女子高生からの手紙(二部)



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           はだい悠




 
    なによりも心からの感謝をこめて お礼の返事を 

          心の美しい理香さんへ

 本当に過ごしやすい季節になりましたね。きっとこのときを利用して、元気にますます勉学に励んでいられるんでしょうね。有栖川理香さん。心のこもったお手紙本当にありがとう。わたしはようやく青い空をきれいに感じることができるようになりました。これはたぶん、あなたのお手紙による、わたしへの励ましと信頼によるものではないかと思います。
そのあなたからのお手紙ですが、だいぶ行き違いがあったようです。本来なら一日でわたしのところに届いてもいいはずなのに、手紙の日付から見て、わたしの手元に届くまでに、なぜか一週間もかかったようです。その考えられる原因としては、理香さんが手紙を直接警察に持っていったことや、わたしが三日目には警察を出て、その後実家や自分のアパートではなく、大学時代の友人のところに居たということにあったようです。遅くなって本当にごめんなさい。さぞややきもきされたでしょうね。実はあなたのお手紙を読んだ後、返事を出そうか出すまいか少し迷いました。でも、こんなに真剣にわたしのことを信じ励ましてくれるあなたに対して、何の返事も書かないのは大変失礼なことだと思いました。ただ、今回のことを、まだ整理が出来ていなく、あのときいったい何が起こったのかを、正確に記述するにはもう少し時間が必要だと感じていました。事故当時(理香さんの意見に大賛成ですので、わたしもあのことを事件ではなく事故ということにします)その事故当時ですが、そのときはそれほど興奮していたというか、気が動転していたというか、そういう訳では決してなかったのです。
とにかく奇妙なことや納得の出来ないことの連続で、一週間たってもまだ気持ちの動揺が残っていたようでした。でもあなたのお手紙のおかげで元気付けられ、だいぶ気持ちも落ち着いてきて、あの事故のことを冷静に客観で気に見つめることができるようになりました。それで今日ようやく、あなたのお手紙を受け取ってから一週間後に、あなたに返事を書くことになりました。

 その前にここで理香さんに謝らなければならないことがあります。それは、あなたのお手紙には、ある朝の出来事が書いてありましたが、わたしは懸命に記憶の糸を手繰り寄せて、そのことを思い出そうとしましたが、どうしても思い当たる節がなしのです。それであなたがどういう姿かたちをしているのかまったく思い浮かべることは出来ません。本当にごめんなさい。生徒が千何百人もいるからなどということは言い訳にもなりませんね。指導者として失格ですね。でも、あなたのお手紙の内容から、あなたは純粋で、勉強好きで、誠実で情熱的で、大変心の美しい魅力的な女性とに違いないと、かってに想像させていただきます。わたしはあなたのような生徒が好きです。将来の目標も持たずに、ただ受験のためにだけ勉強しているものが多いなかで、あなたのように明確な目標を立て、それに向かって一生懸命勉強していることは大変素晴らしいことだと思います。ぜひ夢をかなえるために頑張ってください。かげながら、これからもずっとずっと応援しています。

 それからあの事故のことで、他人同様のわたしのことを信じてくれて本当にありがとう。警察にいたとき、その署内の雰囲気や刑事の態度から、だいだいは予想していましたが、あなたのお手紙から、あの事故のことがどのように報道されていたのかを、それよりは正確に想像できました。でも、正直言って、もう少し詳しく知りたかったです。というもの、あの日以来、わたしはテレビも新聞も見ていません。それに今はもう、みんなあの事故のことは忘れたかのように、テレビでも新聞でも何の報道もされていませんので、わたしはいまだにそのとき自分がどのように報道されていたのか知らないのです。それは決して知るのが怖いから知ろうとしないということではなく、理香さんが指摘したように、知ることによって、世間の人々が喜びそうなその一方的な報道に対して、わたしが憤慨したり悲しんだりして自分を見失うことは、明らかに今後のわたしのためにはならないと考えているからです。なぜなら、世間の熱狂が収まった今こそ、世間の誤解を解くために、冷静に対処しなければならないときだからです。

 理香さんの厚い要望にこたえて、今すぐにでも、あの事故の真実を明からしたいのはやまやまですが、その前に、その真実ということについて少し一般的なお話をしたいと思います。
 あの事故を経験して、わたしはなにが真実なのか、何が虚偽なのか、そして、果たして真実というものは、ひとつだけなのか、ふたつ以上あることはないのか、などと深く考えさせられました。
 警察でわたしの前に座った刑事は、最初は傷ついた女子高生の言い分を百パーセント信じているからなのでしょうか、あたかもわたしが極悪人であるかのように、冷ややかな表情と高圧的な態度で、なかなかわたしの言い分に耳を貸そうとしませんでした。そして、翌日になっい、改めてそのぶっきらぼうな口調から、女子高生の被害状況とその言い分を聞かされたとき、わたしは、あの事故の全責任はわたしにあると思っている刑事の先入観をくつがえすことは、並たいていの頑張りでは到底不可能であることをつくづく感じました。絶望感で血の気が失せていく思いでした。しかし、刑事もあの事故の異様さや不可解さに気づいていたのでしょうか、それにはわたし自身の終始冷静な態度と話し方が影響したのでしょうが、時間がたつにつれて、だんだんわたしのいい分にも耳を傾けるようになりました。そして、わたしが高校の先生をしていることや、わたしがやっいるボランティア活動を知るにいたっては、表情は和らぎ態度も高圧的ではなくなりました。やがて、最後のほうになると、おたがいに笑顔を交えて話せるような関係になりました。

 このように誰一人として理解者のいない孤独な状況下で、疑惑を晴らし、真実を明らかにするということが、いかに大変であるかということがお判りいただけたと思います、このようなとき、まず第一にしなければならないことは、周囲の人々の怒りの視線や暴言にくじけてしまいそうになる気持ちを気力で奮い立たせながら、あくまでも冷静な話し方と毅然とした態度で、勇気をもって、その人々の偏見や先入観を排除するということです。しかし、もし仮に、周囲の人々の偏見や先入観を排除できたとしても、その事柄に関わった直接の当事者の感じ方や受け取り方は人によって様々です。みんな自分を守るためでしょうか、自己を正当化したいがためでしょうか、自分に都合の良いように受け取り感じます。そのために、その言い分は当事者によって、いつもほとんどが正反対なものになりがちです。この場合、どちらかが真実を言って、どちらかが嘘をいっていると、はっきりとは言いにくいものがあります。どちらも嘘を言ってるとも言えるし、どちらも真実を言ってるともいえるのです。このような状況下で、誰がいったい真実を明らかにすることが出来るのでしょうか。目撃者でしょうか、いや、目撃者はあまり当てにならないことが証明されています。目撃者には当事者の心理的感情的側面は判りませんから、その目撃談というのは、しょせん外部から見た印象に過ぎません。また、当事者の心理的感情的側面を知らない分だけ、そのときの自分の主観や情感に流されやすくなり、その目撃談が正確さを欠くことがしばしばです。ではいったい誰が?神様でしょうか?でも、今問題にしているのは現実の事柄なのです。信仰の問題にすりかえるべきではありません。

 なぜこんなにも真実を明らかにすることが難しいのでしょうか。少し前に、当事者の感じ方や受け取り方は様々で、その言い分はいつも正反対なものになりがちだと言いましたが、ここで具体的な例をお話したいと思います。

 年齢も職業も思想信条も様々に異なる老若男女が入り乱れて生活している都会では、ときおり不可解な光景に遭遇することがあります。  それは、わたしが大学で講義を受けているときのことでした。遅れて入ってきたその学生は、ある学生のそばに歩みより、いきなり持っていた本でその学生の脳天を思いっきり叩いたのです。そのときの音といったら、何しろ静かな雰囲気の講義でしたから、すごいものでした。バシッと教室中に響き渡りました。でもそのあと何事も起こりませんでした。叩かれたほうはそれほど表情も変えず、何の抗議もすることなくそのままの姿勢で座っていました。叩いたほうも少し顔を高潮させてはいましたが、何事もなかったかのように少し離れた席に座りました。講義のほうも、そのことがあまりにも一瞬の出来事であったためか、気のせいであったかのごとく、その後も淡々と進められました。わたしはあっけにとられたというか、我が目を疑った言うか、その音のすごさからして、その後の静けさはなんとも拍子抜けのするものでした。いったい二人のあいだには何があったのでしょうか?どんないきさつでそうなったのでしょうか?わたしには判りません。しかし、一人の男が一人の男の頭を思いっきり叩いたということは紛れもない事実なのです。この目で確かに見ていましたから。では、いったいなぜそのような暴力行為が、白昼堂々と、誰にもとがめられることもなく、傍若無人に行われたのでしょう?

 これからはわたしの推測になります。たぶん二人は友人同士で、今朝起こす約束をしていた。ところがその約束は果たされなかった。そのために一人の男は抗議に遅れて来た。そして、そのことを責めてもう一人の男の頭を叩いた。でも、ここで、果たしてそれは、公衆の面前で頭を叩くほどのことなのだろうかという疑問が沸いてきます。それはそうですね。それでは、別の推測をしてみます。たとえが二人は三角関係の当事者だった。なるほどありそうですね。もっと他には、二人にはもつれにもつれた金銭的なトラブルがあった。なるほど十分に考えられます。また他にも、こんなことが考えられます。たとえば、叩かれた男は、叩いた男の陰ぐちを言ったり、悪い噂を流したとか。しかし、すべてわたしの推測に過ぎません。依然として一人の男が一人の男を叩いたという事実だけが残っています。ただし、わたしの推測のなかで確からしいのは、二人は友人であろうと言うことです。なぜなら、もし二人が友人でなかったのなら、そのままでは済まなかっただろうと思うからです。いや、もしかして、それさえも断定できないかもしれません。わたしはあくまでも単なる第三者に過ぎませんから。本当に外から見ただけで、真実に近づくというのには心細いものがあります。

   次にお話するのは、電車の中の出来事です。座る席はほとんど埋まっていて、立っている者も車両の中で数名ほどで、混んでいるとは言いがたい状況でした。わたしの斜め向かいにサラリーマン風の青年が座っていました。そしてその前に夫婦と見られる中年の男女が立っていました。ところが突然でした。その中年の男はなにやらその妻らしい女性に向かったつぶやきながら、その青年の組んでいたひざあたりを殴ったのです。なぐられて脚がほどけたので、その青年は再び組みなおします。すると、その中年の男はまた殴るのです。そして青年もまた組みなおすのです。二度三度とそれが繰り返されました。その間、その青年はそれほど表情を変えず無視しているようにも見えましたが、その中年の男は、ときどきその妻らしい女性になにやら話し掛けている、その不服そうな表情からして、明らかに怒っているようでした。いったいなにが起こっているのでしょうか。後はもう推測するしかないのです。つまり、その中年の男は、電車の中で脚を組んで座っているのはマナー違反であると思っているので、それで、それに違反している青年に怒っているのです。おそらく、その青年はそのマナーのことを知っていたのでしょう。でも、ぞれはあくまでも電車がひどく混んでいる時のことで、今のような状態ではマナー違反にはならないと思ったのでしょう。それに、そのマナー違反を注意するだけのように、それほど混んでもいないのに、わざわざ自分の前に立っているものから注意されるのは、納得がいかないと思うのも当然のことかもしれません。それで、無言の抵抗をしていたのかもしれません。それとも、その男女には、わたしには判らないような、なにか恨みでも以前からあったのでしょうか。それとも、その男女はただ単に席に座りたかっただけなのでしょうか。いや、もしかして、彼ら三人は親子で、親が我が子に注意していたのか、いやいや、そうではなさそうです。とにかく、わたしにはそれ以上何も判らないのです。

 次のお話はエスカレーターに乗っていたときの出来事です。わたしの前に、高校生の男が両手を手すりにかけ、バランスをとるようにして乗っていました。そのとき後ろから、階段のように歩いて前に乗っている人々を追い越してきた二十代半ばの女性が、その高校生のところにくると、その手すりにかけていた手を無言のまま叩くように勢いよく払いのけると、そのまま追い越して上がって行きました。その高校生は怒りというよりも、非常に戸惑ったような表情をしていました。いったい何か起こったのでしょう。ここからはまたわたしの推測になります。おそらくその若い女性は、エスカレーターの右側は急いでいる人のためにいつも開けておくのがマナーであると思っている人なのです。それでその高校生のあからさまなマナー違反をとがめる意味で手を叩いたのでしょう。では、なぜその高校生は戸惑ったのでしょうか。おそらくその高校生は、そのマナーを知らなかっただけでなく、それとはまったく別の、子供のころから聞かされていたマナーによって頭の中が占められていたかもしれません。つまり、たとえそれが聞き間違いであったとしても、エスカレーターでは遊んだり飛び跳ねたり歩いたりしてはいけないというアナウンサーによって、その高校生は、エスカレーターでは大人しくして乗っていなければならないとずっと思っていたのかもしれません。わたしにはそれ以上のことは判りません。ただし、その後、その高校生が、その若い女性を追いかけていって、後ろからドロップキックを食らわせる光景を目にしなかったことは幸いでした。

 少し前にも書きましたが、このように、年齢や職業や思想信条だけでなく、文化や習慣や家庭環境や、その場にいたるまでの自分の感情が様々に異なる老若男女が入り乱れて生活している都会では、いたるところに誤解や行き違いの種が転がっており、一触即発の危険な状態に常にさらされているのかも知れません。

 次に、これまでは人と人とのトラブルについて述べてきましたが、人の行為が時と場所によってはとんでもない印象を与えてしまうという例についてお話しましょう。もし理香さんが野原に行ってカエルを捕まえてきて自分の部屋でこっそりと、ナイフでカエルの腹を切り裂き腑分けしていたらどうでしょう。それを見たお母さんの目にはきっと異様で気味の悪い光景のようにしか映らないでしょう。そして、あなたの将来のことを思うと不安で不安でたまらないでしょう。でも、あなたにとっては、将来医者になりたいという夢もあり、純粋な気持ちで、昔学校でやったカエルの解剖をもう一度やって、もう少し詳しく知りたかっただけでそんなに異様でも気味の悪いことだとは思わないでしょう。では、いったいどこが違うのでしょう。それは学校という公の場で、みんなが見ているところで、社会から認められているものとして行われるカエルの解剖であるから、異様にも気味の悪いものにも見えないのです。もし理香さんが台所で、まな板の上の魚に同じ事をしたら、きっとお母さんに喜ばれるでしょうね。

 それでは次に、あるものがその存在する場所によって、どのような印象を与えるかについてお話したいと思います。先ほど、ちらっと台所での包丁のことが出てきましたので、その包丁ついてお話したいと思います。包丁は普段は、といってもほとんどですが、台所の包丁置き場にあるか、まな板の上にあるか、それともお母さんの手の中にあるか、どちらかです。もちろん、お母さんの手の中にあるときは必ずといって良いほどお母さんがまな板に向かっているときですが。

 では、さて、あなたが家に帰ったときに、もし、居間のテーブルの上にぽつんと一本の包丁が置いてあったら、あなたはどうしますか?おそらくあなたは、なんとなく不安な感じがして、ひとまずその包丁を、台所の本来あるべきところにもって行って置くでしょう。そして、なぜあそこにあったのだろうか、誰がいったいあそこにおいたのだろうかと、色々と思いをめぐらすでしょう。その間は決して不安な気持ちは収まることはないでしょう。もし、そこにおいてあったのが新聞だったら、何の不安も感じることなくそのままにして置くでしょう。でも、もしその新聞が、十二歳の弟の机の上においてあったら何の疑問も抱かずに、そのままにしておくことが出来ますか。きっとあなたは、なぜそんなところに新聞があったのかを納得がいくまで究明するでしょうね。

 このように物にはそれが存在するにふさわしい場所とふさわしくない場所があるのです。ではいったい誰がこれを決めるのかというと、その物でないことは確かですね。物はあくまでも中立ですから。ではだれが、それは人間です。それぞれの文化や習慣のなかで生活している人間が主観的に決めるのです。それゆえ、もしあるものがそれにふさわしい場所にあるときは人間の気持ちのなかに何の変化も起こりませんが、ふさわしくない場所にあるときは、不安がられたり不気味がられたりするのです。そして、そのものがなぜふさわしくない場所にあるかという本当の理由を知る手立てがまったくなく、不安や不気味さの感情に支配されている状況では、あとは想像力で対応するしいなく、その結果邪推や早合点や先入観によって、的外れな意味付けをしたりして、現実をゆがめてしまいかねないのです。

 今まで長々と述べてきましたが、このように、誤解や行き違いが生じやすい社会の中で、自分では正しいと思うことが、他人から見れば間違っているように思われたり、他人の想像力によって、かってな意味付けや邪推にさらされたりしながら、真実を明らかにするということが、いかに難しいかということがお判りいただけたと思います。

 そろそろあの事故のことについて、真実を述べなければならないときがだんだん迫ってきているようです。だがその前に、理香さんからいただいたお手紙の内容について少し触れさせていただきます。手紙では、わたしが故意に女子高校生を傷つけるような人間ではないことや、わたしの無実が繰り返し繰り返し述べられていましたが、そのことに関しては深く感謝しています。どれほどわたしを励まし元気付けてくれたでしょうか。本当にありがとう。でも、わたしが、社会に貢献している立派な人間であるとか、わたしが他の先生たちより優れていてこんな学校にはもったいないなどと言われるととても恥ずかしく思います。少し買いかぶりすぎだと思います。わたしはごく普通の平凡な人間です。手紙には、いっぱい本を読んで人並み以上の勉強をしたのではないかとかかれてありましたが、まったくそのようなことはありません。ごくありふれた目立たない少年であり青年でした。新聞に投稿したのはほんの思いつきで深く考えた末に行ったことではありません。まさか取り上げられるとは思いませんでした。未来女性研究会の指導顧問になったのは、女性の生き方に特別の問題意識や関心があったからではなく、成り行きに近いものがありました。懸賞論文に応募したのもその延長線上のことであったようです。本当に優秀賞に選ばれるなんて夢にも思いませんでした。ボランティアで青少年の相談員をするようになったのも、わたしが積極的に手をあげてなったわけではなく、各高校から現役の先生が二名ほど参加してほしいという教育委員会からの要請があり、それにはわたしがふさわしいのではないかということで選ばれたようです。ただ、成り行きでやることになったといっても、決していいかげんな態度でのぞんでいた訳ではありません。生徒を指導するときも、相談相手として悩みを聞いてあげるときも、懸賞論文を書くときも、睡眠不足になりながらも、休日を返上し、誠実に一生けんめい集中して対処してきたつもりです。

 このようにわたしは、普通の先生いわゆる普通の大人と少しも変わっていません。何も特別なことはありません。それでもあえて違うといえば、生徒を指導している立場上、生徒の手本とならなければならないという考えがあるからでしょうか、生徒に対してこれは良くないこと、これはやってはいけない事と言っていることは、わたしの身の周りからなるべく遠ざけるようにしていました。自分がやっていたのでは、生徒に説得力を持ちませんからね。たとえば悪書といわれるものや、酒やタバコとか、用もないのに夜の繁華街をうろつくことなどですがね。それらをのぞけば普通の大人とまったく同じです。

 それではついでに、わたし自身に関することをもう少し述べさせていただきます。あれからもう二週間たっていますから、もう知っているかと思いますが、高校のほうは退職することにしました。あの事故のことは直接関係がありませんが、でも多少きっかけぐらいにはなったと思います。わたしは以前から現在の高校教育のあり方には疑問をもっていました。たとえば受験勉強にかたよった授業内容などです。いや、理香さんのように明確な目標を持って勉強をしている人は別ですよ。それはとても素晴らしいことなのです。そうではなくて、点数で人間の順番をつけたり、有名大学に入学者数を競うことが唯一無二の価値になっていて、ほとんどの人がその価値を信奉していることが問題なのです。

 わたしはこの際この絶好の機会を利用して、自分というものを見つめなおすと共に、自分の視野を広げて自分の理想とする社会の実現に貢献するために、もう一度歴史や社会について基礎から勉強をしなおしてみたいと思っています。そして、いつの日か教育評論家か社会評論家に成れれば良いなあと思っています。もちろんその前にあの事故のことについて解決しなければなりません。とりあえず今は雑音を排除して、そのことの解決に向かって全力を尽くしたいと思っています。

 それからですが理香さんにお願いがあります。理香さんはもうこれ以上このようなことに関わってはいけません。あなたはただひたすら目標に向かって勉強に励まなければなりません。もうわたしに関わってはいけません。あとは大人たちに任せてください。ですから手紙もこれで最後とさせていただきます。わたしの住所も不明とさせていただきます。あしからず。

 だいぶ遠まわりをしたようですが、ついにあの日に起こったことをお話する時が来たようです。理香さんが切望するように、これが真実であると、だれでもが納得できるように明確に述べたいところですが、先ほども言いましたように、当事者というものは自分を正当化したいがためでしょうか、どうしても自分の都合のいいように受け取りがちですので、わたしは当事者というより、目撃者的な視点にたって、あの事件のことを出来るだけ冷静に分析して、客観的に記述することに勤めたいと思います。その上で理香さんに何が真実であるかを判断していただきたいと思います。幸いにも、あれから相当時間がたっていますから、あのときの微妙な心理や感情の動きを具体的に思い起こしても、分析の妨げとなるようなことはありませんが、そのぶんだいたいの気持ちと何が起こったかについては、ほぼ正確に思い起こすことが出来ます。

 あの日はいつものように穏やかに始まり、そしていつものように、心地よい疲労感だけを残して、充実した一日が終わる予定でした。それなのになぜあのような凄惨な結末になってしまったのでしょう。あの日わたしは、決してされを飲んでいたとか、学校で嫌なことがあっていらいらしていたとかというのではありません。 それにあの日はいつもよりは、特別に冷静で理性的であることが要求されていた建設的でより充実した一日でもありました。それなのになぜ、正直言ってわたしにはわかりません。夢を見てるような運命のような一日だったのです。人によっては、わたしが日ごろからそんな欲求をもっていたのでないかと思う人もいると思いますが、とんでもないことです。むしろ逆です。わたしの普段の言動からすれば、あのようなことは非難の対象となることはあっても、欲求の対象となることなど、決して夢想だにしなかったことなのです。わたしから見れば、偶然に偶然が重なった不可抗力のように思えて仕方がありません。なぜなら、あのときわたしがカッターナイフを持っていたのはあくまでも偶然に過ぎません。アパートで使用する用事があったのですが、別にあの日でなくてもよかったのです。帰り際、外の景色に目をやっているときに、ふと思いつき自分の机の引き出しから取り出して、なんとなくポケットに入れたのです。そんな些細なことから、いったいだれがあのような結末を予想できるでしょうか。

 あの日学校を終えた後、わたしはある会合に向かいました。それは警察の主催する会合で、現代の青少年の問題について、各分野から色んな人に参加してもらって、幅広く多面的に話し合ってもらおうとするものでした。参加者は警察の他に、教育委員会の人、改革に熱心な政治家、青少年のファッションや風俗を研究している大学の先生、マスコミ関係者、そして、ボランティアの相談員や現役の教師など様々でした。ですが、わたしにとってはほとんどの人が顔見知りといっても良いくらいでした。

 まず初めに、警察から、現代の青少年を取り囲む社会状況と、その青少年たちが抱える悩みや問題について、また彼らの非行と犯罪の実例とその件数を統計的にあらわした表をもとに、その時代的な背景や意味、そしてその移り変わりについての講義を受けたあと、では、その彼らの問題や悩みを解決するためには、さらに彼らが非行や犯罪に走らないようにするためには、社会は、というよりもすべての大人たちが、どうすれば良いのか?何をしなければならないのか?などと真剣に活発に、参加者全員なら意見が述べられながらも、終始冷静に論理的に議論が進められていきました。その内容は非常に具体的で従来になく建設的でした。そして、その会合が終わったあと、わたしたち参加者は有志を募り、少年課の人から二三の注意と指導を受けたあと、補導員とともに、そんな若者がたむろする夜の繁華街へと出かけていきました。

 わたしたちは三四名のグループに分かれ。私服で歩いてはいるが、どう見ても中学生や高校生にしか見えない若者に近づいて行って話を聞きました。

 最初わたしたちのグループには補導員がいなかったので、しかも警察のような強制力も持っていなかったのでどことなくぎこちなく、それに、慣れていないせいもあり、対象を絞りきれずなかなかうまく行きませんでした。それでも、ぜひお話を聞かせていただきたいという低姿勢で臨むようになると、何とか足を止めて話をしてもらえるようになりました。それでも彼らの年齢や不満を聞いたりするだけで、そのあとは、なるべくこんな所を歩かないほうが良いよ、と注意を与えるぐらいでした。

 でも、そのうちにだんだん慣れてくると、補導員のように、ふた言み言で思うように若者たちを引き止めたり、歩きながらでも話が出来るように出来るようになりました。そしてついには行きつ戻りつしながら、あるときは立ち止まりながら、またあるときは、まるで正式な補導員のように歩きながら、のびのびと思いのままに数多くの若者から悩みや不満を聞くことが出来ました。

 そんなとき、わたしは、人ごみの中を歩いてくる二人の若い女性が目にとまりました。女性と言ったのは、彼女たちは一見して大人のような服装や化粧をしていたからです。高いかかとの靴、原色のミニスカート、肌が透き通って見えそうな上着、ふさふさとした髪の毛、赤い唇、大きなピアス。しかし、よくよく見ると、その顔立ちや仕草からして、十七、八の高校生のようにしか見えません。

   わたしのそばを通り過ぎわうとしたとき、わたしは彼女たちと並んで歩き始めました。普段ならそれほど気にもとめずにやり過ごしてしまうのでしょうが。
実はこのとき一人だったのです。というのも、どういうわけかすでにその前から仲間を見失っていたのです。でも、なぜかそのことをあまり気にしていませんでした。

 少女たちは香水の匂いを振り撒いていましたが、どう見ても、似合わない、だらしない、清潔な感じがしないという印象しか与えませんでした。本来の高校生がもっているような純粋さや清楚さからは、遥かにかけ離れた存在のようにしかうつりませんでした。わたしは歩きながら彼女たちに声をかけました。
「君たちは高校生だね。そうだね。どこの高校?」
 すると一人は舌打ちをして言いました。
「「関係ねえだろう。」
 もう一人も言いました。
「うるさいんだよ。」
 なんと言う口の聞き方をするんでしょう。わたしは驚くと共にあきれてしまい思わず歩みを止めてしまいました。けなげさやひたむきさや誠実さなど、ひとかけらも持ち合わせていない少女たちなのでしょうか。日頃接している女生徒たちとはどれほどの隔たりがあることでしょう。  わたしは少し遅れて彼女たちのあとを追いました。二十メートルほど行ったところで交差点に差しかかりました。一人は横断歩道を渡り、もう一人は角を曲がりました。わたしは角を曲がった少女を追いました。その通りは、前の通りよりも照明も少なくやや薄暗いところでした。人影もめっきり少なくなりました。わたしは追いつくと、並んで歩きながら再び声をかけました。 「ねえ、ちょっと話を聞かせてもらいたいんだけど。良いかな。気味は高校生だよね。高校生がこんな時間にこんな所を歩いているのはよくないよ。」
「うるさいよ。あんたには関係ないでしょう。なんなのよ、あんたは。」
「わたし?わたしは先生、高校の先生。」
「あっ、そう、先生なの。へえ、じゃあ、先生なら良いの?ここは学校じゃないわよ。関係ないんじゃない。」
「関係ないことないよ。君のこと心配して言ってるんだ。なんて格好して歩いているんだ。高校生は高校生らしくしないとだめじゃない。」
「うる、さい。もう。うっ、るっ、さっ、いっ。いや、もう。ねえ、こっちに来て、ここじゃ人に見られるからね。」
 そう言いながら少女は通りよりもさらに薄暗いビルに方へ歩いていきました。そして柱の影に立ち止まると、何を思ったかわたしに、
「これあげるからね。」と少し笑みを浮かべながら言って、名刺大の紙切れをわたしの手に握らせました。わたしはそれにチラッと目をやりながら受け取りましたが、少女の少しも誠実さも一貫性も感じられない気まぐれな言動に戸惑うばかりでした。わたしは自分の気を引き締めると共に、とにかくここあくまでも冷静に冷静にと自分に言い聞かせながら再び彼女に話しかけました。
「こんな所をうろついちゃだめでしょう。お母さんやお父さんが心配するでしょう。」
「だっていないもん。寂しいんだもん。」
「ふざけないで、まじめに答えなさい。こっちは真剣なんだから。」
「あっ、怖い、そんなに怒らないで。」
と少女は体をくねらせて甘えるように言いました。わたしは、わたしが日頃接している女生徒たちとは比較にならないほどの違いを、その精神性も協調性も創造性もまったくと言って良いほど、少女は持ってないことを痛烈に感じていました。

 そのときわたしは、自分にもう一度言い聞かせていました。「とにかくここは冷静に、理性的に。」と。そして、わたしはふとあることに気づきました。それまで肌が透けて見える上着であることは判っていたのですが、その下に、つまり肌に身につけているのはブラジャーだけであるということが判りました。それは色もデザインもそうとう派手で、値段も高校生には手が届きそうにないくらいに高そうで、明らかに高校生の彼女にはふさわしくない代物でした。
「こんな格好して恥ずかしくないの?」
「だって、楽しいもん。どう、似合うでしょう。」
「ぜんぜん似合わないよ。高そうじゃない。お金はどうしているの?」
「ひみつ。良いでしょう。もっと見たい?」
 そう言いながら少女は上着を広げわたしにブラジャーを見せました。わたしは言いました。
「だめだこんなもの着てちゃ、君はまだ高校生なんだからふさわしくないよ。脱ぎなさい。」
「いやよ、こんなところじゃ、人に見られるわ。」
「なにを言ってるんだ君は。良いから脱ぎなさい。」
 そう言いながらわたしは、彼女の胸のあいだに手を入れてその派手なブラジャーを取ろうとしました。わりと簡単に手が入りブラジャーをつかむことが出来ましたが、彼女は驚いて大声をあげて両手でおさえたので、すぐにそれを取ること出来ませんでした。わたしはかまわず力を入れて引っ張りました。それでも取れないので、わたしはポケットからカッターナイフを取り出してそれを切り取りました。そして次に、その原色のミニスカートもふさわしくないと思っていたので、それも切りました。でも、スカートは肌に密着していたので、彼女の太ももを傷つけてしまったのです。

 いつもと変わることのない一日の始まりからして、いったいだれがこのような結末を予想しえたでしょうか?
 これがわたしから見たあの事故のことについてのすべてです。紛れもない事実です。ですから理香さんには、これらの事実を踏まえた上で、また、前にも言いましたが、真実の解明にあたっては必ずと言って良いほどに付きまとう問題点を考慮したうえで、第三者的な立場を守り続けながら、あの事故の何が本当の真実であるかを、より厳正に判断をしていただきたいと思います。どのような結論になるかはすべてあなたに任せられています。なお、蛇足になることを恐れずに付け加えますと、わたしが意図的に彼女をを傷つけようとしたのでないことが、これでお判りいただけたと思います。もちろんわたしが彼女を傷つけたことは事実ですし、深く反省もし、心から申し訳ないことをしたと思っています。それに当然のことですが、人がどんな服装をしていようが、それはその人の自由なのですから、他人がとやかく言う筋合いのものではなく、ましてや、その人にふさわしくないとかってに決め付けて、とんでもない余計なお世話というべきで、あれは明らかにわたしのあやまちです。ちなみに、あの派手なブラジャーや原色のミニスカートは予想通り安い物ではなかったようです。刑事の話では、それで立派な器物破損罪にあたるということです。

 最後に、わたしから理香さんに心からのお願いがあります。このたびの出来事のことは出来るだけ早く忘れてください。そして、わたしのことも忘れてください。あなたは純粋な人です。これ以上このようなことに関わってはいけません。わたしはあなたの心が傷つくことをとても恐れています。あなたは他の事を何も考えてはいけません。あなたはあなたの目標にむかって勉学に励んでください。これがわたしの心からのお願いです。

 では、最後に、あなたに心からのお礼を言わせてもらいます。ほんとうにわたしのことを信じてくれてありがとう。あなたの言葉に励まされ元気付けられました。ほんとうにありがとう。あなたがずっとずっと健康でいられることを心から祈っています。

    さようなら、ほんとうにありがとう。   心の美しい人へ










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