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時の悲しみ
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千田 優
時の悲しみ
岡村孝子の「運命なら」に触発されて
(これはノンフィクションです)
突然の風に桜の花びらが吹き流されていくように、
美代子が亡くなったという噂を耳にした。
私は泣かない、
なぜなら美代子は他人だから、
でも秘かに泣いた。
十七年前、私の住む簡易住宅の隣に
美代子は引っ越してきた、
私と同じ部落出身だったからか
五年前に亡くなった母のことを知っていた。
母よりは十歳若かったが
もう働くことはやめて
後は老後を楽しむだけという様子だった。
私たちの住宅の間には駐車場があったが、
二人とも車を運転しなかったので、
私は何日もかけて掘り起こして畑にした。
ついでの家の前の軒下などのわずかな
空き地も掘り返しては花壇や畑にした。
美代子は季節の花々が好きだった。
春になると花の苗がいっぱいに入った
袋を両手に下げて買いものから帰ってきた。
最初は私も手伝って移植していたが、
やがて、新しい培養土を入れ替えるのも、
花の苗を買ってくるのも、
水やり以外のほとんどすへてを
私がやるようになった。
おそらく私の作業を
子供のような笑顔で
楽しそうに見守ってくれているから
私も張り合いが出てそうしたに違いなかった。
開墾して作った畑では、
春からホウレンソウ、
小松菜、ナス、キュウリ、
トマト、オクラ、ピーマンと、
秋の終わりまで、次から次へと栽培した。
当然全部は食べきれないので美代子に持っていく、
すると美代子はいつでも喜んで受け取ってくれた。
それだからなのだろうか、
私の栽培意欲は年月を経ても
決して衰えることはなかった。
美代子は、収穫したものを
喜んで受け取ってくれるだけではなかった。
私が栽培に失敗したり悩んだりしているときに、
いっしょに残念がったり悩んだりしてくれた。
私にはそれがなによりも嬉しく、いつでも
それによって自分が支えられているような
力づけられているような気持ちになっていた。
隣に引っ越してくる前美代子は
飲み屋のママをやっていたという、
そのためなのか男性を立てて喜ばせるすべを
知っていたということなのかもしれなかったが、
でも現実として私が元気づけられているのだから
それ以上の言葉はいらないはずだ。
はっきり言って美代子は私より十八歳年上、
しかも成人した孫もいて、
四十年前に離婚したというちょっと
訳ありの普通の初老の女性である。
だからそれは普通にこの世界に
数多く実在しているところの隣人、
しかも決して仲は悪くはない
ありきたりの隣人以上でも以下でもない
関係に過ぎなかった。
だかもし普通でなかったとすれば
少し神秘的な関係だったと言えるかもしれない。
なぜなら二人で世間話をしていて
亡き母のことが話題になったとき、
私は母の面影を生き生きと
よみがえさせることができたからである。
それもそのはずそのとき美代子の脳裏に
浮かぶ母の姿と私が対面していることに
なったからである。
だから私はその後も母のことが話題になると
何かいやされているような
穏やかな気持ちになるのだった。
亡くなって母が死んだときのように
悲しく涙が流れる美代子とは、
私にとってどんな存在だったのだろうか
私は十五のとき進学のため母のもとを離れた。
それ以来最期まで別れ別れだった。
ということは母と親密に暮らしたのは
十五年間ということになる。
それに比べて美代子とは
それ以上の歳月になる。
だから母が亡くなったときのように
涙を流すのは少しも不思議なことでは
ないのかもしれない。
亡くなって母が死んだときのように
悲しく涙が流れる美代子と私とは、
本当はどんな関係だったのだろうか
はた目にはきっとそれほど年の離れていない
母と息子のように見えたに違いない。
普段は、情愛的には子供を失った母猿と
母親を失った子ザルの関係に近いものが
あったに違いない。
だが実際にはどうだったのか、
日々の出来事から推し量るしかない。
こんなことがあった。
花壇に正しい水やりを教えてると、
美代子は急に不機嫌になってこういった。
「判っているよ」と。
こっちは親切に教えてやっているのにと
思うのだったが、
でもちょっと冷静になってみると、
それは親に注意をされプライドが傷つけられた
幼稚園児のような言い方でもあった。
またあるときこんなことがあった。
私が原付の整備をしているとき、
何気なく近づいてきた美代子が
そのナンバープレートを見ていった。
「なんて覚えやすい番号なんだろう」と。
たしかにその通りだったので私は
「そうだよ」と答えた。
でもだからといって
そのことにどんな意味があったのだろうか?
あまりにもたわいもない会話ではないか、
よわい重ねた男女の会話には
どうしても見えない。
どう見たってそれは小学校低学年の会話であろう。
近くの農家で花の栽培のバイトをしていた私は、
余りものの花を毎週のようにもらってきて
美代子にプレゼントしていた。
すると美代子は満面の笑みを浮かべて
嬉しそうに受け取ってくれた。
その表情はまさに弟思いの姉のようだった。
よく美代子は私に買い物を頼んだり、
換気扇の掃除を頼んだり、
郵便受けのペンキの塗り替えを頼んだりした。
そのときの気安さは二人はまるで
友達のようであった。
よく美代子は作り立ての料理を持ってきてくれた。
そのときの美代子の満足げな表情からして、
二人はまるで本当の親子のようだった。
二人の畑からは、毎年のように
食べきれないくらいの野菜がとれたが、
美代子が最も喜んでくれたのは
ミニトマトだった。
私は毎週のように、ザルいっぱいに
収穫したミニトマトを、
二十個ほどの容器に小分けして、
それに売り物のようにラベルを張って、
美代子に持っていった。
すると美代子は妹のような無邪気な笑顔で
いつも受け取ってくれた。
そして美代子は楽しそうに言うのである。
これを親戚や友達や子供たちに
プレゼントするのだと。
私はそれを聞いていつも何かいいことを
やっているような満ち足りた気持ちになっていた。
やがて時を経て私は、
美代子はミニトマトが余り好きじゃないことを
知ることになるのだが、
皆にあげることをうれしそうに
話すときの美代子の表情は
どんなネガティブな思いも
吹き飛ばしてくれていた。
このように美代子はあるときは子供のように
またあるときは妹のように、友達のように
そしてまたあるときは姉のように、母のようにと、
私にとっては様ざまな存在であった。
六年前、私は引っ越しをして美代子と
離れて暮らすようになった。
それでもそれほど遠くはなかったので
毎週のように通りかかっては
以前のように小さな畑で野菜作りをしたり
花を植えたりして、
二人の関係は以前と何も変わらなかった。
四年前の春、私は美代子から息子が
突然亡くなったという電話を受けた。
その春もいつもと変わりなく、
私は小さな菜園で野菜を栽培をはじめ、
そして花壇には花を植えた。
その夏、
私が菜園の手入れをしているとき
美代子が様子を見に来た。
真夏の暑さのせいか
かなりおぼつかない足取りだった。
顔には幸せそうな笑みを湛えていた。
どことなく無理をしている感じだったが、
せいいっぱい今この時を
楽しんでいるようにも見えた。
縁台に力なく腰を掛けると
たわいのない世間話を始めた。
テラスを抜ける弱い陽の光を浴びながら
ときおり通り過ぎる涼しい風に
白髪を揺らしてはいたが、
その楽しそうな笑みは
悲しいくらい弱々しかった。
私は寂しすぎる予感を振り払うのに
せいいっぱいだった。
その秋、
病院に通っていた美代子は、
その帰り道の五キロ程を
歩いて帰ってきたという。
それはとてつもなく無謀なことなのに、
なぜ、どうして?
その冬、
私は美代子に報告した。
少し離れたところに農地を買って、
ブルーベリーの栽培を始めることを。
その数二百本と聞いて、
美代子は何か楽しいことに
出会ったときのような
それはまるで二人の希望を
見つけたような声で驚いてくれた。
その声で私は美代子が心から私の計画を
応援してくれていることを感じて
私の決意はゆるぎないものになった。
その春、
私が通りかかると美代子の家の前に
救急車が止まっていた。
美代子の兄が美代子が倒れているのを
発見して救急車を呼んだということだった。
ほどなくして救急車は
美代子を乗せて病院に向かった。
後に聞いたのだったが
病院のベットで美代子は
四日目にどうにか意識が
回復したということだった。
美代子は施設に入った。
でも私はそれ以降美代子には
会うことはできなかった。
というのもその頃は
あの感染症が最も警戒されていた
時期だったからだ。
私にとって美代子はこれまで、
娘のようでも、妹のようでも、
姉のようでも、女友達のようでも、
母親のようでもあった。
でも決して恋人のような存在ではなかった。
だから私は美代子の妹に言伝を託すことにした。
《もし生まれ変わったら
ブルーベリー農園で再会しよう、
季節は春、年齢は、十代、
女子高校生と男子高校生として》
思い出は尽きない。
この世から美代子は消えてしまった。
と同時に母の面影も
この世から消えてしまった。
生まれ変わるためには
いったいどのくらいの歳月を
必要とするんだろう
百年、数万年、
もしその前に宇宙が造り替えられたら、
百万年、数十億年、永遠、
でもこの宇宙にとって、
永遠も一瞬もそれほど変わりはない。
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