詩集まだ見ぬ花、その名は

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      小礼手与志



あなたと穏やかに話し合ったことには、
百数十億年の、宇宙の秘密があったなんて。






地面には陽炎が立ち昇り、
空にはひばりがさえずり始めた。
風のない穏やかな春の日に。

道端は、若草にあふれ、名もない、
小さな花が咲いているでしょうが、
たぶんそこは、湿って冷たいでしょうから、
わたしは乾いたわらを敷くでしょう。
畑仕事に疲れたあなたのために。

どうぞ、そこに座ってください。
その金色に輝く栄光の御座に。




家を出て三十年。
十五回も住むところを変えました。
以前住んでいたところはみんな取り壊されました。
でも、なんとなく風景だけは残っていますから、
それで寂しさを紛らすことはできます。

あなたが生きているあいだに、
わたしは何者かになりたかったです。
でも、どうにか生きていると言うことだけで許してください。

わたしは、あなたのもとを離れて三十年になりますが、
毎日のように、仕事について、女性について、食べ物について、
花について、星について、隣人について、平和について、
昨日について、明日について、紙について、そしてあなたについて、
考えないときが一日に一度は必ずありました。





雨はしとしと降っていて、吐く息は白く 道も街路樹も真っ白で オレンジ灯も水銀灯もさびしそうで どこまで行っても景色は変わらないので いまはてっきり冬かと思った 昨日、桜は満開だったというのに




もしかして、わたしが理性的であればあるほど、
あなたを苦しめていたのではないでしょうか。
と言うのも、あなたが「毎日が同じことのくり返しね。」と、
照れ笑いを浮かべながらふとつぶやくとき、わたしは、
恐ろしく残酷な目に会わせているような気がしたからです。


自分の背丈よりも大きくなったトウモロコシ畑の向こう側に、
母の姿を必死に探し求めているおさなごが見える。


十六の春にあなたのもとを離れて、すでに三十年。
そのあいだに、あなたから受け取った手紙は何百通。
ですから、わたしはいままでに何百回も心臓が止まりかけました。





針仕事の手を一時休めながら母は、
「八歳のころ、神戸から汽車で二日かけてようやく前沢駅に着いたの、
でもすでに夜中で駅の外は真っ暗。
だれも迎えにきていなくて、家までは、十キロ以上も歩かなければならないし、
それで駅に泊まることにしたの。でも、寒いし、怖いし、一睡もできなかった。
なにごともなく朝になったけど、今度は帰る道がわからない。
結局、同じ方に行くという見知らぬおじさんの後を付いて行くことにして、
三時間ほど歩いてようやく家に着いたの。
おばあさんになんで迎えにきてくれなかったのと聞いたら、
いつかえってくるか知らなかったのって、平気な顔して言ったんだから、、、、」






     こんな風に歌うことができたら

やさしいあなたは胸をふくらませて、
可愛いまちがいをやったね。
「もう、桜の花は散ったのね。」と。
だから、ぼくはうれしくなってこう答えたんだよ。
「うん、もう桜の花は散ったね。」
そうしたら、あなたは恥ずかしそうに言ったね。
「うっ、桜と梅を間違えたわ。」と。






あなたが泣かないのは
泣くとみんな嘘になるから
夢の中だったら
子供のように泣くこともできよう
優しい言葉をかけられたのだから
目覚めても熱い涙が止まらないほどに





あなたはまだ、自分の美しさに気づかない少女
あなたは偶然にも見てしまった、あなたを見つめるわたしを





美しく生きてくれてほんとうに良かった





たしかにあなたの望むように
もっと、簡単な生き方もあったでしょう、
でも、わたしにはどうしてもできなかったのです
たとえ、別れのときいつも涙でぐしょぐしょになっても





時には流れ星と流れ星が衝突するときもある あなたが生きているあいだにわたしは何者かになりたかった。





あなたのもとを離れて三十年。
そのあいだに何百通もの手紙を受け取りました。
だが、わたしは一通も返事を書きませんでした。
はたから見ればとんでもない親不孝者に見えるでしょうが
、 でも、わたしはどうしても嘘が書けなかったのです。
わたしはずっと幼児のように頼りなく不安でした。





あなたのもとを離れたのは十六の春でした。
あれからもう三十年。
いったいなにが変ったというのでしょう。
わたしとあなたの関係はあのときのままなのです。
いま、そっと目を閉じて再びあけたとき、
あのときのあなたが目の前にいても、
決して驚かないでしょう。





その夏はいつになく晴れた日が続いた。
その母は、家族の幸せを夢見て、家事と田の草取りに忙しかった。
その父は、働き者の評判どおりに、干草と牛小屋作りに忙しかった。
そして突然の雷雨はたびたび二人の疲れた体を休ませ
、 雨上がりの虹と子供たちの笑い声は二人の心を和ませた。

その秋、いくたびも台風が襲った。
まわりを畑と水田と雑木林に囲まれた萱葺き屋根のその小さな家は、
いつも吹き飛ばされそうな恐怖にさらされた。そのたびに、
母と子供たちは寄り添い、父は家を守るために夜通しおきていた。
そしてスズメの群れが稲穂を襲い、蝗の群れが飛び交うようになり。
赤とんぼは空を埋め尽くし、子供たちは夕日に染まるまで遊んでいた。
そして、収穫が終わると、母は十一歳の娘の病気を気遣うようになり、
落ち葉が家を覆い始めると、父は出稼ぎに行くことを考えた。

その冬木枯らしが吹きつづけた。
夜子供たちは囲炉裏をかこんで母の昔話に耳を傾けた。
その後ひとつの布団の中で母から偉大な父の話を聞かされた。
そしてふくろうも目を見張りムササビも耳を澄ますような、
満点に星が輝く静寂な夜がしばらく続いた後、
天候が急変し一夜のうちに雪が地表のすべてを覆い尽くした。
翌朝、からすが一羽飛んできて、その小さな家の屋根に足跡をつけた。
そして雑木林では隠れていたウサギが穴から出てきて最初の足跡をつけた。

その春、乾いた風が良くほこりを舞い上げた。
木々もいっせいに芽吹き、名もない小さな花々が咲き乱れ、
草むらをミミズや毛虫や蛇がはいずりまわり、
そして雑木林が新緑に覆われ、水田に水がたたえられはじめ、
その小さな家の周りが雑草にうづめつくされそうになったとき、
キツネとイタチはその家から聞こえてくる産声に足を止めて聞き入り、
カエルとヤマバトは鳴くことをやめ、ひばりとツバメは巣へと急いだ。

その年の晩い秋、見知らぬ人々がその小さな家に出入りするようになったとき
猫や犬や牛だけでなく、蜘蛛やねずみや鶏も異変に気づいた。
そして朝から絶えることなく立ちのぼっていた煙が途絶えたとき、
空高く飛んでいたトンビが十一歳の娘の死を告げるように悲しく鳴いた。






あなたとわたしのあいだでは
ほんのちょっとよそ見しているうちに
いや、一瞬のまばたきのうちに
十年も過ぎてしまうんです
なかには、その一瞬のまばたきのうちに
一万年も一億年も
過ぎ去ってしまうことだってあるんですよ





        花二題 不思議なことに、記憶はいまはもうないと判っているものに限って鮮やかに脳裏にとどめている。
なぜいま、追憶の庭は咲き誇る花々でいっぱいなのだろう。
子供のころはなんの興味も示さなかったのだが。

母は庭いっぱいに花を植える。
その季節になるとあちこちに花が咲く
。 これは「なんの花。」とわたしが聞くと、
「アシタ。」と恥ずかしそうに答える。
なんでもシよりはスのほうが上品と思うらしく、
少し気取るとスがシに変わるのである。

あぜ道に咲いていたりんどうの花を、
珍しい珍しいと言って、
庭に植えたが、すぐ枯れてしまった。
母は肥料をやらなかったからにちがいないと言って
、 小首をかしげて、枯れた草をじっと見つめる。
りんどうは、たしか多年生植物。
秋が過ぎたことに、母はまだ気づかない。




わたしは、その後そのりんどうの花がどうなったか知らない、翌年みごとに花開いたかどうかは。
いや、それどころか、わたしは今までりんどうの花というものを見たことはない。
だから、どんな色のどんな形をした花なのかは判らない。






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