだ。

そして人間はひたむきに生きることによってのみ、その知恵を意識化することができ、どの人にも生まれつき備わっている知恵として気づくことが出来る。

  ところが現在私たちが行っていることは、とくに教育現場においては、その知識の集積や習得ばかりである。
そのことは才能ある若者をより消耗させている。
  これではますます子供たちは衰弱し生きる力など育ちようもない。
生きる力を身に付けるのはそんな大変ことではないような気がする。
現実に実践的に関わりあえば良いだけのことだ。
なぜなら
  生きることは生きることによってしか上達しない
のだから。






人は人に教えることは出来ない。
でも、人は人から学ぶことは出来る。





私たちが学ぶことが出来るのは経験豊かな年長者だけからとはかぎらない。
年下や子供、そして動物や植物からも学ぶことは出来るのだ。
そうなのだ、私たちはすべての生きとし生ける物から学ぶことが出来るのだ。
なぜなら、私たちの世界は真実だらけなのだから。


私たちは公園や森で小動物に遭遇するとき、
驚きや喜びとともに敬虔な気持ちに満たされる。
その生命体を通して未知の世界を垣間見させてくれるからだ。
もしそれが外国語を話す人間だったらなおさらだ。
私たちはその聞きなれぬ言語を耳にしながら、
私たちにとっては未知の民族の思いや情念に触れることができるからだ。

だが根底においては、
私たちとなんら変わらないその思いと情念に。


もうすでに私たちは気づいているはずだ。
言葉を生み出した大昔の知恵が復権しつつあることに。
だれにも生まれつき備わっているその知恵が。





  はたして初期の目的が達成できたのだろうか?
どのくらいハングルが身に付いているのか判らない。
でも音声に対する受容体のようなものが出来ていることは実感できる。
それにハングルに接することがかつての英語の勉強のように苦痛でも負担でもない。
挫折しなかったという意味では当初の目的が達成できたことになる。
私の方法、つまり憶えないで覚える方法が間違っていなかったことが実証されたのである。

  ネイティブの人が話していることを理解できそれと同じような話せるようになるまでにはまだまだ時間がかかるだろう、でも着実に進歩しているのが判るから、決して訓練を怠ることはないだろう。
そのうちに絶対に話せるようになるはずだから。

だがほんとうに当初の目的が達成されたのだろうか?
だんだん文法や文字に頼るようになって来ていたような気がする。
それはやはり、くり返し聞いたり、くり返し声にだして練習することがなんとも退屈で、そのうえどのくらい身に付いたか、なかなか実感できないからなのだが、、、
でもあとは時間が解決いてくれるのを待つしかないだろう。
おしまい。

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  まだ試していないが、もしかしたら、語学ソフトによるパソコンでの学習がもっと効果的かもしれない。
研究の余地がありそうです。







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