ж ж ж ж ж ж ж ж 芸術論第二章(岡村孝子論) 真善美 * * * * 大雑把に言って私たちは中学生の頃まではそれがどんな性格であれ、どうにか周囲との折り合いをつけながら決定的な亀裂を生むことなく何とかやっていけるのであるが、それ以降となるとそうも行かなくなる。 単なる性格の違いだけではなく、それぞれの持っている才能の違いや優劣が決然としてくるからである。そしてその違いは無意識のうちの妬みやうらやむ気持ちを芽生えさせてくる。 大様で開放的な性格と云うものは、あまり小さいことにこだわらず周囲にも分け隔てなく接するので、周りから歓迎され評判のよいものとされるが、それもせいぜい学校の管理が力を持っている中学生までで、高校生にもなるとそれぞれの個性もはっきりとしてきて、また前述のような理由から、まったく違う、いやむしろ正反対の評価で見られるようになってくる。 例えば、「大様だが、ほんとうは何かを隠していて腹黒いのではないか」とか、「 開放的で人当たりもよいが、ほんとうはみんなから良い人と思われたくて計算づくの行為ではないか」などと。 その理由としては、みんな高校生にもなると、それまで学校などで大人から教え込まれてきたところの"物事の価値感や見方"とは違う"様ざまな価値や見方"があることに気づき始めているからである。そこに前述のようなうらやみや妬みの感情が加われば疑心や、心のアンビヴレンツ性から生ずるに違いない"価値の反転"や"根拠なき批判"が生まれるのも止むをうないものとなるであろう。 青春は誰にでも訪れる。 ほとんどの者はその期間、大人が望むように勉強に励み、そしてそれほど問題を抱えることもなく平穏に過ごしては、やがて社会に入っていくのであるが、実際はそう単純ではない。 大人に反発するあまり、肉体的に、ときには暴力を伴う行為でもって、大人が望むような生き方とは正反対の行動を走り続ける者がいる。そしてまれには、周囲との人間関係に折り合いがつけられずに、なかなか大人の社会にはいる準備に取り掛かれないという心の病を抱えるものもいる。 その心の問題の主なものは周囲に自分の思いが伝わらないとか、大人の社会に対する不信などであるが、核心は自分の肉体で暴力的に大人の社会に抵抗する若者と同じように、このままだと既存社会である周囲に流されてしまい、本当の自分と云うものを見失ってしまいそうだという不安なのである。それは"本当の自分"とは"大人が望むような自分"ではないと云う本能的ともいえる密かな確信に裏付けられている。 青春期に入った姫女は周囲に違和感を覚えるようになっていた。 そしてときおり軋轢を生み摩擦を起こすようになった。 それまで天性の解放的な性格で周囲とうまくやってきた姫女にとってはショックであった。 途惑い悩みながらなぜそうなるのか考えたが答えはなかなか見つからなかった。 その本当の原因が姫女自身の鷹揚で開放的な性格にあること、そして並外れた直観力や洞察力に裏打ちされた天性の知性を本人の控えめな性格からか人前では隠し続けたことにあることを当時は知るよしもなかった。 そしてそのことが姫女の心に恐れや不安を芽生えさせ、普通に生きていても生きていることが辛く苦しいものだと感じさせるようになり、その鷹揚で開放的な性格の基となっていた天性の心の広がりが厚手の不透明なヴェールで仕切られ、もはや無限なものではなくなっていた。 * * * * * * * * 姫女の鷹揚で開放的な性格は周囲から誤解を受け批判の標的となり、苦しんだが、やがてそれを克服できる出来事が起こった。 二十歳のとき、よくありそうな出来事を歌詞にして、自分の才能の赴くままに作曲した歌が、音楽祭でグランプリをとったのである。 デュオ名《あみん》 楽曲〈待つわ〉 その歌詞
----かわいいふりしてあの子 ここから単純に、この楽曲は姫女の自分の経験を歌にしたと思ってはいけない。本当に自分の経験かもしれないが、もしかしたら身近のところでそのようなことを見聞きしていたかもしれないし知識や情報としてすでに持っていたかもしれないからだ。なぜなら現実はもっと複雑であるだけではなく、創作者である姫女の広い視野は常にそのような現実世界に注がれているからだ。それにそう考えないとその後に生み出されてくる多くの楽曲や、単純に歌謡曲として理解することが出来ない難解な歌詞の展開が成立しなくなる。だが姫女の自分の経験と見たほうが楽曲としてはすこぶる興味深い。この曲の歌詞を見ると言葉もその意味も平易である。でも独立した詩としてみるとその展開が少し飛躍しすぎていて少し奇異に感じる。それはあたかも歌詞が曲想に引きずられて従属しているかのようにも見える。でもこれは間違いであろう。その情感のもとで混然と沸き起こる歌詞と曲想をお互いに協力補完させあいながら発展させていった結果が必然的にこの曲となったとみるべきであろう。ここがほかの歌謡曲と違うものであり、その後の姫女の数々の楽曲を生み出す本源となり支えとなっている。 この歌によって姫女たちの名は全国に知られた。 そして"時の人"となり有名人になった。 これで夢がかない、過去に自尊心を傷つけられ自分を苦しめた人たちを見返すことにもなり、その苦しみから解放されたことになるのであるが、物事はそう単純ではなかった。 この大成功は新たな悩み苦しみを生じさせつつあった。 なぜなら大人たちの世界からの圧力が、 絶え間なく押し寄せる波のように感じていたからである。 その主なものは 次なる楽曲の発表、それも〈待つわ〉の延長戦にあるような楽曲、と云うのも似たような曲想のほうが同じファン層を引き止めておくことができるだけではなく、商売になると云うのが歌謡界の常識だからである。そしてこれからコンサート行っていくためには、より多くの持ち歌が必要だからである。さらには二人の可愛らしい容貌からして、二人をアイドルデュオとして売り出そうと画策するものもいたに違いない。そのほうが短期的には儲かるからである。 そして実際に二人がそれらの要請に応えることが出来たのは、<待つわ>の延長戦にあるような、乙女たちのゆれる恋心を歌った楽曲だけだった。姫女にとってそれらの周囲の無言の圧力は新たな苦しみとなった。 * * * * いつのまにか姫女は成長していた。 それは心の変化によってもたらされた。 今までは(この場合少年期においては)、心というものを記憶物の倉庫であるかのような、あたかも広がりのある静的な空間のように扱ってきたが、青春期になるとそのような心のあり方に徐々に変化が起こってくる。 それは心が外界の変化に敏感に反応して、それに合わせるかのように、暖かくなろうとしたり、冷たくなろうとしたり、広がろうとしたり、縮まろうとしたり、という感じであたかも生き物であるかのように変動するのである。そのことが情感となって気持ちの表面にあわられるのである。 たとえばそのあらわれは、 晩夏の夕暮れの急に冷え込んだありふれた町並の憂愁であったり、 秋の夜の舗道から見える星空の悲哀であったりと。 そしてその個人的なものに過ぎない心の憂愁や悲哀は、世界や宇宙の憂愁や悲哀とかさなり、視野は必然的に世界や宇宙へとむけられるようになる。 視野の広がりはただ単に眼に映る世界が広くなっていくだけではなく、風景を見て感じたり思ったりすることは、さらに深くなり、どんな些細なことにも心が動かされる情感の細やかさの進化によって、目に見えない世界もさらに広がっていく。 そして姫女の心は、アイドルになることでもなく、また売れる楽曲を生み出すことでもないことに占められるようになっていた。 やがて周囲の要請に応えられないことや、自分の思いが通じないことに苦しくなり、行き詰まり、苦しくなった。 それに姫女の心の変化(成長)がそのような苦しみを和らげるようには作用しなかった。なぜならそのことが心の成長だとははっきりと意識されてはいなかったからである。そして活動をやめ《あみん》を解散することを決意した。 そして姫女は故郷に帰った。 なぜ姫女は活動をやめて故郷に帰ったのだろうか? 当時姫女の周りには多くのファンだけではなく、姫女の並外れた才能を見抜いた慧眼の持ち主や、その容姿からアイドルとしての商品価値を見出して、アイドルシンガーソングライターとして売り出すことに実績や自信をある敏腕なプロデューサーなる者もいたことはまちがいない。もし姫女がこれらの情況を容認すれば、その才能の発揮によって、少なくともその後の長きにわたる、楽曲の提供や自らのコンサートなどによって、歌謡界に安定した地位や名声を保持しえたことは間違いない。 だが姫女はその道を自ら閉ざした。なぜなのだろう? でもこれ以上そのことを詮索することはふさわしくないようなきがする。 なぜなら姫女はその後カムバックによって再び栄光を取り戻すことになるのであるから。 * * * * やがて自分が本当にやりたいことに気づいた姫女はシンガーソングライターを目指して再び上京した。 故郷に帰っていたとき姫女は後悔の念にさいなまれた。もう少し周りの言うことを聞いてアイドルのような活動をすればよかったのではと、そしてもしそれがだめなら周囲が求めているような楽曲に自分の才能を賭けて見ればよかったのではないかと。自己演出の苦手な姫女にとってそのことに応えることは所詮無理なことではあったが、でもそれだけではない。 この頃は、姫女は、どのようなメロディーが、そしてどのような歌詞が盛り込まれれば大衆に受けて流行るかと云うようなことには、うすうす感じてはいたが、姫女自信が本当に作りたいものは自分の心に誠実に向き合いながら、そこから生まれてくる真実の思いや情感が正直述べられた楽曲だということにはまだ確信の持てるのあるヴィジョンとして描けていなかった。 青春前期、姫女は周囲の理由なき批判に途惑い、その開放的な性格はぎこちなくなり、透明だった心はかげりを見せるようになっていた。 だが、姫女はそんな心でも見つめ対話することをやめなかった。 それによって楽しい出来事や嬉しい出来事は、いつでも思い出せるようにはなっていたが、辛い出来事や悲しい出来ごとにも寄り添い、なぜそうなるのかを自分なりに考え分析をしたりして、決してそれらを心の奥のほうに追いやって無視してしまうと云うようなことはしなかった。 そのことは苦しさや辛さが長引くことでもあったが、誠実で隠し事ができない姫女にとって、それはごく自然なことだった。 でもそのことによって自分がなぜ批判され誤解される理由がわかったというわけではなかったのだが。 そのころまでに姫女にとって何気ない風景でも、それまでの単なる写真のように美しいものとしてだけではなく、心に何かを訴える情景となり、そこに寂しさや憂愁を感じるものになっていた。 また人々の何気ない日常生活にも、深い共感や思いを馳せる対象になっていき、そこにはかなさや悲哀を感じるようになっていた。 そして以前の乙女の恋心を穏かに歌っていたことろは比べ物ならないくらい心は豊かに情感は深くきめ細やかに、そして複雑になっていた。 だからあくまでも自分の心に誠実であろうとする姫女にとって、もはや計算されたような楽曲を創作するような余裕などなかった。 故郷に帰っている間に姫女は自分の心の変化と成長にはっきりと気づいた。 そして理解した。自分が本当に作りたいのは自分の心に誠実に寄り添い自分の気持ちに正直に従い心の奥底から湧き出る真実の思いや情感が表現された楽曲であるということに。 そして不安と、それをも凌駕するような密な自信を覚えながら上京を決意したのであった。 * * * * 姫女の性格は見ためどおりに鷹揚さでしかも開放的で楽天的である。 そのためあらぬ誤解をうけて批判されたり、それに、もしかしたら自分を主張しない意志の弱い女性と思われがちだあるが、実際は違う。意志は強く周りから見たら頑固と思えるくらいに自分を曲げない。 それから自分の意見を持っていなさそうに見えるのも間違いである。持ってはいるがあまり言わないだけのことである。なぜならそれが真実であるかどうかまだ自信がないからである。それは真実を求め続ける姫女にとっては当然のことであった。自分を目立たせたいがために言いたいことを言う人間とは大違いである。 姫女の意志の強さは最高神の天性を受け継いでいるせいかかなり強固である。そのことはその後さまざまな楽曲に星のようにちりばめられ輝くことになるのである。 そして姫女は外見以上に聡明で洞察力に優れている。ただなぜか姫女はそれを表に出さなかった。それで人間観察に鋭敏な者から見れば、姫女はそのことを隠して謙虚に振舞い大人しそうに見られたい"ぶりっ子"に見えるかもしれない。能力があるのにそれがないように見せることはとても鼻につくことで、他者から見ればそれは小ばかにされているように感じるのである。でもそのことに姫女は負い目を感じることはない、やがては最高神の愛娘として迎えられるときが来るのであるから。 そもそも控えめで大人しそうに見えるからといって、その人間を自分の意見を持たない意志の弱いものだち決めつけるのは間違いであろう。いやむしろその逆であるというのに。 男でも女でも人は青年前期までにその異性の理想像を完成させている。 というのもほとんど無意識のうちに形成されているといってもいい。 それはその人の体験や性格によって様ざまで、イメージと云うよりも概念的なものに近い。なぜなら具体的なイメージ像よりも概念的なものの方が確実でしかも豊かで長持ちがするからである。 姫女にとっての男性の理想像はつねに漠然としているが、〈待つわ〉に登場して以来、その理想像は変ることなくその後衰えることなく姫女の心に生き続けることになる。 シンガーソングライターを目指して東京で新生活を始めても、すぐには創作活動に入れなかった。新生活に慣れていないこともあったが、物に触れて心に沸き起こるものだけを作品にしようと考えていた姫女には、まだそのようなものを受け取る心のゆとりが生まれていなかった。それでしばらくは、このまま何にも生み出せなくなるのではないだろうかという不安に苛まれる毎日が続いていた。 * * * * ちょうどその頃、孤独に苦しむ愛娘を見ていた天上の最高神は、何とかして助けてあげたいと思った。 そして音楽をつかさどる女神ムーサを地上の姫女の元に舞い降らせた。 女神ムーサは姫女に寄り添うようになった。 そして女神ムーサはそのときを見計らい姫女自身も気づいていなかった"神性の扉"をゆっくりと開いて姫女心と体をその光で満たした。 やがて姫女は新生活になれたこともあり それなりに作品を生み出すようになった。 * * * * 姫女の作品はその傾向から次のように大別できる。 (1988年までに発表された初期アルバムから) [大人の女性の恋愛とそのやさしい破局] 〈風は海から〉 メルヘン的な情景から触発された大人の破局劇だが、 きっとあるだろうという思いと、まだ自分はそういう 世界には入り込めないという思いが重なり合って 作り出された情感が穏やかに描かれている。 東京に来て初めての曲とされているが、自分の心の 動きに誠実な作品であることは変わりない。 〈夏の日の午後〉 窓を開け、その夏の日の午後のさわやかな空気を 吸い込んだ瞬間に、その曲調も歌詞もすべて 頭に浮かんできたような作品である。 ここに出てくる男性の理想像は〈待つわ〉の頃よりも だいぶ変容して大人になっている。 本人も単純な恋心では終わらない 視野の広さを見せている。 それでもそのような恋愛に応え切れない現在の自分を 重ね合わせながら少し悲哀を感じている自分を 揶揄している。そしてのちの"夢をあきらめないで"と つながっている楽曲となっている。 〈見送るわ〉 どんなものにも変えても大事な愛があるといいたい、 そのことで惑う、でもしだいは変わってきている、 女たちも変化することを求められている。 思い切って決断してはと、珍しく強気になった姫女が 周囲の女性たちに語りかける。この曲から私は、 普段遠慮がちに歩いている姫女が胸を張って 凛々しく人ごみを歩いている姿を思い浮かべた。 〈あなたと生きた季節〉 この曲について姫女自信のこんな覚書がある。 (恋はいつもいつも終わるのだろうか。 無限に続く時間の流れの中で、無限に広が る宇宙の地球という星で、出会ってしまった 偶然には、いったい、どんな意味があるのだ ろう。そして、もっとやさしくできたはずな のにという後悔さえたどりつけない場所に、 ふたり分かれてしまった偶然には・・・。 はかなく消えていくものばかりが、よぎる) いつしか姫女の恋愛には永遠の時間や無限の宇宙が かかわるようになっていたのだ。最高神から受け 継いだ天性からすればそれは当然のことなのだが。 〈白い夏〉 あまりにも穏やか過ぎる浜辺の風景。 でも穏やかにはなれない恋がどれほど破れて いったことだろうかと、そしてたぶん私だったら、 こんな恋の終わりを迎えるだろうと、 思いをめぐらす。姫女の作品はどんな 曲でも曲調と歌詞と歌声の調和を見てとれる。 これらは海や町並みや夜空などの日常の 何気ない情景に時代の恋愛模様に影響を 受けた姫女の情感を重ね合わせた 曲想となっている。 これはまた大衆受けをする流行歌的色彩が 強いが、姫女は決してそれを狙ったわけではなく、 あくまでもデビュー以来すっと続いていてそして その後もずっと続くことになる、姫女にとって 最も感情移入のしやすい、そして最も得意とする モチーフとなっているからに過ぎない。 [大人の女性の恋愛とそのこだわりのある別れ] 〈美辞麗句〉 ここにはの並外れた他者への共感性が あらわれている。 とくに同年代の若い女性の心の不安定さや、 感情の両面価値性に姫女自身もそんなに 違わないということを暗に知らせようとしている。 〈雨の町〉 この曲を作りながら同世代の女性たちに 共感する姫女は思う。 素直になれないというだけでこんな別れ方をする 男女はこの世に無数にあるだろうと。 〈私はここにいる〉 好きな人の前で自分をうまく表現できないのは、 何も女性だけとは限らない。男だってそうなのだ。 特に好きであればあるほど空回りをして どんどん反対の方向にすすんでしまう、 どうしょうもないのだ。そんな人たちに姫女は 私も同じようなものよと、心から同情する。 〈クリスマスの夜〉 時代はバブル前夜。 姫女はクリスマスの夜に華やかな 歩道をさびしそうに 独りで歩いている若い女性が目に 付いたのだろうか? 男女の無数の出会いと無数の別れ、そのたびに メソメソしてはいられない、 そろそろ道を示さないと、 と姫女は思い巡らす。 [大人の女性の恋愛とその屈折した別れ] 〈Baby,Baby〉 女性は大人になったと思っていても、ときには 感情に任せた少女のように言動をするときもある。 そうなったらおしまい、後は別れることしかない、 でもそうなると理性的な女性に戻り後悔もする。 でももう、少女のように泣きじゃくるようにことは しない大人なのだから。もうすでに姫女の眼には 地平線の向こうに見え隠れしている 恋愛の現実の姿がはっきりと見えている。 〈ドラマ〉 この時代の女性の生き方に姫女はどのくらい影響を 受けていたのだろうか?多少の未練があっても 勇気ある決断を促す。 曲調その勇気を応援している。 まるでドラマを見ているようだ。 姫女はどんな曲でも その曲想に合うように、メロディーと歌詞と 声を調和させて曲作りをしている。 そしていつもその完成度は高い。 [遊び心の大人の恋愛] 〈ピエロ〉 恋愛に揺れる乙女心を懐かしむかのような楽曲。 こんなにも軽快な流行り歌風のものも つくれるんだよという多能さを示している。 姫女に余裕が出てきた証拠ある。 〈月が泣いた夜〉 この曲も姫女の多能さ余裕から生まれた作品。 〈見返してやるんだわ〉 ちょっとした誤解や行き違いから破局していく 恋人たちの例を姫女は多く見聞きして いたに違いない。 こんな女性たちの屈折した心理に共感できる姫女は きっと笑みを浮かべながら楽しむように この曲を作ったに違いない。 [ドラマ的恋愛の表現] 〈煙草〉 〈一人息子〉 〈冷たい雨〉 これら三曲はそのままドラマになりそうな内容。 最後に〈冷たい雨〉にはそれまでに無かった 男性の理想像に変容が見られるが。 [感情の生々しい表現] 〈砕ける波に〉 姫女には珍しく自分の感情を そのままぶっつけたような作品。 心の広がりもなく冷たい情感があるだけ。 まさに聴くものの胸を氷の剣で 突き刺すような作品。 神性さのかけらもない。 〈ついてない〉 これも前項と同じような作品。 姫女の曲にはどんなに絶望的なことを 歌っていても、 必ずそこには救いや希望の光が 見え隠れしているものであるが、 この曲にはその希望の光が見られない 真っ黒な絶望があるだけ。 だがこれは姫女の心の奥の奥に普段は 見えないように潜んでいて、 誰かに泣き叫びながら訴えたかったほどの 辛さや苦しみであったのかもしれない。 第三章に続く ![]() |