憂鬱なジャングル
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はだい悠
ジャングルに夕日が沈みかけていた。
長いあいだ、群れから離れて孤独に生きてきた一匹のチンパンジーが、その衰弱した肉体をどうにか支えながら、足を引きずるようにして、山の中腹を歩いていると、もやが立ち込める谷のほうから、聞き覚えのあるにぎやかな声が響いてきた。彼は歩みを止めると、木々のこずえの間から、そのどんよりとしためで、声のする方向に必死で見入った。まるでその群れの中に懐かしい姿を探すかのように。それは、かつて彼が生まれ、そして育ち、また、非常に短い期間であったがリーダーを勤めたことがある群れでだった。
迫り来る夕闇のなか、その疲れきった体を木の幹に持たせかけ、長すぎるさすらいで、もはやかつてのような精悍さの面影もない顔を両手で覆うと、死ぬほどつらい憂愁に襲われながら、今までのことを思い返した。
オレはリーダーにはなりたくなかった。というより、もともとなる気などまったくなかったのだ。なぜなら、争い事が性分に合わなかったし、リーダーになるには、並外れた能力が必要であるということ、また、なったあとも、それを維持するために日々大変な努力が必要であるということを、うすうす感じていたからであった。ところが、どこでどう間違えたのか、なぜあんなことになってしまったのか、オレには今もってさっぱり判らない。
そもそもこのオレが、群れのリーダーというものに、なるはめになってしまった二年前までは、群れにはこれといった争い事もなく、平穏な日々が続いていたのである。それはそのときのボスが賢く、力も強く、勇気もあり、下の者を分け隔てなく扱い、しかも、面倒見がよく、女たちからは慕われていて、その上、群れで、食べ物などちょっとしたことで、いざこざが起こったときなど、チラッとにらみつけるだけで収まってしまうという迫力と威厳も兼ね備えており、群れじゅうから絶対的に信頼されていたからであった。
オレはその当時、オレより十歳も年上のそのボスを、みんなと同じように信頼しているだけでなく、才能にあふれたリーダーとして、他の誰よりも尊敬していた。また、そのときのオレの群れでの順位は五番目であった。それは、日頃から上位に位置することを目指して、どうにか上り詰めたというようなものではなかった。オレは群れの中に、まれにいるような弱虫でも臆病でもなかったが、かといって、特別に度胸や腕力があった訳でもなかった。顔も普通であった。そこで、群れでは、あまり目立つことなく、いつもごく自然に振舞っていただけで、あえて意識してやっていたことといえば、尊敬するボスのやることを見習うことぐらいであった。だから、順位が五番目というのは、ある日気がついたら順位が五番目になっていたといった程度のものであった。そもそもオレはいざこざが大嫌いだったのだ。下の者をいじめたり、脅かしたり、力ずくで食べ物や女を奪ったりすることも大嫌いだった。だから、みんなから信頼されるボスのもとで、このままずっとずっと平穏な日々が続くことを、いつも願っていた。ましてや、自分の順位を、四、三、ニ、と上げていって、さらにその上のボスの座をねらおうなどという野望はこれっぽっちも抱いていなかった。
たぶんそれは、このオレが、とにもかくにも、なにがなんでも、争い事が嫌いだということに原因があるようだ。
というのも、俺がまだ若く順位もずっと舌だったころ、群れに、ボスの座をめぐっての騒動が起きたことがあった。それは確か、オレがボスになったときから数えて三代前のボスのときであった。特別に力が抜きん出ている者が居なかった為に、なかなか収拾がつかず、そのうちに騒動が群れ全体を巻き込む形になり、群れそのものが滅茶苦茶になったことを見ているからであった。
ボス争いが長引くに取れて、群れは徐々にその混乱さを増していった。それは群れのなかに暴力や脅しがはびこるようになっていったからである。みんな以前のような冷静さを失いはじめ、ちょっとしたことで、いざこざに発展してしまうという、ボスがにらみを効かしているときには起こりえないようなことが、頻繁に起こるようになっていった。そして、いったんいざこざが発生すると、か弱い女や子供たちはおびえて悲鳴を上げ、臆病なオスは恐怖に駆られて意味もなくわめき散らすので、群れはたちまちにして、興奮状態に陥るようになっていった。そして、そういうなかでのボス争いだけに、当事者たちはますます興奮していって、できるだけ大きな声をあげたり、ばたばたと音をたてて走りまわったりして、相手を威嚇し、組み合えば渾身の力で殴りあい、噛み付きあい、血を流すまで容赦なく傷つけあうのである。そして、平穏なときに気づきあげられた順位も役に立たないもに名なってきて、それまで下位に居たものが、平気で上位に挑むようなことが頻繁に起こるようになっていった。それはボスがしっかりしていて群れが安定しているときは、順位は決して腕力だけで決められることはないのであるが、このように群れが混乱しているときには、どうしても腕力が幅を利かすようになり、それだけで順位が決められるようになっていたからである。それゆえ、群れはますます混乱を極め、ばらばらになっていくだけであった。
そういうなかで、群れには、他のそれと対立し抗争するいくつかの小さなグループが出来るようになっていった。しかし、それは決して固定したものではなかった。なぜなら長引く混乱でみんなが疑心暗鬼になっていたということもあり、グループに集まってくる理由というのが、他より数が多くて勢いがありそうだとか、食べ物がいっぱいありそうだとか、なんとなく強そうなものが居るというような単純なものから様々であるが、そうなるのも、たとえば、挨拶をしないとか、態度がでかいとかという、ちょっとした理由で、けんかになったり、たとえそれが偶然であったとしても、嫌いな奴の近くに居たということだけで、裏切り者とされて大勢から攻撃されたり、また、お前はメスに言い寄られすぎだと因縁をつけられ、これまた大勢から酔ってたかっていじめられたりするので、どんなにそれが同じグループの仲間であったとしても、お互いにあまり信用しなくなって来ていた為である。それで風が強く吹いたり雨が降ったりするだけで、それをきっかけにして、グループを移ったりすることが、当たり前のこととなり、毎日のように新しいグループが生まれては、そしてそれまでのグループは消えていくという、とにかく不安定なものであった。
そういえば、このような混乱のもとでは、まれではあったが、普段起こらないような色々なことが起こった。たとえば、周りの強いオスどもが抗争に明け暮れているのを良いことに、その隙を狙って、めったやたらとメスに手を出すもの、ほんとうは弱いくせに、何を勘違いしたのか、自分が強いと思い込み、急に威勢良くなって、明らかに自分よりは強そうなものに挑んでは、こてんぱんにやっつけられる者、若者のその圧倒的な腕力を前にして、自信を失いずるずると順位を下げていく年寄りたち。そして、もっとも悲惨なのは、混乱のあおりをまともに受けて、自分がどう行動してよいか判らなくなり、たとえ、どんなことがあっても守らなければならない最低限のおきてを破ってしまい、長引く抗争で苛立っている多くのものから、ここぞとばかりに攻撃を受けて、殺されてしまう大ばか者も居た。それはむしろ、掟を守るということよりも、そうすることでばらばらになりそうな群れの団結力を回復するかのように。
オレは組み合っても、めったに負けるようなことはなかったが、狂ったように大声をあげて走りまわっては仲間を威嚇し、喧嘩になれば思いっきり殴ったり噛み付いたり、そして、力ずくで下の者を服従させたりして、よってたかって弱い者いじめをしたりするということが、なぜか、あまり得意ではなかった。とにかくオレは暴力が大嫌いだった。傷つけあうことが大嫌いだった。血なまぐさいことが大嫌いだった。群れを巻き込んでみんなが狂ったように行動することが判らなかった。なぜ争い事を避けてみんな仲良くしないのか判らなかった。
そしてオレは、争い事のない平穏な日々がこのままずっと続くことを願っていた。また、あの立派なボスの下でなら、てっきり続くものと思っていた。
ところがある日突然、群れの様子が激変した。
まずは、二番目と三番目が組んで四番目を突然襲った。四番目は上位のほうでは最も若く賢く、喧嘩も強く、そのうえボスの親戚であるため、ボスにとりわけ可愛がられており、いずれはボスの座につくだろうと期待されていた。しかし、その攻撃はあまりにも不意をつくものであったために、それに、一対一ならそんなにあっさりと負けるはずのない体力と知力を備えていた四番目であったが、二対一ということもありあっという間に決着した。そしてその二匹の攻撃があまりにも執拗でしさまじかったために、四番目は精神的にも肉体的にも深く傷つき、母親の後ろに隠れてしまうような臆病者になってしまった。
そして、その二匹の攻撃の牙は、その日のうちにボスに向けられた。しかし、ボスは形成不利と見たのか、争うことなく群れを離れ姿を消してしまった。あっけないほど簡単にボスが入れ替わった。新しくボスになった二番目は、前のボスより五歳若く、体も群れでは一番大きく腕力もあり、頭もまあまあで、おそらく次のボスになるだろうと周囲からは思われていた。だが、三番目は、二番目の後ろにくっついてきて、腕力だけでここまでのし上がってきたような奴で、まあ悪く言えばただの乱暴ものといっていいくらい頭も悪く信頼もまったくなかった。
ボスの交代が、メスや子供たちの悲鳴を聞くこともなく、また、ドサクサにまぎれての順位争いを招くこともなく、穏やかに行われたことは良いことだった。新しくボスになった二番目に対して不服そうな顔をするものはどこにもしなかった。それもそのはず二番目と三番目が組んでいれば、どんなに腕力に恵まれているものでも、とても太刀打ちができないからである。オレも二番目はそれほどいやな奴ではなかったので、これも成り行きだと思い、あきらめるより仕方がなかった。それでも新しいボスの体制が落ち着くまでには多少のざわつきがあった。ところが、そのざわつきが収まりかけようとしていたとき、てっきり群れから離れたと思っていた前のボスが、群れの外側にチラッチラット姿を見せるようになった。しかしいまさらもう一度ボスの座はないだろうというのが群れ全体の雰囲気で、そんなことを無視するかのように新しい体制は徐々にかためられていった。
だが、あるとき、突如奇妙なことが起こった。前のボスの女たちが、腕力だけがとりえで新しいボスの子分に過ぎない元三番目に、言い寄り始めたのである。オレは今でもこのことは前のボスの差し金だと思っているが。三番目も悪い気はしないのか、あっさりとそれを受け入れた。しかし、それを見て面白くないのは新ボスの元二番目だった。まだ群れの女たちとの関係が固まっていないときだっただけに、なおさらだった。そして、最初のころは、元三番目と女たちの様子に鋭い視線を投げかけているだけであったが、そのうちに怒りを押さえきれなくなったのか、猛然と元三番目に攻撃をくわえた。元三番目は、自分は何も悪いことはしていないといわんばかりに、キャッキャッと弱々しい悲鳴をあげて逃げ惑うだけだった。もと三番目は、もともと新ボスの後ろ盾があったからこそ、ここまでのし上がってこられたのであり、それを失ってしまえばただの乱暴ものでしかなく、仲間からも相手にされなくなり、あとは惨めなほどずるずると順位を下げていくだけだった。そしてそのうちに群れからも居なくなってしまった。
新ボスと元三番目が喧嘩別れをすると、前のボスが堂々と群れのなかに姿を見せるようななった。それはもう一度ボスの座を狙っているなということが、誰の目にもはっきりとわかるものであった。まず前のボスは、自分より遥かに年の若いオスたちに、たっぷりと時間を掛けて満遍なく近づき、親しみをこめて毛づくろいなどしては以前のように信頼を取り戻していった。それは自分の周りをかため新しいボスを孤立させる作戦のようであった。それというのも、新ボスになった元二番目は、喧嘩が強いというだけでここまで順位を上げてきたのであるから、何事も自分の腕力で解決しようとする傾向があり、前のボスのような細やかな心配りや気遣いで仲間の気持ちをつかみながら、群れを統率していくということが、とにかく不得意だったのだ。案の定、新ボスは、周囲の様子が微妙に変化していくことに気づき、孤立を感じるようになっていった。そして女たちの気持ちを依然としてつかみ切れないということもあり、あせり苛立ち、さらに孤立感を深くしていったようだった。
それでも群れのほとんどの者は、再びボス争いは起こることはないだろうと思っていた。なぜなら、新ボスは、年も若く体も大きく力も強いので、前のボスにはほとんど勝ち目はないだろうと、それよ前のボスは賢いので、そんな無謀な戦いは仕掛けないだろうと思われていたからである。ところが突然、決着のときがやってきたのだった。そしてその勝負は一瞬のうちに決まった。あるとき、前のボスは、攻撃の気配をまったく見せずに、恭しく新ボスのところに近づき、背中を見せて座った。そのとき新ボスは長引く孤独感とあせりで、正しい判断が出来なくなっていたのか、前のボスのように警戒感を解き始めた。その様子は、周囲のものには、顔からだんだん緊張感がなくなっていったことで見て取ることが出来た。ところが、次の瞬間、前のボスは新ボスの急所に強力な一撃を食らわせた。新ボスはみんなが見ている前で、声こそはこらえていたが、苦痛に顔をゆがめて、のたうちまわった。そして、それが、腕力においては絶対的な自信を持っていた新ボスにとっては、どれほどの恥辱だったのか、二度と立ち直ることは出来なかった。そして消えるように群れを離れた。
こうして再び群れは、オレが尊敬するボスのもとで平和に戻った。と、オレはそのとき思った。だが、大変なことが、とんでもないことが、予想もしなかったことが起こっていることに、オレはまったく気づいていなかった。それは、このオレが、いつのまにか二番目になっていたということであった。
群れでの順位が二番目であるということ、それは単に群れではボスの次に偉いというような単純なものではない。群れの秩序維持のために、ある程度ボスに協力しなければならないと同時に、もしボスの身に何かがあったときには、ボスに変わって群れを引っ張っていかなければならない者として、周囲から期待されているということである。つまり判りやすく言えば、ひそかに次のボスの座を狙うものとして周囲からは見られているということである。そしてその期待にこたえるためにも、日々それにふさわしい行動をしなければならないということである。しかし、オレは、尊敬するボスのもとで、平穏な日々がずっと続くことを願うこそすれ、そのボスを倒して自分がボスの座に着くなどということは夢にも考えていなかった
そもそもオレには初めから。ボスになるつもりなどまったくなかったのだ。というのも、ボスになるまでには大変な困難が伴うだけでなく、なってからも、まあ、それには多少の良いこともあるだろうが、それを維持していくためには日々大変な努力が必要であり、困難も山ほど待ち構えているということを知っていたからである。ではその良い事というのは、たとえば、食べ物は最初にありつけるとか、群れの女たちを自分のもののように自由に扱っていいとかであるが、食べ物はともかくとして、女に関しては、自分のものといっても、それはあくまでも表向きのことであり、裏では、つまりボスの目が届かないところでは、他のオスと女たちが何をやろうがまったくの自由なのである。それはもう公然の秘密なのである。要は、ボスの目の前でいちゃついてボスのプライドを傷つけさえしなければ良いのである。だから、ボスになっても実質的には何も変わらないのである。女に関しては何をいまさらという感じなのである。それよりむしろ、いやなこと、大変なことが、遥かに多いのである。たとえば、群れでの暴力沙汰は暴力で解決しなければならないし、他の群れとの争いには先頭を切って戦わなければならないし、次にボスの座を狙うのは誰かと、常に警戒していなければならないし、女たちを引き付けておくためには、頼りがいがあるものとして雄々しく振舞いながらも、その一方では、機嫌を損ねないように優しく扱わなければならないということで、とにかく大変なのである。
しかし、時がたつにつれて、状況は、オレが望んでいたのとはまったく正反対の方向に進んでいってしまった。オレはボスのため、群れのためを思って、それまでどおりに自然に振舞ってきたつもりなのだったが、なぜかオレの周りには、年寄りから若い者まで頻繁に寄り集まるようになってきていた。そのうち段々に集まってくるものはいつも同じだということになり、お互いに親密さを増していった。女たちも、それはボスに隠れててはあるが、前よりは言い寄るようになってきた。
そんな様子にボスが気づかないはずはなかった。そしてあるとき、ボスのオレを見る目が鋭くなり、態度もよそよそしくなってきているということに気づいた。オレは、ボスがオレのことを誤解していると思った。つまり、オレが仲間を集めてボスの座を狙おうと画策していると。そこでオレはボスのもとに行った。そして、かつてないほど丁寧に服従の挨拶をすると、ボスに反逆する意思などまったくないことを示すために背中を見せた。だが、ボスから目を離すとき、ボスの表情がこわばっていたので、いつ首筋に噛み付かれるかどきどきしていた。でも、ともかく、ボスの不安を鎮めることには成功してようであった。しかし、しばらくすると、ボスは以前にも増して鋭い視線を投げかけるようになり、苛立ちを態度や表情であからさまに示すようになった。
オレには判らなかった。なぜあのような賢明で偉大なボスが、心から尊敬こそすれ、それまで一度たりとも反抗したことのないオレを疑いだしたのか。なぜ、戦っても絶対に負けることがない俺の様な小物相手にあんなにムキになるのか。そこでオレは、危険な崖の所にある蜂の巣から大変な思いをして蜂蜜をとってきて、それをボスにささげ、反逆の意思などまったくないことを再び示した。そして、どうにか疑惑を晴らし、苛立つ気持ちを沈めることが出来たようだった。しかし、それもつかのま、いつもオレの身近にいる若いもののなかに、ボスに挨拶しなかったりして、ボスを侮るものが出てきた。それを期に、ボスはオレに対して、明らかに怒りと敵意をこめた視線をむけるようになり、その苛立ちで表情はさらに険しくなり、態度も荒々しいものになっていった。
そこでオレは、オレが若い者にそうさせているのではないということを示さなければならないと思ったので、他の群れから危険な思いをして若い女を誘拐してきて、それをボスに与えた。そしてどうにか再び、ボスの疑惑を晴らし怒りをしずめることが出来たようだった。
その後も何度か、その様なことが繰り返された。そんななかで、オレの身近に居るために親密さが増したせいなのか、ボスに尽くす俺に対して、何もそこまですることはないだろうというような不満そうな態度を示すものが現れてきた。そしてその不満は、いつのまにか直接ボスに向けられるようになった。やがて、だんだん多くのものがボスを侮るようになり挨拶さえしなくなっていった。女たちも目立ってオレの周りに居つくようになった。そしてあるときから、それはいつからかは自分でもハッキリしないが、それまではボスの顔を真正面から見ることはまったく平気であったが、なぜか、どういうわけか、自分でもその理由がわからないのだが見ることが出来なくなってしまっていた。そして、当たり前のことであるが、以前のようにボスの近くに行けなくなってしまっていた。
それはもう二度と、ボスの疑惑を晴らしてその怒りを静めることが出来なくなってしまったということを意味していた。そのときオレは、昔のような信頼関係を取り戻せるチャンスが永久に失われたような気がした。ボスとの関係は時間と共に悪くなっていくだけであったが、オレにはどうすること出来なかった。
ところが、オレとボスの仲がおかしくなっても、それによって群れが混乱するというようにはならなかった。群れの中には、もはやそのことを知らないものは大人から子供までどこにも居ないほどの群れ全体の最大の関心事になっていて、これからどうなるんだろうというような好奇の目で、木や草むらの陰から、オレとボスの様子をのぞいてみるものがどんどん増えてきていって、ちょっと体を動かしたり、場所を移動したりするだけでも、群れじゅうのものがそれまでやっていたことを止めて、注目するというように、むしろそのことを楽しんでいるかのようであった。そして、オレの身近な者たちも、オレとボスの間がどんどん悪くなっていき、やがてオレとボスが対決することを待ち望んでいるかのようであった。なぜなら、ボスを侮り挨拶をしないだけではなく、平気で馬鹿にするような態度を取ったり、敵意をこめた目で見るようになったからである。そしてそのような傾向は、オレの周りに居つくようになった女たちにも見られるようになっていった。
そんななかで、あるとき、ボスと目を合わせることになってしまった。それは決して自ら望んでそうしたのではなく、まるで事故のように、外部から何かの力が働いたかのように、避けることの出来ない運命のようにであった。
ボスの目には怒りを通りこして、憎悪と殺意が充満していた。見る者を石にでもしてしまいそうなその迫力と鋭さ。それまでのオレなら、たぶん目をそらしたに違いなかったのだが、なぜかあの時は、何かに魅入られたように見つめ返した。すると、突如、地面から足を通して、体に入ってきた何か熱いものが体中を駆けめぐったような気がした。そして血が逆流するかのような、恐怖とも怒りとも付かない激しい興奮に身をゆだねながら、全身の気力を奮い立たせてはじめてボスをにらみ返してのだった。おそらく、そのときのオレは、ボスのように恐ろしい表情をしていたに違いなかった。
そしてオレは気づいた。それまで思っていたことはことごとく嘘であったということに。つまり、オレは争い事が大嫌いであったということ、暴力沙汰が大嫌いであったということ、それに、女を自分のものに扱うことが大嫌いであったということが大嘘であったということに。
その後、オレは意識的にボスを無視し侮るようになった。そして、常にある一定の距離を保って行動するようになった。それは不意の衝突を避けるためであった。だが、それでも思いがけずに顔をあわせることがあった。そのときはこのまま対決してもいいと思うくらいに激しく威嚇しあった。そして、群れはそのことで混乱するというよりも、いつ戦いか始まるのかと熱狂的に待ち望んでいるかのごとくに、風で木の枝が折れたり、子供が倒れてりするだけで群れじゅうが興奮状態に陥るという状況になっていた。それは、お互いがもう引き下がることが出来ないというところまで来ているということを示していた。衝突はもう時間の問題といってよかった。だが、いったんみんなから離れて独りになって冷静に考えてみると、とてつもなく怖かった。あの新ボスをたったの一撃で退けた気迫、猛獣をも絞め殺しそうな腕力、憎悪と殺意が充満した鋭い目からして、オレはあっという間にねじ伏せられかみ殺されてしまうに違いないと思うと、恐怖のあまり震えることもあった。
そんなあるとき、オレは群れから少しはなれた岩場の陰で独りで休んでいた。というより、これからオレはどうすべきか悩んでいた、と言ったほうがよかった。まず、最初に思ったことは、オレがボスと戦うことをやめて群れから去るということだった。でも、それは実際は、恐れをなして逃げるということを意味しており、オレを信頼し集まってくれたものたちを失望させることになり、また、その後のいじめや仕返しなでを考えると、見捨てることを意味していた。次に思ったのが、オレが堂々とボスと戦うことであった。でも、それは、あまりにも力に差がありすぎて、どう戦っても絶対に勝ち目がないように思われた。そして、最後に思ったのが、ボスの力が弱まるまで少し待つということであった。でも、それは、オレがとにかく今日にも、ボスになることを期待して集まって来てくれている者たちを裏切ることであり、それに時期を延ばしたからといって、オレがボスのように、にらむだけで相手を恐怖に陥れるような迫力や、ボスを上まわるような体力や腕力を身につけることが出来るとは限らないように思われた。結局、答えは見つからず、どうすればいいのかますます判らなくなっていた。
そこでオレは、あきらめたように、その岩場にあおむけになると、空にぼんやりと目をやりながらなにげなく手を伸ばした。手の先に何かが触れたと思うと、まもなく下の方から、突然、キャッキャッという声が聞こえてきたので、体を起こしてその声のするほうに目をやると、若いオスが頭を抱えて、なおも情けない声で泣きわめきながら、その場から逃げ去るのが見えてきた。そのときオレは思った。いま手に触れたのはたしか石だった。それが落ちて奴の頭にあたったんだなと。すると、次の瞬間だった。オレの頭の中があの太陽のように光った。てっきり雷に打たれたのかと思った。そして思った。これだ、これだと。ボスをおびき寄せて上からボスの頭をめがけて石を投げれば良いのだと。そしてそれまで味わったことのないような興奮を覚えながら、オレは日が暮れたことも忘れて、夜更けまでその岩場でじっとしていた。
そして昼がきて、夜がきて、また昼が来たとき、オレはその計画を実行に移した。太陽が沈みかけたとき、オレはボスを挑発した。しかしここでは、女や子供を戦いに巻き込む恐れがあるというような素振りを見せながら、オレは群れの外のほうに歩き出した。もちろん実際は、ボスをあの岩場に誘い込むためだった。ボスはついて来た。ときどき後ろを振り返りながら歩いていたオレは、岩場にさしかかるとすばやくそのてっぺんに上り、ボスが通りかかるのを待った。そこには昼のうちに用意されていた頭ぐらいの大きさの石が三つおいてあった。そしてボスが真下にきたとき、オレは石を両手で高々と掲げたあと、勢いよくボスの頭をめがけて投げつけた。あたった石はごつんと音がして、ボスは声もなくドサッと倒れた。ボスは死んだように身動きもしなかったが、オレは残りの二つの石を投げた。頭にあたった石は、最初のほうはグシャという音がして、次にはグチャという音がした。頭から湧き出すように血が流れた。そしてオレは、まったく動かなくなったボスを抱えると、群れの誰もが寄り付かないような崖まで運んでいき、そこから深い谷底へと落とした。
その夜は群れから離れてすごした。そして、太陽が上る前に群れに戻ると、それまでボスが住んでいた場所にいき、ボスの女たちをそこから追い払うと、ボスと関わりがあったものを徹底的に破壊して、その場に堂々と居すわった。それは、オレが前のボスを倒して新しいボスになったということを見せるためであった。
夜明けと共に、それはでは、勝ったのはどっちなんだろうかという風に、少し遠巻きにして様子を窺っていたものたちが、どうやらオレだということが判るとだんだんと近寄ってくるようになった。しかし、それまでのように体を接するぐらいまで近寄ってくるものはなく、群れ全体の様子も、何事もなかったかのように落ち着いていて、普段とそれど変わらないほどだった。正直言ってオレは、それまでの群れの興奮状態からして、もしオレが新しいボスになったら、そのことを祝してもう少し喜びの声をあげたり、抱き合ったりして温かく迎えてくれるものと思っていたので、やや意外な感じがした。しかも、それまであまり親しくなかったものはそれで良いとしても、オレがボスになることをあれほど熱狂的に指示し待ち望んでいたものたちまでが、同じように近寄ってくることはなく、妙に冷静でよそよそしいのには、とにかく気になった。それは、それまでは、お互いに体を触らせるほどの親しい間柄であっただけに、よそよそしいというよりも、それを飛び越して、むしろ冷ややかな態度と感じたからであった。だが、なぜそうなのかはオレにはハッキリとは判らなかった。 そこでオレは次のように思うことにした。あの偉大なボスを倒したオレが、それ以上に偉大に思えるために、いまはとりあえず恐れ多くて近寄りがたいと、みんなは感じているためで、そのうちに慣れてくれば、きっと以前のような親密な関係に戻るはずだと。
だが、いつになっても以前のような親密さは戻らなかった。かといって、オレを無視するとか侮るとか言う様なものでもなかったのだが。女たちも以前のように言い寄ってくるものはまったくといって良いほど居なくなった。しかし、それは何が何でも拒絶するというようなものではなかった。でも、オレは無理やりはいやだった。それでだんだんオレの周りの女たちは少なくなっていった。
そんなよそよそしい雰囲気のなかでオレは思った。ひょっとしたらオレがボスになったこと、ほんとうは誰も喜んではいないのではないかと。いま服従しているのはオレに対する敬意からではなく、そうしないとひどい目に合わされるに違いないと思っているからではないかと。そしてオレは激しく疑った。オレがボスになること、皆はほんとうに望んでいたのだろうかと。あの熱狂や興奮は、オレがボスになることとは何の関係もなかったのではないのだろうかと。そしてオレはそれまで味わったことのないような寂しさを感じた。しかし、そうはいっても、ときには、自分を元気付けるかのように、それは気のせいだ、考えすぎだ、現に群れは表立って揉め事もなく平穏ではないか、ボスというものは本来孤独なものなのだと思うこともあった。
そんなあるとき、まだ右も左も判らないような小さな子供がオレの傍に来ようとしたとき、その子の母親が突然血相を変えて走り寄ってくると、その子供をさらうようにして連れ去ってしまった。それは明らかにオレを、群れのボスであるオレを、群れの宝である子供に触れさせたくないという雰囲気だった。そしてオレは悟った。それがどういうものかはハッキリと判らないが、何らかの理由でみんながオレのことを避けていると。いつまでたっても、みんなが群れのボスであるオレに対して冷ややかなほどよそよそしいのは、きっとそのせいだと。
さらにオレは思った。オレはいったい何をしたというのか、オレはいったいどんな悪いことをしたというのか、オレはいったいどんな間違ったことをしたというのか、強いものがボスになって何が悪い、前のボスと戦ってオレは勝ったのだ、今までずっとそうして来たではないか、オレは決して悪くはないし間違ってもいないと。しかし、そうは思っても寂しさを紛らすことは出来なかった。
またあるときオレは、遊んでいる子供たちのなかに、両手を高々とあげたあと、それをすばやく振り下ろして何かを投げる仕草をしている者を偶然目にした。それを見てオレは、片方の胸の所がドクッと音がして、痛いくらい大きく膨らんだような気がした。そしてオレはとっさに思った。あのことを見ていたのか、いやそんなはずはない、陽はすっかり沈んであんな薄暗いなかでよく見えないはずだ、それに子供があんなところにいるはずはない、ではいったいなぜ、気のせいか、それとも単なる偶然か、と。
そして、その出来事以来オレは、時がたつにつれて気持ちは沈んでいくばかりでだんだん元気を失っていった。そんなとき、そんなオレの様子を見かねてか、まるでオレのことを何もかも知り尽くしているかのような優しい目をした年老いたオスが、オレを慰めてくれるかのようにオレの傍に来て毛づくろいなどをしてくれるようになった。しかし、それでも孤独は癒されることはなかったし、気持ちもさらに深く深く沈んでいくばかりだった。
それからどのくらい経ったろうか。あるとき、群れの平和をかき乱すようなことが起きた。あの元二番目が姿を見せるようになったのだ。元二番目はオレに服従をするような気配をまったくなく、明らかにボスの座を狙っている雰囲気だった。元二番目はもうすっかり立ち直っていて、むしろ前よりも体が大きくなっており、凄みも増してきているようだった。
やがて無関心を装うオレの前を挨拶もせずに堂々と通り過ぎた日の夜、オレはどうすべきかじっくりと考えた。そして、陽が昇る前にこっそりと群れを抜け出した。
あれからどのくらい経ったのだろうか、みんなはどうしているだろうか。
えっ、どうしてオレが群れを離れたかだって、元二番目が怖かったからだろうって、うん、そうかも知れない。い、いや、オレはあくまでも、元二番目をあの偉大なボスのように殺したくなかっただけなのだ。

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