芸術論最終章(岡村孝子論)
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真善美
* * * *
才能は人によっては重荷となり、
幸せの足かせとなることがある。
だが
姫女は違うようだ。自分の才能に
真正面から向き合いあたかもそれが
宿命であるかのように抱きとめている。
そしてたいていの才能は、
成功し称賛を受けるとさび付くが、
姫女の場合決してその輝きは衰えることはない。
それは世界を映し出す心の内奥から
自然と沸き起こる情感を創作の源泉と
しているからである。
[アルバム満天の星から]
〈無敵のキャリアガール〉
最初のメロディーが頭に浮かんだ瞬間、
あとの残りは最後まで流れるように
続いたに違いない。
"ピエロ""ラストシーン"と同じように珍しく
姫女の視線は自分の外部に向けられ、
恋を遊ぶように楽しむように作られている。
当時流行っていたトレンディドラマの挿入歌に
なっていてもおかしくないような作品。
もし
姫女がこのような曲を多く作っていたら、
きっと音楽界で重要な位置を占めるように
なっていただろう。
〈夢見る頃を過ぎても〉
いつしか自分は青春に距離をとりつつ
あることに
姫女は少し戸惑いをみせながらも
それを前向きに捉えようとしている。
最初の出だしが私たちを導く
時の流れのやさしさを感じさせる。
〈フォーエバーロマンス〉
男女の出会いとはそもそも宇宙規模の奇跡的な
ことであると、はるか銀河を渡ってきた
姫女
は力説する。
〈満天の星〉
姫女は成功した。
それによって多くの人々が
姫女を
取り巻くようになった。
そのことはいやがうえにも
姫女の行動や
考えを制約し縛ることになる。
そのことが
姫女が理想とする自分の姿から
自分をだんだん遠ざけてしまうことに
気づき始めた。
姫女は不安になりそっと星空に助けを求める。
もし父なる最高神がそれを聞きつければ
直ちに連れ戻そうとするのだろうが。
〈夏のスピード〉
成熟しつつある
姫女でも恋を夢想する、
それも少女のような感覚の恋を。
この初老の私でも若くて美しい女性を目の前に
すると見苦しいくらいうろたえる。
少年のように。
〈ピリオド〉
姫女はときおり悲哀に包まれる。
悲哀を宇宙の重みを支えているから
姫女は
それを受け入れる。
そしてお互いにその理由もわからず別れなければ
ならなくなった男女の悲恋も。
この曲は物語のように
姫女の悲哀に支えられる。
〈星空はいつも〉
姫女は最高神に見守られていることに
気づいているのだろうか。
〈卒業〉
きつい言葉だから傷つくとは限らない、
やさしい言葉だから傷つかないとき限らない、
相手から思いがけない言葉を聞くと傷つく。
この曲も物語のように
姫女の悲哀に支えられる。
〈笑顔にはかなわない〉
笑顔には魅力がある。
とくに赤ちゃんの笑顔は人間の輝かしい
勝利を表している。
そんな笑顔を持つ理想的な男性との永遠の愛を、
この曲を聴く若い女性たちに夢想させる。
* * * *
これまで私は、
姫女のその自分の心に
誠実に向き合う
鷹揚で開放的な性格からして、
それまで自分の心にため込まれている、
すべての楽しいことや、辛いことの思い出、
そしてずっと心に残り続ける
こだわりやわだかまりに寄り添うように
見つめなおしては、
それらをありのままに正直に楽曲として
表現することによって、
心がより自由に開放的になっていると思っていた。
だが実際は違うようだ。
心の片隅にはどうしても折り合いがつかず
わずかだか黒い思い出の塊が残っていたようだ。
そしてそれが何気ない日常の風景や
出来事がきっかけで
寂しく悲しい気分におちいると、
そんな過去の暗い思い出と結びつき、
もう閉じこもってしまいたいくらいの激しい
気分の落ち込みや
苦痛におそわれるようだ。
さらに付け加えると私は今まで
姫女を
誤解してきたようだ。
というのも、
姫女が、楽しい思い出だけではなく、
自分の心を暗く閉鎖的にしている要因でもある
それまでのさまざまな苦しく辛い思いでや出来事を
歌に託すことによって、それらの苦しみや
辛さから解放されて、
本来のおおらかで解放的な性格を
取り戻しているに違いないと。
ところが少し違っていたようだ。
姫女は自分の理想像を求めて
努力し成長する人だった。
努力し成長するということは、立ちはだかる
困難や苦境を乗り越えようと悩み苦しむことだ。
私の好きな小説家や詩人や画家はすべて
死ぬまで悩み苦しみながら
成長を続けた人たちである。
まさに真正の芸術家たちである。
それならば
姫女は真正のシンガーソング
ライターということになるが。
姫女は"感じる"ということを大切にしている。
それはアルバムミストラルのPVに草原で両手を
広げ全身で風を受けているシーンに
象徴的に現れている。
さらにこれにはもうひとつのことが
象徴されている。
それは
姫女はおおらかで開放的な
性格であるということが。
普通おおらかで開放的な性格といったら、
あまり物事にこだわらない大雑把なという、
むしろ"感じる"ということとは対極に
あるように見えるが、
その両者を兼ね備えている
姫女は
それらを両立させ、
そこを汲めども尽きない創作の源泉としている。
ところが開放的な性格のまま感じる気持ちを
持ち続ける
ということには危険が伴う。というのも
この宇宙で起こる
あらゆる出来事を受け入れながら、
それらにいちいち対処するということは
並外れた意志力分析力洞察力が
必要とされるからである。
なぜならこの宇宙で起こる
あらゆる出来事とは、
たくさんのよいこと楽しいこと
だけではなく、あらやる悲しいことや悪いことが、
そして天使や妖精や悪魔や鬼や
天邪鬼と呼ばれるものも含まれるからである。
ほとんどの人は自分が好きなもの興味がある
ことには目を向けるが、
不快なことや興味のないものには
知らん振りをして忘れるようにしている。
なぜならそうしないと精神に
破綻をきたすからである。
ところが
姫女はそれらに全身全霊で対処してきた。
そしてくたくたになりながらも、
そこから多くの楽曲を生み出してきた。
姫女は見た目以上にに怜悧で気丈であるようだ。
ちなみに
姫女の歌には天使や妖精の姿が見えるが、
悪魔や鬼や天邪鬼の影は少しも見えない。
推測に過ぎないが彼らは
姫女の真の正体を
知っていて
姫女に近づくことを恐れたようだ
* * * *
[アルバム SWEET HEARTSから]
〈山あり谷あり〉
気がついたらいつの間にか大人の女性になって
いたという感じで、
だいぶ同世代の女性たちの現実的な生き方に
だいぶ影響を受けているようです。
〈Dear Friend〉
天性の作曲能力は衰えることはない。
〈海岸通り〉
姫女の恋愛感に変化を感じるのは
気のせいだろうか。
〈あなたの隣〉
こんなにも軽やかに、こんなにも余裕のある恋が
大人の女性の恋と言いたいのでしょうか。
〈明日への道〉
姫女は相変わらず苦しみと絶望の谷から
喜びと希望に輝く山の頂を見続けている。
〈ラビリンス>
姫女は人生にも迷うが恋にも迷う。
それでも誠実にひたむきに努力していたら
いつかは必ず喜びと希望に光り輝く
山の頂にたどりつけることを信じている。
〈夢の途中〉
姫女のこの地上で人間として生きる
ことへのあふれんばかりの自信。
幸せへのゆるぎないヴィジョン。
いますぐにでもつかめそうな
幸せへのヴィジョン。
〈Naturally〉
今まで色んなことを乗り越えて生きたのだから
これからの未来もきっと乗り越えられるはずだ
と確信する。
ようやく言葉に出して言えるように
なった自信と決意、
そして自分に対するゆるぎない信頼、
駆け抜ける風になることを
いつも夢見ていた青春を遠くに望みながら。
〈ハレルヤ〉
ついに
姫女は自分の将来をたくせるに
値する未来図を手にした。
あとはただひたすらその輝かしい未来に向かって
歩き出すだけだと決意する。
* * * *
このころ父なる最高神は、次の二つの曲
"明日への道"と"ラビリンス"を耳にして、
何を勘違いしたのか、
姫女がいまだに
地上で悩み苦しんでいると思い、
姫女をを天井に連れ戻す決意をした。
そしてそれを
姫女に寄り添っている
女神ムーサに命じた。
ある夜女神ムーサは、
姫女がリビングでソファーに
座ってくつろいでいるとき、
初めて
姫女の前にその姿を現した。
そして自分はあなたをずっと見守っていたこと、
そしてあなたは天上を支配する最高神と
夢の国の女王との間に出来た子供であること
を告げた。
戸惑う
姫女を前に女神ムーサは言葉を続けた。
「今父なる最高神はあなたのことをとても
心配しております。
いまだに悩み苦しんでいるからです。
そこで最高神は私に命ぜられたのです。
あなたを連れ戻すようにと。
どうですか、私といっしょに帰りましょう。
永遠に生きられる夢の国に、そこではあなたは
あなたが望む若さと容姿のまま
永遠に生きられるのです。
さあ、帰りましょう」
だが
姫女はそれを聴いてやさしく
笑みを浮かべながら
顔を横に振って言った。
「私ははここに残ります。なぜなら、
今まで私を支えてくれた
沢山のファンやスタッフの皆さんから
離れることは出来ませんから。
私はこの地球で、人間として、
他の人たちといっしょに喜びや
悲しみや苦しみを分かち合いながら限りある
人生を送ろうと思っています」
ムーサが気迫をこめて言う。
「そこでは永遠に生きられるのですよ」
姫女は再び断った。
女神ムーサはその後何度も誘ったが
姫女はそのたびに
やさしく断った。
ついに女神ムーサは諦めた。
そして
姫女にしばらくのあいだ眼を閉じている
ようにといって、その場を離れた。
やや不安そうに顔を曇らせながら、でも最後には、
これからの
姫女の人生を祝福するかのように
やさしく微笑みながその姿を消した。
しばらくして
姫女は眼を開けた。
そして
「あら、今何が起こったかしら」
と言いながら不思議そうな表情をした。
それはこの出来事のいっさいが女神ムーサによって
姫女の記憶から消されていたからである。
* * * *
なぜ
姫女は永遠の命を捨て有限の命を生きることを
選択したのだろうか?
もし夢の国に帰ればその絶頂期の美貌と才能のまま
永遠の青春を 生きられたというのに。
姫女はもう青春は歌いきったと思ったのだろうか?
ちょうどこのころ
姫女は楽曲《夢の途中》を
完成させていた。
その歌詞
----見つめあうって 幸せなことね
あなたの声がききたくなる ふと目ざめたなら
恋をしている 素敵な瞬間
すべてのものがきらめいてる 優しさがあふれ出す
なにげなく過ぎゆく日々を
二人分け合って
永遠の時を 越えて行こう
ときめきと 揺れる想いを
胸に抱きしめて
ゆるがない愛に いつか届くように
夢の途中 迷った時にも
心のままに歩いていて 自分を信じて
どんな答えも まちがいじゃないと
誰もがいつか気付くでしょう とまどいをくり返し
ほら いつもあなたのことを
そっと守りたい
やわらかにそよぐ 風のように
輝きと光るハードル
すべてとびこえて
ゆるがない明日に 続いていきたい
巡り 巡る 季節の中で二人が
出逢った偶然 運命にぬりかえて
ほら いつもあなたのことを
そっと守りたい
やわらかにそよぐ 風になって
ときめきと 揺れる想いを
胸に抱きしめて
ゆるがない愛に いつか届くように
ほら もっとあなたのことを
強く守りたい
ゆるがない愛に いつか届くように----
ここに描かれているのは紛れもなく、
姫女のこの地上で人間として生きる
ことへのあふれんばかりの自信である。
幸せへのゆるぎないヴィジョン、そして
いますぐにでもつかめそうな幸せへの
ヴィジョンに満ち溢れている
知らず知らずのうちに、
苦しかった青春の悲哀も不安も乗り越え、
ようやく幸せをつかめそうな穏かな
気持ちに支えられた毎日を過ごしながら
この楽曲にこめられているような
周囲をも包みこむかのような
幸福感が醸成されていたのだろう。
そして"Naturally"と"ハレルヤ"が
姫女の決断の後押しをした。
* * * *
その報告を聞いて父なる最高神は嘆いたが、
愛娘が決めたことなので、最後は
姫女の地上での
幸せを願いながら諦めるしかなかった。
* * * *
* * * *
そして私も、もうこれで充分ではないかと思い
姫女からは離れていった。
いつしか私はあたかも封印したかのように
姫女の音楽を聴かなくなっていた。
ほんの数年間ではあったが、
壮年期の私が
姫女の歌を聴き続けたのは、
姫女の作り出す情感の世界にそれまでの
苦難な青春期に感じた様々な思いを重ね合わせる
かのように共感することによって、
癒され慰められ自分の存在が
意義あるものとされたからであろう。
というのも共感することによって"音"が本質的に
備えているその共同体意識を獲得することによって、
それまでの疎外感や孤独感が和らげられた
からに違いない。
だが私たちを取り囲む社会の根本をなして
いるのは物理的な世界として自然である。
その自然は人知では計り知ることのできない
しかも冷徹と思えるほどの合理性に支配されている。
そのうえ自然は日々変化し更新し続けることによって
私たちの精神をあざ笑うかのように翻弄し続ける。
そのために人間は悩み苦しみ、そして躓き挫折する。
そのことは"運がいいとか悪いとか"、また
"努力が必ずしも報われるものではない"という形で、
私たちの意識に表出される。
やがて自然は最終的には
人間の肉体と同時にその精神をも解体して
漆黒の闇と絶対零度の原子に返す。
この冷徹な合理性に支配された現実の前に
果たして私たちはどれほど耐えられるだろうか。
死に物狂いで私たちはこの現実と
折り合いをつけようとする。
そんなとき
姫女の作り出す情感の世界は、
なんと穏やかで心地よいのだろうか、
そこには永遠の青春がある、
愛の真実や奇跡がある、
そして時間を止めるほどの幸福感につつまれ
ながら、私たちは癒され慰められる。
だが人間の真理はその反対側に横たわっている。
私はそのとき四十を過ぎていた。
もう時間はなかった。それまでとは違う
未来の新しい自分を獲得するために、
変化し更新する世界に立ち向かいながら、
自分も変化し更新していかなければならなかった。
そして私は旅立つように
姫女から離れた。
もちろん諦めることのない夢を抱きながら。
その後私は何度か
姫女のついての出来事を
テレビから噂話のように聞くことがあった。
いずれにせよ地上の生活に懸命に順応しようと
してることがわかったが、どのような形であれ
このまま平穏に続くことだけを願った。
そしてときおり、ほとんどマスメディアに
取り上げられなくなった
姫女について
話す者たちがいた。
その者たちは
姫女ついてはなすとき、
みな自分の過去の大切な思い出を
語るように懐かしそうに話すのだった。
そんなとき私はいつも聞かないふりをしていた。
* * * *
* * * *
あれから四半世紀、
私は再び
姫女の音楽を聞き始めた。
何にも変っていなかった。
その楽曲の持つ心情の豊かさや情感の深さに
私は再び心の底から感動し魅了されていた。
そして私は
姫女について
何かを書き残したいと思った。
現在
姫女についてのあらゆる情報は
インターネットで得ることができる。
今も活動していることが何となく知る
ことができる。なんとなくである。
なぜなら私はどうしても現在の姫女について
それほど詳しく知ろうという気持ちには
なれないからだ。
それによると
姫女は現在人間として
この地上での自分の幸せだけではなく
他の人たちの幸せをもひたすら
願っていることがわかった。
かつて自分の心の内奥を見つめながら
数々の楽曲を生み出していたことは
紛れもなくこの地上に住む人間として
成長を続けながら、人間性の獲得とその完成を
目指していることに他ならなかった。
そして
姫女そのことを見事に
成し遂げたようである。
だから私はそのことに何の異を唱えるものではない。
でもこの世界から捨てられたような孤独感
と喪失感の置き場所が見つからない。
私がかつてこのことに薄々気づいて
いたからだろうか?
完全に閉じられてしまってたかのような
姫女姫女の神性の扉。
どうすれば再びその扉を開くこと
が出来るのだろうか?
現在人間として家族とともに
幸せに暮らしている
姫女に
求めると云うのか?
姫女の歌は今でもファンたちに
希望と勇気を与えている。
でもそれだけではない、
姫女自身もファンたちに支えられているのだ。
もし
姫女がファンたちの支えを失ったら、
姫女はこの世から朝露のごとく消えてしまうだろう。
なぜなら天上の神々は人間の支持を失ったら、
消滅してしまう運命にあるのだから。
メイプルシロップを得るために人はその幹に
深く穴を開けるという
漆を得るために人はその幹に何本もの
無残な傷をつけると云う
砂漠で水を得るためには人はそこから
容赦なく砂を掻き出し深く深く
掘り下げなければならないと云う
桜は春に美しい花を咲かせるためには
冬のある期間その寒さにさらされ
なければならないという
NO RAIN NO RAINBOW
姫女は全身全霊でもってこれを成し遂げてきた。
そして神の子
姫女は多くのファンの支えを
必要とする
人の子となった。
だからもうこれで充分なはずだ、
これ以上
姫女に何を求めようとするのか。
* * * *
ときとして時代は、祝祭のような
熱狂と惑乱でもって人々を巻き込み
選ばれた者たちの才能を浪費させながら
その時間を止め自らを永遠ならしめようとする。
そしてその触手は
姫女にも伸ばされていたようだ。
果たして時代は姫女をも取り込むことに
成功したのだろうか?
<ヒロイン>
これは私が
姫女の曲を聴かなくなって、
ふとテレビで耳にした曲である。
たしか1994広島年アジア大会のNHKの
イメージソングである。
おそらく依頼によって作られたものだろう。
というのもこの曲の至る所に作為が感じられ、
それまでの様々な楽曲の印象的な
モチーフが連想されたからである。
だから当時私は、物に触れて自然と心の奥底から
沸き起こるものだけではなく、どんな依頼でも
その内容に合わせて作曲ができるという、
決して衰えることのないその才能の包容性や
余裕さをその当時は感じたものだった。
そして今再び
姫女の曲を聴くようになった。
私は改めてこの歌詞にふれて愕然とした。
というのも私が姫女から離れてこの四半世紀、
どんな気持ちどんな思いで生きてきたかを、
まるでその後の私を予言していたかのように
この曲の歌詞として歌われていたことを
知ったからである。
その歌詞
・・・・・・・
・・・・・・・
大切にしてた夢 いつかは
失くしてしまうのかな
何度もつまずくたび しぼんだ
気持ちをにぎりしめて
言葉にできない熱い情熱を
胸の奥で確かめてる
かなわないことと あきらめるよりも
わずかな奇跡を 信じ続けたい
答えのない世界で 誰もが
孤独と戦ってる
けれどもその瞬間 輝く
・・・・・・・
明日が見えずにうつ向いていても
拳の中理想抱いて
無駄なことなんて何ひとつないと
優しく背中を押してくれるから
かなわない夢と あきらめるよりも
わずかな奇跡を 信じ続けたい
・・・・・・・
・・・・・・・
アジア大会のイメージソングで曲名が"ヒロイン"
なのだからきっと大会のメダリストをたたえる
内容かなと思いがちだが実際は全く違う。
私たち普通の人間として生きていくために、
どうしても乗り越え克服していかなければ
ならないこと、それも誰もが経験するような
日常のありふれたこと、そんな些細なことでも
どんなに躓いても勇気をもって乗り越えた者たち
を姫女は"ヒロイン"として褒め称えて
いるのである。
これは姫女の心情の豊かさや情感の深さを
たたえたその優しい眼差しがこの世界の片隅の
どんな小さなことにも、どんな些細なことにも
変わることなく向けられているということなのだ。
何度もつまずくたび
私は齢を重ねれば分別をわきまえより理性的
な行動ができるようになると思っていたが
実際はそうはならなかった。
見苦しいほどの失敗や過ちは若い時と
それほど変わらなかった。でも決して
自分の目指していることを見失うことはなかった。
言葉にできない熱い情熱を
胸の奥で確かめてる
どんなに周囲から不信の眼差しを向けられようとも、
やはり自分にはこれしかないんだ
言い聞かせるしかなかった。
かなわないことと あきらめるよりも
わずかな奇跡を 信じ続けたい
でも、もちろんそれは決して大それた
ものではなかった。
答えのない世界で 誰もが
孤独と戦ってる
どんな些細なことでも何かを成し遂げようとした
場合、やはり最後は自分自身が頼りなのだ。
無駄なことなんて何ひとつないと
優しく背中を押してくれるから
そうはいっても心の奥底にはときおりだれかに
頼りたいという気持ちが芽生えることも確か
なのだが。でもやはり最後は自分だ、
自分信じて前に進むしかない。
かなわない夢と あきらめるよりも
わずかな奇跡を 信じ続けたい
* * * *
私は今再び
姫女と出会っている。
現在は
姫女の情報はネットとYoutubeで
得ることが出来る。
私は今人生の四コーナーを周り目の前には
そのゴールラインがちらついている。
それらなのなぜ私はいまだに
姫女の楽曲に
魅了されるのか?
その呼び起こす感動は当時と何も
変わっていない、
それは最初に出会った二十五年前から
私は何も変わることなく、
いまだに青春の迷路をさまよい
続けているということなのか?
それとも
姫女の心情は普遍的なのか?
Webで投稿動画をみていると、
私が
姫女に触発されて
この小論を書いているように、
多くの者が
姫女の楽曲に
触発されて芸術的な作品を投稿
しているのがわかる。
それらの作品を見て私も改めて触発される。
* * * *
あの夜、ムーサが
姫女のもとを離れたとき、
姫女は、私たち人間の社会に残り、
私たちと同じ人間として
哀楽をともにしながら進化する
心の体現者として生きることを
決断したのだったが、
苦難と愛憎に満ちたこの社会を
人間のようにたくましく、
そしてしたたかに生き延びる能力を
充分に備えていた訳ではなかった。
なぜ私は
姫女について語りつくすことが
出来ないのだろうか?
私はこの小論で
姫女を語るために何万という
語を費やしてきたが、
少しも何かをなしえたという
気持ちにはなれない。
何万の言葉で表現される観念も
姫女のわずか数小節にも及ばない。
姫女の才能は蓄えられた湖の水のような
才能ではないということだ。
周囲の環境の支えられて滾々と
湧き出る泉のような才能なのである。
だからもし周囲の環境が悪化
(ファンの支えを失うこと)してしまえば
たちまちにして泉は枯渇してしまうだろう。
それほどまでに
姫女は繊細でもろいのである。
* * * *
失われたもの
姫女の永遠の青春とその神性
だが私たちは
姫女の生き方から次のことを学ぶ。
今まで私たちがずっと思っていたところの理想的な
人間像というのは決して有徳の人というような
ものではないということを、それは思い違いであり、
本当に私たちが目指すべき理想的な人間というのは、
自分の存在がいつも誰か
他の人をに支えることができていて、
また自分の存在がいつも誰か
ほかの人に支えられているるような、
そんな人間がであるということに。
最後に
姫女苑の花言葉
ひたむきと素朴さ
* * * *
十日ほど前の朝、山小屋のような
我が家の玄関を開けると、向かいの土手に
咲いている白い一輪の花が
目に入ってきた。
まるで挨拶するかのように
次の朝も、
そして次の朝も、
やがてその花はあっちこっちに咲くようになった。
そして今、我が家の周りには、
ヒメジョオンが咲き乱れている。
* * * *
* * * *
補記
私はこの小論を書くにあたって"天才"とか"名曲"とかという言葉を絶対に使わないようにと決めていた。それは成功したような気がする。でもそのためか自分でも理解できないくらい晦渋な文章になってしまった。これはひとえに私自身の力量不足によるものである。それで直感的な表現になってしまった"生命の最終形態"や"意識の最高形態"については本来なら生命を賭した大著をもって論述されるべき代物なのだが、今の私にはその能力も余裕もない。
汲めども尽きない姫女の才能のように、私自身にも姫女について語りたいことが次から次へと沸き起こってくる。でもきりがない、というより意味がない。なぜなら姫女の楽曲からもたらされる感動に比べたら、これほどの言葉をもって書かれたこの小論も無であるから。
悲しいほどひたむきに

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