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       青い枯葉(1部)



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          狩宇無梨





 第七紀元745年(注1)
 その朝、マシルは青い落ち葉の混じった道を走っていた。
砂丘のように光る屋根を、幾十もの柱で支えた校舎に飛び込むように入ると、そこからは静かに歩き、今日で最後の授業となる教室を目指した。
そしてTR3と文字が刻まれた床の上を通って、二つの段差を降り、周囲が丸い石柱と電子機器で囲まれた小さな広場のような教室に入った。
授業はすでに始まっていた。
マシルは遅刻したのだ。
でも、誰もそのことを気にするものも、とがめるものもいなかった。

 生徒はあわせて十二人、それぞれ思い思いの場所に、自由であるかのように、高さと形が違う椅子に腰掛けていた。
生徒たちに話しかけている男は、彼らの兄のように若く、普段はセイダ先生とかセイダ指導員と呼ばれていた。
マシルは椅子を使わずそのまま床に腰を下ろした。

 十三歳のマシルたちの授業は地球環境についてだった。
呼吸が落ち着くと、ようやくマシルの耳に周囲の声が届くようになった。
セイダ指導員の声が響いた。
「それでは誰かに、それぞれの良い点や優れている点を、それにどっちが好きか述べてもらいましょう。
では、ケルスから。」
ケルスが上げた手を下ろしながら話し始めた。
「僕は電気植物(注2)のほうが優れていると思います。核融合から電気を取り出すためには、巨大な施設が必要です。
そのためには莫大なお金が掛かります。
でも、電気を発生する植物から電気を取り出すためには、それほど費用はかかりませんからね。
それで、僕は電気植物のほうが好きです。」
「では、他に、、、、カラム。」
「私は、核融合のほうが優れていると思います。
なぜなら、電気植物のほうは、天候に左右されるのでとても不安定です。
それに比べたら、核融合は常に安定した電力が得られますから。」
「はい、セイダ先生。」
「セキル、どうぞ。」
「私も核融合のほうが優れていると思います。
なぜなら核融合のほうは環境に与える影響が、すでに、だいたいですけどね、それほどでないことが判っているんですが、それに比べて電気植物のほうは、まだ判らないことがいっぱいあるということですから。
好きなのは電気植物なんですけどね。
だって落ち葉が青くてきれいだがら。」
セイダがさらに発言を促すように見まわすと、ラクルがゆっくりと手を上げた。
「はい、僕は、好きでも嫌いでもないんでが、電気植物のほうが断然優れていると思います。
今環境への影響を問題にしているようですが、でもそれはもう解決されていると思います。
なぜなら、電気植物が発明されてから、もう何年になるんですか、ええと、、、、何千、何万年、、、、それで、そのあいだに何か問題がありましたか。
ありませんよね。
だったらそれはもう何にも問題が無いということではないですか。
ですから、これからは、莫大な費用が掛かる核融合発電はやめて、電気植物発電をどんどん進めたほうがいいと思います。」
「はい。」
「では、ジュンカ。」
「僕はラクルの意見に反対です。なんにも問題が起こってないというけど、それはまだ起こってないというだけです。
これから起こるかも知れません。
遺伝子を操作して人工的に作ったものの影響を見るには、もっと長い時間が必要だと思います。
もしかして、この先、電気植物が勢力を伸ばして、他の植物を絶滅に追いやるかもしれませんから。
そうなったら地球の生態系は壊れ、植物だけでなく人類もその他の生き物も、たぶん絶滅です。」
「それは考えすぎだよ。
でも、もし仮に電気植物が勢力を伸ばしたとしても、人間は地球を守るためにちゃんと対策を考えるよ。
今までだって人類はそうやって何度も地球の危機を克服してきたんだからさ。」
このラクルの発言には、納得したように頷くものがでたので、少し沈黙が続いたが、セイダはもう少し違う意見が必要な気がした。
「他に、意見のある人は、なんか興味なさそうにしているリセ、君はどう思いますか。」
「ええと、どっちが優れているのか、私にはよく判らないです。
今まであまり考えたことが無いですから。」
「リセらしい意見ありがとう。
でも、これからはもう少し社会について考えたほうが良いでしょうね。」
それを聞いて周囲から笑いが漏れたが、セイダはさらに続けた。
「たぶんリセは他のことに興味があるんでしょうね。
大事なのは人それぞれ何かに興味を持っているということですから。
たとえ年齢が同じでも、同じようなことを考える必要はないですからね。
では、他には、はい、マホミ。」
「私もよく判らないです。
セイダ先生自身は、どっちが優れていると思うんですか。」
「うん、難しい問題だ。
正直言って私にもよく判らないんですね。
それぞれに長所や短所があって専門化レベルでも、未だに結論を得ていないぐらいですから。
おそらく私たち人類にとっては、今後の最大の課題となるでしょうね。
ええと、実はですね、今なんの為にこんな討論をしているかというと、それは、どちらが優れているかの結論を出すためではないのです。
つまりですね、 皆さんがこれから成長して、大人になって、より良い人生を送っていくためには、おそらく毎日のように遭遇するに違いない疑問やトラブルを解決しながら、生きていかなければならないことは確かです。
そこですね、前もって、なにかの問題を提起して、そしてそれに対して意見を出し合うことによって、このような問題を解決する能力を身につけるために、訓練として行っているのです。
ですから結論そのものは、今はそれほど重要でないのです。
これまでは友達についてとか、家族についてとか、学校についてとか、君たちにとって身近なことをやってきましたが、今日は思い切って地球的な規模の問題についてやってみました。
その結果、個人差はありますが、皆さんには、もうだいぶその問題解決能力が身についてきていると実感しました。」
「はい、セイダ先生、他のことを質問しても良いですか?」
「良いですよ。
ヘレス、どうぞ。」
「昨日お父さんが言ってました。
大昔は、学校は勉強するところだって、今みたいに遊んでばかり居なかったって、それ本当ですか?」
「どうもそうらしいですね。でも、心配しないでください
。君たちは遊びながら、知らず知らずのうちに、生きていく上で本当に役立つものを身につけていますから。
詳しいことは、もうちょっと後で話しますが。他には、、、、たぶんこれが最後の質問になると思うけど、、、、はい、マシル。」
「昨日、地球の地図を見ていたんですが、判らないことがあったんですよ。
ユーラシア大陸の南のほうの太平洋上に、緑色の雑巾のような形をしたシミのようなものがあるんですが、それはいったいなんですか?
それにはなんにも書いてないんですが、誰に聞いても判らないというんですが。」
「それね、ええと、それは、おそらく完全立ち入り禁止地域ですね。
たぶん濃い緑色になっていると思うんですが、人間がどんな理由があろうと、絶対に立ち入ってはいけないという地域です。
なんか大昔に決められたみたいですね。」
「島なんですか?」
「島であることは確かです。」
「人間は住んでいないんですか?」
「いませんね。完全立ち入り禁止地域ですから。」
「いつからですか?」
「うっ、よく判らない。とにかく大昔からそうなっているみたいだ。」
「なぜ、立ち入り禁止地域なんですか?」
「ふう、詳しいことは私にも判らないが。
たぶん地球の環境を考えてのことじゃないかな。
かつて人間は自然を犠牲にして、というか破壊をして、生きていました。
でも、そのうちに、こんなことを続けていたら、自然だけでなく、人間そのものも滅んでしまうということに気がついて、自然を積極的に保護しようと考えたわけです。
そしてそのために最も良いことは、人間が自然に立ち入らないことだという結論に達したのです。
そこで世界のところどころに、A種立ち入り禁止地域(注3)、B種立ち入り禁止地域(注4)、それから、完全立ち入り禁止地域(注5)と、三段階に分けて設けられたわけです。
A種というのは、希望して許された者だけが入れるということ、B種というのは、管理者だけが入れるということ、完全というのは人間であるかぎり誰であっても永久に入れないということです。
おそらくマシルが訊いているところは世界に三箇所ある完全立ち入り禁止地域の内のひとつだと思います。」
「そこには本当に人が住んでいないのですか?」
「いません。」
「今どうなっているかも判らないんですか?」
「判らないです。
それが完全立ち入り禁止地域の意味ですから。
もし、マシルがこれ以上知りたかったら、世界資料館にアクセスして自分で調べてください。
そこには詳しいことが出ているはずです。
ええと、それではですね、今日で私の授業も終わりですから、次に、君たちに今までほとんどしたことがなかった長い長いお話しをしたいと思います。
さて、いよいよ、君たちは今日でこの学校は卒業ですが、卒業後は、君たちが選んだそれぞれの道で、今までに学んだことを参考にして、生きるためにさらに、より多くのものを学んでいくことを願っています。
これまで君たちがこの学校で学んだことは、これから君たちが成長して大人になり、そして、そのときに人間らしく生きていくうえで、本当に必要とされるたくさんの知恵や技能を身につけるためにですね、準備されていなければならないとされている基礎的なことを学んだに過ぎません。
君たちにとってはこれからが学びの本番です。
人間が人間らしく生きて行くためには色んなことを学んでいく必要があります。
でも、学ぶといっても本を読んでいれば良いというものでは決してありません。
真に学ぶためには、その本人の努力や忍耐力が必要なのです。
その努力や忍耐力を養成するのが、この学校の目的だったのです。
これまでのやってきた沢山のプログラムのおかげで、さっきも言ったように、君たちにはその能力がすでに身についています。
ですから、君たちは自信を持って次なる道を進んでください。
それでは、ついでですからここで君たちがちょっと驚くような話をしますよ。
かつて教育というものは、現在とはまったく違うものだったのです。
学校というものは今と同じようにありましたが、君たちが今自分の家で自由にやっているようなこと、たとえば本を読んだり、文字を書いたり、計算の仕方を覚えたり、過去の出来事を記憶したりすることを授業でやってました。
しかも、計算は出来るだけ早くできるように、記憶することは出来るだけ多くのことが記憶できるようにと、それらのためにより多くの時間をかけてですね、半ば強制的にやらされていたようです。
そして、その成果を見るためにテストが行われたのです。」
セイダが生徒たちの怪訝そうな表情に気がついて話を止めると、ラクルがつかさず言った。
「今だって、ときどきテストをやるじゃないですか。」
「そうか、君たちはまだ経験がないから判らないか。
その当時のテストと今のテストは根本的に違っているんですよ。
今のテストは、君たちがどんな能力がどの位あるかを調べるためのものですが、その当時は生徒たちが、どれくらい早く計算できるか、どれぐらいいっぱい記憶しているかを調べるためです。」
「それを調べてどうするんですか?」
「うむん、まずは、誰が劣っていて、誰が優れているかを判断するためのようです。
その当時はですよ。」
「どうして判るんですか?」
「テストの結果に点数をつけるんですよ。
それで高ければ高いほど優秀だということがわかるらしいんですよ。」
「へえ、というと、優秀というのは良いことなんですか?」
「当時はそのようだったようですね。現代では優秀であることは、個性的であるという意味以外には、それが特別に良いことだなんて考えられないですがね。
とにかくその当時は何かと良いことがあったみたいですよ。」
「へえ、変なの。」
「今はやりたいという意欲さえあれば、誰でもどんな職業につけますが、かつては優秀でなければ就けないという職業があったみたいですよ。
たとえば、今はあまり人気がない肉体の病気を治す医者とか、犯罪者を裁く裁判官とか。
そこで、その優秀さを計るためにテストが行われたようです。」
「本当に優秀だったんですか?」
「さあ、どうなんでしょう。
点数は高かったことは確かなんでしょうが。
それで優秀かどうかは、、、、」
「それじゃ、そのころは優秀でなければ生きていけないということだったんですか?」
「もちろん、そうじゃないですよ。」
「だったら、点数が悪くたって良いじゃないですか。」
「なるほどね。
でも、さっきもいったように、優秀だということは何か良いことがあったんですよ。
それは誰もが望むような良い職業につけたということですよ。
その良い職業というのは、つまり、判りやすく言うとですね、お金がいっぱい入ってくる職業という意味なんですよ。」
「なんだ、そういうことか。」
「お金って?」
「そうか、君たちはお金というものを見たことも使ったこともないんですね。
今は無限信用社会
(注6)になってから必要ないんだけど。
私は歴史博物館で見たことがあるんですが、昔は物を買うときにそれを使っていたんですよ。
ほとんど紙とか金属で出来ているだけど。
リセ、今度余裕があるときにぜひ博物館にいってみて見るといいよ。」
「お金っていっぱいあったほうがいいんですか?」
「当然だよ。あれば欲しい物いっぱい買えるじゃないか。」
「セキル、不思議そうに首をかしげているけど、どう思う。」
「よく判らないです。」
「そうですね。
それでは話を元に戻します。
そんな訳で、テストで良い点数をとる子供は、将来より良い生活ができるということで、誰もが良い点数を取ることを目標にしたわけですよ。
古い記録によるとですね、その当時のほとんどの子供たちは一日に十時間以上も勉強してたそうです。」
「えっ、信じられない。
やりたくない人はどうするんですか?」
「周りが皆やっているから、自分だけやらないということも出来なかったみたいですよ。
アッ、そうそう、当時は現代のように、何を勉強するかは子ども自身が決めるのではなく、周囲から賢いと言われている大人たちが集まって会議をして、子供たちに何を勉強させるかを決めていたそうです。」
「今の時代に生まれてよかったな。」
「僕は絶対にやらないな。」
「私もやらない、十時間なんて。」
「その当時の子供たちは、お金がいっぱい入って来る職業に就けるというだけで、そんなに勉強したんですか。」
セイダが笑みを浮かべながら話し続ける。
「とにかく、当時は計算が速くできたり、色んなことをいっぱい記憶していることが良いことだとされていましたからね。
それに、大人たちは、そういう子供たちを社会全体で褒めたみたいなんですね。」
「僕はそれでもやらないな。」
「褒められるから勉強するなんて、ご褒美をもらって芸をする動物みたいじゃないか、その頃の子供ってまだ原始的だったんじゃない。」
「さあ、どうでしょう。
原始的かどうかは疑問ですけど。それから当時は、子供たちを勉強させるもっとも効果的な方法として、そのテストの結果を公表するという方法を取っていたそうです。」
「ええっ、どうして?」
「どうしてなの?なんかイヤ。」
「なぜ、公表するんですか。」
「それは、子供たちを競争させるためらしいです。
とにかく当時は、点数の高いものは学力が高い、学力が高いものは優秀な人間であり、その優秀人間は社会の役に立つというとことを唱える学者や政治家たちが沢山いて、学力主義派と呼ばれている人たちなんですが、それで、そういう優秀な人間こそが国家の発展に貢献する望ましい人間として、ますます歓迎されるようになり、そういう人間をたくさん生み出すためなら、競争までして勉強することが最高の価値と思われていたようなのですよ。
つまり、当時はそうすることが人生を生き抜くためにもっとも必要なことだと考えられていたからです。
そこで子供たちは、出来るだけ早く計算できるように訓練させられたり、できるだけ多くのことを記憶するように教え込まれたようです。
当時はそのような教育方法のことを詰め込み教育といったそうです。
そのときケルスがすばやく手を上げた。
はい、ケルス。」
「コッカって何ですか?」
「国家ですか?それはですね、むかし世界が三百ぐらいの地域に分かれていた頃に、そのひとつの地域を国家といったそうです。
それらの国家同士は、経済や軍隊やスポーツでお互いに競争していたみたいですね。
ときには何かの原因で仲が悪くなったりして戦争というものもしていたみたいですね。
とにかくその当時は、よい生活をするには国を発展させて、よその国に競争で勝つ必要があったみたいです。」
「はい、質問、戦争って何ですか?」
「そうですね。
人と人が集団で殺しあうことですかね。
大昔は頻繁に行われていたみたいですよ。」
「おじいさんに聞いたことがある。
大昔人間が狩猟生活していた頃、分け前を多く取ろうとして棒を持って殺し合いをしていたって。
野蛮な時代があったんだよ。」
ラクルが誰よりも不思議そうな顔で話し始めた。
「今まで僕たちは、人間は人それぞれ色んな能力を持っていて、そしてその能力にも差があるということを教わってきましたが、なぜその能力差をいちいち公表しなくてはいけないのか、本当に理解できないんですが。」
「なぜなんでしょうね。
私もまだそこまでは調べてないんですが、そうする必要があったからなんでしょうが、現代ではまったく考えられないことですけどね。
それでは、ええと、話は元に戻ってと、、、、、でも、そんなことを続けているうちに、その詰め込み教育が人生に於いて何の役にも経たないというだけではなく、人間の精神的発達を妨げるということが、だんだん判ってきて、とくに、その精神的発達を妨げる結果として、色んな精神的な障害を引き起こしたりするだけでなく、人間としての生きる気力や能力までも萎縮させるということ、さらにはその悪影響として、人間の生殖能力をも減退させて、全般的には、人間性そのものを、そして人間社会そのものを減退させ、衰弱させるということが判って来たのです。
それはそうでしょうね。
いま君たちにそんなに嫌がられているくらいですから。
もっとも現代は、子供たちは学校に行くのも行かないのも自由な上に、子供たちはまず自分の持っている能力を伸ばすために必要なことを学び、先生はそれの手助けするという方法に改善されていますから、そんな深刻な問題は起こらないでしょうが。
とにかく当時は教室という狭いところに大勢閉じ込められるようにして、ほとんど強制的に勉強させられたようですから、そういう影響が出たんでしょうね。」
「どんな精神的な障害が出たんですか?」
「その当時の歴史書を読んでみると、こんなことがあったようです。
たとえば、勉強をしなくなったり、学校に行かないだけでなく外出が出来なくなったり、人と話せなくなったり、食べ物をまったく食べれなくなったり、またはその逆にものを食べ続けたり、自分の体を自分で傷つけたり、現代ではとても考えられないような異常行動が頻繁に起こったみたいですよ。
でも、そのくらいならまだいいほうで、ときには、自殺に追いやるような悪質ないじめがあったり、教室で銃を乱射してクラスメイトを殺す者がいたり、学校に爆弾を仕掛けて、皆殺しにしようとしたりする子供たちが現れたそうです。
今では、それらは全部、テストや詰め込み教育が原因と考えられています。
今、君たちは信じられないように顔をしていますが、もちろん、すべての人がそういう行動をしたわけではないです。
でも、その当時の作家の本には、このように書かれているのを以前読んだことがあります。
『ほとんどの人はテストの悪夢に生涯苦しめられ続けている。』
と、そんなに笑わないでください。
きっと昔の制度は、現代の伸び伸びとして教育制度のもとで育った君たちから見れば、信じられないくらい、抑圧的で不合理なものに見えるんだろうけどね。」
このときはラクルが勢いよく手を上げていった。
「はい、先生、昔は学校に行くのは強制的だったのですか。」
「強制的というか、義務だったようですね。
いま君たちが、友達と遊んだり親の仕事を手伝ったりすることが、半ば強制的で義務的であるようにね。
今は勉強は、家でやっても良いし学校でやっても良いことになっているが、とにかく昔は、学校に行くのも、勉強するのも、テストで出来るだけ高い点数を取るのも強制的で義務的だったようです。
でも、大昔の大昔は、子供たちは学校なんかに行かないで、毎日友達と遊んだり親の手伝いをしていたんですけどね。
その意味では現代の教育方法は大昔に戻ったということなんでしょうね。」
するとリセが不思議そうな顔をしてつぶやくように言った。
「昔のテストって辛いものだったんだ。」
「現代のテストはみんな楽しみながらやりますからね。
ちなみにですね、昔はさらに上の学校に行くためには受験といって必ずテストをやりました。
そして点数の高い順番に進学できたのです。
なんか変でしょう。
今とまったく逆でしょう。
いまは勉強が必要とされる者が、上の学校に行けるのですが、その当時は優秀な者だけが行けたみたいです。
 とまあ、色んなことがあって、結局、そんな問題がありすぎる教育は止めて、人間が人間らしく生きていくために必要なことを身につけさせるという現代のような教育に変ってきたのです。
つまり、いつの時代でも、人間が自分たちの社会を発展させ、そして豊かで人間らしく生きていくためには、豊かな発想で社会の変化に対応でき、そして次から次へと起こる問題やトラブルを処理することが、絶対的に必要だということが判ってきたのです。
そこで、そういう豊かな発想力と問題解決能力を持った人間を教育によって養成しようと考えたわけです。
そこでなんですが、では、その豊かな発想力と問題解決能力とは、具体的にはどういうことか、ということになったのですが、それは何よりもまず本人が個性的であり、その上で、未来のことを考えたり、物事を分析したり洞察したりする能力でした。
そこで、そういう能力を養うにはどうしたら良いかという研究が、沢山の学者や専門家によって行われるようになったのです。
その結果、色んな方法が考えられて実践されたのです。
たとえば子供たちが集まって集団で問題を解決したり、記憶に頼る詰め込みではなく、基本的なことを体を使って反復的に学ぶということが、子供たちの考える能力を養うのに最もよいということになり、世界各地で盛んに取り入られるようになりました。
ちなみに個性を伸ばす教育の重要性は、そのだいぶ以前から言われていましたが、本格的に行われるようになったのはこの頃からようです。
ところが、その方法も、どの程度それらの能力が身についているかとということを判断するのに、やはり従来のようにテストを行ったのです。
テストの成績のいいものはそういう能力が身についているというわけです。
でも、それは所詮、紙の上での試験で単なる目安に過ぎません。実践はまた別のことです。
実践というものはもっと総合的で人間的なものです。
それに、その当時の個性を伸ばす教育といっても、今のように子供に合わせたものではなく、そのことを専門に研究する大人によって、世界の発展のために役立つような人間を作り出そうという理念の下で考え出された方法によって行われていたので、あくまでも形式的で気休め的なものにすぎず、実践的にはそれほど役立たないものでした。
なぜなら、テストの結果は公表されるために、以前のように高い点数を取るものは優秀な人間とみなされ褒められるので、誰もがそうなりたいと思うようになり、いつのまにか、そこに以前のような競争が働くようになり、結果的に再びテストで高い点数を取るためのテクニックを教える授業に戻っていったのでした。
そして以前と変ることのない管理的で抑圧的な教育がふたたび行われ続けたのです。
本来テストというものは、現在のようにあくまでもその本人の理解度を調べるために行われるものに過ぎないのに、すぐ高い点数を取ることを目的とするように変っていくようです。
それもみんな、現在では誰も信じていないようなこと、いわゆるテストで高い点数を取るものは優秀であり、将来はより良い人生を送ることが出来るだろうと、迷信のように信じられていたからなのだろうね。」
マシルが手を上げて言った。
「先生、どうしてテストで点数をつけると、管理的で抑圧的な教育になるんですか。」
「それはですね、子供というものは、人それぞれ色んな才能を持っているにもかかわらず、テストの点数を基準にして、どの子供がより優秀であるかないかを順位を決めて教育するということは、ものすごく管理的なんです。
しかも、とても安易な。
というのも、その方法は指導者にとってはとても簡単で楽だからです。
だから、そんな理由でもって教育者たちが、生徒たちにより高い点数を取るように競争させることは、とんでもなく無責任であるだけでなく抑圧的でもあるのです。
でも、やがてそんな教育も行き詰まりを見せ始めました。
というのも、依然として子供たちの精神的な問題や、それによって引き起こされる問題が解決されないだけでなく、さらに深刻な問題が起こり始めたということです。」
「その問題というのはどんなことなんですか。」
「子供から大人まであらゆる世代にわたって自殺者が増えたってことでしょうか。
人間が豊かで人間らしく生きるために考え出された方法が、かえって人間性を萎縮させて生きる力を奪っていったのです。
それはそうでしょうね、なぜなら、その当時豊かで人間らしくというのは、国家同士が競争していたために、それに打ち勝って経済的に豊かな生活をする、ということと同じ意味になっていましたからね。
それで豊かな発想力と問題解決能力を持った人間を養成するというのは、本来の豊かで人間らしい生活をするためではなく、競争に打ち勝つような人間を養成するということに、知らず知らずのうちにすり替わっていたのです。
ですから新しい教育というものは、それ以前の詰め込み教育に、新たに考え出された方法が付け加えられたものに過ぎませんでした。
そのため、実際は以前よりもはるかに管理的で抑圧的なものになっていたのです。
もちろん自殺者が増えたという原因には、いまでこそ子供の成育には有害とされているバーチャルゲームが、その当時は無制限に行われていて、それが精神の成長を妨げたことも深く関わっていたようなんですが。
まあ、そういう訳で、結果として、子供たちの勉強時間も増えていきました。
一日に二十時間ぐらい勉強したという、その当時の記録もあります。
今、君たちはどの位勉強してますか?」
「僕は三時間ぐらい。」
「私は二時間ぐらい。」
「そうでしょうね。現在はそれくらいで充分なんですよ。
でも当時は、生きていくためには本当に勉強しなければならなかったんですよ。
それにはそうせざるを得ない状況におかれていたみたいですけどね。
なにせ、当時はいまと違って人間は住む地域によって話す言葉がちがっていましたから、競争に打ち勝つような人間として生きていくためには、最低でも二ヶ国語以上を話さなければならなかったみたいですよ。
それに、現在は、計算というものは、決して早くなくても、とにかく最終的には出来さえすればいいことになっていますが、当時は早く出来れば出来るほど、問題解決能力があると看做されていましたから、そのような能力を養成する教育が、ますます盛んになって行ったようです。
でも、やがて、こんな教育ではだめだということに多くに人が気づくようになりました。
そしてようやく真剣に、人間生きていくためには、何が必要か、そのためにはどんな教育が必要か、ということが考えられ始めたのです。
そして、本当の意味で人間的な教育が考え出され、行われ始めたのです。
では、その人間的な教育というのは、
まずは、子供が生まれつき持っている個性を最大限に伸ばすこと、
それから、その本人の生きる力を養成するということでした。
まず個性を伸ばすことですが。
それまでとちがって、徹底した子供に合わせるものでした。
それはそうでしょうね。
人間は人によって感じ方も考え方も違いますからね。
具体的には、子供の好きなこと、子供のやりたいことをやらせることでした。
そして、そのためには教育者は徹底して裏方にまわって手助けをするということでした。
まさに現代の教育の原型となったのですが、現在はさらに進化して、子供の嫌なことはやらないでもいい、とにかく好きなことだけををやれば良い、ということになっていますが。
そして、これは何よりも、私たちの社会が当時よりも進化発展して、より多様な社会になったおかげなんですが。
それがどんなに自由にのびのびと健康的に子供たちを成長させるという、本当の意味での人間的な教育ということが判ったのです。
でも、それだけでは従来の教育方法の延長線上にあるだけです。
私たちが色んなことを学ぶのは、私たちの人生の目標や夢を実現するためですが。
その目標や夢を生み出すのは、まさに私たちの生きる力なのです。
そこで、本人の生きる力を養成するということが、子供たちの教育に取り入れられることになったのです。
ではその生きる力とはどういうものでしょうか。
イサム、なんだと思いますか。」
「、、、、、」
「ちょっと、むずかしかったかな。
生きる力というのは、基本的にはまず何かを好きになったり誰かを愛したりすることから生まれてきます。
その愛することには大きく分けて二種類あります。
まずは自分を愛するということ。
では、自分を愛することが出来るようになるためには、自分が身近にいる誰かに愛されることが必要です。
自分が愛されるに値する人間と思うことが出来るからです。
それから社会が好きであるということ。
社会が好きであるためには、家族であり人の集まりでもある身近に居る人たちが、まずは愛し合っている必要があります。
そうすれば、それよりも大きい人の集まりである社会は好きになるでしょうから。
もし身近に居る人たちが憎み会っていたなら、その人間にとって社会は好ましいものとはならないでしょう。
むしろ興味のないもの不愉快なもの否定すべきものとなるだけでしょう。
そんな社会のもとでは誰も生きたいとは思わなくなるでしょう。
それではそんな社会は衰亡するだけです。
人間は長いあいだ豊かで、便利で、快適で何の問題もないような生活が幸せな生活と考え、それを求め実現してきました。
そして、そんな幸せな生活から、生きる力が要請されてくると考えていましたが、それはとんでもない誤解だったのです。
むしろその逆で、不便さや不快さや貧しさや逆境や抑圧や差別から、そして失敗や挫折から生まれて来ることに、だんだんとに気づき始めたのです。
つまり、そのように悪い環境にあっても、それを跳ね返すような深い愛情のもとで育てられていれば、どんな条件下でも生きられるようなたくましい人間に育つということが判ったのです。
そんなわけで詰め込みでもない、生きる能力をテストで計るのでもない実践的な愛情関係に支えられた教育が始まったのです。
そして、それをふまえた上でさらに職業体験というものが重要な柱として付け加えられるようになりました。
以前のそれは教育的にお膳立てされたもので、半分遊びのようなものでしたが、新しく始まった職業体験というは、実際に、大人に交じって働きながら、その仕事の難しさや大変さを実感して、将来その仕事に就くためには、これからどのようにことを勉強したらいいかを本人が実践的に学ぶものでした。
ほどなく、このような教育によって、それまで理想とされていたことが達成されるようになったということです。
それは、人間は自分の好きなことをやっていれば、それでもう充分に人間らしく生きられるということです。
もちろん子供たちが自由になったぶん、それまで好ましくないとされていたことも認められるようになりました。
たとえば、子供のときの暴力的な喧嘩やイジメなどが子供の成長には必要不可欠なこと、それは排除されるべきものでは決してなく、乗り越えられるべきものとなり、出来るだけ自然な形で教育の場に組み込まれるようになりました。





  2部に続く



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