風の音が聞こえない(1部)
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はだい悠
十一月の終わりに、倦怠が永遠の相貌であるかのようなこの都会に、南から暖かい風が吹き込んだ。
季節が徐々に冬に変りつつある中で、しかも、おびただしい人間と、よどんだ空気と、コンクリートの塊に埋め尽くされてはいるが、まだひとつの自然には違いないこの都会にとって、それは思いもかけない天候の異変だった。
そして、その自らの息苦しさのために、ときどき死にかけることのあったこの都会は、このとき、季節外れの南風に昨日までの相貌を変えた。
この都会の一区画。そしてごくありふれた駅。
駅前は、土地を有効に、しかも機能的に利用している理由からであろうか、地方都市の駅のように、その町並や建物越しに見える大自然の風景を眺めながら、ちょっと休息をするといった広場と云うものがなく、駅を出るとすぐ、交通の混雑を防ぐためや歩行者の安全のための歩道橋が架けめぐらされ、そしてタクシー乗り場やバス乗り場があり、そのままこの町の主要道路につながっている。
その主要道路を挟み、両側に、デパート、銀行、雑居ビル、食堂、喫茶店、スーパーマーケットと、そのほか日常生活に必要(欲望)を満たすためのあらゆる店が、無計画に、むしろ乱雑にといって良いくらいに立ち並んでいる。
主要道路に通じる大小さまざまな道の両側は、その乱雑ぶりはよりいっそうひどかった。
このような風景はこの都会のほとんどの駅の周辺に見られ、この都会を知ろうとするもの、あるいは見慣れるものにとっては、ある種のまとまりのなさ、美的無秩序、言い知れぬ不快感にとらわれることは必至である。
時刻は夕暮れ。
駅の周辺の大小さまざまな道には、人影がポツリポリと現れだし、いつのまにか駅に通じる主要道路には、帰宅を急ぐ人々であふれ出していた。
おびただしい車や人々で混雑するメイン道路では、この季節外れの南が風はそれほど目立たなかったが、空気の暖かさが知らず知らずのうちに、舗道を歩む人々の頬を緩め、コートのボタンをはずさせていた。しかし、ビルとビルに挟まれた人通りの少ない薄暗い道では、風は砂埃や捨てられた紙くずを舞い上げている。
そんな通りに、勤めを終えたらしい二人の若い女性が、ビルディングに挟まれたさらに狭い路地から歩いて出てきた。
そのとたん暖かい南風がボタンをかけ忘れた二人のコートの裾を捲くり上げた。
二人は思いがけない暖かい風に気づいたらしく、いっしゅん驚きの声を上げ、申し合わせたかのように明るく笑いながらお互いの顔を覗き込んだ。そしてその女性たちはコートを風に揺れるに任せ、ときおり顔を見合わせては楽しそうに何かを話しながら、軽やかな足取りで駅へ向かって歩いていった。
駅前はいつものように、夕暮れ時の喧騒とあわただしさにあふれ、人ごみで混雑していた。特に駅の入り口付近はひどく、前から来る人々をすばやく交わして歩かなければならないほどであった。そしていつもは、そんな混雑の中を、寒さと人ごみのためなのか、人々は無表情に足早に歩いているのがほとんどであったが、しかし今日は、前から来る人々とぶつかってもかまわないといったふうに、顔には笑みを浮かべて話しながらゆっくりと歩いている人々があちこちに目立った。
二人の女性はそんな駅前の雑踏を難なくすり抜け、慣れた手つきで駅員に定期券を見せると、そのままホームへと急いだ。
二人がちょうど階段に差し掛かったとき、発車を告げるベルがホームに響き渡った。二人は相貌を変えた町の雰囲気といっしょに、急いで階段を下り駆け込むようにして電車に飛び乗った。
電車が徐行し始めたとき、勇三は浅い眠りから覚めた。そして薄目を開け窓の外に目をやった。自分の降りる駅でないと判ると、そのまま手に持っていた夕刊紙を無気力な眼つきで読み始めた。
勇三はいつになく疲労を感じていた。それに憤りとも悔しさとも付きがたい、みぞおちを締め付けるような不快感にやりきれなかった。会社で仕事中に上司と言い争いをしたのであった。原因は些細なことで、あまりにもつまらなく、自分が悪かったのか、上司が悪かったのかと思い返すことさえバカらしかった。だが勇三にとっては、そのようなことは避けられるものなら避けたいと日頃から思っていたことであり、また初めての体験なのでやや困惑していたことは事実で、そのときのことがシコリとなって心に引っかかっていた。そんな理由で勇三は、疲労と不快感を感じながら帰りの電車に乗るとすぐ眼を閉じて眠ったのであった。
勇三は電車に乗ると決まって、もし開いていれば入り口に近い座席に座るか、それとも多少疲れていても、それほどの長い時間でもないので、ドアの近くに立ってボンヤリと窓の外の景色をながることが習慣となっていた。
なぜそうなったか、勇三自身にも判然としなかったが、理由がないわけでもない。それは勇三の生来の消極的な性格が、自分自身を無意識のうちにそんな片隅へと追いやっていたのであった。
また勇三は、他人の顔を見ることも、他人に顔を見られることはも苦痛になっていた。会社勤めを始めた頃は、ありふれた表情をした見知らぬ人間が同じ車内に居ると云うだけの冷ややかなものであったが、だんだん慣れてくると、それはただ見知らぬ人間といったものではなくなり、その人間の内部世界や、その人間を取り囲む様ざまなものが手に取るように判るようになってきた。
何気ない物腰や話し方に現れるその人間の抗しがたい社会的地位や境遇、その顔の表情に現れているその人間の子供のころからずっと変らずに持ち続けている、高慢、卑屈、怠惰、狡猾、冷酷、狂暴さなどの性格の弱点や欠点、そしてそれらの個々の表情にあわせて、誰もがいちように持っている一日の不快な疲労をくっきりと表す鈍く光った額や、青白い顔、必要以上の屈従を表すオドオドとした眼、生の欲望を隠せずに表す肉感的な唇、そしてまれにはだらしなく眠る人間、薄汚い泥酔者など、それらは決して生き生きとして人間の表情ではなかった。まったく不思議な、そしてあまりにも奇妙な人間の状態であった。特に電車が駅に着き、そのわずかな乗降時間はそれなりの活気をものものであったが、電車が走り出すとしばらくして車内が元の沈んだ重苦しい雰囲気に変るときに勇三はそのような印象を強くした。
勇三にとって、本来それらは嫌悪すべきものであった。また同時にこのような状態に自分もいっしょに居なければならないと云う自分自身にも向けられるものであった。
しかし結局は、それが生き生きとして状態ではなかろうが、あまりにも奇妙な状態ではあろうが、自分も同じ車内の一員にならなければならないと云う現実にあきらめも感じていた。
そこで勇三は、自分や他の者たちがなぜこのような状態になっているのか? などと詮索するのを意識的に避け、疲労を感じているときには眠り、また買い求めた夕刊紙を何となく読むと云う習慣化された行為に自分を従わせていた。
電車が走り出すと勇三は、対面の窓から巣に映る二人の若い女性の姿に視線が奪われ始めた。そしてだんだんと意識がハッキリしてきた。
四角い車窓は二人の女性の顔形や表情をスクリーンのように映してた。それは沈滞気味の車内を不思議と明るく華やいだ雰囲気にさせるものであった。何を話しているのか勇三はうまく聞き取ることはで着なかったが、片方の女性が懇願するように話しかけると、話しかけられた相手の女性は、それに軽く頷きながらなだめるように応えている顔の表情が、いかにも相手の女性に対する女らしい優しい思いやりにあふれていた。勇三は二人のそのような関係に好意を持った。
なおも勇三は優しく柔らかい女性の話し声をときおり聞き取りながら、車窓に映るその姿を見ていると、ふと遠い思い出を思い返すような懐かしさにとらわれた。だがその思い出の源はなんであるのか勇三にははっきりとしなかった。
次の駅で女性たちは降りた。勇三を薄目を開けて女性たちが降りていく姿を最後まで見逃さなかった。そして再び手に持っていた新聞に眼を向けた。だが何にも頭に入らなかった。
それから二つ目の駅で勇三は降りた。
駅を出ると勇三は見慣れたはずの町の風景がいつもと違っているように感じられた。先ほどの女性たちが持っていたような明るく生き生きとして華やかさにあふれていた。勇三にはそれは思いもがけない暖かい風のせいのようにも思われた。
勇三はそのまま駅前の本屋に入った。
単調で無気力な日々のもとで、勇三は歩き待った帰りのコースを持っていた。駅前の本屋に立ち寄ることと、夕食をかねて飲み屋に行くことであった。
勇三は文学的と呼ばれるものを特に好んで読んだ。だがその境界ははっきりとしなかった。漫画を読めば、流行し叢書や、事件記事を扱った週刊誌を買い求めて読むこともあった。それでも主として、評価の定まった小説類が多かった。
文学に親しむものなら誰でも一度は思うであろうこと、勇三もいつかは自分で小説を書いてみようと思っていた。
十四歳のとき、勇三はなんの考えも構想もなく、初めて原稿用紙を前にしてペンを取った。だが書き出しがむずかしくてなんと書いてよいか判らなかった。そこで"わたしは"と書いた。するとそのとたんに急に鼓動が高鳴り、手から力が抜け、額から汗がフキ出た。そしてそれ以上書きすすむことが出来なくなってしまった。"わたしは"と云う書き出しがよくなかったらしい。つまり"わたし"と云うものが若い勇三にとって、まだ未知であり混沌としていて、"わたし"は何であるのか?"わたし"は本当は何を言いたかったのかが熟考もされずまだ未解決のものとなっていたのを、それをいきなり"わたし"と云う言葉で解決を求めようとしたために、まだよく目覚めていないときに強引に呼び起こされて意識が混乱を起こすように、"わたし"と云う言葉に付着するさまざまな思いやイメージがいっきょに自己の核心におしよせ、それまで意識化されずに混沌としていた勇三の頭が大混乱を起こしたようであった。
若かった勇三にとってそれ以上書き込むことは嘘つきのように思われた。またこういうことを解決しないで平気で"わたしは"などと自己主張をしている人間も嘘つきのように思われた。そこで若い勇三は"わたしは嘘つき"と書いた。だがこれもどうやら嘘のように思え自分の興奮はおさまらなかった。そこで苦し紛れに"わたしはハンサム"と書いた。だがこれはもっと嘘らしかった。それ以来勇三はもったいぶってペンを執ったことはなかった。しかし"わたし"と云うものが勇三自身にとって解決されたわけではなく依然として謎であり混沌としたものであった。
勇三は頬を紅潮させて急がしそうに動きまわる店員から買い求めた本を無表情に受け取るとそのまま外に出た。
書店を出ると、近くから遠くから、激しく点滅したり、上下左右にあわただしく移動する色さまざまなネオンサインや、おびただしい広告塔が薄明るい都会の夜空を背景に、まばゆく勇三の眼に入ってきた。
いつもは、それらは都会のありきたりの風景として脳裏の片隅に追いやられているものであったが、今日は生き物のように勇三の眼に飛びこんできた。
勇三はそんな風景に否応なしに眼を奪われながら、疲労した体を暖かい風に晒すようにして歩いた。そして駅や、そこに出入りするおびただしい人々、そしてその周辺に群がる様ざまな建物によってかもし出される夜の街の賑わいを眺められる歩道橋の上に至ったとき、不思議とさほどの疲労感が薄らぎ、予期せぬ解放感に浸った。そしてしばらく都会の夜の風景を眺めた。
勇三にとって風景を眺めることは自分自身を見つめることと同じであった。するとなぜか勇三の心は乱れさまざまな思いが頭の中をかけめぐった。
≪今日はいったいどうしたのだろう? なぜ風がこんなに暖かいのだろう? 何年もこの町の変わらぬ風景を眺めているのだが、、、、この町はもともとこんなに生き生きとしていたのだろうか? 妙にうきうきとした気分にさせる。だがオレはさっきから何かが気になっている。頭の奥の奥のほうで何かがうごめいている。何かをしゃべりたい気持ちだ。黙っていられない気持ちだ。そうだあのときだ、駅を出たときのことだ。あのとき何気なく駅前の群集や見慣れた町の風景に眼をやると、ふと不思議な感慨に襲われた。初めてこんな町の風景を眺めながら済み始めたときのように気分、それは初めて経験すると云う理由からでもあったろうが、そのときはは眼にするものはすべて不可解で奇妙に感じたものであった。見たこともないような表情をして歩く人々の群れ、決められたようにホームに並ぶ人間の行列、電車内のじょうゃくたちの息苦しい沈黙、寸時を惜しみ急いで乗りこもうとする人々。こんなことは取立てていうほども奇妙で不可解なことではないのかもしれないが、しかしその当時は激しい違和感を覚えたものだった。そしてそのような群集の行動や表情を見ながら、自分はそのようにはなりたくないものだと冷ややかな抵抗感を感じたものだった。しかし今日の今日までオレはそんな違和感や抵抗感も忘れ、あのときの群集と同じような表情をして同じような行動をしてきたらしい、、、、、そうなのだ、先ほどの不思議な感慨はこれだったのかもしれない。ふと変化していた自分に気づいたのだ。しかしそうかといって、これはまったく俺自身の怠惰からくる責任でもないらしい、長い間群集にもまれて住み続け、それが日課となり習慣化すると、自分も同じように行動しなければならなくなるのだ。そうすることによって自分も群集のメンバーになれたことになり安堵感を覚えて不安でなくなるらしい。かといってそれは目に見える者の命令や強制によるものではない、自分もそうしなければと、自然に思わせるような個人の自由意志をこえたもののように思われるのだから仕方がない。群集と違う行動をし違う表情をすることがいかに不自由で不安であることか、、、、しかたがないのだ。それにしても今日はいったいどうしたのだろう? まだ何かが気になっている。やっぱりあのことだろうか? どうもあのことが気になって仕方がない。隠していることが出来ない、、、、オレがいつものように本屋に入って、最初の本を手にしたとき、思わずぞっとして身震いをした。あのときは何が起こったのか判らなかったが、いや判ろうとしなかったのだ。今そのときのことを思うとだんだんその原因が判ってきた。何のことはない、毎日同じことを無意識のうちに繰り返していたことに気が付いたのだ。本屋のドアを開けて、まず最初に足を踏み入れた場所は昨日と同じ場所だったに違いない。そして昨日と同じように、少し気取った姿勢で、チラッと店内の混み具合を見わたしては、その混雑ぶりに深いそうに顔を曇らせながら、昨日と同じ歩数と歩幅で、昨日と同じ書籍棚の前に来て、買いもしないのに、いつもの本を引き出して開いたのだ。あの本はオレの手垢で相当汚れているに違いない。たしかに店内の混雑振りや、陳列されている膨大な書籍量に圧倒されて自分の行為を制御できなくなってしまったためかもしれないが、世界の歴史が始まって以来のあらゆる種類の書物から、最近の流行思想書、小説、評論、その他ゴチャゴチャ、はては漫画まで、何百年かかっても読めはしない、、、、、、だが、オレが本屋に通うことが習慣となっているのにはもっと別な理由があるようだ、、、、確かにオレは、あそこにいると、現代のあらゆる精神活動の震源に居るような気がして妙な陶酔感に満たされる。そして現代の流れに取り残されないような安心感を覚えるのだ。それにむずかしい本を読むと、判ってもわからなくても、それだけで偉大な精神の持ち主の仲間には入れたような気分に襲われるのだ。そんなものは全部錯覚に違いないのだが、、、、特に今の世の中をにぎわしている流行思想所などは気になって、つい手に取って読んでしまう、、、、そこに書かれてあることは意外と陳腐で、そのうちに忘れ去れら手しまうような内容なのだが、それでもついそんな本を買ってしまう。そんな本を呼んでもオレは何にも豊かになってもいないし変ってもいないのだが、ようするに人間の弱みに付け入る巧妙な詐欺に引っかかってしまったようなものだ。これは何もオレだけに限ったことではないようだ、、、、、そのように俺は買い求めた本を店員から少し興奮気味に受け取っては、今まで何にも気づくことなく惰性で繰り返してきたのだ、、、、、それにしても今日いったいどうしたのだろう?まだ何かが気になっている。はっきりとしないが、もっと大事なことに気づいているようだ、、、、、それにしてもこうして夜の町の風景を眺めていると、今まで何となく生活してきた自分が見えてくるようだ。オレは無意識ながらいつも思っていたようだ。いや感じていたようだ。この眼の前にある都会の風景の向こう側に、それがどんなものかはっきりとは判らないが、オレを支えてくれるはずの風景が、人間の心の奥底から求めるような根源的な風景があるのではないかと、、、、つまりオレを過去から未来へとつなげ、オレの全信頼を捧げることの出来る風景があり、いつかはオレのみ眼の前に現れる風景があるのではないかと、、、、そしてオレはそれを無意識のうちに捜し求め、心から待ち望んでいたのではないだろうか? するとオレは今まで眼の前にある風景はかりそめなものと思い、信頼していなかったのではないか、いやむしろ忌避していたのでは、、、、、だが今、そんな風景なんてまったくの幻想のように思えてきた。オレは過去に、偉大な人と呼ばれる人たちの考えや行動を学び影響を受けつつ、また愛情深い肉親や友人たちの人間的関係のもとで育ち成長してきた。その痕跡が今のオレの内部に多少とも残っているに違いない。まだ過去の歴史に人間たちが犯した多くの悲惨な出来事や過ち教えられたり、また自ら発見して今の自分たちに照らし合わせて驚いたり、今後はこんな出来事はあってはならないと、かたく自分に言い聞かせたりして成長してきたことは間違いない。また最近の様ざまな出来事や、頭を悩ますようないろいろな問題や他人の考えに煩わされたりしながら昨日までの生活してきたに違いない。しかし、昨日までのそんな自分と今のこの場に居るオレとは何の関係もない、まったくの別の自分のように思えてならない。それらはあくまでも過去であり、昨日までのことであり、今日のこの今のことではないからである。こうしてゆっくりと町の風景を眺めていると、オレと新に関係している世界は、いま眼に映る夜の町であり、町を華やかにするためのネオンサインであり、駅に出入りする見知らぬ人々の群れであり、自動車や電車の騒音であり、自動車や電車の騒音であり、不快な町のにおいであり、そしてそれら全体からかもし出される雰囲気、ただそれだけではないのか? 永久にオレの待ち望むような風景は現われないのではないだろうか? するとオレはずっと今まで、存在しないものを思い続けてばかりいて、何にも変っていないし何にも豊かになっていないのではないか? オレは今まで保留されていたのでは、、、、、オレは無気力で怠惰なのだろうか? いやそんなことはない、ただ周囲に逆らわずにしたがっているだけなのだ。それで普通の人々と変ることなく生活をして仕事もうまく行っている。何の問題も不安もなく順調だ。だがそんなことではない。今何か他のことが気になり始めたのだ、、、、何か大事なことを、、、、、たしかに周囲の連中はオレをおとなしい人間だと思っているに違いない、、、、現に、今日、あの上司もそう思っていたのだ、、、、オレが今日仕事上のことでやや不満そうな態度を見せると、上司はいっしゅん面食らったような表情をして、そんなことはありえない、そんな反抗的な態度は君には似合わないといったふうに、上司は笑みさえ浮べてオレの行為を否定してかかろうとした。オレはそんなそんな上司の心裏が妙にシャクにさわり、ますますオレは大人しい人間ではないことを見せてやりたくなり、意地悪く反抗的に不必要な言い争いをやってしまった。オレは案外強情で陰険な面を持っているのかもしれない、、、、だがそんなことは同でも良いのだ、もう終わったことはだ。思い返すだけで腹が立つ。オレはもっと重要なことを感じているのだ、、、、それにしてもどうして今日はこんなに風が暖かいのだろう、、、、、≫
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勇三は自分のアパートへの道を歩きながら、自分がいつのまにか二十四歳になっていることに気が付いた。そして先ほど買い求めた本を道路わきのゴミ箱に捨てた。
次の日、朝日は町の屋根屋根を赤く染め始めた。近くの街路樹からスズメが二羽、勇三の眠る屋根に舞い降りた。そして雨どいのところまで降りてきて、コツコツと音をたてながら何かをついばみ始めた。だが、急に首をもたげ、キョロキョロと周囲を見わたしたあと、二羽とも何処へともなく飛び去っていってしまった。
勇三は夢の中に居た。
勇三は見知らぬ薄暗い道を歩いていると、背後にひたひたと後を付いてくるものの気配を感じた。振り向くと、それは公園や地下道などで寝そべったり、所在無く振舞っている浮浪者であった。浮浪者はすすけた顔をして勇三を見るとニヤリと笑った。それは勇造に親愛の情を示しているようにも見えたが、勇造は気味悪く思い、振るきるようにして急ぎ足で歩いた。しかし浮浪者は勇三の背後にしつこく付きまとい、勇三は恐怖感を覚えた。だが夢の中ではそれは勇三のほうから浮浪者を追いかけているようでもあった。
勇三はコツコツとドアを叩くような音を聞きながら目覚めた。勇三は眼を明け布団に入ったままドアのほうを見て耳を澄ました。誰もいないことを確かめるとそのまま再び眼を閉じ布団にもぐりじっとしていた。しばらくして布団を勢いよく払いのけて起きると、かが君で自分の顔をまじまじと眺めた。そしていつものように身支度を整え外に出た。
外は肌寒く朝の冷気が勇三を包み込んだ。道路には排気ガスがモヤのように薄く立ち込め、朝日が駅へ問い即勇三を背後から暖めていた。
暖かに南風は自然のいっときの気まぐれだった。そして紅葉も済ませたほとんどの街路樹は冬の冷たい風にすっかり葉をふるい落としてその裸形をあらわにしていた。日中の寒さも次第に増していった。
勇三は十八歳のとき進学のために家族のもとを離れてこの町に住み始めた。それ以来ずっと今まで独りで生活をしていた。その間二度ほど住処を変えたことがあったが、年とともに親元に帰る楽しみも薄らぎ、自分だけの孤独な生活に楽しみを覚え満足していた。親戚がこの都会に住んでいたが、実家同じようにほとんど行き来がなかった。かつての学生時代の友人たちとも、それほど親密でなかったせいもあり、離れ離れになったままで今ではほとんど会うことはなかった。
このように他人との付き合いのない孤独な生活に、勇三はそれなりの考えを持っていたので自分が寂しいなどとは思わなかった。
卒業後、勇三は自分の意思で今のかいしゃに入った。だが勇三はなぜ今の会社を選んだかを、他人によく判るように説明する自信がなかった。
会社に入ったころ、会社の先輩や同僚たちに、なぜこの会社を選んだかを、ことあるごとにその理由を聞かれた。特に先輩たちは、この会社の社会的地位や会社の待遇に不満を感じているらしく、そのような質問の裏には、こんな名もなく将来性もない会社によく入ってきたもんだと云う意味が含まれていた。しかし、そんなときの勇三の答えは、煩わしさも手伝ってか簡単明瞭であった。つまり生きていくためには働かなければならないと云うこと。それに結局どんな理由や思惑があろうとも選ぶことの出来るのはたった一つであるということであった。それでも先輩たちは納得しかねているようであった。それに勇三には先輩たちのように、会社に対する不満はなかったし出世してやろうなどと云う特別の野心もなかった。
勇三の社内での評価はまちまちであった。というより、良くも悪くも評判となったり、みんなの話題に上るようなことはほとんどなかった。上司たちにとっては、勇三は与えられた仕事はきちんとやってくれるうえに、他のものと比べてそれほど反抗的な態度を取ると云うわけでもなく、普通に使いやすい存在だった。同僚や先輩たちにとっても、勇三には特別に野心があると云うふうには見えず、寡黙で目立たなく真面目に働く気にならない存在であった。そんな訳で先輩や同僚たちは、勇三に積極的に話しかけ飲みにつき合わせると云うようなことはなく、ありきたりの仕事上の関係にとどまっていた。また勇三自身もそんな付き合いがなくても自分がみんなから孤立しているなどとは思っていなかった。
それでも、別に求めもしないのに、妙に人懐こく勇三に近づいてくる後輩がいた。仕事中でも、偶然廊下やトイレなどで会うと、"ヨウ、先輩"と言いながら、愛嬌たっぷりに手を頭のところまで上げて、勇三に不要とも思える大げさなな挨拶をした。そんなとき勇三もそれにあわせるかのように、普段人前では絶対に見せないおどけた表情をして、その後輩に挨拶を返した。そして昼休みや帰りなどで、よく一緒になることがあり、だんだん親しくなっていった。二人の会話は、他の同僚たちのように、会社の将来性や、仕事内容や、そのほかの社会政治問題などの難しい話はせずユーモアを交えた取り留めのない会話がほとんどであった。勇三は一日の憂さや疲労を忘れさせてくれるそんな屈託のない会話が好きであった。
十二月も終わりに。
そして風景は本格的な冬に変貌した。この月に雪が降ることはめったになかったが寒さは厳しかった。
勇三は身なりに無頓着であった。朝も起きてから髪を手でなでるくらいで背広も地味で体にあっていなかった。コートも着古したもので、靴もよほど汚れが目立つときしか磨かなかった。流行やお洒落に興味がないわけではなかったが、それを取り入れることは気恥ずかしくもあり、多少の勇気がいることであった。概して無関心であり、結局十二月の寒さのもとでも手袋を買おうなどとは思いもよらなかった。
夕刻、勤めを終えた勇三は両手をポケットに入れ、首をすくめ背を丸くして歩いていた。
夜の繁華街はクリスマスを告げる音楽が流れ、色さまざまな照明や飾り付けが、そしていつもより多い通行人でいっそう華やかさにあふれていた。
勇三は前から来る人々にぶつかりそうになりながらも俯き加減に重そうな足取りで歩いていた。その顔は寒さのためであろうか、少しゆがみ、また夜の照明にせいか青白いほどであった。
繁華街を過ぎると急に静かになった。勇三はほっとしたように顔を上げ、両手をポケットから出してゆっくりと歩き出した。人ごみから開放されたせいか、心なし軽い足取りで。
人通りはだんだん少なくなり、ときおり車が通り過ぎるだけであった。
規則的に植えられた街路樹は葉を落とし水銀灯が舗道を鈍く照らしている。しばらく歩いていると、急に路地から出てきて、二三歩前を歩き出した若い女性に勇三は眼を奪われた。体は細めながらふくよかな肉付き、赤黒く染められた髪は風になびくようにゆれている。腰から太ももを締め付ける黒いスカート、丈は膝下まで延び、そこでさらに細くなっている。特別な女たちに共通した身なり。
勇三は女たちの窮屈そうに歩く足取りを注意深く見つめた。舗道にヒールの音をリズミカルに響かせている。勇三は頭が心地よくしびれるのを感じた。そして自分の暴力的な気分に浸った。勇三はこのまま後を追い続けたい衝動を抑え酒と夕食のために行きつけの食堂に入った。
店の者のいらっしゃいませという掛け声を無視するかのように勇三は不機嫌そうに無言のまますばやく片隅の席に腰をかけた。そしてしばらくの間寒さのために感覚を失った頬を両手で暖めあと、無愛想に注文を済ませ眼を閉じ放心したように椅子に背を持たせかけた。
勇三の顔の青白さは街の照明のせいだけではなかった。たしかに顔は青白く疲労の色がはっきりと現れていた。またそれは肉体的な疲れだけではなさそうだった。
食堂を出た勇三はしばらく歩いていたが、急に何かを思いついたように、いつもの帰り道とは違う方向へ歩き出した。そして地下鉄に乗り、三つ目の駅で降りると、人通りの少ない道を選んで歩き出した。歩きながら勇三はときおり何かを物色するような眼つきで上方を見上げた。そして目的とする場所のネオンサインを眼にしたとき、勇三の心は微かに動揺した。そしてその場所に通じるさらに薄暗く狭い路地へ入っていった。

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