ж ж ж ж ж ж ж ж 夢の始まり(第一章) 狩宇無梨 «再会の章» 第七紀元745年(注1)秋。 恒星はすでに西の果てに沈んでいたが、数万年 前に崩壊した遥か彼方の星の光が、地平線を超え て覆いつくすミスカンサスの草原を銀色に輝かし ている。 なだらかな起伏で連なっているその草原の間を 人間が通れるくらいの細い道が曲がりくねりなが ら続いている。 ミスカンサスの花がときおり風になびくその道 を今一人の若い男が歩いている。 行く先の見えない道にもかかわらずその男の表 情には少しも不安の影はない。 男の名はラクル。 そしてその道の反対側からは一人の若い女が歩 いている。男と同じようにその若い女の表情にも 不安の影はみじんもない。 女の名はミヨン。 やがて二人とも視界の広がる平地に至ったとき、 その距離はまだかなりあったにもかかわらず、そ のお互いの姿を確認した。 そして近づくに従って二人の顔にはみるみる喜 びの笑みがあふれていった。なぜなら二人ともこ の邂逅の意味をすべて知っていたからである。 二人はお互いの顔をはっきりと判るまでに近づ いていた。 もう二人の顔には笑みだけではなく涙もあふれ ていた。 二人が目の前まで近づいたときラクルはミヨン を抱き寄せ話しかける。 ラクル 「やっと会えたんだね」 ミヨン 「そうね」 ラクル 「長かったね、何十万、何百万、いやもっと?」 ミヨン 「判らない、でも、私にとっては一瞬のような」 ラクル 「そうだね、今となっては一瞬のようなものだね」 ミヨン 「夢で?」 ラクル 「そう夢で、いつ?」 ミヨン 「昨夜」 ラクル 「私も。夢では、ここまでくるのに 色んなことがありすぎたみたいだけど、 でも、とうとうこの日が来たんだね。」 ミヨン 「私も、でもそれほど大変だったという 気はしてないみたい」 ラクル 「僕もそうみたいだ。何が起ころうとも すべて運命として受け入れていたみたいだ」 ミヨン 「そうなのよね、わたしも」 二人は手をつなぎラクルが来た道を 歩き始める。 そしてラクルは北の空を見やりながら ミヨンに話しかける。 ラクル 「僕たちが最初に出会ったのは、紀元前 三千年ごろ、竜座のアルファ星が北の極 みを示していたころのようだね。その頃 僕は尊師の従者として二十年ほど旅してい た。そしてとある町に留まることになった。 やがて尊師は覚者として町の人々に知ら れるようにになり、その評判は四方の 村々にまで知れ渡るようになった。 ある日尊師のお供をして、とある村はず れのカヤの大木の下で休んでいるとき、顔 も体も黒ずんだ麻布に身を包んだあなた が現れ、麦粉の焼き物をごちそうしてく ださり、そして壺から冷たい水を手や足 にそそいでくれました。その時の生きか えるような思い決して忘れるものではあ りませんでした。それからしばらくして、 僕がひとりでその村はずれを歩いている とき、広い麦畑で落穂ひろいをしている あなたを見かけました。しばらく見ている とあなたは作業をやめて私の方に向かって 来ました。そして僕に気付くと小さな声で 挨拶してくれました。でもそのまま森 のほうに向かって歩いていきました。僕 は少し離れて後をついて行きました。森 に入りしばらくすると小さな小屋に入っ ていきました。それは雨露をしのぐだけ のあまりにも小さく、そして粗末な小屋 でした。僕はすぐにその場から離れました。 それから何日後かに、 僕はあなたの住む小屋の近くを通り かかりました。するとまるで予想して いたかのようにあなたに出会うこと ができました。そしていろいろなことを 話しました。そして判りました。あなた は僕よりも二十歳以上も年上であること。 今は親兄弟とも縁を切ったように離れて、 この年までずっと独身で生きてきたこと。 顔も体も麻布で包んでいるのは、他人に は見せられないような体つきや容姿をし ているためであるということ。生活の糧 のほとんどは畑の持ち主の許可を得て行 っている落穂ひろいによるものである ことがわかりました。でも本当にわかった ことは、いや驚いたことは、あなたは とても心情が豊かで情感の深い方で あるということ、そしてなによりも賢い 方であることが判ったのでした。だから 僕はその後何度も何度もあなたのところ を訪ねるようになったのですよ。 あの町に住み始めて数年もたつと、尊師 の覚者としての名声が高まり、多くの 人々が尊師のもとに集まってきました。 その者たちはやがて尊師の弟子と呼ばれ るようになりました。 そして尊師はその弟子たちを集めて菩提 樹の木の下でお話をするようになりました。 ほとんどが弟子たちの質問に答える形でした。 というのも尊師は決して話し上手という わけではなかったからです。 実は僕はそれまで二十年もの間尊師に付 き従っていたのですが、何か特別な教え を受けたということが全くないのです。 それほどまでに尊師は寡黙な方でした。 それでも僕が尊師から離れることがなか ったのは、尊師の言葉からではなく、そ の行動からたくさんの教えを学び取るこ とができたからでした。 尊師の素晴らしい行為は数え上げたらき りはありません。 こんなことがありました。 あるとき、道で言い争っている二人の男 がいました。尊師はその二人に近寄りし ばらく耳を傾けていましたが、何気なく 二人の間に分け入ると、何やら話しかけま した。すると二人は急に穏やかな表情になり、 最後は笑顔をみせながら分かれていきました。 僕は何を語りかけたのか聞きません でしたが、きっと言葉以上の何かが、二 人の男を正気に戻したのだと思っており ます。 またあるときこんなことがありました。 とても険しい山道を歩いているとき、 盗賊が私たちの前に立ちはだかりました。 でも尊師は決してうろたえませんでした。 穏やかな笑顔で盗賊たちを見まわしたあと、 小さく会釈しました。すると盗賊たちは私た ちに道を開けました。 またあるときこんなこともありました。 水不足に苦しむ貧しい村でのことでした。 尊師は村人たちに場所を指定して そこに立て穴を掘るように言いました。 すると二日後にその穴から水が湧き出しま した。 そのとき僕は尊師が水の出る場所を知って いたというより、村人たちが尊師の言葉を信 じて掘り続けたということに驚きました。 他にもこんなことがありました。 水争いなのでしょうか、大勢の人が一つの川を 挟んで罵り合っていました。みんな手に は棍棒を持っていたので、今にも小競り合い になりそうな雰囲気でした。でもそれを見て いた尊師は村の子供たちを引き連れてその川 に入ると、子供たちといっしょになって水を かけあい大きな声で笑いながら遊び始めたの です。するとしばらくすると大勢の大人たち はその場から去っていきました。 またある村では、行方が判らなくなった 子供を村人が総出で捜索しても発見できな かったのに、尊師はわずかな時間で見つけ 出したことがありました。 またあるときには目の前を猛獣の虎が 横切っても微動だにせずそれをやり過ごした こと。 またあるときには、萎れて元気のなく なった花にやさしく触れながら話しかけ ると、次の日にはそれが再び元気になった ことなどなど、ほかにもたくさん不思議な ことがありました。ですからこんなふうに、 僕が尊師に付き従っているときは、尊師から 示唆に富む話とか、教訓めいた話は全く聞い たことがありませんでした。 でも僕はそれで十分でした。満足でした。 なぜなら尊師の不思議な行為からたく さんのことを考えさせられ多くのことを 学んだからです。 僕があなたに、その秘めた心情の豊かさや 情感の深さ、それに物事の理を見抜く知恵 の深さを感じることができたのも、尊師の無 言の教えのおかげだと思っております。 ですからそんな尊師を慕って多くの人たち が集まってくるのは理解できました。 でも弟子たちが増えてくるに従って何か が変わってきました。はっきりと判り易い ところとしては、すべての弟子たちに、 それぞれに役割分担が与えられるように なりました。 僕は尊師の日程を管理するようになりま した。他にも食料を管理するもの、生活環 境を整備するものなど、それから尊師の言葉 を記憶しそれを書き留めるものなどと、様々 な役割が増えてきました。 やがてその尊師の言葉を記憶し書き留め る者たちは、その覚者としての尊師の奥深 い言葉を自分たちだけに留めておくのは もったいないと思ったのか、積極的に街 に出て、その言葉を尊い教えとして広めよ うと考えるようになりました。なにせその 尊師の言葉を記憶し書き留めるものたちは 僕などよりは遥かに弁が立つ利発な方たち でしたから、尊師の詩のように短いその言葉 を、どんな者にでも受け入れられるように 判りやすくかみ砕いて話してくださるので、 その話を聞こうとて次第に多くの普通の人た ちが集まるようになっていきました。そして、 やがてそのためだけの集会場所が各地に作ら れるようになりました。 そのおかげというのでしょうか、私たち は以前ほど生活に厳しさを感じることは なくなりました。でもその反面、どういう わけか、それまで決して起こったことの ないような気持ちに、何かに追い立てられ るような、何かにせかされているような気持 ちに頻繁に襲われるようになりました。 そしてそのことは僕だけではなく、それまで ずっと柔和で穏やかな表情を見せていた尊師が ときおり困惑した苦しい表情を見せるように なりました。何が原因だったのでしょうか、 生活の厳しさから解放され、尊師の教えを広 める優秀な弟子たちに囲まれ、多くのものが 尊師の教えを求めて集まってきている というのに。 そんなある日のこと、尊師が突然 『今度旅に出るからついてくるように』 と僕に言いました。 そのとき僕は尊師の思いを理解したような 気がして、ただ無言で首を垂れているだけ でした。 そして尊師との旅が再び始まりました。 お互いもうかつてのように若くはなか ったので大変でしたが、晴れやかでのび のびとした気持ちで旅を続けることがで きました。でもやがて尊師の最期の時が 忍び寄ってきました。 その数日前でした。僕は思い切って尊師 に質問をすることを決めたのです。 何せそれまでは、あまりにも恐れ多くて他 の弟子たちのように軽々と質問することな ど全くなかったのですから。 そのとき尊師は夕暮れ時の沙羅の木陰で 瞑想をしていました。 僕は腰をかがめ静かに近づき話しかけま した。 『どうしてもお聞きしたいことがあるの でいいでしょうか』と、すると尊師はすべ てを理解しているような穏やかな笑みを浮 かべてうなづきました。そこで僕は言いま した。 『あのとき、断食を始めた尊師は日を追う ごとにやせ細っていき、やがて、あばら骨 からあらゆるところの骨までが透けて見え るようになりました。でも尊師の表情は最 初からほとんど変わりませんでした。そこ には苦しさはみじんもなくずっと穏やかで 柔和でした。それは何か尊師の体内だけでは なく尊師の周囲にも絶対的な静寂な時が流 れているようでした。おそらくそのとき、 尊師は解脱の境地に入られていたという ことなのですね。僕もそのことには間違 いないと思っています。でもその後不思 議なことが起こりました。長い断食も終わり に近づいたころ、ヤギの乳が入った壺を 持った少女が通りかかり、尊師のやせ細 った体をみかねて、その乳を飲ませてく れたとき、その乳が喉を通った後の尊師 の表情が、それまで見たことがないよう な、それまでの柔和で穏やかな表情とは 全く違うような、そう、それはまるで全 身で喜びを表す幼子のような表情 になっていました。そこで伺います、そ のときの境地は解脱の境地とどう違うの でしょうか?』と。すると尊師は、 二度三度と瞬きをした後、遠くを 見つめるようなまなざしでかすかに笑み を浮かべました。そして徐々に僕がそれ までずっと親しんでいた、そのすべてを 包み込むかのような穏やかで柔和な表情 に戻っていったのでした。そして僕もそ れ以上は何も問いませんでした。 それが僕にとっては尊師に対する最初で 最後の問いかけになりました。 それから数日後僕は尊師の最期を看取り ました。その表情は柔和で穏やかでした。 しばらくは鳥の声や風の音さえも止む、 静寂に包まれていました。 尊師はもう生まれ変わることのない涅槃 の境地と絶対自由の境地のままで亡くなら れたのだと思います。 ところで尊師に最初に出会ったのは僕が 十八のときでした。 あるとき、地主である富農に家に、修行 の旅を続けている覚者が逗留しているという 噂が流れました。その方は王家の子息で真理 を極めたたいへん知恵にあふれた方とい うことでした。 その頃は、その後数百万年にわたって続く、 正義を掲げて人殺しが正当化された戦争によ る破局と混乱の時代と違って、現在のように 人と人が殺しあうことのない全く平和な時代 でした。 少年のころの僕は、そんな穏やかな生活 に何となく物足りなさを感じていました。 というのも、西の空に沈む太陽を見ながら そこには何か、こことは違う世界があるに 違いないと、いつも感じるようになってい たからです。 僕はずっと家族との生活には何の不満も ありませんでしたが、でもやがて、 成長していくにしたがって僕は、この世界の 真の姿はどういうものなのだろうかとか、 人間が様々な束縛や苦悩から解放されて 絶対的な自由な境地にいたるには、 どうすればいいのだろうか、ということに心 が占められるようになっていました。という のももし人間がそんな境地に至らないまま死 んでしまえば、その後は、人間だけではなく 他の動物や虫などにも何度も何度も生まれ変 わっては、永久に苦しみ続けなければないと いうことを両親だけではなく周囲の村人から 聞いていたのです。 そして僕はその知者の逗留する富豪の家 に行きました。 それはその方に、世界の真の姿を知り絶対 的な自由な境地になるためにはどうすれ ばいいのか、その方法を聞くためでした。 その富豪の家には他にもたくさんの村人が 家の前に集まっていました。やがて尊師が その家から歩み出て、僕の前を通り過ぎようと すると、ふと立ち止まり、そして僕に 話しかけました。 『あなたの悩み事はわかりました。 どうですか私と共に修行の旅をしませんか』 と、僕は雷に打たれたような気持で呆然と 立ちすくみ、そして思わず 『はい』 と答えたのです。そして師との長い長い旅 が始まったのですた。 でもついにその別れがきたのです。 そういえば尊師が亡くなる二三日前でした。 それまでの長い間、尊師が僕を導き教え諭して くれたことや、僕が尊師からたくさんのことを 学んだことに感謝しお礼の言葉を述べると ともに、尊師のおかげで満ち足りた人生を送 れてとても幸福であったことを尊師に伝えました。 すると尊師は静かな笑みを浮かべて言いました。 『私は、人は果たして人にどれほどのこと を教えることができるだろうかと思っています。 でも人は人から限りなく学ぶことはできます。 人間の偉大さというものはまさに、そういう能力に、 周囲の人や生き物や自然物から様々なことを 学ぶということにあるのですよ。私も、おそらく あなたは気が付いておられないかもしれませんが、 あなたからたくさんのことを学んでおりますよ』 と。それを聞いて僕は自分がいくらかでも尊師の 役にたっていたと思い、涙が出るくらい嬉しく 思いました。そして僕は言ったのです。 『でも僕は、尊師の意向に沿えなかったことが とても残念に思っています。というのも僕は 解脱の境地どころか、いまだにその端緒に さえ到達していないと思っているからです。 確かにこれまでに何度かこれが解脱の境地かな と思うときはありました。でもそれはゆっくり と瞬きをするぐらいのわずか時間でした。 別に転生の世界をさ迷うのは構わないのですが、 尊師の恩に報いてより良き解脱の境地に 達しきれなかったことがとても残念で後悔 してもしきれません』 と。すると尊師はかすかにうなづいて答えました。 『ゆっくりと瞬きをする間のわずかな時間 といいますが、人によっては、そこに永劫の 時の流れを見る者もいますからね。 それはそうとして、最近私は、輪廻転生から 抜け出すために、だれもかれもが解脱の境地に 至れるとは思うないように感じています。 それに誰も彼もが輪廻転生から抜け出すために それが必要だとは思わないようになりました。 もしかしたら人はだれでも、そのその最期のとき "この世に生まれてきてよかった、 幸せな人生を送ることができた" と思うだけで、それだけで死後には 転生から解放されて、永遠の幸せが、 永遠の安らぎが訪れるのではないかと 思うようになっているんですよ』 と尊師は言いました。 それが尊師の最後の言葉でした。 そういえば尊師との二度目の長い旅に出るとき、 使いの者にあなたへの伝言を託したのですが もちろん届きましたよね」 ミヨン 「ええ、あなたが長い旅に出られるという 突然の話に、私は驚きのあまりその場に崩 れ落ちそうになりました。なぜかものすご く絶望的な気持ちになったからです。でも、 それもあなたの修行のためだと思うと、新たな 希望を見出したかのように、沈んだ気持ちも 次第に晴れ晴れとしたものへと変わっていき、 これからのあなたの修行の旅の平穏無事を願う 気持ちでいっぱいになりました」 ラクル 「・・・・・」 ミヨン 「そうですよね、でも伝言の本当に大切なと ころはそこではありませんでしたよね。 その使者の方が最後に、少し言いにくそう にして言ったあなたからの伝言 『生まれ変わったら結婚しよう』 ということですよね」 ラクル 「・・・・・・」 ミヨン 「そのときの正直な気持ち話していいか しら? その伝言を聞いて私は思わずふ っと息を漏らしてしまいました。おそらく 私はそのとき笑みを浮かべていたに違いあ りません。あまりにも突然にそれも、とても 思いがけないことを聞いたからです。なぜなら その頃の私は、"今度自分は何に生まれ変わる のだろうか"とか、"今度生まれ変わったら 何をしようか"などと、というよりは、"生ま れ変わる"などということには、ほとんど 興味がありませんでした。というのも他の人から 自分はどう見られているのかわかりませんが、 私はその頃、自分の生涯を振り返って、自分は 不幸だとか、みじめだとかと思うことは決して ありませんでした。むしろ満足していました。 いつも幸せを感じながら過ごしていました。 まさにあなたの尊師様のおっしゃる通りですよね。 『この世に生まれてきてよかった、生きている ことが幸せだと感じているものは死んだあとは 決して何かに生まれ変わることはない』 っていうことが。それもすべてあのおかげだ と思っています。実は私のあの粗末な家には 神様をお祀りする小さな祭壇があったのです。 そして私は毎日のようにその祭壇にわずか ばかりの供え物をしてお祈りをしていました。 ときにはその祭壇の前で小鳥のように歌を歌ったり 大鳥のようにのように舞を舞ったりしていました。 そのときこそ将に、私にとってこの世に生まれて きて本当によかった、この世に生まれて本当に幸せ だったと思える至福の時間でした。ですから 死後はきっと神様のもとに導かれるに違いないと、 いつもあの粗末な小屋の窓から見える北の星に、 いつもその同じ場所から私を見続けてくれる星に 手を合わせながら思っていたぐらいでしたから。 だからしばらくはあなたの伝言内容を忘れている くらいでした。でもあるとき突然のように思った のでした。生まれ変わってあなたの結婚の申し込み を受けるのも決して悪いことではないと。そう思う と急に新たな希望の光が輝きだしてきたような気が してきて、それまでとは違う種類の幸せな気持ちに なっていったのですよ。それには私にとっては忘 れることのできない若いころの思い出が関係して いるみたいです。私の両親は私が小さいときから 私を家からあまり出してくれませんでした。 出すときは決まって夜で、近くの川に連れて 行って体を洗ってくれました。たまに昼でも 出すときは、いつも体を上から下まで黒い布 で覆っていました。あるとき家の近くで村の 若者たちが集まって何かをしていました。そこ では男も女もいて何かを話したり遊んだりして 皆楽しそうでした。私は外からは見えないように 隠れるようにして、家の窓からその様子を見てい ました。すると私はある一人の青年に目が釘付け になりました。その青年は他の誰よりも形がよく 笑顔が輝いていました。その太陽のような笑顔を 見ているうちに、私はそのときまで覚えたことの ないような喜びが全身から沸き起こってくるのを 感じました。私はその青年のことがどうしようも なく好きになったみたいです。でも私にとっては それ以上どうすることもできませんでした。とき おり家の前を通りかかるのを家の窓から隠れるよ うにしてみているだけでした。やがて私は、両親 がなぜ私を家から外に出そうとしないのか、それ に近所の人たちは私をどう思っているかを知るよ うになりました。そして私が二十歳になるころ 両親はあの森に小屋を建て、私を一人でそこに住 むようにしました。そして私はだんだんとあの青年 のことを思い出すこともなくなっていったようです。 なぜなら私にとってその思い出は底知れぬ悲しみ を呼び起こすだけのものとなっていたからです。 でも、もしもでよ、生まれ変わることで、人の生 をやりなおすことができ、あの若いときのような 心ときめく美しい時間を再び過ごすことができる に違いない、それに、たとえその転生がどんなに 苦しみに満ちたものであったとしても、あの頃に 感じた全身からほとばしるような青春の喜びを再 び味わえるような気がしたからです。 ところでどうしてあなたは生まれかわるので すか?解脱の境地にも達せられ覚者となられた あんなにも高名な尊師様のもとに付き添われてい ながら、どうしてあなたは幸せではなかったという ことなんですか?」 ラクル 「そうなんです、おっしゃる通りですよ、でも 僕には、尊師のような深い解脱の境地には至る ことを妨げるような、どうしても幸せな気持ち にはなり切れないような、身も心も打ち滅ぼす ような後悔の思いをずっと抱えていたのですよ。 僕は、尊師に出会う前は、体の弱い父と母と、 そして妹の四人で、小さな畑を耕しながら生活 していました。そして僕はあるとき尊師に付き 従って旅に出ることを自分だけで決断して、 そのことを母だけに告げました。すると母は それがあまりにも突然だったせいか、何も言わず 驚いたような戸惑ったような眼をして、じっと僕を 見ていました。でも僕はそんな母を無視して家を 出ました。当時まだ若かったせいか、尊師に ついていくことは、僕にとっては "永遠に変わらないものを追いかけての旅立ち" といった感じで、その尊師との旅は新しい世界 が開ける希望の光のよう僕の眼には映っていた ようです。だからそのときの母の眼に現れて いる深い意味を少しも読み取ることができな かったのです。 尊師と旅をはじめて十年、僕は偶然のように通り かかった故郷の我が家を訪ねました。でもそこには もう家はなくなっていました。近所の者に聞くと、 病弱だった父は僕が家を出た五年後に、母も病気で 二年前に亡くなり、妹のことは詳しくは知らないと いうことでした。そのとき僕は初めてあのときの 母の眼は悲しみと絶望を表していたことを 悟りました。 そして僕は気づかされました。人間にとって最も大切 なことはなんであるかということ、そして僕はとてつ もない過ちを犯していたことに。やがて僕は何で 家族を守ってやれなかったんだろうと激しく 自分を責めるようになっていきました。 尊師には悪いのですが、それに比べたら、 この世の真理とか解脱とかにどんな意味が あるのだろうかと思うようになっていました。 それが僕が尊師のような深い解脱の境地には入れない 理由なのでしょうが、でもまぎれもなく、そのこ とがその後もずっと、どうしても解くことのできない 疑問となって僕を悩ませていました。これが当時の 僕がこの世では決して幸せになれないという 理由です。でも僕は生まれ変わることを、たとえ それでどんな転生が待ち受けていようとも、 それらを喜んで受けいれることにしたのです。 なぜなら、生まれかわって過ちのない生涯を送り、 死んだのちは、天に暮らす父や母のもとに出向 いて謝ることができると思ったからです。 もしそのときに、再びあなたと出会い、そして結婚 して幸せに暮らすことができたら、尊師の教え通りに 僕は死後には転生から解放されて、永遠の幸せが、 永遠の安らぎが訪れるのではないか思ったからです。 あのとき尊師が言った"幸せ"ということは、 そのときの尊師のなにもかも包み込むような 柔和な笑みからして、けっしてそんなに大そ れたことではなく、普通に平穏に生きることが、 それが尊師が言いたかった"幸せ"ということだ と僕は思っています。 そしてついに幸せになれるチャンスが僕に訪れた というわけですよ。もちろん両親は絶対に僕が幸 せになることを望んでいるに違いないですから、 そうすれば」 ミヨン 「それでは、まだお母さんにあって いないということですか?」 ラクル 「そうです。でももうすぐです。あなたにこうして 再会できたのだから。そして結婚して幸せに暮らす ことができるのだから。これまでの時間に比べたら 本当にもうすぐですよ。それにしても長かったですね。 見てください、あの北の星を。あの北の極を示す星は、 琴座のアルファ星といいます。これで何度目かになり ます。北極を示す星は時代によって交代するように 変わっていき、それを何度も繰り返しますからその 歳月というものは途方もなく長いものなのですよ。 おそらくあなたの小屋の窓からのぞいていた星はき っと竜座のアルファ星だと思います」 ミヨンとラクルは満ち足りた表情でその極北の星を 見続けている。 * * * * * «新生の章» この第七紀元(注1)まで、その海と陸の割合は 西暦の時代と比べてほとんど変わっていなかった。 この間大陸の都市はその大小にかかわらず幾度と なく興隆と衰亡を繰り返しながらその生命をつなぎ とめていた。 今ある都市は人間の欲望と物質存在の合理性に最 大限に応えながら、そのまばゆいばかりの繁栄を極 めているが、過去に栄えた都市は、ほとんど人が訪 れることのない遺跡のような廃墟となって各地に点 在していた。 都市に住むすべての人々は地球上で起こるあらゆ る出来事だけではなく、他の地域に住むすべての人 々のことも瞬時にしてその情報を共有できるように なっており、その移動も極度に発達した交通手段に よって数時間のうちに他のすべての都市と行き来で きるようになっていた。 だが散在する諸都市間の交流は盛んではあったが、 その都市と都市の間の地域は、情報がそれほど統制 されておらず、交通も都市と比べるとはるかに不便 であり、ほとんど昔ながらの自然のままといっても いいくらいである。でも、そんな場所でも人間が暮 らしていくためには十分すぎるくらいに豊かである ため、そんな不便さをそれほど問題にしないで、そ こに暮らす人々の数は都市に暮らす人々と同じくら いであった。 どちらに暮らすかはその人の生き方によって自由 に決めることができた。 そのことは同時に人類の長年の夢である"誰もが自 分の好きなことをしながら生きたいように生きるこ とができる"という多様性の社会がようやく具現化し たということでもある。 それはまた人類が長い苦悩と困難な歴史を経て、 人間同士が殺しあう戦争をしなくても、すべての人 々が平和に暮らしていけるという知恵を獲得したお かげでもある。 ラクルはこれから二人で暮らすために自分の 農場にミヨンを案内した。 ラクルはその農場からほとんどの生活の手段 を得ていた。周囲にもラクルのように暮らす人 たちが多くいたが、その交流は穏やかで決して 互いを束縛しあうようなものではなかった。 そよ風の吹き渡るタイサンボクの木陰で二人は 休息をとりながら、これからのことについて話し 合っている。しばらくしてミヨンが不思議そうな 顔をしてラクルに話しかける。 ミヨン 「今朝夢から覚めました。とても悲しく怖い夢 でした。どうしてこんな夢を見るんだろうと思 いました。でもすぐに判りました。私の前世に はこんなことがあったんだろうと。私は生まれ 変わることを選んだのだから、当然ですよね。 いいことばかりとは限らないですよね。おそら くもっともっと怖いことや悲しいことがあるん でしょうね。なにも生まれかわるのは人間だけ とは限りませんからね。虫とか動物とかね。そ れで今朝の夢なんですが、二十歳になった私は とある部屋で普通に生活していました。でも周 りには人はいませんでした。どうやら独りのよ うです。そこは大都市のようでした。なぜなら 窓からはたくさんの高層ビルが見えましたから。 生活には困ったいなかったようです。毎朝決ま った時間になると職場に出かけて行ったようで すから。でもなぜか仲間とはほとんど話をしま せん。昼休みも皆から離れています。どうやら 周囲のものは私を避けているような気がします。 その理由はわかりません、でも私はそれほど苦 にしてないようです。孤独感を感じていないよ うです。あるとき女の同僚が私に話しかけてき ました。 『今夜みんなといっしょに夕食に行きませんか』 と、すると私は即座に答えました。 『今日は疲れているから早く帰って休みたいの、 そんな暇まないわ』 と。どうやらその同僚は日ごろの私の様子から、 それを孤立と見ていて、どうにか親睦をはかり たいなと思っていたみたいです。それは親切心 から出たのでしょうが、でも私は自分の思って いることをそのまま言ってしまう性格のようで す。またあるときこんなことがありました。後 輩が仕事のやり方を教わりに私のところになっ てきました。でも私は 『仕事は自分で努力して覚えるものよ、人に教 わろうなんて思うのは甘えているってことよ、 そんなことではいつまでたっても使い物になら ないよ』 と突き放すように言いました。たしかにその通 りなのでしょう。私もそのときは冷静で自分の 言っていることは正当であると思っていました。 でもそのあとで、そのときの後輩のとてもつら そうな困惑している表情を思い返すと、自分は 何か他人とは違うことを言っているような、自 分が言っていることは人を傷つけているような 気がしてきているのです。そうなのです、私は 自分の思っていることを正直に言ってしまい、 そのことで他の人を傷つけている人間のような のです。でもそのことが分かっていながらどう しても直すことのできない性格の人間のような のです。それで周囲からは性格がきつく冷酷で 付き合いにくい女と思われているようです。必 要でないと思っている他人との接触を断っても、 それでも私が生きていられる理由は当時の社会 状況にあったようです。その頃は多少の日常の 不平不満があっても与えられた仕事をこなして いれば普通に生きられる時代のようです。でも 国の在り方や社会の仕組みについての考えを持 つことはとても異常なことのように思われてい たようです。ですからそれについて大勢の人の 前で自分の考えを言うことはとても危険なこと と思われていたようです。もしそういうことを すれば、そのことを取り締まる警察に拘束され ていたようです。そしてやがて社会の状況や国 のあり方や社会の仕組みについての考えはでき るだけ言わないほうがいいという雰囲気から、 絶対に言ってはいけないという雰囲気に変わっ ていきました。でもあるときその事件が起こり ました。おそらく私の性格である思ったことを 正直に話してしまう性格のせいなんでしょうが、 つい私は言ってしまったのです。常日頃の生活 の不満を持っている人々が大勢集まっている集 会で言ったのです。『私たちの不満がいつにな っても解消しないのは政府が私たちの自由を奪 っているからですよ。政府が私たちを何も考え ない機械のように扱い政府を批判したり、私た ちの考えで私たちの国の在り方を決めていこう とする自由を奪っているからなのですよ。世界 にはもうこんな国はありませんよ。もうどの国 の人々も自分たちの考えで自分たちの国の未来 を決めているのです。でもこの国の上の人たち は私たちにそれを決して許そうとしないのです。 私たちの社会の息苦しさの元凶はすべてそこに あるのですよ。皆さん、このことをもっと声を 大にして言いましょうよ』と。でもそれから二 三日してからのことでした。夜寝ているときに 警察が私の部屋のドアをこじ開けて乱暴に入っ てくると、私を拘束し連れ出しました。そして 私はそこがどこかもわからない部屋に監禁され ました。多分そこは秘密警察の施設のようなも のだったのでしょう。私の取り調べが始まりま した。取り調べ官は私の容疑である"国家転覆罪" を認めさせようとしましたが、私は"何も悪いこ とはしていない、自分が日頃からなんとなく思 ったことを正直に言ったまでです"と言って、そ のことを決して認めようとはしませんでした。 でも取り調べ官には通用しませんでした。取り 調べ官は言いました。『お前は常日頃から近所 のものや会社の同僚たちと行動を共にしなかっ たそうじゃないか、それは国家を転覆するよう な売国集団に加わっていたからじゃいのか』と。 行動を共にしなかったというのは同僚たちから 得た事実に違いなく、そのことは全くのウソで もなかったので否定はしませんでした。でも売 国集団ということになると何にも知らないので 答えようがありませんでした。でもその態度が 気に入らなかったのか、やがてその集団名とそ の隠れ家を言うようにと拷問を受けるようにな りました。でも私もどうしても答えようがあり ませんでした。いくら私の生まれ持った性格が 災いしたとはいえ、私はそんな性格を呪う気持 ちにもなれず、かといって素直に受け入れるこ ともできずに、これ以上生きることが面倒臭く 感じるようになっていきました。その拷問は日 毎に苛烈さを極めました。そして私はその拷問 のつらさに耐えきれずに、あるとき売国奴仲間 として、ふと頭に浮かんできたある人間の名前 を取り調べ官に言いました。その者はかつて理 由もなく私に罵声を浴びせたことがある通りが かりの店の女でした。そのおかげなのか拷問は なくなりましたが、しばらくすると再び始まり ました。そこで今度は、その売国奴仲間として 会社の上役の名前を言いました。その人間は私 とは違う意味で評判の良くない男でした。その 結果拷問はなくなりました。でもしばらくする と、私が仲間として嘘の名前を挙げたときに嬉 しそうな顔をしていた取り調べ官はいなくなり ました。そして新しくやってきた取り調べ官に よって再び以前のような拷問が始まりました。 そして時間の経過とともにその男の拷問も激し くなっていきました。でもその頃の私にはもう 売国奴仲間としてのその名前をでっちあげるほ どの気力は残っていませんでした。それは同時 に私が生きる気力さえ失っていることを意味し ていました。そして絶望感にさいなまれていた 私は自らの死をえらびました。そして小窓か らはるか北の空に輝く星を見ながら細い紐に首 を掛けたのです」 ラクル 「やはりそうでしたか。実は僕も今朝夢から覚 めました。内容はあなたと同じように悲しく怖 いものでした。もしかしたらそのときが、私た ちが生まれかわっていくうちに、最初に出会っ た時なのかもしれせんね。というのも私が見た 夢には、あなたが見たような風景や、あなたが 経験したような社会の状況が現れていたからで す。僕もあなたと同じような繁栄を極める大都 市に住む若い男でした。子供のころから僕は周 囲の人々と同じように家族とともに何不自由な く暮らしていました。僕は歴史が好きだったの で将来は歴史学者になることを目指していまし た。でも十代の初めころから、この国の在り方 に本当に疑問を持つようになりました。それは 他の国のことを知るようになったからです。他 の国、それは全世界の国といってもいいのです が、自分の国と違ってそこでは、社会の在り方 について自分の考えを自由に言うことができる だけではなく、その在り方を決めるのに自分も 参加できるということなのです。でも自分の国 ではそれが全くできないのです。それどころか そんなこと言おうとしただけで罰せられるので す。それも暴力的な方法でもって罰せられるの です。当時は、もう僕だけではなく僕の周りの すべての大人たちも、そのことに気づいていた ようです。それで政府に対する不満や批判は絶 対に声に出していってはいけないと思っている ようでした。それではまるで人類がたどってき た歴史、暴君や圧政のもとで苦しんできた庶民 の歴史と変わりません。いやそれ以上です。と いうのもそれまでの歴史、それはどんな国にお いても同じなのですが、どんな暴君がいても、 どんな圧政が行われていても、庶民が支配者を どんなに批判しても、それを行動に移さない限 り決して罰せられることはないからです。それ はある意味まともな知恵を持ち分別のある人間 であれば精神の自由を保ち続けることができる ということでした。でもこのときは違いました。 声に出して言うだけで、どういう訳かそれが当 局に知れ渡り、それで拘束監禁され、そしてそ のままその人間の行方が判らなるということが 横行していたのです。おそらく監視者が市井の あちこちに潜伏してたのでしょう。それはまさ に精神の自由も奪おうとしていることを意味し ています。当時そんな国は世界のどこにもあり ませんでした。その頃の僕は決して変人でも奇 人でもなく、誰とでもうまくやっていける普通 の青年でした。でもどうしても、このまま何も 言わずに生きていくことができないように感じ ていました。それがたとえ今後将来にわたって、 自分にどんな制裁を加えられようと判っていて もです。そして僕は自分の家族、友達、近所の 人たちと、ことあるごとに社会のあり方に対す る自分の意見を言い続けました。そしてそれを 紙に印刷して道を通る見知らぬ人たちにも渡し ました。そしてついにそのときがやってきまし た。僕は拘束され尋問されました。取り調べは 厳しいものでしたが、僕は自分の考えを主張し 続けました。拷問も受けました。でも僕は自分 の考えを変えませんでした。あなたのように自 らの死をも選びませんでした。 それから僕はどうなったのか、夢の最後は年老 いた僕が塀に囲まれた広場で生気なく日向ぼっ ことをしている姿でした。 あなたの見ていた北極の星はおそらくこぐま 座のアルファ星だと思います。最初の暦紀であ る西暦の頃ですから。どうやら私たちは同じ時 代にかなり近いところにいたようですでね。で も私たちは生まれ変わったら、めぐり逢うもの、 永遠の恋人として出会うものとして、そのとき にまだそのときではなかったようですね。何か が誰かがそうさせたんでしょうね。それには何 か意味あるものとして」 ラクルの話は周囲の風景に吸い込まれるよう に静かに終わる。やがて夕闇が迫っていること に気付いて二人は立ち上がる。そしてゆっくり と歩きだす。 第二章に続く ![]() ж ж ж ж ж ж ж ж ж |