ж ж ж ж ж ж ж
失われた地平線
に戻る
はだい悠
木陰で休む私は静かなサバンナのように穏や
かである。ときおり周囲の仲間に眼をやるくら
いで何もしない。何もしなくても何も思わなく
ても、私はなぜか退屈とは感じていない。
人間でいたときはこうではなかった。朝起き
てから夜寝るまで仕事以外でも常に何かをやっ
ていた。歩きながらでスマホ、そして暇さえあ
れば漫画テレビ週刊誌と、私の意識は常に外部
の何物かとつながっていた。それは周りの人間
も皆やっていることなので、少しも疑問に感じ
ることはなかった。むしろそれらは良くも悪く
も私の気持ちを穏やかにして精神を安静させて
いるに違いなかった。だからそれらから離れる
と理由もなく不安になり激しく動揺することが
たびたびあった。でも今は違う、そんなものが
なくても不安になることなどは全くない。私は
今の生活で満足している。もしかしたら今のほ
うが充実しているのかもしれない。
私の心は変わったのだろうか。人間でいたと
き私はライオンのように他の動物を殺してその
血まみれの肉に貪りつく肉食動物というのはな
んて残忍なんだと思っていた。でも今は何とも
思わない、空腹でないときは狩りのことなども
全く頭にないが、空腹を感じるようになると瞬
時に気持ちが変化する。それは自動的と言って
いいくらいに、自分では制御できないくらいに
あっという間である。このことを自然とか本能
とかいうのであろうが、そのときの私の頭は狩
りのことだけでいっぱいになるのである。そし
て徐々に気持ちが高まっていき、血が煮えたぎ
るように全身が熱くなり、それが止むに止まれ
ぬ衝動となり私を狩りへと駆り立てるのである
。そして狩りが成功してその血まみれの肉を食
べるときの快楽は、人間でいたときの色いろな
快楽とは比べ物にならないくらいに大きい、と
くにその肉が草食動物のときには、その快楽は
至高の快楽となる。
私の心は変わっているのだろうか。でも空腹
が満たされれば穏やかな、しかも人間でいたと
きより平穏で満ちたりた気持ちに満たされるよ
うになる。
私がこのように行動するのは、私が人間でい
たときに、周囲の環境や人間に合わせて生きて
いることが、よりストレスなく生きやすいと感
じて、そうしてしているように、ライオンの肉
体を持った私が生き延びるためには、周囲の環
境や状況に合わせなければならないということ
を無意識のうちに感じ取っているからに違いな
い。
やはり私の心は変わってしまったのだろうか。
いやそもそも心というものは自分のものだろ
うか。
私は人間でいたとき他者との接触をできるだ
け避けながら、それに政治にもほとんど関心を
示さずに生きていた。それでも充分に心の平穏
を保ちながら生きることができていたからだ。
だからといって感情がなかったわけではない。
ちょっとしたことでイライラや腹立たしさを感
じたことはあった。でも時間の経過とともにそ
のような感情はほとんと忘れ去っていき、心の
しこりになるようなことはなかった。それでも
こんなことがたびたびあった。社会の事件や出
来事に正反対の感情を示すことである。それに
こんことも、似たような事件や出来事でも同様
の事柄でも、日によっては反発を感じたり賛同
したりするということが。その違いを当時は判
らなかったが今から思えば、私が反発を感じる
ときというのは、私が何かに追い詰つめら、や
やいらだった状態にあるときときで、それに反
して賛同するときというのは、私の気持ちに余
裕があり、少し満ち足りた気分になっていると
きである。だとすると私の心は周囲の状況や私
の気分、そして私の立場によって変わっていく
あてのならないものだということになるのだが。
私が人間のとき、言葉を話し知恵を持っている
はずの人間が自分の利益のために平気で考えを
変えたり嘘をついたりする例を飽きるほど見て
きた。でもそれも人間の知恵のなせる業として
諦めるより仕方がなかった。それに比べて動物
の心は変わらない。いや変えようがないのだ。
なぜなら動物の心には虚偽はないからだ。
そういえば人間でいたとき、友情ほどあてに
ならないものはなかった。友達のように話し合
えても次の日には見向きもしなくなるというこ
とは頻繁に起こりえることで、そのことに苦痛
を感じたり異常性を感じるものはほとんどいな
かった。それはおそらく誰もが自分の心という
ものは自分のものであり、自分が人間として生
きていくためには最も大切なもの、それに対し
て他人の心はよそよそしいもの相いれないもの
自分の心とは対立するものと感じていたからに
違いない。だが今私の心は私のものでもあるが
サムやアドたちのものでもあり、また彼らの心
も私のものである。つまりみんなの心がそれぞ
れお互いにみんなの心になっているのである。
それが私たちの決して弱まることのない友情を
成り立たせているに違いない。
私が社会の出来事や政治的なことにほとんど
関心を示さずに生きていたというのは、正確に
言えば、そういうことに興味を示さなくても生
きていくことに何の差しさわりもなかったとい
うことなのだろう。それは周囲の人間もみんな
そうだったから、そんな風潮にたんに合わせて
いただけかもしれないが。
人間でいたとき当時こんな議論が盛んにおこ
なわれていた。私たち人間の社会は、まず個人
があって、その上に家族、さらにその上には会
社や地域社会の集団があり、そして最終的には
国家というまとまりから成り立っているので、
個人の価値はその上位のどの集団よりも優先さ
れ価値があるものと考えられていため、その個
人の自由や人権が最大限に尊重されなければな
らないという主張、それに対して、私たち人間
の社会は、まず国家があり、その下に会社や地
域社会があって、さらにその下には家族があり、
最後にようやく個人が、その無数の個人によっ
て私たちの社会は成り立っているのであるから、
国家やそのほかの集団の価値が個人の価値より
も優先されるのは当然で、それらの存続や誇り
のほうが個人の自由や人権よりも重要視されな
ければならないという主張、つまりまさにK国
担当者が言っていたような主張が対立する意見
となって議論を盛り上げていたのである。
だが当時の私はどちらの主張ももっともだと
思えて、そのどちらが正しいか判断することが
できなかった。でも今思うとどちらが正しくて
どちらが間違っているとかは思えないような気
がしている。というのも、彼らの主張の違いは
単にその人たちの立場の違いから生まれてくる
のではないかと思われるからである。それに、
人間の最大の特徴は、ものを考え、それを言葉
で表現することかもしれないが、かといってそ
れが真理を指し示す上で、決して万能ではない
ような気がしているからである。
他にもこんな議論が盛んにおこなわれていた。
日本の産業は衰退していずれ世界の三等国にな
るだろうということだった。いやそんなことは
ないと主張する学者や評論家はいたが、私にと
ってはこれほど判らないことはなかった。アフ
リカやK国のように餓死者が出ているわけでも
なく、普通に働いていれば普通に豊かに暮らし
ていけるというのに、それに日本人は勤勉で、
高等教育も進んでいるので、これまでどんな国
家的な危機も乗り越えてきたように、どんなに
大変なことがあっても絶対に切り抜けていくこ
とができるというのに、私には全く訳が分から
なかった。だから私はこんな妄想をよく抱いて
いた。もし私が独裁者だったら、日本がだめに
なると主張する学者や経済評論家だけでなく、
その反対者も含めてをすべて招集して、それで
は日本がそうならないためにはどうすればいい
のか、彼らにその報告書を提出するように命ず
る。だがもし彼らが彼らすべてのものが賛成す
るような報告書を出せなかったら、私は彼らす
べてを生き埋めにしてやるだろうと。ついでだ
が他にも学者と名の付くものがいっぱいいるが、
どうしたものだろう、まあそのときは、そのと
きの気分に任せよう。
さらには、これは議論ではないが、こんな話
題が盛んに取り上げられていた。AIは未来を
変えると。"この変える"には、地球上のすべて
の人間が豊かになり、そして争いごとのない平
和な世界に変わるという意味が込められていた。
そして私を含めてほとんどの人もそのように受
け取っていたようだ。たしかに未来は変わるだ
ろう、これまでの技術革新の経験からして、私
たちの生活スタイルが変わることは間違いない
なかった。だが、みんなが豊かになり世界が平
和になるるかどうかは判らない。というのも、
これまでのどんな技術革新において、それによ
ってすべての人間が豊かになり世界が平和にな
ったという歴史的事実はどこにもないからであ
る。貧富の格差はなくなることはなくむしろ拡
大しつづけ、戦争の脅威もなくなるどころがま
すます増大し続けている。それは貧富の格差が
経済発展の潜在的原動力となり、経済発展の顕
在的抑圧力が国家間に軋轢を生み続けるという
現代社会の仕組みがそうさせているからだ。つ
まり技術革新としてAIを取り入れその進化発
展をうまく利用する者はますます富む反面、貧
富の格差の拡大や国家間の軋轢の原動力にもな
るということである。だがその反面、これまで
の技術革新の歴史からして、その技術の進化発
展が停滞すると、今度はその技術は、貧富の格
差を縮めて人びとの生活を豊かにするためにだ
け役立つようになる。そしてそのことはどんな
人間でもより自由にそしてより平等に生きられ
るための必要不可欠な、経済的基盤となってい
るのは間違いない。AIの技術革新はしばらく
の間は留まることはないだろう。だから少なく
ともその期間は貧富の格差はやむことなく、国
家間の軋轢もなくなることはないだろう。そし
てそれがいつになるかわからないが、AIの技
術革新が止まるときが来るであろう。それは技
術革新の研究が能力的に限界に来るということ
ではなく、私たち人間がもうそれ以上発展の必
要がないと認めたときである。AIは必要物資
を生産して私たちの生活を豊かで便利にしてく
れるが、いずれはその豊かさにもその便利さに
も、もうそれ以上必要ないと感じる人たちが増
えてくるに違いないのだから。そしてそういう
人たちが地球上に溢れたら、そのときこそAI
の進歩が止まるときである。そのときの人間の
生活状況というのは、大昔の身の周りの自然か
ら生きていくために必要なすべてのものを採取
して生きていた人々の生活と優劣の付けがたい
ものとなっているだろう。そして人間の自由や
平等ということは思想の問題ではなく、人間に
必要なものを生産するというその生産力のあっ
たということにようやく気付きはじめるだろう。
そしてそのときこそ人類が長い間追い求めてき
た世界の平和が実現するときかもしれない。も
ちろん新しいAI技術によって新しくうまれて
くる欲望を利用しながら、ライバルとの競争に
打ちかち、大金持ちになりたい人が居続ける間
はAIの技術革新はやむことはないだろうが、
でもその速度も、必要なものは何でも手に入り、
その上自由で、人を差別したり人から差別され
たりすることのない生活状態に、もうこれで十
分だと思う人びととのせめぎあいで決定される
だろう。判りやすく言うと、新しいAIによっ
て新しい欲望が生まれ、そのためにたとえ新た
に差別や抑圧が生まれようとも、とにかく金儲
けをしたいという人間がいる限りはAIは進化
発展し続けるだろう。そしてみんなが自由に平
等に生きられるだけではなく自然採取的な生活
のほうが楽しいと思う人たちがそのことの抑止
力となるだろう。そしてこれは私の勝手な意見
になるがAIの究極的な進化は貧富の格差にで
はなく、人間が大昔にすでに確立していたにち
がいない社会、だれもが自由で平等に生きてい
くことができる自然採取的な社会の実現に貢献
するのではないだろうか。なぜなら欲しいもの
が何でも手に入るといっても、自然から手に入
れるほうが人間の作られた社会システムから供
給されるよりは断然楽しいに決まっているはず
だからである。
未来学者などは、AIは人間の心も変えると
いうものがいる。だがこれは言い過ぎだろう。
表面的な心の在り方は変わるかもしれないが、
根源的な心の在り方変わることはないだろう。
AI技術がどんなに進歩発展してもAIと人間
の心の間には宇宙の果てから果てまでの距離が
ある。人間の心は永劫なる時間を通して進化し
てきた宇宙の隠された秘密に支えられている。
私たちは指で線を描くときも足で歩くときも常
にその背後にある無限の可能性に支えられてい
る。ならば私たちの心もそのような無限の広が
りの可能性に支えられているはずだ。だがAI
は有限の広がりの可能性に支えられているにす
ぎなく決して心を持つことはできないだろう。
判りやすく言うと、犬はAIと遊ぶことができ
ないだろう。なぜなら犬はAIと心の交流がで
きないからだ。犬は正直で心を感じないものに
は興味を示さない。もし私が人間でいたときの
私だったら、AIとは少しは遊ぶことができた
かもしれない。なぜならその当時私は生き物ど
ころがほかの人間ともほとんど関わらずに生き
て来れたということは、それぞれの心というも
のと関わらなくても生きて来れたということで
ある。そしてそれは心というものがどんなもの
かも判らずに生きていたということであり、さ
らにはお互いに心がなくても向かい合えるとい
うことを意味しているからである。だからそん
な私ならAIと遊ぶことに何ら違和感を覚える
ことなく退屈な時間を過ごすことができるだろ
う。それはおそらくゴッコに近い遊びになるだ
ろうが。もしかしたら私の心は犬よりも劣化し
ていたのかもしれない。ならば生命体としての
私は犬よりも劣っていたことになる。
すべての生き物の心には、その永劫なる時間
を通して進化してきた宇宙の秘密、いわゆる神
のような意志と意義が込められている。命ある
者の心は命ある者の心に呼応するということは
まちがいない。
人間でいたときすでに私の周囲にはたくさん
のAIがあふれていた。
そして私の周囲には言葉があふれていた。
会社、出勤、電車、仕事、平和、戦争、未来、
発展、友情、幸福、学歴、優越、劣等、侮り、
蔑み、神、虚偽、その他にも無数の言葉があふ
れていた。だが今は違う、そんな言葉がなくて
も何不自由なく生きていける。私たちは言葉が
なくても感嘆詞だけで充分に会話ができお互い
の気持ちを分かり合える。そして今ライオンの
私の周囲には心があふれている。
サムファイブの心、サムシックスの心、アド
Xの心、アドYの心、今では彼らの気持ちや感
情は、ちょっとした仕草や表情の変化でも手に
取るようにわかる。それだけではない、ほかの
ライオンの心も、ハイエナの心も、キリンの心
も、ゾウの心も、シマウマの心も、その他のど
んな生き物の心もわかる。さらには太陽の心も、
空を流れる雲の心も、山の心も、木の葉の心だ
ってなんとなく判るような気がする。だからだ
ろうか、狩りのときの私の心は自分でも判らな
いくらい乱れているが、それ以外のときは周囲
のたくさんの心を感じながら穏やかにそして満
ち足りた気持ちで過ごしているのである。
そういえばかのK国で知りあった二人の若い
男女に、心がなくても他者の心を感じなくても
生きることができていた日本では、決して感じ
ることがなかった何かを私は彼らに感じていた。
彼らの表情や話し方には私の心に何か訴えかけ
るものがあった。私にそれまではないも同然だ
った私の心を目覚めさせ始めたのかもしれない。
彼ら二人ともそれまで私が接したことのないよ
うな若者たちであった。男のほうは最初の印象
は、どちらかというと田舎臭く野卑な感じだっ
た。生々しい感情の発露は時代遅れで少しも先
進的でないとみなしては、大人しく分別をわき
まえ、できるだけ社会のマナーやルールを守り
ながら規則正しく生きてきた自分にとっては、
そのように感じるのは無理からぬことではあっ
たが、その反面、ときとして自分の感情の自由
な発露は、格好悪いものとして避けられがちな
風潮のもとで育った私にとっては、その青年の
自分の気分や感情の赴くままに、しかも少し不
良っぽい言動に、私がそれまで私が味わったこ
とのないような清々しさや爽快感を覚えたのは
間違いなかった。それにあの夜私を受け入れて
くれたあの美しい女性。日本でならあれほど美
しかったから、私のようなすべてにおいて普通
の人間は決して話しかけることさえもできなか
ったろう。たとえ止むに止まれぬ事情で仮に話
しかけることができたとしても、冷たい視線を
投げかけられるぐらいで、そのまま無視され続
けるだろう。だがあの女性は違っていた。まる
で兄妹のようにやさしく接してくれた。性格は
穏やかで素朴だった。少なくとも日本の都会で
はあのような女性は絶滅していた。私は秘かな
がらそれまで接したことがないような、あの美
しい女性の心の在り方に魅了されていたのだ。
日本において、女性との会話は、何かを話しか
ければ、たしかに答えは返ってくる、だがそれ
はただ単に言葉が跳ね返ってくるような、たと
えそれが同意であろうが反意であろうが、いわ
ば言葉の意味だけが強調されたような受け答え
になっていた。少し大げさに言うと、いつでも
"あう言えばこう言う"といった感じの会話にな
っていた。だが彼女は不思議なくらいそうでは
なかった。私が何を言っても、その答えは決し
て儀礼的なものではなく、私の言った言葉から
その概念的な意味をはぎ取り、その言葉に込め
られた私の気持ちや思いだけをそこからくみ取
り、それを私の心として彼女の心に包み込むよ
うに受けいられている感じだった。こんな会話
があった。私はこのときの満ち足りた気持ちは
生涯忘れることはできないであろう。
「今日は楽しめましたか?」
「ええ、充分に楽しめました」
「でもちっとも楽しそうなお顔をしていらっし
ゃらないので」
「いいえ、楽しかったです。あなたのような美
しい方がそばに来てくださったから、それはも
う」
「それはよかったでする。もしかしたら私が付
いたことに、迷惑を感じていなかったかと思い
まして」
「迷惑だなんて、とてもうれしかったですよ」
「それなら私もとてもうれしいです」
「よく私は、日本では同年代の女性から言われ
てました。あまり話さないからつまらないって。
そうなんです、私はおしゃべりが苦手なんです。
人と会話をしたり、みんなと歌を歌ったりして、
雰囲気を楽しいものにすることができないんで
す。でもいつもどんな酒席でも充分に楽しんで
参加しているつもりでした。だから今回も私の
ところに誰も来なくても、みんな他の賑やかな
人のところに行っても、それはそれでいいなと
思っていました。そんなときにあなたが来てく
ださったのでとてもうれしかったです。あなた
こそ私について楽しくなかったでしょう」
「いいえ、そんなことはないです。私は本当は
あなたのような方が好きなのです。あなたのよ
うな方のそばにいると本当に心が安らぎますか
ら」
このような出会いが、それまでないも同然だ
った心というものを私に目覚めさせたようだ。
もしかしたら彼らは現在世界でもっとも純粋で
無垢で、そして最も美して魂を持った人たちか
も知れない。彼らの国はいまだに経済発展のチ
ャンスを逸した世界最貧の独裁国家である。人
間はだれでもその生まれつきの純粋で無垢で美
しい魂を持ち続けることはできる。だがその反
面取り巻く環境によってどうにでも堕落できる
ということなのだろうか。
地平線から太陽が昇り丘陵の木々が朝焼けに
染まっている。黄色いサバンナには黒いシミの
ように草食動物の群れが見える。私たちはしば
らくとどまっている。
あの丘を越えると別のライオンの群れがいて、
さらにその先の川を越えたところにも別のライ
オンの群れがいるが、このようにお互いに相手
の縄張りを荒らさない限り争いごとは起こるこ
とはない。それもこれもやはり獲物が豊富だか
らなのだろう。少し他の捕食動物は気になるが、
とくにハイエナはあの件以来目障りな存在にな
っている、でも全体としては穏やかに過ごすこ
とができている。
なぜ多くの草食動物たちは捕食される危険を
感じているのに逃げないのだろうか。知恵ある
人間ならとにかくそんな殺戮者から逃れるため
には荷物をまとめてできるだけ遠くへと逃げる
に限るのだが。でも彼らは決して安全な場所へ
と逃げるようなことはしない。誰かが自分以外
の誰かが犠牲になりさえすれば、自分を含めて
群れ全体が助かるのだからそれでいいのだと思
っているのだろうか。それとも、もうどこにも
逃げようがないのだから、そのことを運命とし
て受けとめているのだろうか。
また例の二人が車でやってきた。
二人の会話が聞こえてくる。
「こういうのがサバンナの真の表の顔なんだろ
うね」
「真の裏の顔とは」
「うん、ざん、、、、」
「残酷で、壮絶で、でも人間にだって真の裏の
顔があるからね」
「そうだね、しかも人間のほうがより残酷で壮
絶で」
「不思議だよね、知恵ある人間のほうが、その
より残酷で壮絶というのが」
「ところでここにいるサムたちの母親の二ムが
最近亡くなったんだ。狩りで負傷して、それが
悪化して、年も年だったけどね。それからこれ
はいい話なんだけど、サム兄弟たちの姉が発見
されたんだ。長い間行方が判らなかったんだけ
ど、先日群れを作っていることが判ったんだ。
おそらく前の群れを離れてさ迷っているうちに
お気に入りのオスライオンにでも出会ったんだ
ろうね。というのも前の群れで、新しくやって
きたオスライオンがお気に召さなかったようで、
ずっとオスライオンの求愛を断っていたんだが、
それがきっかけで、どうやら母親の群れを出る
ことになったみたいなんだ。でも生きていてよ
かったよ。ライオンが群れを離れて生きていく
なんて大変なことだからね、とくにメスにとっ
ては」
「オスだからといって強ければなんでもいいっ
ていうわけでもないんだな、相性みたいなもの
があって」
「そこは人間と変わりないのか」
「でもそれならそんな寄る辺ない寂しそうな
メスを見たら、オスは助けてくれないのかな」
「群れのメスの嫉妬を買うからね、かなりむず
かしいみたいだ。だから群れを離れたメスが優
秀なオスと出会い新たに群れを作るにはよっぽ
どの幸運に恵まれることが必要みたいだ。とこ
ろでこれからみんなを保護施設に案内するんだ
けどあなたも来るよね」
「保護施設って?」
「親を失くしたり傷ついた動物を保護して、元
気になったら再び野生に戻す所だよ」
そういえば私が子供ライオンのとき言い寄る
オスライオンを怖がり姉ライオンはよく逃げま
わっていた。でも小さすぎる私はただ見ている
ことしかできなかった。
私は二人からを離れる。灌木の陰でくつろぐ
兄弟たちに近づき、頬ずりをしたあと下を向き
ながら、私は悲しそうな声をだす。私は体で母
親二ムの死を知らせたつもりだった。だがはた
してその悲しみの思いが伝わっただろうか。
私たちライオンは人間を襲わない。なぜなら
人間を恐れているから。私たちは、私たちと違
うその人間の動きに、私たちと違う知恵の高さ
を感じるからである。私がもとは人間だからそ
う感じるのではない、私の仲間も他の動物たち
も皆そう感じている。とくに人間が手に何かを
持っている場合、それがたとえ武器でなくとも
なんでもいい、その手にただ何か持っているだ
けで、何か得体のしれない力強さや何か太刀打
ちできないような知恵のほとばしりを感じると、
それが恐怖となって私たちの肉体におそいかか
るのである。私たちは決してその恐怖に逆らう
ことはできない。だから私たちは威嚇でもって
人間に対処することしかできないのである。だ
が人間がもし私たちの恐怖を取り除いてくれる
ような行為に出たら、もしかしたら私たちは予
想外の反応を、それはまるで奇跡としか思えな
いような反応を示すかもしれない。たとえば、
もし人間が、私たちに対して、その嘘偽りのな
い好意の気持ちを全身に表しながら私たちに近
づき、そして私たちに対して微塵の恐怖も感じ
てないという天真な気持ちで私たちに頬ずりし
てきたら、きっと私たちも好意の気持ちで頬ず
りをし返すであろう。だがそれはほとんどは失
敗に終わるだろう。なぜなら人間は、私たちに
顔を寄せたときに、私たちから首筋をかまれる
という恐怖に打ち勝つことは絶対にできないだ
ろうから。そして私たちはその恐怖を私たちに
対する敵意とみなすからである。
最近アドXとアドYが妙によそよそしくなっ
ていたが、やはりその原因がこれだったのが。
先日我われは冒険心に誘われるように乾期で水
の少なくなった川を渡りこの場所にやってきた。
そのときに新たなライオンの群れと出会ったが、
無益な争いを好まない私たちは群れを遠巻きに
して通り過ぎた。だがそのときアドXとアドY
はある灌木の茂みに反応した。その茂みの匂い
を嗅ぐと彼らは顔をしかめると頭を大きく振り
ながら咳き込むように吠えた。おそらくその匂
いはメスライオンの尿から発しているに違いな
かった。そして彼らはそこにメスライオンの発
情のサインを感じ取ったに違いなかった。その
日から彼らは私に対してよそよそしくなり群れ
から離れて行動するようになっていた。そして
今日私は彼らの後を追うようにしてこの地にや
った来たのだ。彼らの眼の前にライオンの群れ
が現れる。やがてどこからともなく咆哮が響き
群れの支配者と思われるボスライオンが姿を見
せる。アドXとアドYは短く吠えるとそのボス
ライオンに近づく。彼らはこの群れを乗っ取ろ
うとしているのだ。だが私はなぜか彼らに加勢
はできない。これまで彼らと苦楽を共にしてき
て、彼らと固い友情の絆で結ばれていようとも、
それはできない。彼らが攻撃されているなら別
だが。かといって乗っ取りをやめさせることは
もちろんできない。なぜならそれは彼らの本能
の発現であり彼らの自由の行使であり、このサ
バンナの掟に従っているにすぎないのだから、
いかに友情の絆が固いといっても、それでもっ
て彼らの行動は止めることはできないのである。
彼らは遠く離れている私を見る。それは私への
最後の別れのあいさつのように見える。私は彼
らの戦う姿を見たくない。私は振り返り歩き出
す。
乾いた風がサバンナを吹き抜けている。
あの日以来アドXとアドYの姿を見ていない。
彼らは乗っ取りに成功したのだろうが、それと
も失敗してかみ殺されたのだろうか。失敗しても
生きているなら、ぜひ戻ってきてほしいと思って
いる。でも私はほんとうはこんなことが気になっ
ている。私が彼らに加勢しなかったことを恨んで
いるのではないかと。私はもし私が彼らに加勢す
れば乗っ取りは絶対に成功することは判っていた、
でもどうしてもできなかった。というのも乗っ取
りが成功したのち、その群れにどういう騒動や血
なまぐさいことが起こるか知っているからである。
いかにそれがこのサバンナの秩序を恒久的に守る
ためとはいえ、半分人間である私にはどうしても
できないのである。今の私にできることは、彼ら
がメスライオンの戦略に惑わされて離反したりす
ることなく、お互いに助け合い協力しがら末永く
群れを維持していくことを願うだけである。そし
ていつの日か偶然にも出会うようなことになった
ら、そのときはお互いに過去の友情を懐かしみな
がら寄り添い頬ずりあえることを願っている。
私たちは今アドXとアドYの群れからだいぶ離
れたところにいる。灌木の陰で休んではいるが少
しもくつろいだ気持ちにはなれない。サムシック
スとサムファイブの異変が昨日から続いているか
らだ。
昨日私たちはそれまであまり踏み込まなかった
ところを歩いていた。するとまた新たなライオン
の群れに出会った。遠くにその群れを見ながら私
たちは歩みを止めじっと彼らを見ていたが、私は
すぐに彼らの異変に気付いた。彼らは緊張し息遣
いが荒くなっていた。私たちもなっていたに違い
ない、なぜなら、その群れのボスらしきライオン
は、かつて私たちの群れを乗っ取り、私たちを殺
そうとしたオスライオンだと気づいたからだ。私
も忘れていなかったが、兄弟たちも忘れていなか
ったのだ。あのときの恐怖と悲しみ、そしてその
後のつらさを思えば当然のことなのだ。彼らは私
を見た。それは私に何かの行動を期待しているか
のようだった、だが私は彼らのその深い意図が読
み取れずにこの場から離れることにしたのだった。
私には彼らの落ち着きなさや険しい表情からし
て、彼らはあのオスラインのことが頭にあること
が判る。彼らは何らかの仕返しを復讐を考えてい
るようだ。彼らは私のほうを何度も見ている。そ
れはまぎれもなく行動を共にすることを期待して
いるようだ。でも私はアドXやアドYのときと同
じように、どうしても加わることはできない。た
とえ戦いに勝ってもその後の混乱するだけの群れ
のことを考えると、どうしても踏み込めないので
ある。私はずっと彼ら視線に気付かないようにし
ている。 とうとう彼らはしびれを切らしたのか
立ち上がり私に背を向けて歩き出した。でも私は
彼らを止めることはできない。彼らの怒りを思え
ば我が身のようにのように理解できるから、でも
どんなにあのオスライオンに対する怒りで腸が煮
えくり返ろうとも私は協力できない。私にできる
のは成功を願って見送ることだけだ。そして私が
復讐劇に協力しないからといって、決して恨んで
くれるよなと祈るだけだ。
今日はなんてたくさんの動物たちがいるんだろ
う。遠くの高木の林にはキリン、その手前にはゾ
ウの群れ、地平線沿いにはシマウマとスプリング
ボックの群れ、そして灌木のあいだにはインパラ
の群れがのんびりと草を食んでいる。
サバンナのほとんどはいつもこのように平和な
のだ。インパラが私のほうに近づいてくる。私の
存在に気付かないのか、それとも気づいていても
私に脅威を感じていないのか、そうなのかもしれ
ない、私はこのところ獲物にありつけていないが、
でもどうしても狩りをしようとする気力がわかな
い。
私はずっと気になっている。サムシックスとサ
ムファイブが私の元を離れてから、だいぶたつの
に彼らがどうなったのかわからない、とても心配
なのだ。復讐を遂げて無事なのか、それとも返り
討ちに合って無残な死を遂げてしまったのか。た
とえ敗れたとしても生きているなら帰ってきてほ
しいのだが。
遠くにあの監視員と動物学者の二人が乗った車
が陽炎に揺れて見える。
二人が珍しく車から降りて話している。
会話が聞こえてくる
「やっと見つけたよ。やっぱりあの話は本当だっ
たんだな。最近連鎖的に二つの群れで覇権争いが
あったということで、それもその当事者がこのサ
ムセブンの仲間たちということで、まさかと思っ
ていたんだけどね。彼らは今までの群れとはちょ
っと違っていたので、まあ大人しいというか、平
和主義者というか、でもしょせんこの弱肉強食社
会の頂点に立ち百獣の王だから、本能には逆らえ
なかったんだろうね。でもどうしてこのセブンは
加担しなかったんだろう。たしかに少しライオン
ばなれしたところがあったから、何か考えでもあ
ったんだろうか」
「ライオンばなれしてたんですか」
「ちょっとね。それでよく観察するようにしたん
だけど。うん、そうなんだ、それまでの群れと違
って、狩りがうまいとか、ナワバリをかけての無
益な争いはやらないとか、そのぐらいかな、あっ、
それにこのセブンは群れのリーダーだと思うんだ
けど、少しもそれらしいところがないんだ、何か
掟を破ったからといって仲間を怒ったり威嚇した
りすることはないんだ、なぜそうするのかは理由
は判らないけど、寛大というか心が広いというか、
よくできた人間みたいな所があるんだよ。まあ、
人間にも動物に近い人間がいるんだから、ライオ
ンにも人間に近いライオンがいてもいいってこと
かな」
「人間ですか」
「まあ、ほかにもこのセブンには判らないことっ
ていうか、といも不思議なことがあるんだけどね。
たとえば、なぜ新しいオスの子殺しにあったとき、
どうしてそれから逃れることができたのかとか、
ほとんどの狩りで失敗しないとかね。それもセブ
ンが勇敢だとか強力だからということでもないん
だ。狩りの方法がものすごく合理的で理詰めで戦
略的なんだ。おそらくこれもセブンが指示してい
るからなんだろうけど。いつそんな能力を身に付
けたんだろう」
「天才ライオンということかな」
「不思議といえば、その他にもがまだあるんだよ。
なぜかボスの交代した二つの群れが合流したんだ。
そんな例を見るのは初めてだよ。やはりまだまだ
修行が足りないのかな。まあ、でも奴らはもとも
と同じ群れの仲間だったからな。それよりも心配
だよ。セブンは仲間の協力なしで、これからどう
やって狩りをするんだろうって」
夜通し歩いている。サムやアドの群れからでき
るだけ遠ざかるためだ。彼らが合流したというの
はいい知らせだった。彼らが群れを乗っ取った後
のことを考えると私はどんな混乱が起こるだろう
かと危惧していた。でもそれが払しょくされたの
だから。だが私は彼らには合流できないのだ。彼
らの乗っ取りに協力しなかったのだから。彼らは
私たちの友情を信じて、私が彼らと行動を共にす
ることを望んでいたのは確かなのだから、彼らに
わだかまりが残っていることは絶対に間違いない。
今更どの面下げて彼らの前に出られるかというこ
とだ。彼らと二度と会わないようにすること、そ
のことは私たちの美しい友情を永遠なものにする
ことにもなる。
監視員が私のこと心配していた。仲間の協力な
しにどうやって狩りを成功させるのかって、でも
おそらく大丈夫だと思う、なにせこの広いサバン
ナには、行き場の失ったオスやハグレオスがいっ
ぱいさ迷っているから、彼らも心細がっているの
は確かなのだから、彼らと新たに友情を築きあげ
て協力し合えばいいのだ。
鳥の声が聞こえる。雲のない地平線が輝きだし
た。
喬木の茂みがある、この辺でひと休みをしよう。
たくさんの車のエンジン音が聞こえる。
ここが傷ついた動物たちの保護施設だったのか。
レストランみたいなものも併設している。大勢の
人間の姿が見える。サハリ観光の客だろう。大人
もいれば子供もいる。例の監視員と動物学者の二
人も見える。周囲が野生動物だらけというのに、
柵もなく開放的で人間たちも安心したようにのん
びりとしている。人間の姿を見ると不思議と安心
感を覚える。半分人間だからなのだろうか。
陽炎に揺れる高木の上にヒョウがいる。
ヒョウは何かにじっと眼を凝らしている。その
先を追うと、そこには子供が歩いている。ヒョウ
は気から降りると姿勢を低くしてその子供のほう
に向かって歩き出した。狙いはその子供だ。急が
なければ。 私は走る。女性の悲鳴が聞こえる。
甲高い破裂音。私は地面にたたきつけられる。
私は闇に取り囲まれる。
どうやら私は銃に打たれたようだ。まだ死んで
はいないようだが、体は少しも動かない、眼も全
く見えない、でも耳は聞こえて周りの気配は判る。
近づいてくる人間の足音が聞こえる。
「まにあってよかった。もうどうなるかとおもっ
たよ」
「これはサムセブンじゃないのか」
「どうやらそうみたいだね」
「子供を狙ったのだろうか」
「まあ、考えにくいけど」
「人間みたいに賢いライオンも背に腹は代えられ
なかったということかな」
「人間みたいに賢いといったって他のライオンに
比べたらちょっと賢いかなっていいくらいで、し
ょせん血肉をあさる猛獣だからね。人間とは比較
にならないよ。マサイの長老の話だと、たまにこ
ういうライオン離れしたライオンが現れることが
あるそうだけど」
「今大変なニュースが入ってきた。アメリカがつ
いに、核のボタンを押したようだ」
「どこへ」
「K国へ」
「まあ、仕方ない、とにかく今はまずこれを片付
けよう」
人間たちの足音が遠ざかっていく。
もう地球は人間を必要としていないということ
なのだろうか。
K国のこの地球上で最も美しい魂を持った青年
たちは、どうしているだろうか?
いや、彼らはきっと生き抜いているはずだ。
なぜなら、人間はこれまで幾多の大量殺戮の惨
禍を潜り抜けて生き延びてきたのだから。
ひたむきに生きる人間はほんとうに強い。彼ら
だけが命をつなぎ生き続けることができる。
造物主は自分を誤解する者たちが滅びても痛く
も痒くもない、だが真に自分を理解する者たちが
滅びることを悲しむ。
アドやサムたちみんなどうしているだろう。
このまま死ぬんだろう、でも苦痛は感じない。
静かすぎる暗闇だ。
終わり
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