わたしのように(前編) 真善美 本題
まずはじめに、わたしがなぜこのような小論を書くに至ったかについて述べなければならない。 現在、わたしたちの社会は、若者たちがかつては考えられなかったような犯罪に手を染め問題を起こすと、大きく揺さぶられる。 大人たちはいっせいに戸惑い頭を抱える。このような豊かな社会にあって、若者たちはいったい何に悩み、何に不満で、そしてどこに問題があるのかと。 そして膨大な労力と時間を費やして考える。これからどのように若者を教育し指導していけばいいのかと。 かつて私はこのような問題に対して、まったくと言って良いほど関心を示さなかった。私にとっては、もうどうでも良い事であったからだ。というのも、私は若いときから。私を含めてその若さというものが嫌いだったからだ。 若者たちが生きる事にどんなに迷い苦しみもがこうとも、それは彼ら自身の努力で自己責任で解決していくべき事だと考えていた。わたし自身もそうしていたのだからと。もし若者たちが自らの力で問題を処理できなくなり、生きる事に行き詰まり怠け者になり犯罪に手を染めようとも、それは彼ら自身の努力不足によるもので、自業自得だと考えていた。だが人生の折り返し地点に近づいていた頃から私の考えはまったく変わってしまっていた。そのような考えは根本的に間違っていたのではないかと。 若者たちの自主性に任せるということ。美しい言葉である。ほとんどの大人たちはそう思っている。はたしてそれで良いのか、もっと積極的に働きかけるべきではないのか。というのも、わたし自身は、青春というその地獄の季節を、大人の助言も干渉も受けることなく自力で乗り越えてきたとずっと思ってきたのだったが、実はそうではなかったということに、陰ながら精神的にも物質的にも親や周りの大人たちから支えられていたということに気付き始めていたからである。そして私がかつて大人になっても若者たちに無関心であったことに激しく反省し後悔をするようになっていたからである。なぜなら。あのときの若者のふてくされた表情や、反抗的な言動は、ほんとうは彼ら自身の自信のなさや未来に対する不安からくるもので、実際はわたしたち大人から助言や支えを求めていたということに思い返されるからである。 若者たちは相変わらず大人たちを見下し侮辱し、無責任でわがままで傲慢で独り善がりで見境がない。しかし、だからと言ってほっといて置いて良いという事にはならない。 現代はわたしたちの若いときに比べて、はるかに豊かで便利で様々な情報にあふれている。にもかかわらず若者は生きる事に迷い不安げである。それは競争にさらされているほとんどの若者たちが、その厳しさにたじろぎながらも挑みはするが、それに敗れたものは、より豊かで幸せな生活は送れないという思いを抱いているからである。でもそれてあふれる情報に惑わされた間違った考えである。妄想である。競争の厳しさは今も昔もちっとも変わっていない。それでも、いまの大人たちは生きてきた。それは競争に打ち勝ってではない。大人たちは長い間の経験から、決して勝ち負けで人生の幸せが左右するとは考えていない。人生というものはもっとたくさんの要素が複雑に絡み合って成り立っていて、それぞれの人生も多種多様であるという事に気付いている。でも大人たちはあまりその事を言わない。それは言ってもどうせ聞いてもらえないからということで言わないのか、または、はなからそんな事を言うつもりはないと冷たく突き放しているのか、それとも言いたくても言う手段や方法が見つからないのか。 若者たちが何かを注意されて不機嫌になったり、言葉づかいが荒くなって激しく反抗したりするのは、彼らの自信のなさや不安から来る虚勢である。だから大人たちは決してたじろいではいけない。どんなに激しく抵抗されても辛抱強く関わり、積極的に助言を与え忍耐強く指導して行かなければならない。なぜなら若者たちは心の底ではいつも大人たちの適切な助言や指導を、そして失敗したときには大人たちに寛大な対応をしてくれる事を求めているからである。若者たちがその表面的な明るさや元気さではなく、陰のような寂しそうな心ぼさそうな表情をかいま見させるとき、私にはその事が手に取るように判るのである。 私は現在、若者たちに直接助言を与え指導をするような立場にはない。でも、この小論を書く事によって、教育に関連して、特に英語教育に関しては有益な助言を与える事が出来る。 現在わが国では、せっかく学歴社会から抜け出そうとしているときに、今度は学力至上主義社会に陥ろうとしている。学力をペーパーテストではかるという意味に置いてはそれは間違いではない。だが人間の能力をそれではかるとなると話は全然別である。人間の能力は学力ではかる事が出来ないほど多相多元的で複雑である。筆者は学校教育というものは人生においては百分の一か千分の一ぐらいの比重しか持たないと独断的に考えている。その結果をペーパーテストではかった学力というものを人間の能力であるかのように見なすことは愚の極みである。なぜこんな簡単なことが誰にも判らないのだろうか。あの賢明で博学で超有名な評論家さえ気づいていないのだから仕方がない事なのか。ペーパーテストというものは、ペーパーテストをやっているときにおいてのみ意味がある。サッカーのシュート練習がサッカ−の試合でゴールを決めるときにおいてのみ役立つように。その結果が人生の応用に利くとか役立つ等と言うことは迷妄であり錯覚である。もしそのような考えが今後のさばり続け、若者たちを悩ませ苦しませ続けるなら、不必要な劣等感を産み付けるだけで人類にとっとは有害なものとなるであろう。ペーパーテストというものは人間の特殊な一部の能力を測る学力というものを測る単なる目安に過ぎない。 そして現在、過去百年と続き、今後も永久に続くと思われる文部科学省の方針のもとで、内なる官僚主義に蝕まれて膨張する既得権益に群がるおびただしい数のパラサイターたちのために、教育は、若者たちにとってどのような教育が最も適切で有効か、などとはまったく考えられる事もなく、若者たちの心に傷深く無用な劣等感や敗北感や挫折感を産み付けながら、膨大なエネルギーとお金を飲み込むだけの巨大な産業と化してしまっている。 特に英語教育においては、いまのやり方では何年勉強しても、苦痛と拒絶反応を起こすだけで、英会話は出来ないということが判っていながら、いまだにその有効な手立てが打ち出されていないのである。その主な理由は、どのような対策も受験勉強とは相容れないということに、つまり受験にはなんの役にも立たないという事にあるらしいのだが。 私は決して近代教育のすべてを否定する過激派ではないが、でもそれに近いものがある。たとえばこのように考えている。日本が経済発展をとげたのは高等教育のおかげではない。子供たちに高等教育を受けさせるためのその費用を稼ぎ出すために、世界に知られた勤勉な国民として名に恥じぬように親たちが一生懸命働いたからであり、と同時に自分たちは高等教育をやっているのだからきっと優秀であるに違いない、なにかをやれるに違いないと思い込んでいたからである。決して子供たちが真面目に勉強したからではない。これは間違いない。 私は、受験英語を百年勉強しても英会話は出来ないが、私がこれから述べる方法だと十年勉強すれば英会話が出来るようになるだけでなく、受験にもいくらかは役立つと考えている。 将来たぶん役に立つだろうと信じ込まされ、苦手意識やアレルギー反応しか生み出さない英語教育にあえぎ苦しむ若者を見かねて、私はわたし自身の成功例を元にして、本来言葉を学ぶという事はダンスを学ぶように楽しく喜びに満ちたものであるということを、彼らに気付かせその不必要な苦痛から開放してあげたいがために、どのような反論や批判も恐れることなくこの小論を発表することにしたのである。そもそもである、私たちが子供のとき言葉を覚えるとき、その母の前で言葉を発し覚えることが無上の喜びであり楽しみであったはずだ。 本論 人生の折り返し地点をやや後方にかえりみながら、普段と何ひとつ変わる事のない退屈な毎日をすごしていたある日の午後、突然私は天からの啓示によって (これは冗漫な内容にもかかわらずわざわざここまで付き合ってくれた読者を退屈させないために考え出されたフィクションです) 次のような戒めを授けられた。 十二戒 一、英語を机に坐って学ぶな 二、英語を記憶しようとするな 三、日本語を英語に訳すな 四、英語を日本語に訳すな 五、文法を覚えるな 六、文字を覚えるな 七、文字を書くな 八、日本人に習うな 九、英語を読むな 十、発音記号を覚えるな 十一、アクセントの位置を覚えるな 十二、畳の上で英語を勉強するな 十三、お金をたくさんかけて英語を習うな それでは次に、この十二戒のひとつひとつについて解説する前に、私がなぜこのようなフィクションを思いついたか、その理由となるそれまで私がどのような経験を経てどのような考えに至っていたかについて述べなければならない。 わたしは幾度かの挫折の経験の後、英会話を身につけることは自分には永久に不可能だとあきらめてはいたが、言葉そのものに関しては決して無関心であったわけではない。いやむしろ敏感に注意を向けていたといっても差し支えない。その関心は言葉と思考、言葉と行為の関係についても向けられるようになっていた。そして言葉に関して行為に関して思考に関して、様々な不思議なことや不可解な事を見聞きするたびに私は深く考えさせられるようになっていた。たとえば、言葉に関しては、なぜ子供のほうが大人よりも英語を覚えるのが早いのか。大人は頭が固くなっているから、その上脳細胞がだんだん死滅しているからだなどと一般には言われているが、はたして本当にそうなのか。 哺乳動物と比較して知能がそれほど発達しているとは思えない鳥が言葉をしゃべり歌を歌い、はたまた昔話をしゃべるというとなるとこれはいったいどういうことなのか。それは発声器官が発達しているからだというが、はたしてそれだけなのか。脳との関係はどうなっているのか。 校歌などを覚えさせられるとき、わたしたちはそれを暗記し練習にのぞんだが、いつしか自由に歌えるようになると暗記した内容が頭から消えてなくなっていても歌うことが出来るのはなぜか。それどころか何十年経っても忘れないのはなぜか。いったいどこに記憶されているのか。さらに歌の場合、特別に歌詞を覚えようとしなくても、何度も繰り返し歌っているうちに自然といつでも自由に歌えるようになってしまうのはなぜか。いったいどのようなメカニズムが働いているのか。 決してその言葉やフレーズを特別に勉強したわけでもないのに、なぜ他のものより際立って聞き分けられるようになっているのか。 かつてある国からきた不法就労者といっしょに働いていた頃、その本国でも雇ってもらえそうにないくらいに休みがちで、いつもボォッとしていたその男は、私の話す言葉はほとんど理解をし、仕事に差し支えがないくらいにしゃべることもできた。その男は日本語を覚える気などさらさらなかったが、コミュニケーションにはまったく不自由しなかった。 私が子供の頃、都会生活にはなじめない不良都会っ子がやってきた。彼は大切にしているナイフを見せてくれたり、お金にまつわる自慢話をしてくれたが何よりも困ったのは、彼のしゃべり方が早くてよく聞き取れなかったということだった。でもしばらくすると聞き取れるようになっていた。何が変わったのだろうか。もちろん彼はしゃべり方が少し遅くはなっていたのではあるが。 行為に関しては、たとえば、学校の音楽の授業で、クラシック音楽を聞かされたとき、私は大げさで騒々しいだけの音楽のようにしか聞き取る事が出来なかった。今ではほとんどクラシックしか聞かないのだが。その間にいったいどんな変化があったと言うのだろうか。 さらに自転車に一度乗る事を覚えたら二度と忘れる事がないように、スポーツやダンスや技能芸能などの世界において一度身につけたらその後忘れることがないのはなぜか。それは肉体に記憶されているといっても良い事なのか。 思考に関しては、わたしたちはある目的をもって何かを聞き取ろうとすればするほど、それがますます聞き取りにくくなるものである事を経験している。 またある何かをやろうとして、前もってその事に関する知識を頭に詰め込んでいても体は少しもいうことを聞いてくれず、そのような知識はなんの役にも立たないことを経験している。 さらには、これは情報と行為の関係に関してであるが、野球で、高めには手を出すなと指示された打者が、結局高めに手を出して空振り三振をしてしまったのか。 私はこの他にもまだ色々な経験をしているのだが、それが引き合いに出される最もふさわしい場所で披露していきたいと思っている。 以上これら言葉の介在によって起こる思考と行為、記憶と行為、情報と行為の奇妙で不思議な関係についての様々な経験と、その考察の結果として、私は次のような考えを持つに至った。 行為の始まるところに思考は終わり、思考の始まるところに行為は終わると。 そして、この大原則をもとに、この十二戒はさらに次のような考えを基本として考え出されたものである。 その一 わたしたちの肉体に起こる事を抽象し分析し、それを知識として取り出し、そしてそれを情報として他の誰かに伝えても、その伝えられた人がその情報を元にして、それと同じことを自分の肉体に起こす事は出来ないということ。つまりそのような情報は肉体から精神へ、精神から精神へとはながれるが、精神から肉体には流れないということ。それは不可逆的であるということ。 その二 わたしたちが言葉を発するときは、思想的意味だけではなく、感覚的、感情的、時間的、空間的な意味を含んだ様々な情感に満たされているということ。 その三 聞く事と話す事は、まるで同じ神経を共同で使っているかのように密接な関係にあるということ。わたしたちは誰かが話しているのを聞いて、それを言葉にして復誦できないようなら、それをよく聞き取れないだけでなく、頭にも残らない。つまり聞く事が不安定なものになり、なにか不完全な感じがする。 その四 聞く事は聞く事によってしか上達しないし、話す事は話す事によってしか上達しないということ。 その五 わたしたちが言葉を実際に発するとき、無限に近い情報を必要としている。つまり無限に近い情報が神経を行き交っているという事になっている。だが、それはわたしたちの意識化にはない。無限に近い情報を意識化に置くなんてどだい無理な話しではあるが。 それは実際に行為として言葉を発することによって肉体的に自動的に行われ保障されている。意識的に発信されるわたしたちの頭からの情報からではなく。だから話す事は話す事によってのみ完成に近づいていく。つまりできるだけ発声器官に任せたほうが良い。 それでは、最初の「英語を机に坐って学ぶな。」(これは学校に勉強、つまり受験勉強をするな。と云うことを比ゆ的に言ったものであるが) と云うことであるが。これはわたしたちがどのようにして日本語を話せるようになったかを見れば判る。わたしたちが日本語を話せるようになったのは、日本語を学んだからではない。それは幼いとき、心から信頼してその母たちと向き合う日々の生活のなかで、それを学ぼうとしてではなく、楽しい遊びのように、話すことが自分の利益にかなう喜びであるかのようにして、自然と身につけて行ったのである。(ここでは一応母としておく。それは父であっても、兄弟姉妹であっても、親戚であってもかまわないのだが、筆者のようなマザコンにあっては特にそうしておきたい) もう少し詳しく言うと、その母と幼児との一対一の関係性において、全的に実践的に、声と態度と表情を通して無限に繰り出されるお互いの情報をもとに、半ば無自覚的にも必要に迫られながら、それが今現在の喜びとなっているのを自覚しては、やがてそれがゆくゆくは自分の利益となる事を予感しながら、楽しい遊びのように自然と身につけて行ったのである。それに比べたら机に坐った勉強と云うのは、脳のほんの一部分だけを使って、抽象的でしかも限定的な情報を元にして会話能力を身につけていこうとする方法だからである。 それはある目的、つまり受験にはとても役立つらしいのだが、英語を日本語のように話すようになるためにはなんの役にも立たないであろう。むしろ、この理由はこれから徐々に述べていくつもりだが、有害でさえある。なぜなら、言葉というのもは、その母の前の幼児のように、母親のやる事を全面的に信頼して自分のすべてを預けるような素直な気持でのぞみながら、感覚的肉体的行為を通してのみ始めて身につくものである。だから、幼児のようにも素直になれず、頭だけを使って英会話を身につけようとする大人が子供より覚えが悪いというのは納得が出来るのである。 次に二番目の「英語を記憶しようとするな。」ということであるが。これは英語を覚えるな、または英単語を覚えるなと言いかえでも良い。私たちはがっ声で、文字をおほえさせられ、いやというほど単語や文を覚えさせられてきた。それは何よりもまず英語の基礎とされ、そしてペーパーテストの成績につながりひいては受験に役立つと言われているからである。確かにその通りである。でも、英語を文字として単語として単語の羅列として覚えることは、英語を話すこととはまったく関係ない、むしろ妨げとなるであろう。それは私たちが日本語を話すときの事を思えば判る。私たちは何かを話そうとするとき決して文字を単語を頭に思い浮かべない。そもそも言葉をしゃべり始めた幼児は文字など知らない。英語を覚えて役に立つのはまさにペーパーテストのときだけである。それは頭のハードディスクに機械的に記憶された事が文字として再現される事が最も重要視されているからである。(もちろんここでは文字の持つ重要な役割については本質的な会話能力とは直接的な関係がないので言及しない事にする) わたしたちが言葉を話すというのは、まずなにか言いたい伝えたい思いがあって、次に、頭のハードディスクに記憶された単語をそこから取り出してきて、それを文法に合うように並べかえてから、ようやく声にして出すというようなものでは決してない。それは幼児かその母の前で言葉をしゃべり始める過程を注意深く見れば判る。幼児はその母の前で、声を発しなにか言葉を話すことが自分の利益になり楽しいことである事に気付き、繰り返し繰り返しその言葉を発し、そしてその単語の数が増えていき、やがて単語が連なったひとつの短い文として自然と話せるようになる。そして話せる単語の数はさらに増えていき、文の数も飛躍的に増えていく。 わたしたちはここに言葉に関する様々な窮屈でしかも退屈な規則や約束事を見ることは出来ない。言葉は自由で伸び伸びとした楽しい事のようにして覚えられ発せられている。わたしはここに人間が本来持っている無意識的な能力、だれの身にも備わっていると思われる能力を想定しざるを得ない。 行為として繰り返される事によって肉体に刻み込まれる能力、わたしはそれを肉体の記憶と呼びたい。それは学校での勉強のように頭のハードディスクだけを使って記憶されるような、時間が経てば忘れ去られてしまうようなものではない。それは言葉を話すことが厳然たる行為として、行為としては同様の次のような例においても似たような結論が導き出されるのである。 これは少し前に述べた事であるが、歌を覚えようとして、まず歌詞を暗記するが、実際にメロディにあわせて歌っているうちに、その覚えた歌詞は頭にちらつかなくなり、やがてまったく気にならなくなったころに自由に歌えるようになり、その後もその歌詞をまったく忘れてしまっていてもその歌は歌えるということ。また特別に覚えようとしなくても何度も繰り返し歌っているうちに覚えてしまうということ。さらには自転車やスポーツや芸能などのように一度見についた行為や技や技術は二度と忘れることがないということ。 とくにスポーツの場合、こうしなけれがならないとあまりにもはっきりと意識すると (これは言葉を発するときの文字としての単語や文に相当するが) やらなければならない事が出来なくなったりまったく逆の事を行ったりしてしまう事がある。これは言葉や情報を取り扱っている意識からは、わたしたちの肉体の記憶はかなり独立性を保ってあまり影響を受けないと云うことを意味している。 以上、これらから私は英語を覚えることは、英会話能力にもあまり役立たないだけではなく、ときには妨げとなる事もあるという結論にならざるを得ない。それには、まず母親の前の幼児のように素直な気持になって、その言葉が発せられたように自分も何度も繰り返し繰り返し発して、いつでも自然と再現出来るように身につけることである。 次に三番目の「英語を日本語に訳すな。」ということであるが。英語を日本語に訳して覚えるということは、言葉が持つ主なる二つの側面、意味と感情を伝え表現するという事の、その意味を伝え表現するという面だけに重点を置いた、学校の教育、受験勉強には大いに役立つのであるが、英会話能力を身につけるという面においてはむしろ有害となるであろう。英語を日本語に訳して学ぶということは、英語を理解するという初期の段階においてはどうしてもやむを得ない面があるが、だがそれが習慣化するとますます英会話能力から遠ざかるだけでなく、それの妨げとなるであろう。というのも、わたしたちが誰かが話す日本語を聞いてその言わんとすることを理解しようとするとき、わたしたちはその日本語をまず厳密な意味に訳して、それからその意味をもとにして相手の言わんとすることを理解しようとするだろうか。そんな事はしない。相手の話しているときの語調や表情や身振り素振りからかもし出される雰囲気を全感覚的に感じ取りながら、言葉のもつもう一つの側面である感情をも同時に感じ取っているのである。だから同様に、英語を聞いて、それを日本語の意味に訳してそれから相手の言わんとしていることを理解しようとすることは二重の遠まわりである。 もしわたしたちがすべての英語を日本語に訳して理解しようとしていたら、たとえば、グッドモーニングと声をかけられたら、まずその音から good morning という英語を頭に思い浮かべ、good は日本語で良い、morning は朝だから、その二つの言葉を合わせたgood morningの意味は、良い朝、そしてこの英語は、日本語では朝の挨拶である、おはよう、という言葉に相当する、というように頭で考えて理解する事になるのだか。いったい誰がそんなまどろっこしい事をしているだろうか。誰もやっていない。わたしたちは反射的にそれを挨拶の言葉として受け取りその言葉の意味というよりも、大部分が占められているその言葉を発した人の感情的な側面、今日は気分が良さそうだとか悪そうだとかを一瞬にして感じ取るのである。それが言葉の持つ現実的実践的役割であり、本質である。 ではなぜこれが可能かというと、それは何度もその言葉を日常的に耳にしており日本語のように肉体化しているからである。わたしたちの意識が言葉のもつ意味的な側面に引きずられて、感情的な側面をおろそかにしているといつまで経っても言葉は身につかないといえる。それは言葉が常に相対立する二つの法則に支配されながら意味的なものと感情的なものを表現しようとしているからである。その上でわたしたちは発せられた言葉に全的に向かい合いながら意味的なものと感情的なものを同時にバランスよく感じ取って行かなければならないのである。 そうするには、それが日本語であろうと英語であろうと意味だけに限定して解釈しようとしている余裕はないのである。この相対立する法則というのは、たとえてみれば、絶対に相容れない二人の独裁者の様にも言う事が出来る。つまり人々は両方の独裁者に気を使わなければならないように、言葉は意味の世界だけに偏る事も出来なければ感情の世界だけに偏ることはできないということである。もし言葉が意味だけを重要視したら、なんとも喋りにくく人にも伝えにくい晦渋なものになってしまうだろう。もし言葉が感情だけを重要視したら、それはまた同時に音声としての側面であるリズムや強弱や抑揚を重要視するということであるからしゃべりやすく人にも伝わりやすくなり、その発声器官としての機能がいかんなく発揮されるだろうが、それが高じて内容が空疎なリズムだけの音楽のようなものになってしまうだろう。 わたしたちは言葉が抽象的な情報を伝う足り知識を蓄えたりするために大いに役立ってきたことは認める。だが、言葉で表現する事によって個人の人間の考えが発展するとか進歩するとかという考えには賛成できない。言葉はあくまでも借り物で、わたしたちの思いを表現する手段に過ぎないのだ。言葉はわたしたちが思いを表現するほかの手段、たとえば、音楽やダンス、絵や彫刻、スポーツやその他の様々な趣味などがあるように、その中のひとつに過ぎないのであり、音楽やダンスをやる人がその一度表現されたものを捨て去り、そこから抜け出して、更なる表現を目指して自由に飛躍しようとするように、わたしたちは一度表現されたものから決して縛られる事はない。わたしたちは本質的に自由なのだから。もしある言葉で表現されたものに永久に変わることがない絶対的価値を認めるとしたら、その人は変化することを望まない原理主義者におちいってしまうだろう。人間は常に自由であり、変化するものであり、それに合わせるように表現する内容も変わって行かなければならないからである。 わたしたちは何かをやろうとするとき、そのやろうとする事がはっきりと意識されているときは、その行為は完成しないと云うことを知っている。つまり、この場合、相手の話すことの意味にばかり気を取られていると、その言葉の持つ限定的な役割にとらわれすぎて全的に感じ取る能力が妨げられ、聞く能力さえも損なわれるだろう。それは言葉で表現することの精神の自由性や柔軟性からの逸脱であり、言葉が担わされている根源的な役割からいっても邪道である。 くり返しになるが、表現というものは、まず表現したいという思いや感情があって、言葉や絵の具や音や自分の肉体を使って表現するのである。そしてその思いや感情は時間と共に変化するものであり、以前に表現したものからは束縛されず自由である。そしてそれは常に漠然としていてあるときは抽象的であったり、またあるときは具体的であったりして非常に不安定でもあるのであるが。だから言葉は変化していくのである。もし言葉に定まった意味しか与えられなかったとしたら、それは言葉が不自由なのではなく、人間の精神が不自由ということなのだ。言葉に具体的なひとつ意味を結びつけそれを固定させたら、どのように表現の世界が混乱するか、次の例で示したい。yet という単語かある。これは学校の授業では、まだ、とか場合によっては、もう、とかという訳が当てられる。それは表現されている内容によってそう訳されるのだが。これは非常にまどろっこしい、いらいらさせる。この場合こういうことを表現しているのだからこれは、まだ、と訳し、この場合はこういうことを表現しているのだから、もう、と訳すとか、もう頭が痛くなりそう、だった。これは英単語に無理やり日本語の訳を当てはめた為に起こった混乱である。英語を話す人は yet に二つの日本語訳が当てられるなんて考えもしないだろうに。そうなのだ。英語を話す人は、このような具体的な意味ではなく、もっと漠然とした抽象的な意味をこの yet に込めながら話しているのである。つまり、少し感情的な強調をこめて「この今までの時間内において」という抽象的な意味をこめてである。それで、もし、その事柄が「この今までの時間内において」成し遂げられていたら、yet は「もう」という日本語の意味を持つのであり、その事柄が「この今までの時間内において」成し遂げられていなかったら、それは「まだ」という日本語の意味を持つのである。以上の事から結論めいた事を言うと、英語を聞いて訳そうとするとやはりどうしてもその単語の文字が目の前にちらつき邪魔くさい。その様に勉強させられてきたのだから仕方がない。それから抜け出すには相手の言う事を直感的に理解出来るようにしなければならないのだが、それがけっこう難しい。 次に四番目の「日本語を英語に訳すな。」ということであるが、何か言いたいことがあり、それをまず日本語で頭に思い浮かべそれを英語の文にしてから言葉として発するという事はいかにもまどろっこしい。私たちは日本語を発するときでさえ、話す前にいちいち日本語の文字を思い浮かべ、それから話すなどというそんな遠まわりなことはしていない。英語を聞いて直接的に相手の言いたい事を理解するように、言いたい事を直接的に英語で表現することが言葉の本質的役割であり機能である。その詳しい理由は前に述べた事がだいたい当てはまるのでここでは省略する。 次に五番目の「文法を覚えるな。」ということであるが、わたしたちは前に述べたように、わたしたちは、わたしたちの体に起こっている事を抽象し分析し、それがどのように起こっているかを意味として取り出し、それを言葉で表現し、さらにそれを情報として他者に伝えても、その人がその情報を元にしてその情報をつたえた人と同じことを自分の体に起こすことは出来ないということを、そのような情報は、体から脳へ、そして言葉を介して他人の脳へと伝わるが、その脳から体へは伝わらないということ、つまり不可逆的であると云うことをすでに知っている。この事は、スポーツや伝統芸能、その他の様々な行為者によって、知り尽くされ言い古されてきた事なのである。なぜそうなのかは、生物の進化と、その脳の発達過程を見れば充分に説明がつくので、省略する事にする。これを言葉に当てはめればこういうことになるだろう。 表現したいという思いや感情があって言葉で表現されたものを、その何かを表現されたものして受け取る限りにおいて、その表現されたものは言葉本来の持つみずみずしい生命力に満たされているのだが、それがどのような構造をしているか、抽象し分析し調べて様々な文法用語で体系的に合理的にまとめたものを知識として覚えても、そこからは言葉の持つみずみずしい生命力は失われており、その表現されたものを再現することにはほとんど役に立たないということ。いや、むしろそのような知識は再現することに妨げとなるであろう。わたしたちは表現されたものを耳にするとき、動詞はこの位置にあるから形容詞はこの順番にあるからこの表現された文は文法にあっているなどとは決して意識しない。それは話すときでも同じである。わたしたちが表現されたものを耳で聞いて理解し、そしてそれに応えるように言葉を発するということには直接的な肉体的音声的なメカニズムが働いているのである。 そこで私は前に出てきた言葉「内なる官僚主義」という言葉を用いて、それが誰の心にも巣食っているものであり、それが知識化された文法の弊害性とどのような関係にあるのかを説明したいと思う。 官僚がいて、国家というものがどのように成立し構成され運営されているかについて考え分析し、その結果として最適と思われる管理方法や仕組みが考えられ、そしてその役割を担うのであるが。ところが、いつのまにかに、官僚たちはその能力でもって自分たちが国家を管理し支配しているものと、または支配できるものと錯覚するのである。 つまり単に物事を抽象し分析する能力でしかないものを現実的な支配管理能力と勘違いしてしまうのである。 言葉においても、文法というものが言葉というものを管理支配しているものと思い込み、文法さえ覚えていれば言葉は話せるようになると錯覚する事である。文法によって言葉という現象が起こり、文法によってことばが自由自在に話せるようになると思い込むのである。とんでもない勘違いである。というのも、言葉というものは、長い間の肉体的感覚的経験を経て、人々との相互関係からどうしようもなく生まれてきた表現したいという思いや感情を、漠然とした時間的空間的広がりの意識のもとで、微妙な感情を表現するために音声の強弱やその合理性の制約を受けながら、現実的に音としての言葉を発するのである。それはあくまでも経験的なものでしかないのである。 後編に続く ![]() |