第十悲歌(二部) 小礼手与志 一部 三部 わたしはなおも気づかれぬように距離を保って歩いた。 やがてその男は急に速足になると、角を曲がってさらに薄暗い通りに入った。 わたしも見失うまいと歩みを速めて後を追った。 ところが、角を曲がったとたん、その男は立ちはだかるように、わたしの目の前に立っていた。 そして、驚いたように、とっさに身をかわすわたしに対して、その男が低い声で言った。 「なぜ、オレの後をつける。」 わたしは正直に答えた。 「わたしが捜し求めていた人に似ていたものですから。」 「オレは、お前のこと知らない、人違いだろう。」 「ええ、たしかに知り合いではないのですが。でも知り合いになりたいというか、それで探していたというか。 もしかしたらあなたは、良いことや楽しいことだけではなく、悪いことや悲しいことにとても通じていらっしゃる方ではないかと思いまして。」 すると、その男はあごを上げて言った。 「まあ、そうだが。」 「やっぱりそうでしたか。」 「それでオレになんのようだ。」 「用と言いますか、とにかく知り合いになったかったと言ったほうか。」 「これは不思議だ、奇妙だ。ほとんどの人間がオレを気味悪がって避けているというのに。お前はなんとも思わんのか。あっ、そうか、察すると、お前には友達がいないな。」 「いや、ええ、ちっとも、さすが、、、、それで、、、、まだ、お会いして間もないのに、突然このようなことを聞くのは失礼だとは思いますが。あなたは先ほど、駅前で、ケーキ屋のほうをじっと見ていましたね。どうしてですか。」 その男は薄笑いを浮かべた。そしてかすかに開いたロ元から黄色すぎる歯をのぞかせながら言った。 「これから何か面白そうなことが起こりそうな気がしてな。」 「えっと、まだ知り合って間もないのに、こんなお願いをすねのはあつかましいんですが、どうか、あの娘に手を出すのだけ早めてもらえますか。」 「お前は、オレが誰だか判っていないようだな。」 「いいえ、判っています。たぶん、、、、いや、絶対に、さっきも言ったように、悪いこと悲しいこと人が嫌がることに、とても通じている、つまり、悪魔のような人というか、悪魔そのものというか、、、、」 すると、その男は顔を歪めながら言った。 「お前はずいぶんものをはっきり言う奴だなあ。でもオレは悪魔ではない、悪魔みたいだけどな。だいいち悪魔というのはだな、まあ、そんなことはどうでも良い。 さっきの話だけど、オレは止めてくれなんていわれるとだな、どうしてそうなるのかは判らないんだけど、かえって気持ちが高ぶって、ようし絶対にやってやろうと力が全身からびりびりと沸いて来るんだよな。」 「そういう天邪鬼な感じっていうの判るような気がします。でも、あの娘にだけは手を出さないでほしいんです。あの娘はとにかく純粋で無垢な少女なんですから。」 「ふん、純粋、無垢。だめだね。いちいちお前たちの言うことを聞いてたら、オレたちの生きがいがなくなっちゃうじゃないか。」 「いったいなんになるんですか。そういう人の嫌がることをして。悪いことだとは思わないんですか。」 「ふん。悪いこと。あの娘のためじゃないか。どうして安い時給でこき使われなきゃいけないんだよ。あの娘の顔とスタイルなら、十倍も二十倍も高い時給の所で働くことができるというのに。それにだ、若いときから、何もあんなに真面目に働くことはないよ。もう少し遊んだほうがあの娘のためになると思うんだよ。だから、それを手伝って何が悪いんだよ。」 「それをあなたがやるんですか。」 「オレは直接やらないさ。見た瞬間に恋に落ちそうな若くて美しい男をけしかけて、その男に誘惑させるのさ。そしてオレは高見の見物。なにせ、それは、オレにとっては服からチリを払い落とすことくらいに簡単なことだからな。誰がなんと言おうと、オレはあう云う娘を見ると無性に何かを仕掛けたくなるんだよな。本能のようなかんじでな。とくに純真でひたむきそうであればあるほどな。」 その男は終始鋭い視線をわたしに投げかけながら話し続けた。わたしは彼の目を、まともに見ることに苦痛を感じ始めていた。 そこでわたしは彼を促し並んで歩くことにした。わたしは本当はその男の氷のように冷たい視線や高慢な態度に耐え難いものを感じていたので、いっこくも早く彼から離れたかった。 でも、その男の本当の意図を知りたかったのでもう少し付き合うことにしたのだった。 わたしから遠慮がちに彼に話しかけた。 「なぜあなたは、みんなが嫌がることや悲しむことをやるのですか。それは悪いことだとは思わないんですか。人を苦しめていったいなんになるんですか。」 「ふっ、苦しめて。それはオレにもよくわからないよ。なんていうか、体の奥底から沸いてくるんだわ。衝動っていうか、習慣って云うか、伝統って云うか、さっきも言ったけど、本能って云うか、どうしてもそうせざるを得なくなるんだよ。お前たちだってそうじゃないか。とくにお前のような善良そうな顔をしているやつはそうだろうけどさ。何か良いことをするとき、そうせざるを得ないからやるんだろう。そうすると気持ちがいいからするんだろう。それと変わらないんだよ。おっ、ついでに言っとくけど、俺たちは自分たちのやることを悪いことだなんて、ちっとも思ってやしないよ。とにかくみんなが嫌がることをやるのが生きがいなんだから。人がどうでもいいことやつまらないことで、苦しんだり悩んだり悲しんだりするのを見ると、とてつもなく楽しんだよ。快感なんだよ。とくに、それまで幸せそうな人間がだめになっていくのを見ると、その落差が大きい所為かたまらなく気持ちが良いんだよ。 さらにだ、お前のように、そんなことはやめてくれなんて懇願されると、これは裏に何かがあるなと思って、かえってどんどんファイトが沸いてくるんだわ。はあ、不思議だね。 ところで、お前、なんとなく鼻につくんだけど。お前、あいつのこと好きだろう。」 「あいつって。」 「この世界を作ったとされるお方だよ。あいつは、お前のような真面目そうな人間が好きだからね。お前は信じているのかあいつのことを。」 「いや、自分でもよく判らない。ずっと前から死んだという噂は聞いているけど。でも、その死体はまだ見ていないし、それにまだ生きていると信じている人はたくさんいるし、それだけじゃないんだ、、、、とにかく、わたしにはなんとも言えない。」 「そうだろうな。オレも、あいつが死んだときかされたときは、最初は信じられなかったもんな。これからいったいどうなるんだろうかって真剣に考えたもんだよ。でも、あいつが死のうが生きていようが、オレにとってはどうでも良いことだけどな。あいつはどうもオレのこと大嫌いみたいだからな。オレもあいつのこと大嫌いだから。」 わたしは、奴が漂わす陰気な雰囲気に気が滅入りそうになりながらも、その本心を確かめるために念を押すように言った。 「もう一度お願いします。あの娘は本当にいい娘なんです。ひたむきで誠実で、あの娘の笑顔には、見る人たちを幸せな気持ちにさせる力があるんです。あの娘はみんなの宝物なんです。天使のような娘なんです。だから、どうかそっとしておいてほしいんです。おそらく、経験豊かなあなたの手に掛かったら。ひとたまりもないでしょうから。」 「はっ、それが気に入らないんだ。誠実だと、天使だと。それじゃまるでこのオレが悪魔みたいじゃないか。この際はっきり言っておくけど、オレは、お前やあの娘と同じように人間の子なんだ。 それなのに、どうしてこうも姿かたちが他の人間と違うのか、さあ、目をそらさないでオレの顔を良く見ろ、お前は考えたことがあるか。」 「、、、、、、、、、、」 「姿かたちだけじゃない、こうも言動がみんなと変わっているのは、お前には判るか。お前のように善良そうな顔つきで生まれ、善良そうな人間の中で育てられた者には判らんだろうな。理由もなく忌み嫌われ、ぼろきれのように無視され侮られた人間がどんな顔つきになるのか、お前には判るまい。いや、勘違いするな、俺がそうされたのではない、ましてや、俺は小さいときからこんなひどい顔はしていなかったさ。オレがこうなったのはだな、、、、みんなと同じように人間の母親から生まれたのに、少しだけみんなと違うだけで、暗いとか気味が悪いとか言われ、無視され嫌われ侮られ続けた人間には恨みや怨念が自然と生まれてくるもんだよ、そのようなことが何百年も何千年も繰り返されるうちに、そのような恨みや怨念が消えずに残り、見えない雲のように寄せ集まって濃くなり、つまり霊となって時代を超えて世界に漂うようになり、それがオレのように見た目がみんなと違うような人間にとりついて、ますますオレを陰湿に邪悪に冷酷にさせるのだ。 だが、それはオレの運命なんだ。ちょうど、ケーキ屋のあの娘が、愛情と思いやりに溢れた人たちに囲まれて育てられ。生来の可愛さだけでなく、周囲よりも際立つその可愛さのために、より大切にされ賞賛されてますます表情が豊かになっていき、そして善意や喜びや希望に満ち溢れた幸福の女神に祝福されるとき、彼女が天使のような純真無垢な笑顔になるのは当然のことなんだ。オレには判っている、お前たちがどんなにオレたちのことを嫌っているかということを。でも、しょうがない、オレの顔を見れば判るだろう。」 そのとき、わたしたちは再び華やかな表通りに出ていた。奴はさらに話し続けた。 「こうやってすれ違う人間を見てみろ。みんな健康的で賢そうで自信ありげで満足げだ。わたしたちはこんなにも幸せなんだといわんばかりじゃないか。でもな、このオレが、その気になって思いっきり不気味な表情をしてあいつらのそばを通り過ぎるだけで、今まですべてが順調に行って来た者もそうは行かなくなるだろう。歯車が狂ったように不幸な道を歩み始めなければならなくなるだろう。」 「やっぱりそうだったのか。わたしは今まで人々がいろんな不幸な目や悲しい出来事にあうのを見てきた。彼らはどう見たって何にも悪くないのにだ。なぜそうなるんだろうかってずっと長い間疑問だった。 でも、今これでようやくその本当の原因がはっきりしたみたいです。どんなに夢を持って会社に入ってきても、何が不満なのか突然やめていってしまう若者がいるということ。そうするのには何かがあると思っていたが。そういうことだったのか。根は真面目なんだから多少いやなことがあっても、もう少し辛抱すればそのうちに道は開けてくると言いたいところだったが、本人が自分の自由意志で決めたことだからと思っているみたいだったのでどうしようもなかった。逆にこんなこともあった。どんなにやる気がある若者が現れても、周囲の既得権益にしがみつく大人たちによってたかってその芽を摘み取られてしまうこともあった。そうするとその若者は無力感にとらわれ、社会への不信感をあらわにしながら生きる気力さえ失ってしまうことがあった。大人たちは決してそこまでは追い詰めようとは思っていなかったようなのだったが。 そうか、そういうことだったのか。ほかにもこんなことがあった。わたしの場合だが。わたしが小学校に入ったとき、わたしは親の言いつけを真剣に守り、近所の幼な馴染みと仲良くしながら登下校していた。ところがわたしたちのその仲の良さを見ていた者がいて、わたしたちがあたかも何か悪いことをしているかのように冷やかし囃し立てた。そのためにわたしたちはもう二度といっしょに帰ることも遊ぶこともなくなった。わたしはそのことを、これは決して人間だけの所為ではないとずっと思っていた。 それからこんなこともあった。わたしが二十歳のとき、五歳年下の少女と知り合った。わたしたちは兄妹のように親密になった。わたしたちは将来の夢について語り合った。周りがどんなに暗く絶望的であっても、わたしたちだけはひそかに確実にささやかな希望に導かれていた。わたしたちの愛と信頼は確実に結晶し始めていた。それがどんなに周囲の状況や現実の逃れられない制約や呪縛からかけ離れていようとも、そして、それがまさに完成しようとしていたとき、わたしたちは突然何者かに力によって引き裂かれた。わたしはそのとき何が原因でそうなったのか判らなかった。でも、その後だんだんこう思うようになって行った。わたしにとって、その青春の不安と憂愁の真っ只中で、そのような少女と愛と信頼の結晶を育み、それを完成させるということは奇跡を起こすようなことである。つまり時間を止めようとする行為に等しいことだと。だから時間を止められて欲しくない何者かが、それを阻止しようとして、わたしたちの仲を永遠にを引き裂いたのだと。そうだったのか、やっぱりそういうことだったのか。」 すると、その男は声を荒げて言った。 「おい、何でも俺たちの所為にするなよ。今の俺たちにでさえ判らないことがあるんだからな。まあ、多分俺たちの仲間がやったんだろうがな。悪くおもわんでくれ、なにせ性分なもんで。とにかく、あいつが死んだと、孤独で賢くて理屈っぽい人たちが盛んに言い始めたとき、正直いってオレは困惑した。大嫌いだったから、居なくなれは居なくなったでそれで良いんだけど、でも本当に居なくなったら、オレはこれからどうすれば良いんだろうかって不安になったもんだよ。理屈っぽい人たちは、あいつが居るせいで人間は自由ではない、あいつが居るせいで不幸なことや悲惨なことが怒るんだ、あいつこそ諸悪の根源なんだと思って、あいつが死んだこと、いや、あいつを死に追いやったこと、いや、あいつを殺してしまったことを良いことだと思っているようだが、でも、理屈っぽい人たちが考えるほどこの世は単純じゃなかったみたいだ。あいつが居なくなったといっても、人間は相変わらず不自由だし、不幸だし、悩んだいるし、不条理な目にあって苦しんでいるし、オレから見たら、なんだかんだといっても人間が自滅したって感じかな。笑いが止まらんよ。」 「じゃ、悲惨な戦争や、大量虐殺は、あなたがたが引き起こしたのではないというのですか。」 「じょ、冗談じゃないよ。俺たちはそんなことには興味がないよ。俺たちが興味あるのは、ちょっとしたことで悩んだりくよくよしたりして、人間関係を悪くしたり人生を駄目にしたりして、それで苦しんだり悲しんだりしているどうしようもない人間だよ。とくにその悩む内容がつまらなければつまらないほど、興味が引き付けられるんだよ。なにせ、オレがその気になれば、どんなにうまく行っている者たちでも仲たがいさせ、傷つけ合わせて別れさせることなんかほんの目配せするくらいに簡単なことなんだ。 なにせお前らは、ひがみっぽくねたみ深いだけでなく、プライドが高く意地っ張りで真面目で空想好きで、その上無類の誤解好きと来ているからにや。花壇の鉢植えを落としたり、予定表の日付を変えたり、冷たい風で顔をしかめさせたり、物音で注意をそらし聞こえなくさせたり、開いているはずのドアを閉じたりしてな、そんな取る似たらないことでお前たちは、考えられない行動を取るようになるんだからな、なにも大掛かりな作戦なんで必要ないんだ。本当にこたえられないよ、お前たちを苦しめ懊悩させるって言うのは。 ところが、近年起こっていることを見てると、いったいどうなっているのが、オレにもさっぱり判らんよ。もともと俺たちはあんな戦争とか虐殺とか、膨大なエネルギーが必要とすることにはまったく興味がないのだからね。なにせ俺たちは肉体労働が大嫌いだからね。それに、俺たちは、お前たちが思うほど目立ちたがりやではないんだ。なにせ過去の悲惨な歴史があるからな。俺たちが何か大事件や大事故のあったところをうろついてみろ、すぐ俺たちの所為にされる。あのかわいそうな野良犬を見てみろ。奴らがどんなに人間に気を使って目立たないようにびくびくしながら生きていることか。奴らは知っているんだよ。なにか良くないことがあったら、自分たちに怒りと不満の矛先が向けられるということをな。ふむ、もしかしたら、あいつが知らぬ間に生き返っていたりして。」 「あいつって、例の死んだという噂のある、、、、」 「そうだよ。当然だよ。孤独で思考好きで理屈っぽい人間のいうとおり、諸悪の根源のあいつならやりかねんな。いや、そうだ。もともと死んではいなかったりして。お前何をそんなに不思議そうな顔をしている。オレの言うことがでたらめだともいうのか。」 「でも、どうしても、戦争や虐殺が、あの姿を決して見せない者によって引き起こされたとは思えないですよ。」 「お前は甘いな。既成概念や噂話にとらわれすぎだよ。物事は見かけとは違うんだよ。本当の姿はそう簡単には判らないよ。とくにお前のような人間にはな。この世には思っていたこととは逆だったりすることがいっぱいあるんだ。本当に甘いよ。現にお前は、俺たちは、薄暗い裏通りを好んで歩いていると思っているだろう。とんでもない。その正反対だよ。俺たちはこう云う表通りがすきなんだよ。華やかなところが大好きなんだよ。幸せそうで善良そうな人間は大嫌いだけど、そういう人間を見るのはたまらなくに好きなんだよ。なぜだか判るか。そういう人間がだめになっていくのを堕落していくのを思い浮かべるだけでたまらなくいい気持ちになるんだ。特に、幸せそうであればあるほど善良そうであればあるほどその落差が大きいから、その楽しみも快感も大きいということだ。俺たちにとってそれは生きる希望なんだ。」 「そうすると、結婚式とか入学式とか、人がたくさん集まって幸せそうにしているところが好きだと言うことですか。」 「そうだよ、おっ、意外と物わかりが良いじゃないか。」 「以前、あなたのような人を知人の結婚式場で見たことがあるけど、やっぱりそうだったんだ。錯覚ではなかったんだ。」 「どうだ、判ったか。俺たち本当の狙いが。とにかく俺たちは、人間が楽しそうにしていたり、幸せそうにしていたりしているのを見ると無性にいらだってくるんだ。ときには苦痛を与えられているように感じるときもある。だから、人間が仲良くしていたり物事がうまく行こうとしているときに、それの邪魔をして、喧嘩別れさせたり、それまでうまく行っていた事を駄目にさせたくなるんだよ。思惑がうまく行ってそれが成功したときの快感といったら、お前にはわからんだろうな。オレだけの恨みではなく、俺たち仲間の積年の恨みを晴らしているっていう感じだからな。」 「それじゃ、わたしたちが悲しんだり苦しんだり悩んだりしているところを見るのはあまり好きじゃないと言うことですか。」 「そうじゃないさ。たまになら良い。でも、それだけだ。それ以上どうこうしようって気は起こらない。なんの張り合いもないからな。より高い所にいていい気になっている者を引きずり降ろして絶望させるという張り合いがな。そうだ、お前のさっきの話し、それは俺たちの仲間がやったのかもしれないな。でも、後のほうの話しは、もしかしたらあいつかもしれない。はっはっはっ。」 わたしはその男の言うことがよく判らなかった。でも、時間がだいぶ遅くなっていたのでそろそろ別れなければならないと思っていた。そこで最後にもう一度言った。 「あなたがどんなことに興味を持ち、どんなことに生きがいを感じているのかが判りました。でもあの娘にだけは手を出さないでほしいんです。」 「まあ、無理だろうな。」 「そんなにわたしたちのことが憎いんですか。」 「はっはっはっはっはっ、はっはっはっ、はっはっ、はっ、はっ、はっ、これはおかしい、憎い、オレが、お前らのことを憎いだと笑わせるな。はあ、それにしてもこんなに笑ったりは久しぶりだな。なんでオレがお前えらのことを憎まなければならないんだよ。お前らがどうなろうとなんとも思ってもいやしないのにさ。でも、お前らのことが好きなあいつを、ときどき無性に憎たらしくなるときがあるけどな。 まあ、物好きなお前のためだから、聞いてやってもいいがな。考えとくよ。じゃ、あばよ。」 「そのうちにまた会いましょう。さよなら。」 わたしは奴にあって話したからといって、それまでわたしを悩ませていたさまざまな問題が何一つ解決したわけではなかった。 わたしはますます困惑し自信を失い、迷路に迷い込んだかのように途方にくれていくばかりであった。 わたしはもう一度奴に出会えることをひそかに期待していた。 それからしばらくして、わたしは偶然のように奴の姿を見かけることができた。それは駅前の街頭演説に聞き入る群衆の中にだった。 群衆にまぎれていても、その体全体から漂ってくる雰囲気で、すぐあのときの男だとわかった。やがてその男は、不機嫌そうな顔をよりいっそうこわばらせながらその群集から抜け出ると、時を刻むような確かな足取りで舗道を歩き出した。わたしは急いで後を追った。 というのも、あのケーキ屋の娘が店に見えなくなったので、もしかしたらあの男が何かを知っているのではないかと思ったからだ。そして、もし知っているのなら彼女がいったいどうなったのか、ぜひとも問いただしたいと思ったからだ。ほどなく追いつくとわたしは並んで歩くようにした。そして奴に横から話しかけた。 「やあ、しばらくでした。ぜひもう一度会いたかったです。」 するとその男は、冷たい視線をチラッと投げかけただけで、そのままじっと前方に目をやりながら歩き続けた。 そしてしばらくするとその男は独り言のように言い始めた。 「本当に腹立たしい。何であんなにおとなしいんだろう。昔はそうではなかった。もっと激しく遣り合ってくれないかな。罵倒したり怒りを掻き立てるようなことを言ったり、できれば乱闘でもやってくれないかな、興奮した群集を巻き込んでさ。そうでないとちっとも面白くない。お前はどう思う。」 わたしはすぐに答えた。 「そうですね。政治家はいつもわたしたちの生活をよくするとか、わたしたちを幸せにするとかって言う、でも、そんなことを何十年もいってるけど、少しも変わっていない、もう聞き飽きたって感じかな。それに生活を良くするって言うのはまだ許せるが、わたしたちを幸せにするって言うのは、余計なお世話って感じかな。そんなこと個人の問題だよ、お前たちに言われたくないっていう感じだからね。ところで、あなたに聞きたいことがあるんですけど。最近、あの娘を、ケーキ屋の例の娘を見いないんですが。どうかしたんですか。」 「なんだよ、オレが何かをやったような言い方をして。俺は何もやってないし何にも知らない。別にお前に頼まれたからって訳じゃないけどね。でも、どうなったかはだいたいは見当がつく。お前よう、あの娘が何をやろうが、あの娘の自由じゃないか。それにさ、より良い生活を求めてお金を稼ぐことが、どこが悪いんだよ。みんながやっていることじゃないか。それよりも、お前はあの娘のこと何が判っていると言うんだよ。見掛けだけに捉われて、常日頃どんなことを考えているのか、何にも知らんくせに。おまえは、もう少し現実的になったほうが良いみたいだな。お前こそ余計なお世話じゃないのか。」 「、、、、、、、、、、」 「そんなもんだよ。お前にとっては残念なことかもしれないけど。ふん、オレにとっては喜ばしいことだ。もうたまらないね、人間が自滅していくのを見ているっていうのは。 さあ、あの親子連れを見てみたまえ。」 そう言いながらその男は前の方を指差した。そこには、ショーウィンドウに目をやりながら舗道を歩いている、両親とその一人娘と思われる高校生ぐらいの少女の三人の親子連れがいた。洗練された身なりからして裕福そうで、三人とも幸せそうな笑顔に溢れていた。そして、その男はその様子を見ながら得意げに話を続けた。 「子供も親もみんな賢そうだね。なんて屈託のない笑顔なんだろう。きっと夢と希望で未来はバラ色なんだろうね。身なりもきちんとして清潔感に溢れ幸せそうだね。あの娘は親の言うことをよく聞き、勉強もでき向上心もあり、親の自慢だろうね。まだ若々しい母親はしっかりと家庭を守っている感じじゃないか。父親は、あの自信に満ちた感じからして一流企業に勤務しているのかな。でもオレは知っているぞ。あんな幸せもろいもんだってことをな。それに、あういう火の打ち所のない幸せをだめにするのが最高の快感とするオレの手に掛かれば、ひとたまりもないってことがな。でもオレが手を下すまでもないさ。今の世の中何が起こるか判らないからな。確かにやつらは身なりもきちんとしていてお金持ちに違いない。おそらく父親は周囲との競争に打ち勝った成功者に違いない。生まれついた才能と人並み以上努力によって、その地位にたどり着いたに違いない。だが、どんなに良い会社だって突然ダメになるときもある。どんなに自分では優秀と思っていても嫌われたり必要とされなくなれば首になることもある。でもそれはあの男の所為じゃない。あの男がどんなにがんばってもそれはどうすることもできない。今はそういう社会なのだから。そうなると男は絶望し自信を失い途方にくれ社会に不信感を抱くようになるだろう。プライドが高いだろうから人並み以上にもがき苦しむだろう。人が変わったようになるだろう。すると家庭がギクシャクするようになるだろう。収入がなくなれば、あの可愛い娘だって、生きるためには何でもやらなければならなくなるだろう。はっはっはっ、たまらないね、幸せそうな人間が落ちて行くのは。それに比べたら、あいつらには、」 そう言いながらその男は、歩道から外れたところにたむろしている若者たちを指差した。そして話を続けた。 「やつら不良はつまらない。なんとも張り合いがない。やつらはあれ以上落ちようがないからな。適当に遊んでは適当に仕事をし、適当に人生を楽しんでいるからな。オレの罠にはそう簡単にははまらないんだ。」 その男の言い方に傲慢な印象を受けていたわたしは少し冷ややかに言い返すように言った。 「あいつらは大変なんですよ。仕事もなくって。みんな政治家が悪いから、政治家がしっかりしていれば失業なんかしないですむんですよ。」 「はっ、笑止。お前があいつらの心配をするなんて。本当は喜んでいるくせに、なんと言う嘘つきなんだろう。お前たちはすぐ失業率が高いのは政治が悪いからだと言って嘆いては、政治家に失業対策を求めて、そのことを実行する政治家は良い政治のように褒め称えるけど、それはお前らの振りだろう。なぜなら、五パーセントの失業者のおかげで、あとの九十五パーセントのものが仕事につけるんだということに、うすうす感じているはずだからだ。政治家が、それをやることによって経済から活力を奪い不況にさせてしまい、自分たちが失業してしまいかねないような下手な失業対策をとるよりも、何にもしないことを本当は政治家に望んでいるのだ。本音ではお前たちはいつも現状維持を望んでいるのだ。誰もがロでは失業者の味方みたいなことを言っておきながら、九十五パーセントの人間が心の底ではあまり変わってほしくないと思っていたら政治なんて変わる訳ないじゃないか。そのくせ何か良くないことが起こるとすぐお前たちは政治家の所為にするんだから。お前たちはまったく度し難い偽善者だよ。絶対に本当のことを言わないんだから。」 「、、、、、、、、、、」 「なんか、お前を見てると本当に鼻につく、いらいらしてくる。もしかしたら、お前は、オレがもっとも嫌いなタイプのような気がしてきた。この際はっきり言おう、いったい何の用が在ってオレに付きまとっているんだ。」 その男の辛らつな物言いに、わたしは怖気づきそうになったが何とか気力を振り絞って話し始めた。 「ずっと今まで、わたしは平和であることを願い、人間が平等であることを望み、個人というものを大切にしながら、何とか周囲の人たちとうまくやってきた。その間経済も発展し生活もどんどん豊かになり、ほとんどの人が人生に満足を感じるようになった。そう、確かにそれはそうなんですが、でも、その傍らではまだ苦しんでいる人たちがいる。戦争はいまだになくならない。飢餓もなくならない。突然の事故で悲惨な死を遂げる人もいる。犯罪も減らない。ときには考えられないような事件が起こりわたしたちを激しく苦しめ悲しませる。何もかもが自由で便利になったはずなのに、さまざまな問題が次々と起こっては悩ませ惑わせる。どうしてこうなるのか、わたしはわたしなりに考えた。だが、答えはなかなか見つからなかった。そこでわたしは周囲の人たちにたずねた。でも、誰も応えてくれなかった。それどころか、わたしが問いかけると、人々は、変なことを聞くやつだなあと言うような顔をして、わたしを避けるようになった。そしてわたしは誰にも相手にされなくなり独りぼっちになった。そこでわたしは、わたしとは違った意味で孤独なあなたにぜひ聞きたかったのです。」 「ふん、そんなことか。それこそオレのオレの思う壺ではないか。お前たちが苦しめば苦しむほど、俺たちの目的が達成され、気持ち良くなるってもんじゃないか。はっはっはっ。だがな、答えてやっても良いよ。でも、その前に言いたい。お前たちは本当に度し難いね。嘘つきだな。というよりも、本当のことを言わないって言ったほうが良いかな。あいつを殺そうとしたときもそうだった。お前たちは、賢くて、合理的だから、この世界を悪しているのは、不合理な魅力で人間を引き付けるあいつの所為だから、あいつさえ亡き者にすれば、この世はきっと良くなるに違いないとまくし立てていた。 ところが、あいつが死んでしまったかのようにまったく姿をあわさなくなっても、この世はちっとも良くならなかった。それどころかますます悲惨を極め悪くなるばかりであった。 そこで今度は、お前たちは、金儲けのためにいっしょう懸命働く金持ちが悪いから、汚職をやる政治家が悪いから、弱い者を助けない社会の仕組みが悪いから、この世はちっとも良くならんいんだと言う始末。何か解決不能なことが起こるとすぐお前たちは誰か他人の所為にしたがる、本当に救いがたいよ。そもそも人間が平等なわけないだろう。こんなにも容姿や能力に差があるというのに。まさか、お前は、美人には興味がないなんて言わないだろうな。ふっふっふっ。 それに、このままだと人口が増えすぎていずれ食糧危機になるだろうなんて、笑わせるなよ。そもそも食料がなければ人口なんて増えるわけないだろう。戦争は悪だから悲惨だからしてはいけないと言っておきながら。裏ではこれは戦争ではないと言いながら殺し合いをやっているではないか。正々堂々とこれは戦争だと宣言してやればいいではないか。お前たちは大嘘つきだよ。他人に対してだけでなく自分自身に対してもね。お前たちは、戦争に反対して平和を願っていれば平和になると思っている、今まがりなりにも平和であるのは自分たち、平和を願う者たちのおかげだと思っている。 はたして本当にそうなのだろうか。お前はそこまで徹底して物を考えたことがあるのか。ふっふっふっ。これもみんなお前たち、思考好きなものの悪い癖だ。所詮中途半端な知恵よ、カラスの知恵よ。 お前たち賢いものは、自分たちの考えで社会を動かせると思っている。お前たちは自分たちの意識が変われば社会を帰られると思っている。そこがお前たちが根本的に間違っているところだ。勘違いしているところだ。そもそも今までに一度でも人間の意識でこの世界がよく変わったことがあるか。はっはっはっ。 さらにだ、お前たちはあまりにもお金のことをバカにしすぎている。お金の悪い面否定的なイメージにだけ捉われすぎて、お金の本当の意味や価値がぜんぜん判っていない。どんなに陰で人間の社会の発展に貢献しているのかも知らないで。まあ、それが判らん限りお前たちは永久に問題を解決できないだろうね。かつて何か悪いことの原因をあいつやオレや金持ちや政治家の所為にしたように、なにかほかのものにするだけでね。ふっふっふっ。」 三部に続く ![]() |