やがて秋が




に戻る  

          はだい悠






 九月になったというのに、工事現場は、ぶり返した真夏の暑さに襲われていた。少し動いただけでも、吹き出す汗で、全身がびしょびしょになるほどの蒸し暑い朝が連日にわたって続いている。
 もう、ユンボはうなり声を上げて動いている。健はトラックから道具や材料を降ろしている親方のところに近づいていった。
「西さん、どうして赤パンツにやらせるんですか?」
と、健は、ユンボのほうを指差しながら顔を真っ赤にし、少し興奮気味に言った。
 親方である西は、少しも表情を変えず、いやむしろ不機嫌そうに健のほうに目をやると、
「良いから、早く降ろせ。」
と、怒鳴るように言うなり、その場を離れて行った。
 健は爆発しそうなくらい不満であったが、親方の命令には逆らうことが出来ず、残りの荷物を降ろし始めた。ただ、頭の中は、興奮するといつも思い浮かべる言葉、「いつ止めたって良いんだよ。」とか「オレが止めたらどうするんだよ。」という言葉が駆けめぐっていた。  

 ユンボは本格的に地面を掘り始めた。

健の不満の原因は、当然自分がやるべきだと思っていたユンボの運転を、昨日入って来たばかりの男に横取りされた格好になったからであった。おとといまでユンボの運転は、(その他の重機についてもそうであったが) 健より三十も年上の先輩で大ベテランの平三の仕事であったが、彼は痔の手術で二ヶ月休むことになった。

 二年前、健が西の下で働くようになったとき、平三の熟達した操縦振りを見て、あこがれるようになり、また親方の西と違い、その穏やかな人柄に触れて尊敬するようになっていった。そして、以前から重機の操縦に興味を持っていたこともあり、いずれは自分もやりたいと思っていた。だが、平三が居るあいだは、自分がやりたいなどということは、暗黙のルールを破ることであり、また、触れてはならない何か神聖なものを汚すような気がして、自分がやるときは、ちゃんとその順番があると思っていた。
 それで、今までは、ときおり、休み時間などを利用して、平三の許可と指導のもとで、遊び半分で運転したことがあるだけだった。ただ、健は正式に免許を取って、早く一人前になりたいとひそかに考えていた。

 そのようなときの平三の病気による休みは、自分の願いがかなう絶好のチャンスであった。そこで昨日から本格的に訓練を始めたのであった。最初は失敗の繰り返しで、作業の障害になっていたきらいはあったが、夕方には、どうにかまとまりがつくようになり、何とか自信が持てるまでになっていた。
 ところが、これからというときに、年齢は確かに健よりは上であったが、昨日入って来たばかりの、しかも、どこの馬の骨ともわからぬ男に邪魔をされたのであるから、憤慨するのも当然であった。
 健にとって、その得体の知れない男は、昨日、黄色いTシャツに、赤いトレーニングパンツをはいて工事現場にやってきた。昨日は初めてのユンボの実践に夢中で、その男の仕事振りは判らなかったが、その赤いトレパン姿が目立ったので、名前の秋男とは呼ばずに、軽視と侮りの意をこめて、赤パンツと呼んだのであった。ただし、それには、昨日からの秋男のだいたいの印象と、今朝の行動が大きく影響していた。

 十九歳の健にとって、自分よりも十歳も年上の秋男に対して、ふだんのように少しぐらいは敬意を払ってもよかったのだったが、その服装の印象からして、仕事にまじめそうには見えなかったので、どうしてもそんな気持ちにはなれなかった。さらに、全体の雰囲気からして、なんとなく自分とは違うものを感じていたので、これから仲良くやっていけそうな気持ちにもなれなかった。むしろ、不安のほうが大きかった。

  そういう思いのなかでの今朝の秋男の行動は、それがたとえ西の許可を得たものであっても、上下関係や順位や暗黙のルールを特別に大事にしてきた健にとっては許しがたい掟破りだった。

 親方の西にとっては、ユンボの運転を健がやろうが秋男がやろうが、それほど重要なことではなかった。ただ、社長からの話では、秋男はどうやらユンボの運転が出来そうだということを聞いていたので、それを試してみたいという気持ちがあり、また、健は仕事全体の流れを知っているので、健には従来どおりの仕事が、秋男にはユンボの運転が都合が良いのではないかと思っていた。それで、朝一番に、秋男が自ら進んでユンボのエンジンをかけ動かし始めたときには、それが西には意欲の現れと移り、さほど気にも止めなかった。だから、健の抗議は取り上げる価値のないものであり、また、最近、それほどでもないが、なぜか、二年前に入ってきたときのような、もたつきぶりがどことなく感じられ、不機嫌に無視したのであった。

   西にとって、秋男という男は、まだ判断がつかなかった。つまり、仕事が身につかず、また覚える気もなく、短期間で止めていく人間かどうかということである。今まで、そのような人間を何十人と見てきて、物になるかならないかを見抜くことの出来る眼力を身につけてきたつもりである西にとっても、まだ一日だけなので無理もなく、もう少し時間が必要であった。ただ、昨日始めて秋男を見たとき、その全体の雰囲気や印象からして、この仕事は半端な気持ちでやっていけないことが判っていたので、そのうちにやめていくだろうという気持ちが支配的で、あまり期待する気にもなれなかったのも正直なところだった。

 現場での指揮権は全面的に西に与えられていたが、新しく作業員を採用する権限は、基本的に社長であるオヤジが握っていた。そのため、どういう素性の人間がやってくるかは、当日まで判らない事がほとんどであり、西とオヤジの思惑が食い違うこともしばしばであった。そして、今回の秋男の採用にあたっても、西はそれほど新しいメンバーの必要性を感じてはいなかったが、オヤジのいつもとちょっと違う、どうしても断りきれなさそうな雰囲気におされて引き受けたのである。だが、このような対立や食い違いは日常茶飯事で、感情的なしこりとなって残るというようなものではなかった。

 新しい人間を採用するにあたっての基本的な考えや方針は、たとえその人物が、どんなにその第一印象が悪くても、いっしょに働きたいというのであれば、決して断らないということであった。だから、過去がどうのこうの、たとえば犯罪歴があるなどということは採用時に話題になることはなかった。ましてや、今現在ちまたで評判が悪いなどということは、まったく問題にならなかった。寛大といえば寛大、大様といえば大様であるが、使ってみなければ判らないというのが、長い間の経験から得た本音であり原則である。特に、ほとんどの人々から敬遠されがちなこのような過酷な肉体労働においては動かしがたい大真理である。そして、万が一もめごと等があれば、たとえば従業員同士の喧嘩などがあった場合には、内部でひそかに、それなりに処理する知恵と力をこれもまた長い間の経験から得たものであるが、十分に持っていた。

 健はおとといまでの仕事に戻った。慣れ親しんだ作業だけに、肉体の興奮は程なく収まったが、意識はずっと秋男の行動を監視するかのように注意深く、そして排除するかのように冷淡に向けられていた。

 健から見て、秋男の運転は、決して自分より上手であるようには思えなかった。だが、このまま続けていけば腕を上げ自分を追い抜くことは確実であった。そう思うと、あせり興奮し、全身から冷や汗が流れるのを感じた。どうしてもユンボの運転を秋男に譲りたくなかったのだ。

 だが、健の不安はあっけなく解消された。午後になって、秋男は、神経が疲れるからやりたくないと言って、運転を放棄したのである。秋男に対して、ひそかに闘争心を煮えたぎらせていた健にとっては、なんかはぐらかされたような物足りなさを感じたが、内心では大声をあげて叫びたいほど勝利感に酔っていた。

 見知らぬ群れに迷い込んだサルが、警戒され監視されるように、新しく入ってきた人間は、その具体的な仕事振りや言動から、どういう人物であるかが判るまで、しばらくのあいだ、先輩たちの厳しい目によって、評価の対象にさらされるのである。

 秋男の行動は、他の作業員たちに、根気のない奴、むらっけな奴という評価をもたらした。だが、親方の西は、もっと鋭く見抜くことが出来た。その長年の経験に裏打ちされた本能的とも言える肉体的感覚を通して、材料の運び方や、スコップや一輪車の使い方から、その力量を嗅覚のごとき鋭敏さでかぎ分けることが出来た。西の評価は、このような仕事にはほとんど経験がないということであった。年に数人くらいはやってくるロ先だけの人間のような。だが、それでは、この男は今まで一体なにをやってきたんだろうかという疑問が残る。

 午後になって、先輩たちは、秋男に新しい評価を加えることになった。おしゃべりな奴というものであった。それによって、西の予想通りロ先だけの人間という可能性が強まってきた。

 それは午後の休憩時間に、秋男の舌が急に滑らかになったことにあった。 おしゃべりが周囲の注意を引いて面白いものなら、疲れてロも聞きたくない者たちが集まって居る沈んだ雰囲気のなかでは、疲労回復のための余興となるものであったが、秋男のおしゃべりは、面白くもなければ、仲間と積極的にコミュニケーションをとるというようなものでもなく、自分の言いたいことだけを、ただダラダラと話すというもであったため、気に入らない人間からは反発を買うだけであった。

 秋男は、このような肉体労働には申し分ないくらいに、がっしりとした肉体をしていた。おしゃれには特別気を使っているらしく、髪は短めにきちんと整えられ、芳香を放っていた。その太い眉と大きな目と角張った顔からして、外見的には、他のものたちよりも、男らしさと力強さを感じさせるほどであった。ただ、その目はほのかに光を放っているように、ぼんやりとしているたる、見方によっては、始終にやけているようにも見える。

   秋男は終始一人で何か面白いことをいってはその顔をほんとうに、にやけさせながら声をあげて笑った。たとえ、同調者が居なくてもだ。だから、たまに同調者らしきものがいたりしたときには、その顔は得意げになり、笑い声は一段と高くなった。

 そして、休憩が終わりに近づいたころ、話の成り行きで、北川、西、健の三人の出身地が東北地方であり、自分と社長は、この大都市の出身であることが秋男の知るところとなった。すると、それを知ってか知らずか、そのあと、三人にはなんとも受け入れがたい新説が、にやけ顔で話し続ける秋男のロから飛び出した。
「みなさんは、田舎の土方と都会の土方の違いを知ってるかな。」
「おんなじだよ。馬鹿だなあ、お前は。みんな田舎からこっちに来て仕事をしてるんだから、同じ人間じゃないか。」
と、それまで秋男を指導しながらいっしょに仕事をしてきた北川がロをはさんだ。その最後のほうは、反論するのもばかばかしいといった風に、つぶやくように小さくなった。それを耳にして、秋男はさらに得意げに話し始めた。
「それが違うんだよなあ。同じ人間でも田舎に居るときと、都会に居るときでは違うんだよ。田舎の土方は色が黒い、それに比べて都会の土方はそれほどでもない。それに、言葉づかいや歩き方もどことなく違うね。それよりなんといっても匂いが違うね。田舎の土方は、いかにもいなかくせぇって感じ、都会の土方は、都会の匂いがするね。まあ、俺とか社長はいい匂いがするね。まさに都会の匂いだね。いや、心配しないで、皆さんだってもちろん都会の土方だよ。俺ほどいい匂いをしてないけど。都会に居るあいだはもちろんみんな都会の土方だよ。ハハハハ、、、、」
 他のものは、秋男が一体なにを言いたかったのか判らなかった。自分たちがほめられたかのようにも思われたが、けなされたようにも思われた。だが、その印象はますます悪くなるばかりだった。
 休憩が終わり、それぞれの仕事場に戻るとき、北川がささやくように健に言った。
「あいつは、かっこつけ男だよ。汚くなることしようとしない、重いもの持とうとしない、とんでもねえやろうだ。気をつけろよ。」
 健よりも、二十も年上で、西の下で十年間働いてきた北川は、酒好きを思わせるように顔は赤黒く、小柄ではあったが足腰が強そうながっしりとした体つきをしていた。だが、全体の印象としてはサルのように不恰好であった。
 健は、北川の話にあわせることは出来なかった。というのも、北川は普段は温厚な人で人の悪ロを言うような人間ではなかったので、健は意外な感じがして、少し戸惑ったせいもあったからである。でも、それよりもなによりも、健は、自分よりもユンボの運転がヘタクソな秋男が、操縦に関してえらそうに指図することが許せなかったので、もし、午前のように、午後もそのように何かを言ってきたら、そのときは、と高揚した気持ちになっていたからである。ただ、秋男に対して不満を持っているのは自分だけじゃないと思うとなんとなくほっとした気分になった。
 親方の西は仕事のことで頭がいっぱいなのか、休憩時間の終始無表情だった。


 それから三日後、真夏のような暑さはまだ続いていた。
「この現場に入ってから七日目か。」
と、西は、ひとり作業の手を休め、現場全体を見まわした。仕事のはかどり具合を見るためだった。かけた日数や、投入した人数から考えると、どうしても、はかどっているようには思えなかった。

 まつげにかかる汗を瞬きで振り落とすと、今日は姿が見えない秋男のことが頭に浮かんできた。「奴が着てから五日目か。」と頭の中でつぶやいたあと、「昨日、腰が痛いといっていたから、それでかな。」と思った。

   それまで西は、秋男に対してそれほど期待もしていなかったが、見放してもいなかった。それは、仕事においては、感情的な人間関係がどれほど作業に悪影響を与えるかを、身を持って知っていたので、出来るだけ感情的な見方や接し方をしないように心がけていたからである。しかし、昨日の様子と今日の休みで、もう、来ることはないだろうとなんとなく予感した。だが、それよりも、今朝早く社長から電話があって、「明日、現場の様子を見に行く。」といったことが、ずっと、頭の上にのしかかる重りのように気になったいた。その主な原因は、今では不安にまで高まっていることであるが、「秋男を一人前とみなしている社長は、現場を見て、そのわりにははかどっていないと、きっと、指摘するに違いない。」と思っていたからである。西は、仕事がはかどらない原因は、ぶり返した暑さや、秋男が入ってきて、現場の雰囲気がとげとげしいものになったことにあるのではないかと、なんとなく思っていた。だが、決して言い訳はしたくなかった。それは西のプライドである。

 出入りが多く、そう従業員数はいつも十人以下、建築の基礎工事を専門に請け負うこの会社に入って十五年、西は四十歳になっていた。このような業種において、社長と親方の関係が十五年も続くというのは、親戚でもない限り、きわめて稀なことである。それについての特別の秘訣はなかった。気がついたら十五年も経っていたといった程度のものでった。

 仕事を離れているときの西は、ひょうきんで冗談も言うが、いったん仕事に取り掛かると人が変わったように厳しくなる。普段からあるその眉間のしわをさらに深くさせ、不機嫌と思えるほどの乱暴な言葉づかいで、指示を与え、同世代の北川とは比較にならないほどの緊張感を漂わせながら、動物のように敏捷に、しかも力強く動きまわっては、その肉体だけでこの仕事の過酷さを周囲に訴えているかのようであった。

 そ親方というものにとっては、絶対条件のように必要なことであり、西はなるべくしてそうなったのである。というのも、このような会社にはどんな得体の知れない人間が入ってくるかわからない、そんな人間と渡りあい、手なづけ、服従させ、手元を育成と、部下に命令をくだし、全体を統率しながら、実績を上げていかなければならないからである。

 西は、秋男とは対照的に、身なりにはまったくといって良いほど気を使わないタイプの人間であった。頭はいつも坊主、顔は日に焼けて年中真っ黒、体も小柄でそれほどがっしりとはしていなく、背中を丸めがに股で歩く姿は、北川よりも遥かにサルに近く、一見してこっけいで、自分を取り囲む物質の世界に屈従しているかのように見える。だが実際は、仕事中は、その集中力と厳しさで、風景に溶け込むかのように充実しているのであるが。だから、見知らぬものが、その人間離れした容貌とサルに限りなく近い不恰好さを目にしたら、彼がどういう職業の人間であるか、苦もなく当てられるほどである。だが、彼がそうなったのは、ただ単に長いあいだ、自然のなかで日差しと風雨にさらされた過酷な労働にその原因があったというだけでなく、彼が、余計な観念など入り込む余地のない、物質と肉体との純粋で合理的な関係に、無心に身をゆだねたせいなのである。だから仕事において、本能的とも見える彼の直感の目にかなうものは、常に正しく、そして受け入れられるが、かなわないものは誤りであり、そして容赦なく排除されるしか仕方がないのである。

 その日は暗くなるまで仕事をした。明日オヤジが来るというので、西はどうにか形のついたところで終わりたかったからだ。それについては北川も健も賛成した。
 そしてその晩、西は二人を飲みに誘った。
 そこは様々な職人が集まる飲み屋で、ここ二年ほど西の行きつけの店になっていた。テーブルとカウンターに分かれ、十人も入ればいっぱいだった。店はいつも雑然としており、お世辞にもきれいとは言えなかったが、西にとっては、何よりも主人の人当たりのよさが気に入っていた。
 なかは、一日の終わりを、快楽でしめくろうとする人々でにぎわっていた。ちょうどテーブルの席がひとつ空いていた。三人は、これから始まるささやかな宴を待ちきれないかのように、笑顔をかわしながら落ち着きなく席についた。

 健は今の仕事について二年になるが、先輩たちについて判った事は、彼らは今現在みんな独り者であるということだけで、それ以外は知らないも同然だった。というのも、先輩たちは自分の過去や私生活についてはあまり語りたがらなかったからだ。そのような傾向は、長く勤めている先輩だけでなかった。入ってきては、合わないといって短期間で止めていくものから、その日一日の飯のためだけに入ってきては、夕方には消えるように居なくなってしまうものまで、みんなに共通していた。
 この飲み屋にやってくるものも、みんなそんな連中といってよかった。他の客に比べて、十九歳の健は、場違いと思わせるほどに若かった。普段は、客のほとんどは、四十代五十代で、なかには今にも行き倒れになりそうな、相当くたびれた人間も頻繁に出入りしていた。
 当初健は、家族を持たず、社会にも関心を持たず、仕事を終わってからの酒が唯一の楽しみであるかのような先輩たちのようにはなりたくないと思っていたので、誘われても、しばらくのあいだは適当に理由をつけては断り続けていた。しかし、今では、このように飲み屋に入り浸りになる先輩たちは、普通の人々より、ほんの少しだけ自分に関心があり、ほんの少しだけ自分の欲望に忠実で、ほんの少しだけ自分に正直で、ほんの少しだけ生きることに不器用なだけで、根は良い人たちであることがわかってくると、今では先輩同様、酒が唯一の楽しみであるかのように思うようになり、誘われると喜んで応ずるようになっていた。

 西は店に入ったときから。職人らしからぬ風情の一人の男が気になっていた。その男は、西たちから最も離れたカウンター席に座っていた。ビールを思いっきり飲み干したあと、その男のほうに目をやった。その男は今日仕事を休んだ秋男だった。そして、西が気づくと同時に、秋男も気づいたようであった。見違えるほどにきちんと身なりを整えた秋男は、親しみをまったく感じさせない笑みを浮かべて、西のほうを見ただけであった。
 西は顔を動かし二人に知らせた。
「いっちょまえに女連れだぜ。」
と、健が驚いたように言った。それを聞いて、北川と西は再び目をやった。
「なに、そのへんのあばずれよ。あぶないぞ。」
と、北川は吐き捨てるように言った。だがその言葉を最後に、なぜか三人のロ数は少なくなり、ひたすら飲むだけになった。三人とも女性に関しては要領が悪いほうだった。

「サルだよ、サル。百姓だよ、百姓。そんなのと一緒に仕事なんかできないよ。」
 店内は騒々しかったが、三人にはそれが秋男の声だとわかった。だが三人はお互いに聞こえない振りをした。しばらくすると、秋男と女は席を立った。秋男は、出入りロのところで、三人のほうを見ていった。
「やあ、秋田のお兄さん、岩手の先生、それから青森の大先生、お先に失礼、アハハハハ、、、、」
そう言い終わると、秋男は女の腰に手をあてそれを押すようにして店から出て行った。その高笑いは、三人にとって、今まで聞いたなかでいちばん響き渡ったかのように思われた。

 西の頭の中では一つの疑問が解けかけていた。
 それは秋男がきて三日目のことだった。西が自ら腰をかがめて、作業やり方を示しているとき、それを上から見ていた秋男がいきなり例の高笑いをしたのであった。西は顔には出さなかったが、これを見て笑ったのではないかと疑った。これとは西の癒着して変形した耳のことであった。それは生まれつきのものであったが、どんな形にせよ、それに触れられることは、色々あった過去の嫌な事が思い出されて、どうしようもなく辛いことであった。そこで西は、秋男が笑ったのは、何か別のことが原因で、自分の耳のことではない、気のせいだ、自分の思い過ごしだ、ということにしていた。そう思い込むことが気が楽であったからだ。しかし、さっき秋男が、「青森の大先生。」と言ったとき、西は、秋男が自分の耳を指でちょんちょんと触れたのをハッキリと見て取った。そして西は、実はあのとき、秋男は自分の変形した耳のことを笑ったのだということを思い知らされた。
「いったい、奴に何をしたというのだ。奴のために色々教えてやったではないか、失敗しても大目に見てやったではないか、決して見捨てなかったではないか。それなのに、なぜこうも、馬鹿にされ、侮辱されなければならないのか。」
 そう西は頭の中でつぶやきながら、裏切られたような悔しい思いでいっぱいになった。
 西は、動揺を隠しながら店の主人に聞いた。
「オヤジ、今の客、秋男、よく来るの?」
「いやあ、一年に一回来るか来ないか。なんせ、前にきたのは、だいぶ前ですからね。」
「今、俺のところで働いているんだよ。」
「あっ、そうなんですか。いやあ、あの男とはあまり関わりたくないですよ。とにかく払いが悪いんで。前のだってまだ払ってないんですから。今日だって、あれは女が払ったんですよ。そうなんですか、西さんのところで働いているんですか。誰かと思った。仕事のやり方が悪い田舎もの、なんて言うもんでどんな親方かと思いましたよ。」
「オヤジさんは奴のこと知っているの?いったい奴は何者だい?」
「知っているといえば知っている。なにせ噂なんでね。相当の悪みたいですよ。親兄弟からも見放されて誰も引き取りたがらないそうで、最近、出てきたって、聞いてはいたんですがね。まさか、西さんのところで働いているとは思わなかったね。」
「出てきた?」
「ええ、なんかつまらないことをやったみたいですよ。」

 そのとき、秋男の後を追うようにして出て行った健が帰って来た。そして席に座ろうともせず、興奮して言った。
「ばかやろう、ざまあみろってんだ、持てるわけないだろう。」
 西と北川は、健が出て行ったことにまったく気づいていなかったので、いきり立つ健を不思議そうな顔で見ていた。北川が聞いた。
「お前、どこに行ってたんだよ?」
「いや、秋男の様子を見張ってたんだよ。思ったとおりだ、振られてやんの。」
「お前、なかなか気が利くじゃないか、仕事のときもそれくらい気が利けばいいんだけどな。」
 北川のからかいは、健は照れ笑いを浮かべ頭をかきながら席に座った。そして、大げさな身振りで言った。
「それより、雨だよ雨、雷だよ雷。土砂降り、すごいんだから。」

 秋男が居なくなったので、三人は酔いにまかせて堰を切ったように話し始めた。
「あいつが一人前と数えられたんじゃ、かなわんよ。」
「俺が十結ぶのに、奴は一つか二つだよ。ときどき、これじゃだめだって、あとで俺がやり直すんだよ。やり方が悪いだと、笑わせるな、足を引っ張っているのは秋男じゃねえか、、、、」
「なんで奴は仕事の準備をしないんだ。俺がやるあいだ、突っ立ってみてるだけだよ。もし明日もそうしてたら、今度は絶対に言ってやるんだ。
「すぐ腰が痛い、腕が痛いって、でけえ、ずうたいしてるくせに、根性がないんだから。」
「やる気がないんだよ。」
「俺たちをなめてんだよ、そうだよな、西さん。」
「うん。」
「強引なんだよ。あっちにぶっつけ、こっちにぶっつけ、ユンボがかわいそうだよ。もう絶対奴には触らせねえ。」
「やり方が悪いだと、百年はやいわ。何様だと思ってんだ、とにかく俺たちを馬鹿にしてるんだよ。」
「百姓と来たか。そうだよ百姓だよ、百姓で悪かったな。」
 ときにはかみ合わないことこ、また、ときには、捏造や誤解や誇張もあったが、とにかく、繰り返し繰り返し、秋男に対する不安や悪ロが心置きなく語られた。
 自分の過去や私生活についてあまり語りたがらない人々にとっては、目の前に居ないものに対する不満や悪ロを、酒の肴にするしかなかったのだ。

 三人は外に出た。 
 雨は小降りになっていた。北川と健は言いたいことを言ったという感じで、陽気であった。しかし、西の腹の虫は収まっていなかった。
「よし、決着をつけてやる。行くぞ。」
 そう言って西は黙々と歩き始めた、北川と健は、その意味を悟った。だが、なだめることも反対することも出来なかった。
 秋男のアパートの前に来たとき、三人の酔いは醒めていた。
 部屋の電気はついていた。
 西がドアを叩いた。返事がない。今度は強く叩きながら言った。
「百姓だよ、百姓が来たよ。」
 返事がない。
「居ないかな?」
「いや、居るよ。今、窓に影が映った。」
と、北川が言った。西はさらに激しくドアを叩きながら言った。
「出ないつもりだな、よし、それならこっちにも考えがあるぞ。オイ、良いから、出てこい、居るのは判ってんだぞ。だめだ、あかねえ。チクショウ、オイ、健、お前は、奴がここから逃げられないように見張って居ろ。北さん、向こうへまわろう。」
   西が予想したとおり、ドアと反対側の掃きだし窓にはカギが掛かっていなかった。もちろん、たとえカギか掛かっていても窓ガラスを破るつもりであったが。西は決意を固め、勢いよく戸を開け中に入った。すぐ後に北川も続いた。隠れようとしていたのか、秋男は押入れの戸を開けているところだった。西はずかずかと近寄り、その筋肉質の腕を伸ばして、秋男をつかもうとした。秋男は相変わらずにやけてはいたが、声は出ず、両手を伸ばして、自分につかみかかろうとする西の手を、何度も何度も振り払い続けた。それは、暴力はよせ、話せば判ると言っているようでもあった。なかなか秋男をつかむことの出来ない西は、業を煮やしたのか、今度は体ごと挑みかかった。それに合わせるかのように秋男も抵抗した。二人は無言のまま組み合い、激しく壁にあたり、もつれ合い、倒れ、うなり声を上げて転げまわる。体格の上では秋男のほうが遥かに勝っていたが、気力では西のほうが勝っていたのか、まもなく西は秋男を部屋の隅に追い込み、片手でシャツの胸倉をつかみ、もう一方の手でひじを秋男の喉に押し当て、完全に身動きが出来ないようにひざで腹を押さえた。西は、それでもまだ秋男が抵抗しようとするので、さらにひざに力をこめ、渾身の力でシャツを絞り上げた。抵抗の力が徐々に緩んできて、秋男は苦しそうな表情をして弱々しいうなり声を上げた。西は今、子供のころのけんかで相手を完全に打ち負かし、その相手に泣きべそをかかしている様な気持ちになった。そして、自然と全身の力が緩んでいった。だが、秋男はその隙を狙ったかのように、すばやく西の両手を払い、ひざを押しのけ、脱兎のごとく窓から飛び出して行った。

 西はこのやろうと再び怒りが沸いてきたが、それも一瞬で逃げる秋男を追いかけるほどではなかった。くちほどにもない奴と呟きながら、、逃げる秋男の姿を、掃きだし窓の所にたったまま目で追うだけであった。終始手を下すことなく見ていた北川も、物音を聞きつけて、こっちにまわってきていた健も追おうとはしなかった。

 雨が上がり、街頭の光できらきら輝く道路の上を、秋男ははだしで必死に走った。五十メートルほど先の曲がり角にさしかかろうとしたとき、追って来る気配がないと判ると、後ろを振り向きながら小走りになった。そして曲がり角に差し掛かると、歩みを止め、ブロック塀に手をかけ、上半身だけをのぞかせ、激しい息づかいをしながら、今逃げてきた道のほうに、獣のような視線を投げかけた。そして、勝ち誇ったかのような笑みを浮かべると、そのまま塀の陰に消えていった。

 次の日。現場にはもちろん秋男の姿はなかった。
 朝、仕事を始めようとしていたとき、社長がやってきた。
 西は、言われる事はだいたい悟っていた。もし言われたら、洗いざらいぶちまけようと思っていた。
 社長は、散乱する板切れや土砂で歩きにくい現場を、よろめくたびに贅肉を震わせながら、西のほうにやってきた。そして、ゆっくりと現場全体を見渡したあと、西に穏やかな表情で話しかけた。
「すごくはかどってるじゃないか、こんなに進んでいるとはね。相当、頑張ったんだね。」
「えっ、」
と驚いたように言いながら西は社長の顔を見た。北川も健も見た。西は冗談か嫌味かと思った。だが、社長は心のそこから気分が良さそうに笑みをうかべていた。本心のようだった。
「みんな、やれば出来るじゃないか。平さんが居ないからどうかなと思っていたけど。今年はボーナス期待できるかもね。」
社長は上機嫌な様子でさらにそう付け加えると、もう少し詳しく現場の状態を調べてみたいかのように、西のもとを離れて歩き出した。

 西は今の今まで仕事がはかどっていないと思っていた。健や北川もそのようであった。それは秋男の所為だと思っていた。だが、西は、社長の言葉で、今までの現場と比較してみた。そしてなにげなく空のほうに目をやりながら、そういえばそうかな、それほど遅れてもいないかな、と思った。だがハッキリとは判らなかった。、そのうちにだんだん何がなんだか判らなくなってきた。ただ、周りが秋の気配になっていることだけは判った。





に戻る