わたしのように(後編)
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真善美
わたしたちはある行為ををやろうとして、それに関する情報を元にしてやろうとしても体は動かない。実際にそれと似たような事をやってみて違いを知り、それを修正して再度やってみて、そして再び違いを知り、それを修正して、というように何度も繰り返してやってみながら、その本来の形にあわせるようにして、自分なりに完成体に近づけていくしかないのである。この情報が文法であるならば、私たちがしゃべるということは行為であるのであるから。このことは話すことにも当てはまるのである。
私たちはある行為をその行為に関する言葉だけの情報で再現しようとするとき、それはかなり困難である事は前述で知った。それはその行為をするためには無限に近い情報を必要とするからであるが、そのことは言葉を発するときにも当てはまる。だが実際にはわたしたちはそんなことはやっていない、いや、やってられない。わたしたちはまず言葉を聞いて、それと同じ様に発してみて、違う所を修正しては、また発して、という様に繰り返し繰り返し修正しながらだんだんとその完成体に近づけていくという、どうやらわたしたち肉体に生まれつき備わっていると思われるその自動性に任せている次第なのである。
そのことをわたしたちは幼児のときから無意識的にやっている。その母と幼な児との一対一の充足した関係性において。そこには人間が言葉を覚えていく初期の様子を見る事が出来る。幼な児は声を音節として発する事を覚え、そして母親の真似をして単語としての言葉を発するようになる。それは喜びであり楽しい事であり、必要に迫られている事であるから。その発する事が母親の表情を曇らせたら、幼な児は言い換えて母親の希望に添うように修正する。そしてその様なことを時間をかけてくり返しやっているうちに、発することのできる単語は増えていき、やがてフレーズや短い文まで発する事が出来るようになる。このとき幼な児は、単語を覚えたときのようにフレーズや文を声に出して修正しながら覚えていく。つまり身につけていく。その後は時間と共に単語の数はさらに増えていき、文も長くなり内容も複雑になっていくだけである。その過程はすべて無意識的である。言葉を覚えようとして覚えるのではない、話そうとして話すのでもない。自動的であり本能的であり、実践的必要性に迫られたものである。そこには知識としての文法など入り込む余地はない。その後文字を覚え多少の文法じみたものを教え込まれて表現する内容が豊かになり文が複雑になっても本質的には変わりはない。
このように幼な児にもまたその母親にも文法などというものはまったく意識にない、それなのに幼な児たちは言葉を身に付けていく。これで如何に文法というものは役にたたないものであることが判るであろう。そんな物は私なんかよりずっと賢い学者先生に任せておけばいいのである。このように言葉というものは母と子の現実的実践的な関係性において身につけていくものである事が判る。
これから述べる例は言葉とは直接関係ないが、もし、今まさに歩み始めようとしている幼な児に向かって、母親が歩き方の法則を言い続けたら、つまり、まず右足を出して、次に左足をだして、また右、そして左、そのとき脚と反対の側の手を交互に前に出すのよ、などと、これは大切な法則ということでうるさく厳しく言い続けたら、きっと幼な児はノイローゼになって歩けなくなってしまうだろう。そんなバカな母親はどこにもいない。
私たちが言葉を発するとき、頭のハードディスクに単語として記憶されているものを、なにかを表現したいという思いにかられたときに、いちいちそこから文法に合わせて取り出して言葉を並べ、それを文として声にして発するのではないことは、すでに述べた。(いや、この世の中には実際にそういうことをやっている、私なんかよりもずっと賢い人がいるかもしれないが、たぶん稀でしょうからここでは言及しないことにする)
前に述べたように、私たちが何か表現したいという思いにかられて言葉で表現しようとするとき、文法を意識しないだけでなく、文字としての、形としてのはっきりとした言葉のイメージもない。なんとなくあるようだがハッキリしない。それは決して手にとるように具体的なものではない。限りなく影のようである。もしかしたらそれは限りなく純化され単純化され電気信号として送るときには最も都合の良いものになっているかもしれない。
私はこのことから、言葉で何かを表現するときには、文法や文字には影響されない、それらからはまったく独立した本能的自動的なメカニズムが人間の体には生まれつき備わっていると考えざるを得ない。
私たちのほとんどはある行為を、たとえば自転車に乗ることとかスポーツが出来るようになるためには、その事をくり返し練習すれば身に付くことを経験的に知っている。それは言葉を発するという行為にも当てはまることである。幼な児はそのことを母親の前で屋って言葉を身に間つけている。
わたしはここで大胆な仮説を立てざるを得ない。つまり行為として繰り返されることによって、肉体に刻み込まれるように記録される記憶があると云うことを。その記憶のことをこれからは肉体の記憶と呼ぶことにする。私は其のことに関してこれ以上詳しく言うことは出来ないが、言葉はその働きによって発展し話され続けていることは間違いない。というのもその肉体の記憶は経験を積むことによって時間と共により多くのものを取り入れてますます複雑なものを受け入れることが出来るシステムになっているから。
このことは神経科学的に言えば、電気信号が通る回路がますます複雑で多元多相的なものになっていると云うことに行きつくのであろうが、わたしがそれについて言及することは私の能力の限界をはるかに超えている。
わたしは以上のことを踏まえて、さらにもっと大胆な仮説を立ててみることにする。もしかすると、その母の前の幼な児 (この世に赤ちゃんとして生まれたすべての人間の子供) は誰かが言ったことをそのまま復誦できる能力を生まれながらにして持っているのではないか。そして、それは、鳥のように本能的ではなく、人間の進化の過程で獲得したものであり、少しの時間と練習によって、鳥以上にその能力を発揮するものであるが、そのおかげで、幼な児は言葉を覚え会話能力を見につけていき、それこそが、その後の言語能力の発達の基本となっているのではないか。幼な児はその生まれつき持っている能力を発揮して、まず母親が言った事と同じ事を言ってみる、そしてそのことばが母親との相互関係で、何かを意味し、何かを指示しているのかが、だんだんと判ってくる。と同時にそのことは肉体のの無意識的な記憶装置に記憶される。復誦できる単語は増え、単語からフレーズ、フレーズから短い文へと発展していき、それはさらに記憶され、つまり、その思いが頭に浮かぶときはいつでも復誦出来るようになり、そしてその復誦できる文の単語を別の単語で置き換えることによって意味が変わることを知ると同時に、自分の様々な思いを表現できることを知るようになり、やがて、その表現されることは声に出して言えるという条件のもとでますます複雑で豊かになっていくのではないか。このことは長い間の思考を経て考え出された複雑で抽象的な内容が表現されるときには当てはまらないかも知れないが、言葉を覚える初期の段階、そしてその後のすべての言語活動の基本になっていることは間違いない。
もしこの復誦できる能力がわたしたちの言語活動の基本となっているとするならば、前に述べた疑問も解決することになる。子供が大人よりも早く外国語を身につけるということ。これは子供は何も考えずに遊びのように楽しく素直に誰かが言ったことを反復できるからである。大人はプライドや既成概念が邪魔をしてそこまで素直にはなれない。その次は、誰かが行っていることを反復できない様なら聞くことはなんかうまく行かないこと。わたしは前にそのことは聞く事と話すことは同じ神経を共同で使っているではないかと比ゆ的に言ってみたが。、それはそのくらい密接な関係にあると云うことを言おうとしたのだが、これは、もし言語活動が聞くことによってではなく、話すことによってより支えられているとするなら、その二つの関係が密接であるということには納得がいく。
だが現在わたしたちの教育現場で行われていることはどうだろう、本当は受験のためなのだが学力を上げるという名目のために、聞くことはおろか話すことさえしない授業が行われている。たえず苦手意識を植付け劣等感にさいなまれる若者たちを生み出しながら。それをやっている所もあるがお飾り程度である。本当はその配分を逆転しなければならないのに。文法は言語活動の基本ではない、それはその発達を妨げるだけである。ところが、どのテレビ番組(ラジオ番組はほとんど問題はない。筆者がお世話になっているから)を見ても文法が花盛りである。わたしたちはそのような教育から決別しなければならない。
言語活動の基本は声に出して話すということにあるのだから。幼な児はその母の前で話すことは喜びであり楽しいことであるようにして言葉を身に付けていく、鳥たちは歌うようにして人間の言葉を覚えて歌うようにしゃべる、子供たちは遊ぶようにしてその外国語を復誦しながら覚えていく。そこにはいつも生命力と躍動感が満ちあふれている。本来言語というものはこのように楽しみながら身につけていくものなのだ。だからそこのは文法など入り込む余地は少しもない。もし子供たちの英語教育がそのような環境のもとで行われたら、どんなにすばらしいことだろう。
言語における文法というものは、音楽における楽譜や音楽記号や作曲方法であり、人間の体においては、骨格や血管の構造や器官の配置のようなものだろう。
楽譜や音楽記号や作曲方法を知らなくても、歌を覚え、歌を作り、歌を歌い、歌を楽しむことができる。人間を知るのに相手の骨格や血管の構造をまったく知らなくても、充分に相手のことを知ることができ、コミュニケーションになに不自由ない。
では本当に文法は役に立たないのか、わたしは思わず黙ってしまう。なぜなら、わたしは日本語を話すときにはまったくと言って良いほど文法などというものが頭にないからだ。もしあるとしたならそれは無意識的にで、日本語の場合だったら、最後に結論めいたものを言いたいためにそれに合わせるかにようにして内容を豊富にしながら言葉を連ねていくと云うか、英語の場合だったら、最初に結論めいたものを言って、それにくっつけるかのようにして内容を豊富にしながら言葉を連ねていくと云うか、その程度のことだろう。でも文法を発見するために費やされる能力や労力のことを思うと頭が下がる。それも人間に備わっている大切な才能のひとつなのだから。
わたしは前にも述べたが言葉は思いや感情を表現するための手段であり、あくまでも借り物であり、一度表現したものからは、人間の心は束縛されない。心は常に自由であり、変化していくものであるから。
だから言葉に影のように寄り添っている文法などというものにも縛られることはない。文法は人間の自由性に従属して、後から付き従ってくるもので、その自由性は決して言葉をゆがめることはない。
むしろ言葉を新たな可能性へと開放する。
時制、冠詞、不定詞、現在完了、仮定法、いまだに何の事やらさっぱり判らない、なぜわたしたちは日本語をしゃべるときそんな事をまったく意識しなくてもしゃべれるのだろう。とても不思議だ。
それでは次に六番目の「文字を覚えるな。」と七番目の「文字を書くな。」ということであるが、これは今まで述べてきたことからもわかるように、言葉を話せるようになっていく過程において、文字は何の役割も果たしていない。文字はあくまでも知識や情報を広く遠く、そして後世の人々に伝えたり、また、それによって生きていくために必要なより多くの知識や情報を得るために手段に過ぎない。
そしてそれは受験勉強には大いに役立つ。でも、会話能力とは本質的に関係がない。だから少なくとも英語を学ぼうとするときには文字を書いたりして覚えないほうが良い。なぜなら、文字を覚えることは正確に言葉を発することよりも比較的簡単なので、文字を覚えることに重点をおくようになり、それで英語を身につけたかのように錯覚して、最も大切な話すことによって言語能力を高めようとすることがおろそかになるから。
人はたとえそれが子供であっても「内なる官僚主義」に陥りやすい。ではここで、受験勉強は会話力を身につける上でなんの役にも立たないという主張に対して、いや大いに役立つと主張する人の話をはさみたいと思う。その高名な英語学者は日本での優秀な成績を引っさげて意気揚揚とアメリカに行ったそうだ。こんなにも英語の知識があるのだから絶対に会話には不自由しないはずだと。ところが自分の話すことはまったく通じなくコミュニケーションもままならなかったそうだ。そんな状態が二年間ぐらい続いたある日、突然のようにぺらぺらと英語がしゃべれるようになったそうだ。周囲の人たちは突然英語がしゃべれるようになっただけでなく、その英語に関する知識の豊富さにびっくりしたそうだ。それもみな受験勉強のおかげだとその偉大な英語学者は言った。でもそれは偉大な錯誤である。なぜなら、コミュニケーションはその言語に関する知識がまったくなくでもすぐ出来るから。二年も住んでいれば誰だってぺらぺらとしゃべれるようになる。あの不法就労者たちは二三週間で仕事に差し支えないくらいにしゃべれるようになっていた。
では次に八番目の「日本人に習うな。」ということであるが、この場合の日本人とは、ネイティブのように話す日本人のことではなく、文部科学省の方針に従っている日本の学校で真面目にひたむきに勉強をしてきて日本語のように英語を話す優秀な先生たちのことである。
これは主に発音上のというよりも発声上の問題であるが。発音はたんにその単語を正確に発音していれば良いという様なものではなく、言葉のつながりや前後の関係、そしてそこに表現される内容を豊かにするために、アクセントや強弱や抑揚によって影響される、もっと複雑で総合的なものである。それは発声器官の合理性に支えられて、その言語のもつ特有のリズムと発声に制約されている。ネイティブな発声もしらずに日本語を読むようにして学んできた人たちには、その技能は備わってはいない。英語をネイティブにように話すということが最も大事だというのに。世の中には、ネイティブのように発音が出来ないなら発音できなくても良いと言う人がいるが、これは受験勉強の悪弊から来る詭弁である。特殊な場合を除いて人間は誰でも外国語の発音が出来るのである。その言語のもつ発声器官の合理性に従うことが会話能力を身につける最速の早道である。子供たちを見れば判る、みんな適応しているではないか、だから覚えが早いのである。(もちろん筆者は年齢上の問題と訓練不足でまだそこまで行っていない。でも真面目に訓練を続けていけば、いつかはそれに近づけるものと信じている。)
もし英語を日本人のように話す人から学んで、英語を日本語のように話すことが身についたら、その後の会話能力の進歩はおぼつかなくなるであろう。わたしは今ラジオの英語番組のお世話になっているが、その先生方はみんな、頭が良さそうで誠実で、学校では真面目に勉強して大変優秀な学生さんだったに違いないと思われる方たちばかりのようです。というのも、まだ会話能力が幼稚園児並みのわたしでも、生意気にも、先生方の発音が、ネイティブの人より聞き取りにくいなあと、時折感じることがあるからです。わたしが聞きにくいならおそらくネイティブの人にとってもおそらく聞きにくいものに違いありません。たぶん学生時代にあまりにも一生懸命学校の勉強をしたから、日本語のようにしゃべる癖が身についたのでしょうね。あんなにも優秀な方たちなのにとても残念です。
これで、なぜ相撲取りや、かつて一緒に働いていた不法就労者たちが自由に日本語が話せたのかわかるような気がします。
その次は九番目の「英語を読むな。」ということであるが、この読むということは、学校の授業で、リーディングと称して日本語のように英語を読むことである。これによる弊害は前の「日本人に習うな。」というところで詳しく述べたのでここでは省略する。
では次に十番目の「発音記号を覚えるな。」と十一番目の「アクセントの位置を覚えるな。」ということであるが、ほんともう、これは嫌だった。今思い出すだけで頭が痛くなりそう。こんなもの覚えていったいなんになるんだと思いながらも、テストの点数を上げたいがために必死で覚えようとしたが、結果につながらず放棄。今もこんなばかげたことをやっているかどうかは知らないが、とにかく無意味無駄時間の浪費、青春の空費、英語に対する拒絶反応を起こさせるだけ。今まで何度も述べてきたが、覚えれば覚えるほど会話能力を身につける上で妨げとなるだろう。
それでは次に十二番目の「畳の上で勉強するな。」ということだが、この「畳の上で」とは日本的な環境や雰囲気のもとでという意味で、最初の「机に坐って、、、、」で述べた内容とは基本的には変わらない。ですから「日本人に習うな。」の所で述べた事を含めて今まで述べてきた事のすべてがほとんど当てはまる。語学の基本は勉強ではなく体験である。日本的な環境や雰囲気のもとだとどうしても日本語をしゃべる延長線上で英語に対しそうとする。これだといくら相手がネイティブの人でも日本語のリズムや発声に影響されて、その言語にとって最も重要な部分となっていると発音や表情や身振りを含めた総合的な表現が発揮されないであろう。それでは語学はいつまで立っても身につかない。英語は日本語とはまったく異なった体系化にある体験なのである。頭で知識情報を処理することではない。そのためには日本的環境や雰囲気から出来るだけ遠ざかったほうがよい。
では最後の「お金をたくさんかけて英語を習うな。」ということであるが。英語を母語とする人について学ぶことはとても良い事なのだが、そのために年間何万何十万もお金をかけるのはもったいない、わたしがやっている方法を採用すれば一ヶ月わずか缶ジュース一本分のお金で済むのだから。とかく私たちはある目的のためにお金を掛ければそれで目的が達成したかのように思い込む悪い癖がある。たとえば、新しい教科書を手にするだけで、勉強が出来たかのように思い込むこと、新しいパソコンを手に入れるだけで時代の最先端を行っているかのように思いこむこと、そして美しい嫁さんをもらえば、それだけで幸せになれたかのように思いこむことなどなど。とにかく語学を身につけることは努力を必要とするひたむきな訓練であるからくれぐれもお金をかけることが目的とならないでほしい。
それではその方法となるものはいったいどういうものなのか、ということになるのだが、わたしはそのことに関して、いままではほのめかす程度にしておいて、直接的にはあまり触れてこなかった。というのもその方法というのはあまりにも単純でばかばかしく、しかも誰にもすぐ実行できるようなありふれたものなので、それを知れば、ある者は、なあんだそんなことか、もう判っているよと言って、またある者は思わず吹き出しながらこの小論を読むのを止めると思ったからです。
では、その方法ですが、それはラジオの語学番組でながされている英文をテープにとってくり返し何度も聞くというものです。わたしがこの方法をはじめる前まで、ずっと思っていたこと、それは、なんだかんだ言っても結局は何を言っているのか聞き取れないということが、語学を身につける上で最大の問題だということでした。それには英語に関するどんなに膨大な知識もなんの役にも立たないことにも薄々気付いていました。その一方では、勉強した比重がそれほど変わらないのに直感的に反応できる英語のフレーズがあることにも気付いていました。そういうものは何度も耳にするフレーズであることに気付いていました。そこで次のような結論に達するのは当然のことだったのです。「何を言っているか判らなければ判るまで何度もくり返し聞けば良いではないか」と。そう言えば最初は判らなかったクラシック音楽もそのうちにわかるようになったし、しゃべり方が早くて聞き取れなかった都会人の言葉もそのうちに判るようになったのだからと。
この方法をはじめる前はこの程度の考えしかありませんでした。ですから今まで述べてきたことはすべて後付けです。この方法をやり始めたとき、最初は確信がありませんでした。でも、すぐに成果が見られました。あとはもう病み付きです。それ以来毎日欠かさずやっています。英語依存症にかかったようです。
どうやら依存症というのは頭を使うからではなく体を使うからかかるようです。もちろん最初は文字を、テキストを見ました。(これはこの小論の主張に反するかもしれませんが) とにかく何を言っているのかまったく聞き取れなかったものですから。そして徐々にテキストが不必要になりました。
これらの過程をたとえて見ればこの様になるでしょうか。この方法を始める前までは、英語に対する私の脳みその感受性は、カチカチのレンガのような状態にあったと思います。それにいきなり激しい刺激 (たとえばあまり日常的でない文を聞き取らせようとして拒絶反応を起こさせ昔のように挫折に導くこと) を与えるとレンガが粉々に砕けそうな気がしたので、優しくなでるような刺激 (日常的な平易な文) を与えて徐々に豆腐のようにやわらかくて柔軟性を持ったものにしようとしたのです。それが見事成功したようでした。今の日常的な英会話番組においてテキストが必要ない状態は、そのカチカチのレンガから、凍り豆腐をへて、木綿豆腐になりかかろうとするあたりでしょうか。わたしはその木綿豆腐の状態からさらに進めて絹ごし豆腐、そしてあのプリプリとした卵豆腐のようにしたいのですが、まあ、年齢的にも時間的にもたぶん無理でしょうね。
わたしのやっている方法を知って、ほとんどの人は、なんて地味な、退屈な、夢のない方法なんだろう、そんなことはもう知っている。ここまで読んで来て損をした、と思っていることでしょう。でもこれこそは実際に効果があるのです。おかげでわたしは、英語に対する拒絶反応がなくなっただけでなく、自分には才能がないなどと劣等感にさいなまれることもなくなりました。かつて自分が英語が出来なかったのは頭が悪かったからではなくその勉強方法が悪かったからだということで。
おそらくそんなことはもう知っていると冷ややかに思った人は、知識として知っていたか、多少試みたが成果は得られなかったという方たちなのでしょう。というのも、そのテープで何度も繰り返して聞くというわたしのやり方は、執拗で度を越しているからです。同じ単語やフレーズや文を何十回もくり返し繰り返し納得が行くまで、カセットテープレコーダーが壊れてもかまわないというくらいに連続して聞き続けるのです。その様子を他の人が見たらきっと頭が変になったと思うでしょう。人には見せられません。
そういう事を何日もやってようやく一つの単語やフレーズや文が物になったと実感するのです。おそらくわたしのようなやり方をした人は他にはいないと思います。私のやり方の良い点は、何度も繰り返して聴く相手が現実のネイティブの人なら不可能だということです。まさか十回も二十回も連続して同じ事を言ってくれなんて頼めませんからね。
ところで、最初この方法を始める前までは話す事は出来なくても、せめて聞き取る事くらいは出来たらなあと思っていました。というのもカセットテープを聞くだけで正確に話す事なんか身につくはずはないと思い込んでいましたから。だから最初はとにかく聞くだけにしていました。ところが、だんだん時が経つにつれて、くり返し聞いているというだけなのに、より正確な発音でしゃべれる様になっている事に気がつきました。そしてやがて、くり返しはなすことがくり返し聞く事と同じように聞く能力の発達に重要な役割を果たしている事に気がつきました。それは、前に少しも述べましたが、それは聞く事と話す事の密接な相関関係の発見でした。そこでわたしは聞くだけでなく話すことも積極的に繰り返してやるようにしました。効果はてきめんでした。おそらく十倍ぐらいのスピードで、聞くだけのときよりも聴く能力の発達をうながしたようにわたしは感じました。
これらのことをもう少し詳しく言うとこういうことになるでしょうか。わたしたちは言葉を耳にするとき、その音を頭で反復しているように思えるのです。反復しながらその意味を感じてっているように思えるのです。そしてなんとなく舌も動いているというか、動き出したがっている様な気がするのです。わたしはその事を前に聞く事と話すことは同じ神経を共同で使っているのではないかと非科学的な表現をしてみました。それほど二つは密接な関係にあると云うことを言いたかったわけです。どうやら、聞くことは話すことを活性化させ、話す事を聞くことを活性化させていることは確かなようです。特にしゃべる事はその作用が強く、そこで、もし、その意味をあまりよく理解していなくても、積極的にしゃべっていたらわたしたちの言語空間なるものは安定したものになり、わたしたちの言語に対する感受性の発達に役立つのではないか。
余談になりますが、わたしは今中国語を学んでいます。始める前、韓国語にしようか中国語にしようか迷いました。韓国語は未知の文字を覚えなければならないが、中国語は漢字だから、これは楽だということで、中国語をやり始めたわけですが、思わぬ障害にぶつかりました。四声という奴です。文法などは少しも気にはならなかったのですが、四声が重要だ重要だと何度もいわれると、そうかなあ、覚えなければいけけないのかな、と思い、なんとか覚えようとするのですが、とても無理、挫折しかかりました。どうやらわたしはかつて英語を勉強し始めたときのように、知らず知らずのうちに内なる官僚主義に毒されていたようです。そんな事は覚える必要はないのです、くり返し聞けばそれで良いのです。おそらく中国人だってそんなものは覚えていないでしょうし、そんなものを意識して発音してはいないでしょう。少しぐらい間違っていても通じるはずです。もし間違っていたらそのつど実践的に直して行けばいいのです。
中国語の発音に関して、ある高名な先生はこんな事を話していました。「もし、十年前に、その発音の微妙な違いのことを教えてくれていたら、その発音の違いがわかり正確に発音ができるようになるまでに、十年もかからなかったでしょう。」と。これは錯誤だと思います。おそらくそのことを知識として教えられても、正確に発音して聞き取れるようになる事には役立たなかったでしょう。発音は実践的なもので時間がかかるものなのです。たぶん、その先生は十年間、中国語に慣れ親しみ、勉強する事によって、ようやく正確に聴くこともや話すことが出来たということでしょう。つまり身についたということです。
わたしは話すことは、声帯とロと舌でやるダンスだと思っています、ダンスは練習によってしかうまくならないように、話すことは話すことによってしかうまくならないのです。
どうでしたか目からうろこ体験になったでしょうか。いや、目からうろこ体験はわたしの方のようです。わたしがこれまで何日にもわたる時間と労力をさいて述べたきたことは、すでに次のようなことわざで簡潔に語られているからです。「習うより慣れろ。」と。プラクティス メイクス パーフェクト なんという先人たちの素晴らしき知恵でしょう。
最後に、貴重な時間を割いてここまで付き合ってくれた読者の皆さんにこんなことをいうのも恐縮ですが。私はこれまでに述べてきたことが間違っていたとしても、それはそれでかまわないと思っています。つまり私よりもはるかに優秀な人の反論によって、または、後世の科学的検証によって、私の考えが根底から覆されても。
なぜなら、私が成果を上げているのは理論や考えからではなく、一つの実践からだからです。
人間は考える事とやる事が一致しなくても別にかまわないのです、所詮そういうものだからです。私がすばらしい反論や批判をうらやみ意地になって私の考えに固執する様なら、それこそわたし自身が「内なる官僚主儀」に蝕まれている証拠でしょう。むしろ私はここに述べられている事が積極的に書き換えられることを望む。もし私がここに書かれていることが、私が行っている方法よりも大切だと思い守ろうとするなら、この小論は有害図書として、図書館や本屋や家庭の本棚に収まっている膨大な数の文法書や参考書と一緒に廃棄されなければならない。だからこの小論から実践の方法が判った方は二度と読まないことをお勧めします。
それから断っておきますが、この方法はあくまでも私のように頭が悪いというか覚えが悪い者だけのための方法です。わたしたちの社会にはとてつもなく頭が良い方がいらっしゃいますから、その中には言いたいことをパソコンのようなスピードと正確さで日本語の文字として思い浮かべ、それを英語の文字に変換し、それを声に出して話し、そして聞くときもそれと逆のことを一瞬にしておこなって、会話を成立させることが出来るという方がいらっしゃっても不思議ではあるません。そういう方は、決して私の方法を真似しないほうが良いでしょう。まあ私には関係のない世界のことですけどね。
でもこれだけは言っておきたい。受験勉強を百年勉強しても英語を話すことは出来ませんが、私のやっている方法を十年やれば英語を話せるようになるだけではなく、半分ぐらいは受験にも役立つでしょう。
わたしのやっている方法というのはとにかく地味で格好悪いです。時間も毎日一時間から二時間はかけなればなりません。それ位やらないと成果はあがってこないのです。(でも、成果を実感すると、それからはとても楽しくなるだけなのですが)というのも、この方法による上達の程度というのは、頭のハードディスクに機械的に記憶する受験勉強と違って、絶対的時間量に比例する様なのです。時間をかければかけるほど上達するということです。このことはすべての人に当てはまるといっても良いでしょう。それは頭のハードディスクは人によって大きな容量差はありますが、人間の肉体的感覚的感受性にはそれほど差がないからです。かといって、それは受験勉強のように短時間で成果が見られるというようなものでは決してないのです。牛歩のようにゆっくりゆっくりと上達していくものなのです。
<受験英語をしっかりやっている者なら誰でも数行ほどの英文を見せられれば、それを十分ほどで意味を理解し暗記し、さらに後にそれを書いて再現して見せることも出来るでしょう。つまりテストには充分だと言うことです。ところがわたしの方法というのは、その数行の英文を聞いて理解し話せるようになるには何日も何ヶ月も、いや人によっては何年もかかるかもしれないということです。それ位時間をかけて地道に、しかも集中してやらないと進歩がみられないものなのです。なにせ、レンガのようなカチカチの脳みそをやわらかい豆腐のようにするという一種の肉体改造をおこなっている様なものですから。おそらく受験勉強の達人は、英単語などは数秒で覚え、つまり暗記し、それをしばらくは、少なくとも十年くらいは紙に書いて見せることは出来るでしょう。
でも、わたしの方法で覚えるということは、その単語または文を聞き取ることが出来それを話すことが出来るということです。聞き取れなければ聞き取れるまで聞かなければなりませんし、話なければ話せるまで話す訓練をしなければならないということです。ですから時間が何日も何ヶ月もかかるのです。だからもし運動機能が鈍かったり衰えていたりするとその時間は人よりさらにかかるということです。それが人によっては何年もかかるという意味です。でもわたしの方法は一度覚えたら一生忘れないと思いますが。
最後に。私がこの暴論を書いたのは決してかつて苦しめられた英語教師たちに対する復讐心から、彼らの存在価値や名誉を傷つけようと思ったからではない。様々な状況で生きることに迷い悩む多くの若者たちが、本来はもっと自由で伸び伸びとし可能性を許容すべき教育の現場においても、特に英語教育においては、間違った教育をおしつけられ、既得権益にしがみつく膨大な数のパラサイタ−や内なる官僚主義者の保身や金儲けの犠牲なり、もがき苦しんでいる姿を見るにしのびず、今現在わたしに出来る唯一の手段で、なんとかそこからだけは解放してあげたいと思ったからである。
何度も言うようだが、若者たちは難しい、出来るならば関わりたくない。でも、若者たちは心のそこでは、大人たちの指導を助言を、そして寛容さを必要としている。わたしたちはわが身を細めてもそれに応えて行かなければならない。
それでは本当に最後に、英語を身につけるにはどのような方法が最も良いか、その良い順番に述べていく。
まず一番良いのは、外国に行って実際に職業などについて生きること。言葉を覚えなければ職業に就けないので、いやがうえにも覚えざるを得ない。
二番目に良いのは、留学や遊学で行って短期間でも良いから滞在して、その国の人と積極的に触れ合うこと。友達や好きな人が出来るのはより良い。
三番目に良いのは、英語学校に行ってネイティブの人と知り合うこと。(金がかかりすぎるのは難点だが)
四番目に良いのは、日本にいて外国の人と知り合うこと。もしかしたらこれは三番目よりは良いかもしれない。
五番目に良いのは、わたしがやっている方法を採用すること。(これはわたしのような恥ずかしがりやな人間にとってはぴったりです)
最後に良いのは、つまり最悪なのは、従来通りに学校で受験勉強をすること。
わたしの方法を知った人は、そのやり方があまりにも単純で地味なのでおそらく誰も試みないような気がします。でもぜひやって見てください。すぐ成果を実感できます。病み付きになります。依存症になればしめたもの。それから注意ですが、この方法は、日本語とは違う聞き取り方や発声の仕方を身につけることですから、わたしたちの体が違う血液を受け付けないように英語に対する拒絶反応のようなものがおきます。でもそれは忍耐と頑張りと時間が解決してくれます。それは脳が管轄する場所は日本語と英語は違うということなのでしょうか。詳しいことは後世の人の研究に。
わたしは、ほとんどの学校の先生は、誠実で使命感にあふれ、若者たちの将来のことを考え、よりよい学校に入ってもらおうと日夜努力して、指導してきてくれていることを知っている。だがその内容が、将来若者たちが生きていく上でどのように役に立つかは別のことだ。この詳論で私は学校の英語教育は無意味だ役に立たないと言ったのだから、きっと全国の何十万という有能な学生思いの心やさしき英語の教師の皆さんや、その周りに群がる何百万という仕事熱心な関係者の皆さんの感情を害しプライドを傷つけたに違いありません。人によっては怒りの炎を燃やし始めている人もいるに違いありません。そのことはほんの少しばかり申し訳ないなと思っています。でもそれと真実は別です。なぜか大人たちは本当のことを言おうとしません。でもわたしは言います。
最後の最後に、ほんとの最後に、ダンスは練習することによってしか上達しないように、聞くことは聞くことによってしか上達しないし、話すことは話すことによってしか上達しない。
言葉の持つ高度な知識蓄積能力や情報伝達能力は副次的なものであり、本質は会話にある。その始めは我が子を慈しむ母親とその母を神のように信頼する子供の絆にある。
本当のことを言うと世界を凍らせるそうだ。でもわたしの場合正気を失っていくようだ。

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