やがて夕暮れが(2部)



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          はだい悠


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 霧雨が降り続くなかマサオは通りから通りへとさ迷い歩いた。人間はどこでもいっぱいだった。そしてその表情は皆こじんまりとしていて他人そのものだった。マサオは要約群集の流れからはずれ自分の速度で歩くことにした。そしてゆっくりと歩きながら人々や町の風景を眺めた。そしてふとショウウインドウに映る自分の顔を見て思わず愕然とした。こんな顔をしているはずはないと思った。一時間ほど前に部屋に居たときの自分の顔の表情とは似ても似つかなかったからである。それは町を歩いている人々と同じ表情をしていたのだ。マサオの思考力は急速に低下し始めた。そしてマサオはふたたび群衆の流れに任せて、当てもなく歩いた。
 それから一時間後、マサオは疲れたと思った。ただ歩いているだけなのに、前身にけだるさを覚え、頭が重く、軽い吐き気を感じた。マサオは気づいたように自分のアパートのほうへと向きを変え歩き出した。
 賑やかな通りの喧騒を離れて、マサオは人気ない通りを歩いていた。先程までの全身を投げ出しなくなるような陶酔感も、今は全神経を使い果たした肉体のなかに、肌のこわばりとしてその痕跡を残していた。そしてマサオの意識を広げてくれて霧雨も、鈍感になった手足にまとわりつくだけである。町の風景に翻弄された頭はもう平常の思考力を失い、ただ全身を蔽う虚脱感を感じながら、マサオは手足を引きずるようにして歩いた。重くこわばった両肩、ぷつんと切れそうな視神経、そしてバラバラになりそうな手足のために、マサオはとにかく休息が欲しいと思った。マサオは振り返り遠くなった町を見た。霧雨のなかに町はマサオを拒絶するかのように夜の光に泰然と輝いていた。
 マサオは軽いめまいと吐き気を覚えながら跨線橋を渡り始めた。マサオがその中央に差し掛かったとき、電車が跨線橋を揺らしながらマサオの真下を轟音とともに通り始めた。
《大轟音のなか、迫り来る鋼鉄の車輪、一瞬の内に頭蓋骨が打ち砕かれ、血しぶきが上がり、人形のように手足が引きちぎられ、飛び散った赤い肉片の血のりが、冷たい線路に粘りつく》
 マサオがこの幻影から逃れたのは、ちょうど電車がマサオの下を通り過ぎたときであった。そこまでわずか四五メートルの距離。マサオは呪縛されたかのように足が動かなかったのである。
 マサオは自分のアパートに通じる路地に入るまえにもう一度振り返り遠くなった町の風景を見た。マサオには捕らえようがなかった。ただ漠然と、妬ましいもののようにも、巨大で得体の知れないもののようにも思われた。そしてマサオは自分がどうしようもなく小さく惨めなものに思われた。
 部屋に帰るとマサオは、ぐったりとして布団の上に横たわった。
 だが、しばらくすると猛烈な空腹感に襲われた。
 夜は何事もなく更けた。時計は十二時を回っていた。明日は仕事だと思いながらマサオは眠りに掛かった。外は静かだ。ガチャンとガラスが割れるような音がした。マサオはいやな予感がした。その音は大家のほうからである。男とも女ともつかないわめき声が聞こえると、ふたたびガチャンと音がした。《まさか、源三がタカに暴力を振るっているのではないだろうか》とマサオは思った。日頃源三はタカに横暴に振舞っていることはわかっていたが、それもせいぜい大声で怒鳴るとか、手元にあった軽いものを投げつけるぐらいで、いつもはそれほど大事にはならないことをマサオは知っていた。しかしガラスが割れるほどなら、もしかして大変なことになっているのではないかと不安になった。もしそうなら様子を見にいき止めに入らなければと思った。が、そう思うまもなく、マサオの斜め下に住む同棲中の翔子が、やはりその音を聞きつけたのか、ドアを勢いよく開け、駆けつけるのが聞こえてきた。源三がいくら年寄りとはいえ、若い女の力で男の暴力をとめることはできるのだろうかと心配になった。翔子が駆けつけた後も、ののしるような声がしたあと、ガチャンという音が聞こえた。《やはり、翔子ではダメか、人騒がせな》と思いながらマサオは起き上がろうとしたが、なんとなく様子がおかしい、意外と静かである。大変なことになっているのなら、翔子の悲鳴でも聞こえてきても良さそうなものだと思った。マサオはまず様子を見ることにした。そこでトイレの窓をそっと開けて見た。大家の玄関のドアは開けっ放しで、翔子がそのそばで、少し途惑った様子でたっている。その足元には割れた植木鉢が散乱している。そこへふたたび植木鉢が勢いよく投げつけられた。翔子は軽くよけながら、どうして良いか判らなそうにただじっと見ているだけである。そこへ両手で植木鉢を持ったタカが出てきた。そしてののしり声を上げながら、それをコンクリートの地面にたたきつけた。それらはすべて源三が大切にしている鉢である。
 最近になって源三は、偶然にも連日のように酒を飲む機会恵まれた。町内の会合とか、自分の気まぐれとかで。そして夜遅く帰ってきては、タカを怒鳴っては用事を言い付けていた。《今頃までどこで》と不満顔で独り言を言うタカに、《会合、会合》と余計なことだと言わんばかりに怒鳴り散らしては、納得いくように答えようとしなかった。タカはそれをひどく怪しんだ。
 今日もしたたか酔い、上機嫌で帰るなり、寝いてるタカを怒鳴りつけて起こし、それでもグズグズしているタカをめがけて靴下を投げつけた。タカは不満ながら返事もしないで無視し続けた。源三は「クソババア」といいながらタカの背中を足で小突いた。タカは憤懣が胸までこみ上げ、逆上したかったが、でもできなかった。やはり内心源三が怖かったからである。そしていつものように台所に逃げた。だが気持ちが収まらない。そしてぶつぶつ言いながら、居間と台所の間をオロオロと行き来していた。いつもならここで源三の怒声が追い討ちをかけるのであるが、でもどうしたわけか、今日はなかった。タカは日頃から、《今日こそはこう言ってやろう》《今日こそはこうしてやろう》と思っているのであるが、いざ反抗するとなると、長い間の習慣のせいか、源三の前では金縛りにあったように身動きが取れなくなってしまうのであった。
 反抗にはその重圧を撥ね退ける、感情的、肉体的きっかけが必要なのであるが。タカは手元にあった食器を上ずった声を上げながら投げつけた。それはふとした気済みであった。何か明確な考えを持ってやったわけではなかった。
 食器が音をたてて砕け散ると同時に、タカは全身が身震いするほどの恐怖に襲われた。そして破滅的な気分になった。源三は突然の剣幕に気後れして声も出なくなった。タカはそういう源三をとっさに見抜いた。そしてタカは勇気付けられ、気が大きくなった。後はもう積もりに積もった怒りのマグマを破滅的な気分の裂け目からあふれ出させるだけで十分であった。
「いままで何してやがった!」
とタカは眼を吊り上げののしった。そしてふたたび食器を投げつけた。源三は面食らったようにただ黙っていた。そのとき翔子が駆けつけてきたのだ。それでタカはさらに勇気づけられ、このときばかりと怒りをあらわにした。そして今度は玄関先においてあった植木鉢を投げつけた。
「あうせい、こうせいって、人を何だと思っていやがる」
そういいながら今度は鉢を持って玄関の外に出ると勢いよく投げつけた。
 トイレの小窓から見ていたマサオは、タカのその姿を見て、こういうことだったのかと少し安心した。源三は身動きがとれずに無言のまま今に座っていた。まさかこういうことになるとき思ってもいなかった。高を括っていたのだ。いまさら大声で威圧して抑えることもできそうになかった。かといって、みっともないから止めろともいえなかった。後は自然に収まるまで待つしかないとあきらめた。
「ババァ、ババァと、バカにしやがって、こら、出て来い」
タカは玄関から今に居る源三に向かってののしり続けた。荒々しい言葉の割には、タカのその表情は意外と穏かであるようにマサオには見えた。そのとき隣近所の人々が集まってきた。やはりただならぬ物音に心配だったのだろう。でも翔子と同じように、手の出しようもなく、また別に止めようともしなかった。まもなくタカは、《出てこないなら、こっちから出て行ってやる、もう二度と帰ってくるもんか》と言って、霧雨のなか、傘も持たずにどこかへ歩いていってしまった。源三は相変わらず無言であった。しばらくしてタカが隣家の人ともに帰ってきた。《もうこれで大丈夫だ、安心して眠れるだろう》とマサオは思った。しかしタカは玄関に入るなりふたたび鉢を持ち出してきて地面にたたきつけた。そしてののしった。
「やい、ジジィ、もう怖くなんかないからな」
タカは収まりかける源三への自分の怒りを鉢を投げることによってふたたび高めることによって、心の奥底にある源三への恐れを抑えていなければ不安だった。
「出て来い、どこで、××××してきやがった」
タカは玄関の柱を強くたたきながらののしった。翔子の姿はもう見えなくなっていた。タカは決して玄関から中へは入らず外をうろうろしながら口汚くののしり続けた。その後しばらく静かになったので、収まったのかなと思いきや、ふたたびタカが、外をうろうろしながら、自分の怒りを再確認するかのように、怒りの表情を浮かべてののしった。しかし、源三の反応は依然として無言である。そして再び、タカは《こっちから出て行ってやる》と強くはき捨てるように言うと、霧雨のなかをどこへともなく歩いていった。
 マサオはタカの後を追う隣家の人の足音を聞きながら布団に入った。《たぶん、大丈夫だろう、それにしてもずいぶん人騒がせな》と思いながら眠りに掛かった。


 その夕刻、マサオは帰りの電車に乗り込んだ。車内はいつものように混み合っている。埃を吸い込んだ汗が腕や首筋に粘りつく。ビルの間に沈みかける夕日に額の皮膚が焼けるように暑い。電車が揺れるたびに、隣り合わせる人との肌がふれあい、汗ばんだぬくもりが伝わる。マサオの内部の抜け出せない親密感は、疲労した肉体において反射的な不快感となって現れ、その苦痛のあまり、マサオに人々の疲労した表情を見ることや、人々と眼を合うことを、犯罪者のように恐れさせた。マサオは閉じ込められたような息苦しさを覚えながら、出来るだけ人間の密度の薄い場所へと移動する。そして波のようにマサオの内部に侵入してくる見知らぬ人間の息づかいや汗の匂いの不快感に耐えながら、額の汗を拭い、窓の外に眼をやる。
 陽は完全に沈んだ。電車は駅に止まるたびに、その乗客の数を減らしていった。マサオは広く開いた席にぎこちなく腰をかけた。乗客たちは相変わらず親近感をあらわすことがタブーであるかのように、無表情に座り続けたままお互いをよそよそしくしている。マサオも無表情を装い少し足を広げ楽な姿勢でシートにもたれた。 《もう少しの辛抱だ。それにしてもいくら見知らぬもの同士とはいえ、こうも窮屈で不快な思いをしながら、お互いに我慢していなければならないなんて、まさに拷問を掛け合っているみたいだ。だがもうじき開放される。もう少しの辛抱だ》マサオは心の中でそう呟きながらじっと耐えた。
 次の駅で乗客がやや増え、マサオの隣にも座るようになり、座れない乗客かあちこちに立つようになった。マサオは座りなおし窮屈な時間から逃れるのを待ち続けるかのように眼を閉じた。
 突然、電車の走音のなかに怒声が響いた。《酔っ払い? まさかこんな早くから》とマサオは思いながら眼を開け、その方角を見た。つり革にぶら下がり立っている中年の男が、その眼の前に座っている若い男に向かい、顔を真っ赤にして怒鳴りつけている。傍に立っているその男の妻らしき女も、ときおり同調を求めるかのような眼つきで周囲を見まわしては、その若い男を睨みつけている。やがてその中年の男は、若い男のひざを激しく手でたたいて、その組んだ足を払いのけた。足をはらわれた若い男は少しも表情を変えずにそのまま再び脚を組んだ。
「君のような人間がいるから、、、、何度注意したらわかるんだ、、、、」
義憤の表情をいっぱいにだしながら興奮して喋る男の怒声が途切れ途切れに聞こえる。しかしマサオには、その中年の男がなぜあのように怒り続けているのは判らなかった。どなられ脚を払われても、その若い男は、じっと耐えるように視線を下げ無言で座っている。電車が止まり席が空いた。その中年の男は顔をこわばらせたまま座った。妻らしき女もあきれたような薄笑いを浮かべながら、その若い男をじろっと睨みつけて座った。それでも若い男は終始なんら弁解めいた表情をすることもなく座り続けていた。不思議なことに周囲の乗客もそれほど関心を示しているようではなかった。
《いったい何が起こったのだろう? みんなの眼の前で、当然のごとく怒りの表情を浮かべる中年男女の一方的な怒声や薄笑いや暴力の屈辱を甘んじて受けなければならないほど、その若い男は、彼らに対していったいどうな無礼を働いたのだろうか?》とマサオは悩んだ。まもなく電車はマサオが降りる駅についた。


 マサオは人ごみにもまれるようにして駅の構内を出た。駅前の華やかな光景を目にしながら自分が解放的な喜びに満たされていくのを覚えた。電車内の息苦しさとは違い、自由気ままに歩き廻れると言うことが、なんとも奇妙で楽しかった。マサオは不思議と勇気づけられ子供のように気分がうきうきした。アパートに帰っても別に何をすることもないと思い、このまま夜の街を歩くことにした。公衆便所に入りすっきりすると再び夜の街を歩き出した。もともとどこかへ行こうという目的もなかったので、成り行きに任せ、通りから通りへと、繁華街から繁華街へと歩いた。薄着の女たちの後をさりげなくいるいてみたり、映画の看板の前に立ち止まって大胆に眺めたりしながら気まぐれに歩いた。そして人影の少ない通りに出るとすぐに引き返して再び華やかな通りを歩いた。マサオはいつもより胸を張って歩いていることに気がついた。快楽的なネオンに誘われそうになったが、自分ひとりで飲んでいる姿を思い浮かべると、さまにならないような気がして、そのまま通り過ぎた。パチンコをやろうとして入ったが、店内の混雑振りや騒々しさには堪えられないと思い、急いで外に出た。本屋に入ったが、これと言って興味がわかず、適当に眺めては通り過ぎるように外に出た。
 行き当たりばったりに歩いているうちにマサオは食事はまだであることに気がついた。そして食堂に入ろうとして、ポケットに手を入れたが、財布がない、あちこちのポケットを調べたが、やはりない。《落としたのだろうか? それにしても、いつ? どこで?》と思い巡らしたが、頭には何も浮かんでこない。華やかで快楽的な風景を眼の前にして、方角も時間も失った痴呆のようにマサオの頭は混乱した。たったさっきまで、どこをどう歩いてきたか、どこで何をしたのかの記憶がすべて失われたかのように何も思い出せない。《いつものように駅を出たところまでは、それから先が、、、、、》マサオは焦り無力感に捕われた。そして一瞬絶望的な気分に襲われそうになった。しかし気力を振り絞り、衰えかけた想像力を働かせながら《財布の中身は期限まじかの定期券とわずかな金、それにアパートには買い置きの食料が在ったはず》とこれ以上くよくよしないように、自分を納得させて帰ることにした。
 アパートに帰ると、玄関にまずまきをしていた大家のタカが、いつもより心なしか穏かな表情でマサオに挨拶をした。マサオも自然と沸き起こる笑みを浮かべて挨拶をした。

 マサオが夕食の用意をしていると、タカから電話の呼び出しを受けた。
 電話の相手はマサオの財布を拾ったと言う男からであった。
 マサオは再びと外に出た。そして相手の男から指定された場所へと急いだ。
 マサオにとってほとんど諦めかけていたことであったが、見つかってみるとやはり安心したのか、空腹であるにもかかわらず不思議と足取りが軽かった。たぶん駅の近くの公衆便所で手を洗ったときに置き忘れたのだろうと、マサオは歩きながら考えた。それにしても相手の男は?判りやすい駅前とかではなく、わざわざ駅から離れた公園を待ち合わせの場所に指定してきたのだろう? 受話器越しながらも、相手の男は人前や目立つ場所を必要以上に避けているようにもうかがえたが、もしかしたら浮浪者か?それともある種の趣味を持ち男か?それにしてもどうして交番に届けなかったのだろうか? なぜ直接、、、、マサオはあれやこれやと疑問を抱いているうちに気味の悪さを感じ始めた。打がその一方では、男同士とはいえ、人目を避けて会うことに何か冒険に挑むときのような心ときめくものもあった。
 駅から少しはなれたところに、昼間よく子供たちがブランコのりや砂遊びをする程度の小さな公園があった。 夜には人影はなく薄暗い。雅夫はそれらしい男とを見つけると、少し警戒心を抱いて近づき自分の名を名乗った。拾い主はサラリーマン風で人の良さそうな五十歳ぐらいの男性であった。マサオは「どうも」と曖昧な挨拶をして用心深そうな笑みを浮かべた。
 「どこに落ちてましたか?」
「駅前の広場のベンチ」
と男は友人のような親しさで答えた。
 マサオはなぜそんなところにと思ったが、相手の親切心を裏切ってはいけないと思い表情は変えなかった。
「調べてみてください」
男にそういわれて、マサオは途惑ったように自分の財布を調べた。
「あぁ、えぇ、だいじょうぶ、あります」
とマサオは曖昧な笑みを浮かべて言った。そして、
「いやぁ、助かりました。どうも、どうも」
とやや警戒心を抱きながらお礼を言った。中年の男の表情は、人ごみや電車内の人々のよそよそしい表情とは違い、ドキッとさせるような親しみに溢れていた。それがマサオにとっては不気味であったが、同時にそのような表情に触れていると、マサオの心も自然と和らぎ、子供頃友達といっしょに暗い押入れに入ったときのような、怪しい連帯感を覚えた。マサオはもう一度お礼をいうとその男と別れた。
 別れて歩きながらマサオは、その男の妙に親しみに溢れた表情が気にかかった。お礼のためいっしょ飲むべきではなかったかなとも思った。マサオはそのほかにもいろいろな疑問がわいたが、結局それ以上何も考えないことにした。
 マサオは寝床に入りながら今日一日の出来事を何とはなしに思い浮かべた。そしてふと全身が熱くなるほどの衝撃に襲われた。電車内で青年が中年の男女に一方的に怒鳴られていたその原因が判ったような気がしたのだ。 もしかしてあの青年は足を組んでいたからではなかったかと。人が前に居るときや、混雑しているときは足を組んではいけないというのが、乗客たちの暗黙のルールであるらしい。マサオも何気なく足を組む習慣がある。それを今まで特別意識することもなく行ってきた。《もしあの青年が自分だったら、どんなに居たたまれない気持ちに、いや帰ってあの中年の男女に怒りを覚えていたかもしれない》と思うと暗然とした。もう何年もこの都会に住んでいて、そんなことに気がついていなかったことに冷や汗の出る思いであった。そしてこの都会が自分とは関わりのないところで動いているように思われ、マサオはいつまでたっても住み慣れない余所者のような気持ちがした。少し興奮が収まり、意識が薄れていくのを感じながらマサオはもう一度電車内での出来事を思い浮かべた。でも車内はそれほど混雑していた訳ではなかったのに、と思うだけだった。


 その土曜日。長いあいだ雨や曇りの日が続いていたが、久しぶりに朝から晴れ渡っていた。陽射しは強く、マサオの部屋の温度は寝苦しいほど上昇していた。十時頃、マサオは里の騒々しさで眼が覚めた。それは翔子の大げさな悲鳴で始まった。洗濯物を乾していたら、軒先を這っていたヘビを発見したのであった。翔子は急いで大家に駆け込んだが、源三が出かけているため、タカひとりではどうしようもなかった。翔子とタカが、あっちに逃げた、こっちに来たと子供のように大声で騒ぎ立てるうちに、ヘビは逃げ場を失ったのか、軒先にたけかけてあったガスボンベの底に入ったらしい。
「たいへん、入る、入る」
と言う翔子の叫び声を聞きながらマサオは布団のなかでうつらうつらしていた。
「アッ、いやだ、顔出している。ねえ、おじさんはどこへ行ったの?」
「どこへ行ったんでろう?」
「他に男の人はないのかな?」
 二人の会話を聞きながらマサオは、今起きるのはまずいと思い、寝苦しいが、また眠ることにした。
 まもなく階段を駆け足で上がってくる足音が聞こえ、マサオの部屋のドアを強く叩く音がした。
 マサオに助けを求めに来たらしい。だがマサオもヘビは苦手である。
「起きてますか?」
翔子の声である。マサオは寝た振りをして無視することにした。しかし翔子はしつこかった。マサオがなかに居ると決めて掛かっている。マサオは仕方なく起きて、ドア越しに「なんですか?」と訊いた。
「アッ、起きた、起きた」と翔子は安心したようには呟いたあと言った。
「ヘビが出たんです! つかまえて! 」
「ヘビは苦手ですから」
「お願い! 」
「わかりました。ちょっとまって」
翔子は急いで階段を降りると、嬉しそうに「居た! 居た! 」と言いながらタカに走り寄る。
《まったく、人を何だと思っているんだ》とマサオは心の中で呟きながらも、妙に気負いの気持ちを抑えることはできなかった。そして急いで身支度をして階段を下りて行った。さっきまで眠っていたマサオの眼には外はまぶしかった。マサオはなるべく翔子を避けてタカに話しかけた。
「どこに居るの?」
「ここ、この穴から入ったんだよ」
とタカはガスボンペの底を指差した。たしかに穴はあった。だが直径一センチほどである。マサオにはヘビが入るとは信じられなかった。
「ほんとうにここから入ったの?」
「そう」
とミニスカートをはいた翔子が口を挟んだ。
マサオは底の高いサンダルをはいた翔子の素足に何気なく眼をやりながらたずねた。
「小さいの?」
「ううん、ものすごく大きいの! 」
と翔子は無邪気に答えた。
 マサオは追い詰められたヘビが身をくねらせて無理やり自分の体をその小さい穴に押し込んでいる姿を思い浮かべた。だが、正直なところマサオには手の下しようがなかった。でも、頼られているのだから、何とかしなければと思い、勇気を奮い立たせるとマサオは、棒を見つけてきて、ボンベを片手で傾け、この奥に目を輝かせて潜んでいるヘビの姿を思い起こしながら、底の砂利を取り除き始めた。マサオは取り出し口を作り、ヘビを引きづり出そうとしたのだ。しかし、もし仮にヘビが出てきたとしても、マサオは棒切れでヘビを家の遠くへと追い払うことしかできなかったのだが。
 マサオはヘビが自分に向かって這って来るのではないかという恐れを抱きながら、なるべくボンベから離れて恐る恐る砂利を取り除き続けた。
 マサオは寝起きと暑さのため意識がぼおっとしてきて顔からは汗が噴きでて来た。だがヘビの姿はなかなか見つからない。やがてタイトのミニスカートをはいた翔子がマサオとは反対側からしゃがんでその様子をみていることにマサオは気づいた。
「ほんとうに入ったの?」
といいながらマサオは何気なく翔子のほうに眼を向ける。
「うん」
と翔子は安心しきった子供のように答える。
「もっとこっちに来て手伝ってくれない?」
「いやん! 」
 そのうち腕が疲れてきたマサオは、少し脅かせば出てくると思い小刻みに乱暴につついた。だが出てくる気配はなかった。
 それでもマサオは、冷たく湿っぽいヘビに巻きつかれる恐れをいだきながら穴を掘り続ける。
 翔子とタカを安心したように話しこんでいる。
「いいかい、ヘビが出てきたら、そっちに追い払うから」
とマサオが言うと、翔子は
「まあ、たいへん」
といいながら飛び跳ねるようにして逃げた。
 翔子とのやり取りで不思議と新たな力が沸いてくるのを感じたマサオはなおも掘りつづけるが、それでも出てくる気配はない。なんとか自分で解決したいと思っていたが、暑さと疲労のせいもありもう諦めるしかないような気がしてきた。
「おじさんは、いつごろ帰ってくるの?」
とマサオはつかれきった表情でタカにたずねた」
「もうそろそろ帰ってくるだろうけど」
 そうこうしている内に源三が友達といっしょに帰ってきた。マサオはこれで助かったと思った。
 タカから事情を聞いた源三は、「何ヘビだろう?」と言いながら、急いで帰ってくると途方にくれているマサオを見てささやくように話し掛ける。
「女たちはヘビが怖がるからな!」
 その言葉には気負った男の優しさが込められていた。
 マサオはただ力なく「はい」とこたえるだけだった。連れの男はどこからかしゃべるを持ち出してきて、「これでどうだ」と言いながらスコップの先を地面に突き刺した。ヘビを殺すつもりらしい。源三は「大丈夫」と言いながら、いさましくボンベの底に開いた穴から手を差し入れた。そして「あぁ、居た居た」と言いながらヘビを引きずり出した。ヘビはアオダイショウだった。源三は腕にヘビを巻きつかせたまま「捨ててくる」と言って路地を歩いていった。
 部屋に戻るとマサオは水道の冷たい水で汗ばんだ手や顔を洗った。そして窓を開け布団の上に横になった。まだざわつく外の気配を感じながらマサオは自分の興奮が収まるのを待った。
 窓からは暖められた空気が流れ込み、刻々と部屋の温度が上昇していった。いつのまにか紛れこんだハエが、部屋の中を旋回し始めた。そして投げ出しているマサオの足に止まった。マサオはける上げるようにして追い払うと、ハエは驚いたように飛び回り、そして窓際のカーテンに止まり、しばらくじっとした後、どこへともなく飛び去っていってしまった。
 陽が高くなってきて、隣家の壁にマサオの屋根がくっきりと影を作った。その黒々とした影から、かすかな揺らめきが立ち昇っているのがマサオの眼に映った。強い陽射しで暖められたトタン屋根から、陽炎が上っていたのだ。そしてときおり見えなくなった。かすかに風が起こっているのだ。
 午後になると窓際のカーテンを揺らすほどの風が起こってきた。暑くなりさえしなければ、どこへも出かけずに部屋の中でじっとしていたいのであるが、マサオは風に誘われるように外に出た。


 《何しに来たんだろう? このまま進めば煩わしい雑踏に巻き込まれる》と思いながらも、引き返すほどの意志も失われ、マサオは何かに操られるように歩かなければならなかった。暑さと混雑の中でマサオは、冷静に思考し自由に判断することができなくなっていた。
 《どこへ行けばいいのだろうか?》とマサオは不安なまま交差点にたどり着き、信号が変るのを待った。
 マサオは街に出て雑踏にもまれるたびに、動揺し意志の自由を奪われている自分に気づき始めていた。そしてそういう自分に腹立たしかった。
 交差点は車の走音と雑踏で騒々しく舞い上がる砂埃と排気ガスで煙っている。
 するとふと猫の甲高い鳴き声が聞こえてきた。
 《まさか、こんなところで、錯覚だろうか?》とマサオは思った。だがたしかに聞こえてくる。その神経質さのために、深夜人気ない通りなどを好んで歩くものだとマサオは思っていた。それがそんな猫にはふさわしくないようなこんな騒々しい所で鳴いているということは、何か異常な出来事を告げているようにマサオには思われた。マサオは大きく動揺しながらやりきれない気持ちで耳を澄ました。鳴き声はマサオの背後からだと判った。マサオを振り返りその方角を見た。するとマサオから五メートルほど離れた車道と舗道の境目に猫が横たわっていた。何かを訴えるような眼つきで舗道を歩く人々を見上げながら、赤い口を大きく開けて、狂ったように泣き喚いている。どうやら車に惹かれたらしい。前足は踏ん張っているが、後ろ足は力なく地面に投げ出し腰を重そうにして横たわっている。その白い腹は黄色い液体で濡れていた。《なぜ黄色なのか?》と思うとマサオは居たたまれなくなり、急いでその場を去った。そして暑さから逃れるかのように喫茶店に入った。
 店内は涼しかったが、独りのマサオには居心地の悪いところだった。
 他の客の話し声や笑い声がマサオをいらだたせた。新聞を読んだりしたがほとんど頭に入らなかった。それでも少し冷静さを取り戻すと、もう帰るしかないと思いながら暑い外に出た。
 駅から少しはなれたところにテニスコートほどの広さの雑木林があった。二方が線路にはさまれ、もう一方は人家と道路に囲まれた三角地帯である。道路側には人が容易に入らないように木の柵が設けられている。そこにはナラなどの木が二三十本こんもりと生え、地面には雑草が青々と茂っている。
 マサオはそこを通るときはたいていその風景を横に見ながら歩いている。
 ときおり強い風が吹くと、枝が大きくたわみ、青々と茂った葉はいっせいにひるがえり、雑草は風の通り道を示すかのようになびいていた。
 マサオはその小さな森を吹き抜ける風を思うと、暑さや不快な出来事を忘れさせてくれるようなすがすがしい気分に満たされた。ぼんやり眺めているうちに、木々のあいだに建物のようなものがあるのが、マサオの眼に入ってきた。それはダンボールや朽ちかけた板で作られた広さ一畳、高さ一メートルほどの小さな小屋だった。ダンボールの屋根にはそれが飛ばされないようにするためか、頭大の石が載せられてある。《子供たちのいたずらかな》とも思った。《それにしても手がこんでいるな》とも思った。マサオはふと、町で見かける浮浪者の姿を思い浮かべた。《なるほどここなら誰にも追い立てられることもなく住むことができる。うまいことを考えたものだ》と思った。 
 マサオは板の隙間から、のんびりと寝そべっている浮浪者の姿が見えないものかと、じっと中の様子を覗いた。
なぜならマサオは、マサオとは違う世界に住むそんな浮浪者が羨ましい者に思われたからである。


 そんなある日の午後。マサオの同僚の斉木は中学生の卒業式のような礼儀正しさで、上司の係長からリーダー資格試験の合格証書を受け取っていた。いつものように自信に溢れた笑みを浮かべながら話しかける上司に、斉木は、手渡された紙切れを大事そうに持ち、やや腰をかがめながらも得意げな笑みを浮かべながら、その喜びの言葉を歯切れよく答えていた。その合格証書は、三日前車内に掲示板に発表された合格者たちへの正式な通知となるものであった。
 合格者が発表されたとき、掲示板の前には受験したものや女子社員たちがいっせいに群がり、ため息をついたり小声で話をしたりしてみていたが、マサオは無関心を装い、群れには加わらなかった。だが人が居なくなると通りすがりに、その中に同僚たちの名前を見つけては複雑な気持ちで眺めていた。
 マサオは受験資格は持っていたが、受験しなかった。マサオはそのことを人に言えるほどはっきりとした理由を持っているわけではなかったが、なんとなくそんな制度に息苦しい雰囲気を感じていた。資格試験に合格したからと言って、即、給料が上がるとか、昇進するとかというわけではなかった。ただ合格者たちは、今後、他のものより昇進のチャンスに恵まれているといった程度のものであった。だから受験しないものは、そういうチャンスを将来にわたって放棄していることになるのである。
 斉木と話しが済んだ上司が、しばらくすると、手持ち無沙汰そうにしてマサオに近づいてきた。
「君はどうして受けないの?」
マサオは答えようがなかった。上司は無表情のままさらに言った。
「みんな受けるんだから、君も受けたらどうかね」
「はあい」
とマサオは横を向いたまま曖昧に答えた。
「君、仕事には積極性が必要だよ! 」
振り返りながらそういうと、上司は悠然とマサオから離れていった。勝ち誇ったように引き上げていく上司にマサオは何か言いたい気持ちだった。だが、具体的なことは何にも浮かんでこなかった。


 最近マサオは、午後になると決まって軽い頭痛に悩まされるようになった。そしてやや神経の苛立ちを覚え、仕事上のことでも他人と話をしたりすることが億劫になってきた。マサオはそんな自分に気がついていた。だが、?そうなるのか、思考の衰弱したマサオには、その原因を探しあてるることはできなかった。ただじっと退社時間まで耐えるしかなかった。またマサオは、そんな病的な自分を認めたくなかった。ましてや他人の前ではできるだけそんな素振りは見せまいとした。とくに上司の前では。なぜなら、それを見せることは、自分が他人より劣っていることを認めるように思われたからである。
《なぜ他の人は、生き生きと仕事をし、楽しそうに人と接触をしながらやっていけるのだろう》と他人をうらやましく思いながらマサオは自分の苦痛に耐えているのである。とくに今日は《自分は他の人とどこが違うのだろう》と悶々として過ごした。


 そして夕刻。マサオは冷房の効いた社内からむっとするような外に出て歩き出した。傾きかけた太陽は正面からマサオを照らしている。マサオは不機嫌そうにもくもくと歩き続けた。前を歩いている女性を追い越そうとしたとき、マサオはその女性から声をかけられた。
「まあ、ひどい!」
振りかえるとそれは同じ会社の知子であった。
知子が少し怒ったように続ける。
「知らん振りして!」
「いや、気が付かなかった、下を向いていたもんで、、、、、」
マサオは苦笑いをしながらそう言った。
知子は笑顔で追いつくとマサオと並んで歩いた。マサオは悪い気はしなかった。部署は違っていたが、マサオは知子とときどき話したことがあった。マサオにとっては最も話しやすいタイプであり、以前からやや好感を持っていた。マサオは何気なく知子を見る。そして話し掛ける。
「こっちの方角なの?」
「そう、、、、」
「すると、たぶん同じ駅だね」
「そうね、、、、」
「どうして今まで会わなかったんだろうね?」
とマサオはやや大げさに不思議そうな表情をして言った。そして続ける。
「いつも独りで帰るの?」
「そうよ、いつも独りよ」
と知子はいたずらっぽい笑みを浮かべて答えた。
「そうか、今まで帰る時間が違っていたのか!」
とマサオは独り言のように呟いたあと、すぐに続けた。
「いつも今頃かえるの?」
「いつも同じよ。今日はちょっと違うけどね、、、、」
 片言の会話ではあったが、マサオは不思議と和らいだ。
「よう、お二人さん」
と追いついてきた斉木が突然声をかけ、二人の間に割って入った。そして息を切らせながら知子に話し掛ける。 「見たよ、このあいだ、いっしょのところ、凄い車に乗っているんだね、、、、」
 マサオは二人の会話に入り込めないような気がして、自然と消極的になり、やや後ろから二人の様子を見て歩くようになった。知子は斉木に陽気に答えてはいるが、先ほどまでの知子と違い、マサオには少しはしたないように思われた。
 斉木の冗談やからかいに、知子は笑顔で適当に受け答えをしている。二人はマサオの存在を忘れたかのように楽しそうにしてとりとめのない話しに夢中になっていた。マサオは二人のそんな会話を聞きながら、二人のように気楽に話せない自分を意識すると寂しい気持ちになった。
 駅がもうすぐという所で、知子が突然二人にサヨナラうを言うと、別の道に向かって歩き出した。
「どうしたの?」
とマサオは怪訝そうな顔をして斉木に尋ねた。斉木はマサオの言葉がうまく聞き取れなかったらしく、表情を変えず黙って歩いている。
「たしかこの駅だって、言ってたよ」
マサオは後ろを振り返りながら独り言のようにそう言った。
「デート、デートだよ」
と斉木は乱暴な口調で言った。
「あっ、そう、、、、」
とマサオは曖昧に答えた。 「としだから、焦ってんだよ!」
「年っていくつ?」
「二十五」
「僕と同じじゃない、どうりで落ち着いていると思った」
「ダメだよ、もう決まっているんだから。女ってわからないなぁ。陰で何をやっているのか本当に判らないよ。」
と斉木ははき捨てるように言った。

             










     
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