やがて夕暮れが(4部)



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          はだい悠


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 二十二歳になっていたとはいえ、知子は最初戸惑った。自分の一生のことと思うと胸がときめいた。しかし自分の年齢のことを思うと、つい人より遅れているような気がして、素直な気持ちになれず、なかなか打ち解けなかった。だが、そのうちに楽観的な姿勢に押されてか、自分でも愚かしいと思うほど少女のように浮かれていった。 だが、そういう気持ちも長くは続かなかった。回を重ねて付き合っていくうちに、何かちぐはぐなものを感じるようになっていった。そして、退屈さを感じて、楽しそうに振舞おうとしたり、良夫の話しに意識的にあわせようとしたり、また、人前では仲良さそうに振舞おうとしたりする自分に気づいていた。男と女とはもともとこういうものであるのか、それとも自分が交際前に現実離れした夢を見ていたのか、知子にはわからなかった。だがその一方で、同僚たちとの会話に余裕ができたり、自分が話題の中心になったりして楽しい思いもした。そして派手な車で乗り付ける良夫を、同僚たちにさりげなく自慢したりして、良夫を頼もしく感じることもあった。しかしそれでも他人の噂話に夢中になっていたときのような甘美な思いには程遠かった。良夫と二人っきりでドライブしたり食事をしたりしても、それほど充実した気分にはなれなかった。そして独りになって冷静に考えるとき、良夫との付き合いがなぜか煩わしいとさえ思うこともあった。そのうちに、つまらないことに意地を張り合って、後々までしこりを残す口喧嘩などをするようになった。知子は、良夫が他の人と比べて特別に性格が変っているとか、自分たちはそれほど不釣合いなカップルだとは思えなかった。でも?誘うなるのか、知子にはわからなかった。ただ知子の数少ない体験から、交際と言うものはこういうものだと思わざるを得なかった。そして知子は、今日まで、ただなんとなく付き合うようになっていた。


 雨は容赦なく大地に降り注いでいた。
 夕闇のなか路上には車の形をしたよそよそしい沈黙が溢れていた。たとえ車内がどんなに親密な雰囲気に溢れていようとも外から見たらそれは冷たくよそよそしい車の形をした鉄の固まりに過ぎないからだ。
 良夫はいつものように車を自分の手足のように走らせた。後続の車のライトがかすむほど水しぶきを上げて走っていた。
 良夫は知子の表情にこだわっていた。知子の浮かべている笑みが自分のためではないような気がしていたからだ。わざとらしいものに思われ気に入らなかった。良夫は、知子から先に話しかけるべきだと思い、自分から話しかける気がしなかった。先ほどから前を走っている車が遅いので良夫はいらだった。良夫は乱暴にハンドルをきるとスピードをさらに上げて追い抜きに掛かった。「危ない」と知子は良夫の鼻筋の通った横顔を一瞬覗き込みながら呟くように言った。良夫の車は対向車と衝突しそうになりながら前の車を追い抜いた。
「のろのろと走りやがって、へたくそめ」
と良夫は罵るように言った。車に乗っているときの良夫は人が変ったように性格が荒くなることは知子は判っていた。親密な雰囲気が急速に息苦しいものに変っていった。知子は今日もまた、わだかまりを残したまま別れなければならないのかと思うと、気持ちが沈んだ。そしてふと付き合い始めたころの出来事を頭に思い浮かべた。  それは付き合い始めてから二ヵ月後のことだった。車で食事に言ったとき良夫は酒を飲んだ。知子は心配したが、良夫は女の心配することではないと言わんばかりに相手にしなかった。知子は反面そんな良夫を頼もしいものと感じた。良夫は酒を飲んでいても運転にたしかだった。自分の運転に酔いしれるようにスピードを上げて他の車をせせら笑うように追い抜いては得意になっていた。そのときの良夫の表情は誇らしげで自信に満ちていた。だが知子の心配どおり、車が警察の検問に引っかかってしまった。酒を飲んでいたせいもあって良夫は最初たかが警察と強気な姿勢を知子に見せていたが、取調べが長くなると、猫に捕らえられたねずみのようにだらしくなくってしまった。そのうちに観念したのか酔っ払いざまを全身に表し、もう誇らしげな表情も自信も消えうせてしまっていた。知子は何か騙されたみたいで腹立たしかった。だが良夫は自分の弁解に精いっぱいで知子のことは忘れているようであった。知子は良夫を頼もしく感じた自分を情けなく思った。知子はこのままひとりで帰りたかった。そしてそんな良夫にこれからも付き合わなければならないのかと思うと不安になった。
 結局、知子は良夫と別れることを硬く決意して、寂しい気持ちのままひとりで帰った。
 だが数日後、良夫が何事もなかったかのように知子の前に現れた。知子は良夫の熱意にほだされた。そして過ぎ去ったことは忘れることにして再び付き合うようになった。
 知子は良夫の表情の硬さを感じながら、先程までの様な親密な雰囲気を取り戻したいと思った。西の空が明るくなって来ていた。雨が小降りになっているのに知子は気づいた。知子は弾んだ声で言った。
「ねえ、見て、明るくなってきた。もうじき晴れるわ」
良夫が不機嫌そうな顔で言った。
「晴れたからって、どうってことないだろう。車に乗ってんだから」
「それは、そうだけど」
と知子は思わず答えた。気まずい沈黙が続いた。  外は急速に暗くなっていった。気を取り戻すと知子は笑みを浮かべて言った。
「ねえ、今日はどこかへ連れて行ってくれるの?」
「どこへも行かないよ。家に送るだけだよ」
 三十分後、良夫の車は知子の家に通じる路地前に止まった。知子は良夫にお礼を言って車から降りた。雨はすっかり止んでいた。夕闇に走り去る良夫の車を見送っていると、知子は声を掛けられた。
「いいわね。今お帰りなの?」
見ると隣家の小母さんだった。知子は恥ずかしそうに笑みを浮かべすれ違いながら挨拶をした。知子は妙にうきうきとした気分になった。だが、家に向かって歩いているうちにそんな気分も急速に醒めていった。知子は路面に反射する街灯の光りをいつもより強く感じながら、木の香りのする板塀に挟まれた路地を通り抜けた。そして電気のついた居間に眼をやりながら薄暗い玄関の戸を開けた。


 それから三日後。朝から暑い日差しの午前。マサオは冷房の効いた部屋で仕事をしていた。そのうちにふとまだ冷静さを保っている頭に外の様子が気にかかった。マサオは仕事の手を休めて窓の外の風景に眼を向けた。ビルの屋上越しに、よく晴れ渡った空の所々に穏かな雲を浮かべているのが見えた。ぼんやりと眺めているうちにマサオの頭に正体不明の思い出が浮かんできそうになった。だが、自分のところに上司のが近づいてくるのを感じて再び仕事に取り掛かった。
 上司の話は、ある場所まで至急手荷物を届けてくれと言うことだった。
 マサオが外に出られることを楽しみに思いながら外出の準備をしていると、牧本が近づいて来て言った。
「どこへ行くの?」
「出張です」
マサオは楽しそうにそう答えながら足元あった手荷物をぶら下げて見せた。すると牧本が納得しかねる表情をしながら小声で言った。
「アッ、それっ、でもそれは君が持っていく必要はないんだよ」
「どうしてですか?」
「上のほうミスなんだから、そんなものはほっとけばいいんだよ。間違えた奴が持っていけばいいんだよ。」
と不愉快そうに言う牧本を見ながらマサオは戸惑った。間違えた奴とはマサオの上司を意味していた。だが、いまさら牧本にそういわれてもどうしようもなかった。
「でも命令ですから。それに誰かが持っていかなければならないですから、、、、」
「まっ、良いか。君も素直なんだね。ところで場所は知っているの?」
「はい」
マサオは日頃から上の人たちの人間関係には自分は関係がないと思っていた。自分はただ命令どおりに動けばいいと思っていた。だが、いずれ自分がそういう人間関係に巻き込まれ泣けれがならないと思うと暗い気持ちになった。


 マサオは開放されたように外に出た。
 会社を出て二時間後、マサオは初めての駅に着いた。駅を出ると強い陽射しと熱気がマサオの全身を襲った。 マサオはまぶしそうに眼を細めて、地図を見ながら見知らぬ町を歩き始めた。ときおり風が吹いたが熱風を吹き付けるだけだった。まもなく全身から汗が吹き出た。二十分後マサオはようやく目的の場所を探し当てた。


 そこはマサオの会社の十分の一ぐらいの小さな工場であった。開けっ放しのドアから黙々と働いている十人ほどの労働者の姿が見えた。
 マサオは冷房によく効いた二階の部屋に通された。マサオはだらしなく椅子に腰をかけると顔の汗を拭きながら出された麦茶を飲んだ。まもなく部長と呼ばれる丸顔の誠実そうな中年男が現れた。男はわざわざやって来たマサオに対してねぎらうかのように丁寧に挨拶をした。ただ荷物を届けるだけだと思っていたマサオはすこし戸惑いながら曖昧な笑みを浮かべて挨拶を返した。
 荷物の受け渡しが終わるとその男は、マサオの向かいに座り商談するかのような礼儀正しさで、荷物の中身や自分の会社の業績などについて話し始めた。
 マサオははっきり言って荷物の中身を知らなかったし、それに企業の業績などについて世間話をするほど知識も経験もなかったので少し困惑した。そこで曖昧な返事をしては適当に話しをあわせた。だが内心はとても辛かった。部長とまで呼ばれる中年男が、いくら商売のためとはいえ、自分よりははるかに年下のものに真剣にしかも低姿勢で接してくれているのに、それに対してマサオは、先程から曖昧な返事ばかりして、自分がいい加減な態度で臨んでいるような気がして、恥ずかしさを覚えたからだった。マサオは弱者の取らざるを得ない習慣を思うといたたまれない気持ちになった。
 マサオは電車の時間がないと嘘を言って、逃げ出すように外に出た。


 その後マサオはまっすぐに会社に帰らず、繁華街に出てをぶらぶらしたりして時間をつぶした。そして時間のつじつまを合わせるかのように四時過ぎに会社に戻った。


 退社時間になった。マサオは知子の帰る姿を見て後を追うように部屋を出た。
 そして会社の正門のところで待ち合わせていたかのように二人は近づいた。


 今日の午後マサオが出張から帰ってきて、仕事も手につかなくぼんやりしていると、知子が近づいてきて小声で話しかけた。それは今度ある女性を紹介するからぜひ会ってくれということであった。先日マサオがいい人いたら紹介してよとほんの冗談で言ったつまりだったが、まさか知子が本気にするとは思っていなかった。マサオは知子があまりにも真剣な表情で話すのでうろたえた。そして今は仕事中だから詳しくは帰りに話そうと言うことにしたのだった。


 知子と並んで歩いていたが、マサオはなんと切り出してよいか判らなかった。知子がマサオのほうを見ながら先に言った。
「今日は、朝から居なかったみたいね?」
「いや、十時ころかな?」
そう答えながらマサオはこのまま知子がさっきの話しのことを忘れてくれることを願った。
知子が落ち着いた口調で話しかけた。
「ところでさっきの話しの続きなんだけど、今度会ってくれる?」
「そのことなんだが、、、、」
マサオは考え込むかのような仕草をしながらそう言いかけたが、それ以上続かなかった。知子の真剣な表情を見ていると、いまさらあれは冗談だったよなどとは、とても言えそうになかったからだ。マサオは困った。どうして知子は本気にしてしまったんだろうと考えた。知子を話を続けた。
「私といっしょに学校に行っている人なんだけど、、、、」
マサオは黙って前を向いたまま、でも心なしか早足になっていた。そして知子の方を振り返るように見ながら思い切って言った。
「その話しのことなんだけど、、、なかったことにしてくれる、、、、」
「なかったことって」 知子は住んだ眼でマサオを見ながらそう言った。マサオはその視線を避けるようにして前を見ると、途切れ途切れに話し続けた。
「うーん、なんていうのかなあ、、、あれは冗談なの、、、ちょっとした言葉の弾みって言うか、、、」
「冗談?」
知子のその声は呟くように小さかった。
 マサオはそれ以上何もいわなくなった知子を見て、何かとんでもなく悪いことをしたなという気持ちになった。知子の素直そうな性格を思うとなおさらだった。
 そのとき知子が急に声を弾ませて言った。 
「すると、やっぱりこういうこと、他に好きな人が居るとか、もう心に決めた人が居るとか、、、」
「いや、そういうことじゃなくって、なんていうのかな?」
そう言うマサオの困惑した表情を盗み見るようにしながら知子はさらに話し掛ける。
「私が紹介する人だからなの?」
「いや、そんなことはない」
とマサオはとっさに否定した。それは知子に決して思わせても言わせてもならない言葉だった。
 マサオは辛かった。マサオは冗談の弁解に努めた。
「よく人が言うでしょう。話を楽しくするために言う冗談。僕も調子に乗ってつい言ったんだけど、僕は冗談が下手なのかなあ、、、、、」
とマサオは苦笑いを浮かべながら自分に語りかけるように言った。だが知子は感情を隠しているかのように少しも表情を変えなかった。マサオはその冷静な表情が気になった。そしてマサオはあれは冗談であることを知子に理解させることはもう不可能に近い気がした。
「もう、その人には話してあるの?」
「ええ、、、、」
「それじゃ悪いことしたね」
「良い人なのよ」
と知子は少し残念そうに言った。マサオは《あなたの友達なら良い人に決まっているさ》と言おうと思ったが言葉にならなかった。二人はしばらく黙って歩いた。
「ねえ、もう少しゆっくり歩かない?」
と知子は笑みを浮かべて話しかけた。マサオはその表情を見てほっとした。そしてゆっくり歩き始めた。二人はやや賑やかな通りに出た。
「今日は出張だったんですか。大変ね」
「それほどでもないけどね。会社に居るときよりも気軽でいいよ」
「マサオさんは、会社でよくやっているみたいね」
「そう見える?、ほんとうのこと言うとどうもうまく行かないんだ、ずるやすみでもしたいよ。もしかしたら僕にはあわないのかも」
「そんなことないわよ」
と知子は少し表情を曇らせて言った。
「きみこそよくやっているじゃない。まじめなんだね」
「そんなことないわよ。わたしこれでも入ったころ会社わずる休みしたことあるのよ。会社に来るのがイヤでイヤでたまらなくてね」
と知子は子供のような無邪気さで言った。
「えっ、君にもそんなことあったの?」
そういいながらマサオは知子を見ると、知子は少し恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「ところで、さっきの話し、ほんとうになかったことにして良いの?」
「うん、良いよ。どうもおかしいな?」
「なにが?」
「やっぱりあれなのかな、自分たちがうまく行っていると、他人の世話をしたがるもんなのかな? 女の人って」
そういいながらマサオは知子のほう見ると、知子は少し表情を曇らせて見返した。だがすぐに先ほどのような穏かな表情に戻った。それを見てなんとなくほっとしたマサオは少しニヤニヤしながら言った。
「ところでその人美人?」
「ええ、そうよ」
「惜しいことしたかな?
「ほんと、すぐニヤける人だ」
「えっ!」
といいながらマサオは知子を見ると、知子を下を向いて笑いをこらえていた。
「そう言われても、もともとこういう顔だからね、しょうがないよ」
 マサオは、知子とならこのままなんでも気軽に話せそうな気がした。
 駅が近くなった。人ごみの中をしばらく歩いたあと二人は判れた。


 翌朝、マサオは重苦しい気分のまま目覚めた。
 それは暑く寝苦しい昨夜のせいだけではなさそうであった。何か恐ろしい夢の余韻を引きずっているような気持ちだった。だがその夢がどんなものであったのか、マサオの覚めた頭には何も残っていなかった。マサオは体を動かすのも億劫な気持ちだった。そしてマサオは、これから電車に乗り、人ごみにもまれながら会社に行く自分の姿を思い浮かべた。すると急に外の世界が自分を脅かすもののように感じられた。マサオは憂鬱な気分になった。どこにも行きたくない、会社を休みたいと思った。だが、そのようにはっきりと自覚された事柄は、マサオの性格上実行できなかった。病気なら休む正当な理由になりえたが、そのような理由は自分から逃げるようにしか思われなかったからである。ましてやその程度で休むということは、最近自分の内部に芽生えてきた《敗北者》という言葉通りに自分がなるように思われたからである。
 天気の良さそうな外の気配に眼を配り、マサオは自分を励ますように起き上がり、水道の水で顔を洗った。そしてタオルで顔を拭き終わると大きくため息をすると、ふと頭の中を《訳もなく怯えている子供の姿》がかすめた。だが、朝のあわただしさのなかではそれっきり二度と現れなかった。マサオはそのことを忘れてしまったかのようにいつも通りに外に出た。
 マサオの一日は上司の朝礼を聞くことから始まる。だが最近のマサオは、毎日同じような内容に飽き飽きしたせいか、それが煩わしいものに思えてきてほとんど関心を示さなくなっていた。
 午前中のマサオは、まだ頭もすっきりし精神状態も安定していた。そしてただ自分を習慣に従わせながら他の同僚たちのように落ち着いて仕事が出来るのであった。しかし、昼休みも過ぎ、午後もだんだん深まってくると、いろいろな疲労が重なってくるせいか、マサオの精神状態が乱れてくる。頭がボォッしてきて、自分がやっていることと無関係なことを考えるようになっていた。それは自分の意志からではなく、外部からの強制のように、自然と頭の中にいろいろな考えが浮かんでくるのであった。  そうした不安定な精神状態の中で、自分が毎日のようにやっていることに疑問を持ち始めた。自分は組織という大きな塊のなかの一員であることは漠然とではあるが判っていた。そして自分の果たしている役割もあるていどは判っていた。しかし、自分が、どんな目的、どんな成果のためにやっているのか、その具体的イメージがつかめなかった。いったい何のために働いているのか? それは食うためであると、これまでのように単純に結論を出してもよかったのだが、不満足であった。ハッキリしなかった。これから自分がどうなるのであろうか? その未来の明確な自分の姿が見えなかった。ただこのまま行けば上司や先輩たちのようになると思われたが、それは自分が思い描く未来像とはどこか違うように思われた。それに自分には上に立って人を使うということは似合わないように思われた。しかし、組織内では、上に立つか、下で従うか、二つに一つしかないように思われた。どちらにせよ、定年まで続きそうなそのような人間関係は息苦しいものに感じられた。そして、それが組織に所属する人間の究極の目標であるなら、それはただそれだけのことであり、そんな自分たちは狭い場所で動きまわるアリのような存在に思われた。マサオは朝礼のわざとらしさを思った。《なるほど、今の自分の様に目的を失っているときにあの押し付けがましい言葉が役に立っているのか》とマサオは思った。だがマサオはそんな言葉や考え方を信じるきにはなれなかった。子供だましのこじつけのように思われた。


 マサオは悶々とした状態のなかで他の者に注意を向けた。同僚たちは終日変わりなくやっている。午後になると多少顔を紅潮させるものもいるが、自分のように精神的混乱には陥ってはいないようである。まれには午後になるとかえって楽しそうにしながら張り切るものもいた。マサオはそういう人間を見るとますます気分が滅入ってくるのである。結局なんの結論も得ることなく、捕われた精神状態のままその日の仕事を終えるのである。


 勤務終了後、マサオは軽い頭痛を覚えながらトイレに入った。そして手を洗いながら鏡にうつる自分の顔に眼を向けた。たるんだ皮膚に落ち着きのない眼、そして意志の失われたようなまとまりのない表情を見てマサオは醜いと思った。そこへ顔を紅潮させた牧本が入ってきた。マサオは知らん振りして出ようとしたが、牧本のまだ余力を残した声で呼び止められた。それは《ちょっと話しがあるから今晩付き合わないか》というものであった。マサオはトイレのドアのところに立ったまま牧本の自信に満ちた視線を窮屈に感じながら、少し考える振りをしたあと、承諾した。マサオはできることなら断りたかった。それはいつものように飲んで騒いでそれで終わるだけだろうと思ったからである。だがマサオは《ちょっと話しがある》というのが気になった。それにこれといって断るような特別の理由が見つからなかったので付き合うことにしたのだった。
 二人は街の繁華街を歩いていた。マサオにとってうんざりする雑踏も牧本には楽しいらしく、牧本は軽快な足取りで人ごみをうまくかわしながら歩いていた。マサオはやや不自由さを感じながらも牧本の後からついていった。歩きながらマサオは、牧本の話しはなんだろうと思うと気が滅入った。
 まだ暮れ切れない空の下に、町はさまざまな人たちで溢れ活気に満ちていた。人はミナ閉じこもった笑顔や陽気な動作に仕事を終えた開放感に現していた。マサオにはそれが生き生きとしたものに見え、少し気後れを感じた。
 牧本の顔からは完全に疲労の色は消え、快楽を求める陽気な表情に変っていた。歩きながらマサオはショーウィンドーにうつる自分の顔を見た。相変わらずおどおどとしている自分の顔を見てますます気分が滅入った。そして人々の満足げな表情に嫉妬を覚えた。自分だけがのけ者にされているような気分に襲われ、、衝動的にいらだった。そしてマサオは陽気さ装いながら牧本に話しかけた。
「話しってなんですか?」
牧本は忘れていたのか思い出したように話し始めた。
「アッ、あのこと。今日係長と話していてね、君の事が出たんだよ。彼も意外とぼんやりしているところがあるからっていう、話しだったんだよ」
マサオは牧本のそのもったいぶった言い方が気になった。マサオは不満げに言った。
「それで、どうなんですか?」
「仕事にミスがあるんだって」
「ミス? どんなミスですか?」
「そこまでは聞かなかったが、、、気にすることはないよ、誰にも苦手なことはあるんだから」
マサオはひどく気になった。どうして直接言わないのだろうかと思った。無言になったマサオを見て牧本は慰めるように言った。
「気にすることはないって、あの係長は自分のことは棚に上げて、部下の失敗は平気で責めるんだから、あれじゃ誰もついていかないよ。どうしようもないよ。そんなことより今日は久しぶりに飲もうや!」
そう言い終ると牧本は何事もなかったかのように再び陽気な表情に戻っていた。だが、マサオの気分は晴れなかった。日頃の牧本と係長の関係からして牧本のそのような気分の変わりように疑問を抱いたからである。牧本のその度を越した陽気さも、その背後には性格の二面性があると思うと、いまいましいものに感じられた。そして、自分を取り囲む世界が曖昧でつかみどころのないようなものに感じられた。マサオは眼に見えない何かに向かって敵意を覚えた。牧本は嬉しそうな顔をしてここが良いといって飲み屋に入った。


 牧本はマサオの三年先輩である。二年前に結婚していた。社内では仕事への積極性が買われて有能な人物の一人として通っていた。斉木も仕事への積極性という点では、目立っていたが、気まぐれな性格から来る一貫性のなさがほとんどの同僚からの信頼が薄く、牧本よりは評価は低かった。他人に与える印象面からいって、牧本とマサオは正反対の性格といってよかった。だが、能力と評判に裏付けられた牧本と自信に溢れた態度は、マサオの眼にはときおり傲慢と映るときがあった。牧本は斉木のように自分とはまったく相容れない人物ではなかったが、それでもマサオにとっては理解しがたい人間であった。


 店内で二人はカウンターに並んで座った。酔うと愚痴っぽくなる斉木と違い、牧本は終始陽気だった。そして飲めば必ず仕事や女の話をすると決まっていたのだが、牧本はマサオとは、仕事の話しをしても始まらないといって風で、仕事の話をしようとはしなかった。二人にとって仕事の話は共通の話題にはなりえなかった。その変り、牧本はよく女子社員の話をした。マサオも興味があったが、牧本の場合は噂話の域を出ないもので、しかも、自分の勝手な解釈によって面白おかしく話すのでマサオにとっては聞きづらいものであった。そして話せば話すほど牧本の自己中心的な性格が鼻につくようになり、だんだん興味も失われていくのである。それでも知子の話しが出なかったことはマサオにとって救われる思いであった。
 はっきり言って眼の前の牧本が、仕事以外のことで、いつも何を考えいてるのは判らなかった。マサオは今まで牧本と飲んでもうちとけた気分になったことはなかった。何年も同じ会社で仕事をしていて、たまにいっしょに飲むようなあいだがらであるのに、話しをしても何の共感がすることがないというのは寂しいことである。
 二人はお互いにぎこちなかった。きっと牧本も同じ気持ちであろうと思った。牧本は隣の客が歌を歌い終わると盛んに拍手をしては、今度は自分の番だとばかりにマイクを握ると、気持ち良さそうに歌い始めた。酔いしれるように歌う牧本を見ながらマサオは独りでいるような気分になった。マサオにとっては異様な光景であった。到底真似できないことであった。牧本にとってマサオも見知らぬ客も同じようであった。マサオは自分が付き合うほどのことではないと思うと腹立たしくなった。二時間ほどで二人は店を出た。二人は再び夜の雑踏のなかを歩きだした。牧本は宵を全身に現し我が物顔に通りを歩いた。そんな上機嫌の牧本を見てマサオは反感を覚え、見苦しいと思った。牧本はまだ遊び足らないといった風に落ち着きなく周囲を見まわしながら歩いた。マサオは酔いは感じていたがしらけきった気分だった。体がだるく早く帰って休みたいと思っていた。牧本がマサオに誘いかけるように言った。
「これからもう一軒行こうか?」
「もう帰りましょう」
とマサオは突き放すように言った。牧本は急に子供のような不機嫌な表情になって言った。
「付き合いが悪いな! たまに飲んだときぐらいは大いに楽しもうよ。もう一軒行こうよ」
「もう止めましょう、どうせ歌を歌うだけでしょうから」
「君も歌えばいいじゃないか、楽しいよ」
「趣味に合わないことはやりたくないですから、それに下手くそな歌は聞きたくないですから」
「でも楽しいことだから、いいことじゃないの?」
「見ず知らずの人と歌うなんて気持ちが悪いですよ。それに雰囲気がなんとなくみじめったらしいですよ」
「そんなことないよ、歌ひとつで楽しくやれるなんて、新しいコミュニケーションの手段なんだよ」
「いや、自己満足ですよ。酒飲んで歌を歌って憂さを晴らすなんて、新しい等比ですよ。ああ、気持ち悪い」
「そういうことじゃダメだよ」
と牧本は意味ありげに言った。マサオはその言い方に反発を覚え、くってかかるように言った。
「何がダメなんですか?」
「君にはまだみんなといっしょになって何かをやろうという気持ちがないんだよ。自分本位なんだな、だから仕事にもそれが現れるんだよ」
「それは論点のすり替えですね。自分本位なのはあなたですよ」
とマサオは酔いに任せてはき捨てるように言った。牧本は少しちゅうちょしながら投げやりな口調で言い返した。
「そうかな、でもたまには妥協も必要なんじゃないの?」
「そんなの妥協以前の問題ですよ。自己満足に妥協は必要ないですね」
すると牧本はややおどけた表情で言った。
「君もなかなか言うじゃないの!」
「言いますよ、ただ普段はそういう話をしないだけですから」
牧本が口調を和らげて言った。
「そう硬いことを言わずにさ、ぼくだって飲みたくもなるさ、毎日上司にはなんだかんだって言われるしさ、今日だって君のことで、僕は君のことをかばってやったんだぜ、、、、、」
 マサオは牧本の弱気な態度を見て少し腹立たしくなった。そして少し強い口調で言った。
「そういうのがイヤなんですよ。どうして影でコソコソするんで過、不満があったらはっきり言えばいいじゃないですか」
「そうもいかないんだよ、そのうちに君には判るよ」
「イヤですね、そんなの、それじゃ一生不満のまま終わってしまうじゃないですか。上か下かではない、もっと別の生き方が必要なんですよ。そういうものに対抗する別の価値観や考え方が必要なんですよ。飲んで憂さを晴らしてばかりいないで、他に何かやることがあるでしょう」
「すごいこと考えているんだね。でも、そういうことを言っているようじゃダメだよ。今の世の中通用しないよ」
「あっ、そうですか」
マサオはそう言ったきり黙ってしまった。牧本の逃げ腰の態度を見ているとこれ以上何を話しても拉致があかないと思った。二人はお互いの不愉快さを確認するかのように黙って歩いた。
「そうか、君も斉木に逃げられたことがあるのか」
と牧本は独り言のように言った。マサオは聞こえない振りをした。
 しばらくするともとの陽気な表情にもっだ牧本がある通りを指差しながら言った。
「こっちへ行こうよ、久しぶりだからなあ」
「そっちは若いもんが集まるところですよ。ただ騒々しいだけで何も面白くないですよ」
「いいじゃない、僕たちだってまだ若いんだから、行こうよ」
と牧本は駄々をこねる子供のような表情で言った。
「バカもんになりたけりゃ、自分ひとり行けばでいいでしょう
「すぐムキになる、付き合いが悪いんだから」
 二人は引き返すかのように別の道を歩いた。
 最初のような元気が失われている牧本を見てマサオは少し言い過ぎたかなと思った。マサオは穏かな口調で話しかけた。
「そうだね、やっぱり帰った方がいいですよ。奥さんも待っていることでしょうから」
「奥さん? 誰の? ちくしょう」
と牧本は訳の判らないことを呟きながら歩いた。そして突然「今日はやるぞ、バンザイ」と大声で叫んだ。
 マサオにとって、牧本のそのマサオの存在を忘れたかのような行動は、気味の悪い瞬間であった。マサオは、肌に粘りつく汗のようにまき本にまとわり着いて牧本を苦しめる得体の知れないものを感じた。
 通りには人影が少なかった。
 牧本は鼻歌を歌いながら道の真ん中を肩で風を切るようにして歩いた。前方から三つの人影が近づいてきた。マサオはその人影を避けるように道の端を歩いた。だが牧本は避けようともせずそのままの姿勢で歩き続けた。すれ違った瞬間向こうから「気をつけろ」と怒鳴り声が掛かった。牧本は「なんだ」と言い返しながら相手を睨みつけた。マサオはこれはまずいと思いながら牧本の腕を引くようにして歩いた。
「引き下がることはないよ、向こうが悪いんだから。若造に舐められてたまるか、チンピラめ、いいきになりやがって」
「だって勝ち目はないですよ!」
「負けやしないよ、一人や二人、ぼくは柔道二段だよ」
「三人ですよ」
「二人だろうよ、君が一人相手をするんだから」
「そんな、いやですよ。僕は逃げますからね」
「そうかい、そうかい、俺を見捨てるきかい?」
そんな牧本を見ていると急におかしさを感じた。そして牧本の話しで初めて共感を覚えたような気がした。マサオは急にいたずらっぽい気分になった。そこで、マサオ後ろを振り向き、二三十メートル離れた三人に向かって「バカやろう、気をつけろ」と声をおさえて叫んだ。すると三つの人影は立ち止まり、マサオたちのほうを振り向いた。マサオは「聞こえた、やばい」といいながら五歩ほど牧本の前に走り出た。
「逃げることはないよ。やってやろうじゃないか」
と言いながら牧本は振り向いたあと、ゆっくりと前に向き直りながら呟くように言った。
「でも三人じゃなあ、やっぱり勝ち目まないか?」
 思いがけないことで二人はうちとけた気分になっていった。会社では見せない牧本の言動に、マサオは初めは嫌悪をいだいたり腹を立てたりしていたが、それほど自分とは変らない人間だと思うと、牧本に親しみがわいてきた。そして牧本も自分のように得たい知れないものに操られている小さな人間にような気がしてきた。
 その後二人は駅で別れた。











     
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