風の音が聞こえない(2部)
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はだい悠
勇三は自分の性的欲望を、単純に生理的動物的衝動として、割り切ることはできなかった。たとえそれが金銭の授受の上に成り立っている関係とはいえ、いやそれだからこそかえって、相手の女性との間に普通の男女間にあるような心の交流や肌のふれあいによる温もりや充足感を求めていた。しかしそのような願望が満たされたことは今までにはなかった。それどころか見知らぬ女性を前にしてのバツの悪さや気後れ、とくに自分の内面の暗さを示すにちがいない、このような関係に、勇三は何かへの後ろめたさをいつもひしひしと感じていた。そしてこんな場所を出て行くたびに、底知れぬ空虚感と後悔に襲われ、もう二度とこんな場所には足を運ぶまいと決意するのであった。が、その一方では、こんなはずではないはずと頭の中で呟くのであった。
しかし欲望の虜となっているときは、こんな過去の決意や後悔もさらりと忘れ、とりつかれたように足を踏み入れてしまうのであった。結局この日もやりきれない思いが勇三を苦しめた。
翌日の日曜日、勇三は昼近くまで眠っていた。部屋には冬の短い陽射しが差し込み、部屋の空気がだいぶ暖かくなっていた。
勇三は目覚めるとすぐ隣にあった鏡をとり自分の顔をまじまじと眺めた。昨夜のことを思うと少し不安になったのであった。しかしよく眠ったせいか、顔色もよく疲労のあとはみられなかった。そして冗談ぽくつぶやいた。
「ふむ、あいかわらずいい男だ」
起き上がって窓を開けると、バシッバシッという音とともに若い男女の明るい笑い声がかわるがわる聞こえてきた。勇三の住むアパートの前の狭い空き地で、若い夫婦がバドミントンをやっていた。
勇三は、大家や他のアパートの住人の何気ない会話を耳にしていたので、その若い男女は新婚であるということを知っていた。勇三はしばらく二人の様子を見たあと、そのまま冬の町並に眼を向けた。
遠くこの町の中心には、大小さまざまなビルが建ち並び、そしてその周りには、色様ざまな屋根をした住宅が密集し、そのまま地平線の向こうまで埋め尽くしてしまいそうな勢いで広がっていた。陽射しはやわらかく降り注ぎ、地上近くは紫煙色にかすみ、上空は青く透き通り、所々に冬の空とは思えないほど穏かに、子犬のような雲を浮かべていた。そんな風景をみているとまだ眠り足りないのではないかと思うほどだった。
勇三は再び狭い空き地で遊ぶ二人に眼をやった。勇三は二人のつつましい生活を思った。そして二人の夕暮れを思った。すると二階から見ている自分が不思議に思えた。そしてふと胸苦しい気分に襲われ、勇三は二人に気づかれぬようにそっと窓を閉めた。
勇三は午後の町に出かけ、そこで久しぶりにパチンコをやった。
勇三はパチンコの勝ち負けはすべて台の持っている特性によるものであることは判っていたが、ひとつの機械を生き物のように相手しながら、弾かれた鋼球の動向によって、死神に取り付かれたようになったり、女神を背後に感じたりするという、その単純に自分の感情が揺れ動く魔術的な世界に自分を忘れることができた。
二時間後、勇三のパチンコ台の死神と女神の交代劇は女神の勝利に終わった。勇三は我ながら浅ましいと思いながら、両替所で景品をわずかな現金に交換すると、やや勝ち誇った気分で狭い路地から人通りの多い賑やかな通りに出た。
「あら、ゆうぞうさん」
街で女性に声をかけられることは勇三にはありえなかったが、振り向くとそれはこの町に住んでいる勇三の唯一の親戚、従兄弟の敬子であった。敬子は今年大学に入学していた。
勇三は不味いところを見られたと思った。
「ねえ、なにしていたの?」
敬子はそう言いながら勇三の出てきた路地をいたずらっぽく見た。勇三は恥ずかしさと間の悪さのために一瞬言葉に詰まった。
「よう、元気かい」
その声は、敬子の注意を自分のほうに引こうとしたためか、少しうわずっていた。
勇三は敬子を後ろにしてスタスタと歩き出した。
「わたし知っているわよ、、、、いやねえ、男の人って、、、、最近家に帰っている? 帰ってないでしょう。帰ってあげなさいよ、、、、 とても心配してるそうよ、、、、 ねえ、それでいくらもうけたの?」
そう言いながら勇三に追いついてきた敬子は、勇三の顔をのぞきこんだ。勇三は思わず噴き出した。敬子もつられて笑った。久しぶりの明るく無邪気な会話に勇三は素直に引き込まれていった。
信号が青に変り、勇三と敬子は道を渡り始めた。左折してきた車が二人をさえぎった。そのため少し離れて歩いていた二人は、渡り終えるころには並んで歩くようになった。
「叔父さん、元気?」
「ええ、なんとかうまくやっているみたい、、、、」
「そりゃあ、そうだろうな、可愛い娘のためだもの。それに引き換え娘は昼間から授業をサボって遊び歩いているんだから」
「まあ、ずいぶんひどいことを言うのね、今日は土曜日よ」
「すると今日男探しか」
「いやあねえ、どうせうならボーイフレンドと言いなさいよ。勇三さんこそ彼女見つかった?」
勇三は苦笑いをするだけだった。
「これじゃねえ、、、、」
そう言いながら恵子は勇三の前に歩き出ると、勇三の姿を上から下までまじまじと眺めた。そして再び横に並んで歩きながら話しかけた。
「勇三さんの部屋、、、、想像するだけでもわかるわ、汚いんでしょう。早く掃除してくれる人見つけなさいよ。もう二十四でしょう。二十四にもなって、彼女一人もいないなんて」
自分に彼女がいないと決め込んでいる敬子に勇三は少し反発したくなった。
「君が来て掃除してくれると助かるんだけどね、、、、」
「早くお嫁さんもらいなさいよ」
敬子の吐く息が冬の陽に白く光った。
前から来る通行人に道をさえぎられ二人は寄り添うようにして歩いていたが、やがて離れた。
「ねえ、パチンコっておもしろい? 今度わたしに教えて。」
「叔父さんに言いつけるよ」
「わたしなんでもやってみたいの、、、、パチンコ、お酒、タバコ、それにマージャン、そうそうマージャンがいいわ。友達はみんなやっているのよ。わたしまだ何にも知らないから、、、、、」
「しょうがない女子大生さんだ。もうひとつやりたいものがあるって言わないのがせめてもの救いだよ」
「ねえ、もうひとつってなんのこと?」
「いわない」
町に流れている音楽や車の騒音にさえぎられて、二人の会話はしばらく途切れた。二人の前に割り込むようにして歩き始めた、五六歳の女の子とその母親らしい女の会話が勇三の耳に入ってきた。女の子は母親の顔をのぞきこみながら話し掛ける。
「ねえ、お母さん、それ当たったの?」
「そんなことまだ判らないでしょう、、、、」
娘を叱るように言いながらその母親は買い求めた宝くじをバックにしまいこんだ。
勇三は再び敬子のほうに注意を向けた。
「ねえ、今度遊びに来なさいよ。ご馳走するわよ。どうせろくなもん食べていないんでしょうから。何がすき、お母さんに言っておくから」
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二人の会話は途切れることはなかった。勇三は久しぶりに少年のように無邪気になれたことが楽しかった。最後に勇三は敬子に、今日のことは内緒だよ、といって目配せをして分かれた。
アパートに帰った勇三は万年床の上にごろんと横になった。じっとしていると敬子の香水の匂いを眼の前に居るかのように思い浮かべることができた。そして思ったよりも足が太かったことや、自分の会話に懸命についてこようとしたことが、勇三には可愛らしく思われた。そしてふと、過ぎ行く時が速すぎることを感じた。
締め切った窓に西日が差し込み始めた。そしてその窓ガラスに刻み込まれた小さな三角模様がその光でガラスのあっちこっちで星のように輝き始めた。それは傾く太陽に角度によって、その輝く場所がだんだん変っていった。
勇三は太陽が地平線に沈む雄大な光景を思った。と同時に、勇三の頭のなかにある思い出が浮かんできた。それは少年の勇三が故郷の山に登ったときのことであった。山道の前方に、さえぎるように崖が切り立っていて、ちょうど夕日がその崖に沈みかかっていた。薄いガスが立ちこめ、太陽はその丸い輪郭をハッキリと現していた。そして太陽はまるでその崖に侵食されるかのように、じょじょにその姿を小さく変えていった。そのとき勇三はハッキリと太陽に沈む速度を知覚できていた。少年の勇三は、その発見を興奮と感動を持って眺めたのであった。
勇三にとってこの日は記憶にないくらい平穏で満ち足りた一日だった。
十二月の末のある日の夕方。
ビルディングの五階窓からは、この都会の西側の風景をのぞかせていた。上空にはすでに青黒く闇が迫っていたが、灯され始めた町の光にさえぎられて、星は見ることができなかった。
西の空はまだ日没思わせるように青白く光り、冬の澄み切った冷気を感じさせるような鋭い笹の葉状の雲を浮かばせていた。
地平近くはオレンジ色に光っていたが、町の様ざまなネオンサインと交じり合い、その夕焼けの色と区別がつかなくなっていた。
部屋いっぱいに灯された蛍光灯の下で、勇三は自分の仕事の仕上げに忙しかった。ちょうどそのとき、同僚らしい男が勇三に話しかけた。勇三は了解したように無言のまま頷くと、そのまま再び自分の仕事を続けた。しばらくたつと勇三は壁にかけられた時計に眼をやると、そのまま首を二三度まわして席を立った。そしてコートを着ながら、その西の空の見える窓に近寄り眺めたあと、ドアを開けて出て行った。
外に出ると冷気を感じたらしく、勇三はいきなり首をすくめ両手をコートのポケットに入れた。
同僚の話しは忘年会の連絡だった。それは今晩六時にある料理屋の二階で行われることになっていた。
しかしそれまでは、まだ時間があったので勇三は寒さしのぎと空腹を満たすために、ある飲み屋に入った。
店内は思ったより汚く、床の靴泥や壁のシミが目立った。料理の名札も古くすすけたものや新しいものが見苦しく貼り付けられ、雑然としていた。ほかに客か二人居たがとくに会話もなく、妙に静まり返った沈んだ雰囲気のなかで、テレビの音だけが響いていた。勇三は部屋の墨に腰掛け、酒だけを注文すると、テーブルの上に置かれてあった新聞を無造作に取り読み始めた。しかし疲れているせいか活字がちらついてうまく読むことができなかった。そこで瞬きを二三度くり返したあと眼を凝らして読んだ。三面記事、スポーツ面、経済面、政治面と、次々と読んだが、何を書いてあるのかぜんぜん理解できずに、ただ漫然と活字を追っているだけで少しも頭に入らなかった。なかでも政治面に、遠くの国の政変が伝えられていたが、勇三にはそれは、自分には関係ない、どうでもよいことだと思う反面、それはそれで重要なことだと思いながらも、いまこれを読んだあと忘年会に行こうとしている自分とこの政変がどんな関係があるのか結びつけることができなかった。
勇三はだるそうな手つきで新聞をたたむとそれを元の位置に返してふただび酒を飲み始めた。飲みながらときどき考え事をするかのような表情をして、大きくため息をつきながら腕を組み眼を閉じた。でも何かを考えているわけではなかった。何にも考えられないほど頭は空白で、実際はただ重たそうに体を椅子に投げ出しているだけだった。
冷たい体が温まったころ、テレビからは今日の出来事を知らせるニュースが流れていた。大衆受けをするような、にこやかな表情にときおり憤りの表情を交えた解説者は、警察官の失態を批判していた。この年は警察官の失態がよくテレビ沙汰になっていた。他の酔客はまたかというような顔をして、テレビのほうに注意を向けたあと、薄笑いを浮かべながら、大げさな身振りでなにやら話し始めた。飲み屋は急に活気付いたようだった。
事件はある地方都市のできことだった。怪しい青年がうろついているという住民の通報で駆けつけた警察官二名と、その青年との格闘、追跡、そしてついに格闘の末、警察官の威嚇発砲が青年の胸を貫き、死亡させたというものであった。だがこれだけでは勇三は、事件の意味が判らなく興味がわいてこなかった。しかし続いてその青年の趣味や性格が報じられたとき、その事件の全容が眼の前にくり広げられているように、事件の真相を捉えることができた。そして空白となっていた勇三の脳裏に、沸騰するお湯の気泡のように突然様ざまな言葉や情景が浮かんできた。
青年は無口で大人しい人間、絵画鑑賞を好み自分でも描いていた。音に敏感で町の人ごみや賑やかな場所が嫌いで、森や畑に囲まれた静かな場所を好んで歩き、この日も神社の境内に居た。その青年にとって、賑やかな町並みはなじめないものであり、またそれは同時に恐怖であり、反世界であったに違いなかった。それに反して森や畑、土の道路や草花、それに昔を懐かしめる神社の境内は、その青年にとって、親しみの持てる、心を許せる風景だったに違いない。しかしその青年には心ひそかにある不安があった。見知らぬ場所を歩くということが、その地域の住民に、怪しい見知らぬ男、あるいは異常者と見られるのではないかと、ましてや自分は名のある画家ではないのだからと。だがそんな不安があるにもかかわらず、行き場のない青年にとっては人気ない自然風景を愛することは止められなかった。それに反して、警察官は青年とまったく違う世界に住む人間なのである。警察官にとってこちら側の人間である地域住民の<怪しい人間がうろつている>という通報は、信頼できるすべてであったに違いない。そしてそこへ乗り込むということは、青年と正反対の意味で、不安であった。そこにはどんな凶暴な異常者か、大犯罪者がいるのかまったく見当がつかないからである。警察官は不安のため神経が異常に高ぶったままそこへ乗り込んだ。だれでも自分にやましいことがなくても警察官を見ただけでヒヤリとする習性があるように、きっとその青年も同じように感じたに違いない。ましてやその青年はそのような事態が起こることへの極度の不安や恐れを持っていたのだから。
その青年と警察官は不安と強調のなかで向かい合った。とっさに身構えた。それがどちらが先であるかはわからないが、きっと大昔に、異族と山の中でばったり会ったときのような恐怖感がそうさせたものであろう。両者とも一瞬のうちにパニックに陥った。
青年は恐怖と不安で、つい逃げ腰になった。警察官は逃げる青年をみて犯罪の匂いを嗅ぎ取った。その青年は逃げながら反射的にポケットのナイフに手が伸びた。警察官はそれを怪しげな行為と見て、ますます犯罪そのものの確信を深めると、大事件になることを恐れて役目を行使した。そして追跡、逃げる青年、追いつき格闘、両方の混乱はますます高まっていった。警察官の威嚇射撃、青年の逃亡、そして再び追跡、追いつき格闘、両方の恐怖が頂点に達したとき、その青年はナイフを振りかざして警察官におどりかかる。警察官はその青年の脚をうとうとしたが、恐怖のあまり自己防衛の本能からか、反射的に青年の胸に銃口がむいた。そして発砲・・・・・・
勇三は自分勝手な推理に我を忘れていた。気が付くと周りはいつの間にかに客が増え店内は賑わっていた。酒が体の隅々を駆け巡り、ほどよく温まったうえに、まぶたに重みを感じるような眠気を覚えて心地よかった。
勇三は手を伸ばして新聞を取るとふたたび読み始めた。
今度は何が書いてあるのかはっきりと頭に張ってきた。先ほど読んだときには気がつかなかったが、社会面には木星探査機から送られてきた木星の写真が載っていた。その丸い木星の中央に台風のときにできる雲の渦のようなものが写っていた。解説には、それは地球と同じらいの大きさの液体窒素の渦と書いてあった。それを読んだとき勇三は、突然のように自分の頭が一瞬膨らんだようないような興奮に捕われた。
時計は六時半を周っていた。勇三は自分の体が軽くなったような充実感を味わいながら席を立ち、勘定を済ませ急いで忘年会場にむかった。
歩きながら勇三はとりつかれたように《地球を飲みこむ巨大な渦、地球を飲み込む巨大な渦》と何度も頭の中で呟いた。眼の前の霧が晴れて突然視界が開けたような、そんな高揚感を覚えながら・・・・
忘年会はもう始まっていた。
部屋のなかには料理の湯気やタバコの煙がもうもうと立ち込め、二三人から、四五人のグループに分かれ、勇三がきたことにも気づかないほどに会話が弾んでいた。
勇三は遅れてきたことを申し訳なさそうに軽く頭を下げながら空いている席につき、一人で飲み始めた。別に聞き耳を立てているわけではなかったが、周囲の人々の会話が不思議なほど耳に入ってきた。
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「・・・へえ、あの課長が、信じられいなあ、嘘だろう・・・・」
「いや、ほんとうだよ。以前勤めていた女の子ともできていたんだ。それでだいぶ家がもめたみたいだけど、でも女の子は会社を辞めて、結局もとの鞘に納まったみたいでけどね」
「それでも懲りずにまたやっているってわけか、スキのもだねえ」
「そのことを彼女は知っているんだろうか?」
「知っているよ。それを知っていてついていくんだから、女も女だよ」
「あんな男のどこが良いのかなあ?」
「あの女だけじゃなく、女はみんなそうなもんよ」
「ショックだなあ」
「なんだ、おまえ彼女が好きだったのか?」
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「今年の冬は北海道にスキーに行こうと思っているんだ。」
「いいね、独身はうらやましいよ」
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「どうだい、新しい車の乗り心地は?」
「うん、言いね。車も二三年乗ると飽きちゃうからね。やっぱり新車は最高よ」
「女とおんなじだね」
「わっはっはっはっ」
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「そりゃあ、うちの社長には才覚がないからですよ。ソニーと同じ年の創立じゃないですか。あっちはあの通り、それに比べてうちの会社は、、、、下請けどまりだな、、、、」
「まあ、これからは君たちの若い才能次第だな。社長は君たちの奮起を期待しているようだよ。頑張ってくれよ、、、、そうだよ勇三君」
勇三が居ることに気づいた上司がそう言いながら振り向き、勇三の方をぽんとたたいた。勇三は飲みかけていたコップを口から放して、小さな声でハァとだけ答えた。
酌でもしながら会話に参加すべきところだったが、なぜか勇三にはそれができなかった。
勇三は自分の会社の社会的位置や業績を十分に知っていたので、それを敢えていうことは愚痴になると思っていた。勇三は急に頭痛を感じた。酒の飲みすぎかそれとも風邪をひいたのかと思った。勇三はふと部屋の雰囲気によそよそしさを感じた。
そしてゆっくと顔を上げて部屋全体を見渡した。
酒によってだらしない格好をしている者、サルのように顔を真っ赤にしている者、それらは紛れもなく毎日見ている仕事仲間たちであった。しかし勇三には、自分がここにいることは場違いのように感じられた。たしかに皆といっしょに同じように酒をのんでいるのであるが、もう一人の自分が
この部屋の外から、部屋に居る自分や他の者たちを観察しているように感じられた。
勇三は身震いをした。
鍋の中の魚や野菜類が泡を吹き出して煮だっていた。ガスの炎は青白く燃え続け、テーブルの上にはビールや酒がこぼれたままになっており、乱雑におかれた皿やコップの間には折られた割り箸が捨てられたようにおかれたあった。それらが勇三に異様に意識された。
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「・・・・あそこのコーヒーは不味いよ。それにウエィトレスに愛嬌がないよ」
「お前はコーヒーの味なんてどうでもいいんだろう。ウエィトレスのお尻を見てればいいんだろう、、、、」
「ワッハッハッハッハ」
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「ミィミィちゃんはオレに気が在るんじゃないかな」
「ばかだねぇ、お前は。あれだろう、おまえに腰を摺り寄せてくるんだろう。あいつはだれにでも思わせぶりをするんだよ。オレにだってそうだ。夜になるとどっかのキャバレーに勤めているという噂だよ」
「ほんとうに見たんですか?」
「そういう噂だけどね」
「するともう、、、、」
「そうだよ、あれは処女っ顔じゃないよ」
「顔を見ただけで判るんですか?」
「判るよ」
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「先輩!」
そのに雄三が振り向くと、メガネの下の目がだいぶ細くなった後輩の井上が手に銚子を持って座っていた。
「どうしたんですか?元気がないですね」
勇三はせっかく来てくれた井上には悪いと思いながらも、頭痛で話すのも億劫だったので、そのまま黙っていた。すると井上はよそに行ってしまった。
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「やつの嫁さんの実家は大変な資産家らしいよ」
「ふーん」
「何でも十億とか二十億とか、、、、」
「でもあれじゃねぇ、、、、」
「それを言っちゃおしまいよ」
「ワッハッハッハッハ」
「でも若いときはまだやせててけっこう見られたもんだったよ、、、、」
「なんといっても係長の奥さんは一番美人だよね。ねえ、係長!係長家にかえるの楽しみでしょう、、、、、」
「、、、、いやあ、、、、家に帰る楽しみは子供がいるからでね、女房なんてどうでもいいんだよ。家に帰って、子供たちが『パパおかえり』って言うのを聞くと、これでやっと一日が終わったんだ思ってほっとしてね、もう仕事のことなんてすっかり忘れよ、、、、、」
その上司は満足そうな笑みを浮べて勇三のほうに向きを変えた。
勇三は以前、些細なことで言いあいになった相手であり今でもそのときのしこりがないわけでもなかったが、上司はそのことを忘れたかのように、急に真面目顔になった話し始めた。
「これからはほんとうに君たちの時代だよ。判る、、、、君たち若い者に頑張ってもらわなくてはね、、、、」
勇三は意外に思った。その様子は日頃の態度とは似つかわしくない、いかにもや下ヤリで弱々しかった。勇三は見てはならないものを見たような気がした。そして上司はさらに言葉を続けた。
「イヤね、だいぶ前から家を建てるために土地を買ってあるんだよ、でもまだ建ててないんだ。どうもね、隣にどんな家が建つか判らないからね、、、、」
部下の一人に過ぎない自分に、上司がなぜこんな内開け話をするのか、勇三は理解に苦しみ上司の真意を疑った。
勇三の頭痛はおさまりそうになかった。
これまで体中に貼り付けたきた、それぞれの生の肩書きの披露が終わったころ、部屋の一部から歌が起こると、それぞれに飽きかけていた会話を中断して、初めて一同に会したかのように、みんなテーブルのほうに向き直り、手拍子を取ったり箸で茶碗を叩いたりしながら合唱を始めた。
頭痛がさらにひどくなった。
勇三は冷たい風に当たれば、それも治まるのではないかと思い外に出た。
少し痛みが治まるのを感じると勇三は、もう一度みんなのところに戻るのも億劫だったので、そのままコートだけを取りに戻り、再び夜の街を歩き出した。
寒気は厳しく、しばらく歩いているうちに雄三の体はだんだん冷えていった。
勇三は首をすくめ背を丸くしてあるいた。歩きながら勇三は、何気なく夜のまち風景を眺めている自分と、頭蓋骨の隅に小人のように縮こまり、眼窩から恐る恐る外の世界を伺っているもう一人の自分がいるような気がした。
寒気と疲労のためか、勇三は息苦しさを覚えた。
ビル街を通り繁華街を通り抜け、勇三は目的もなくただ歩いた。
街路樹がよそよそしく冷たく夜の光を反射していた。
通り過ぎる車の音が耳障りとなり、排気ガスが鋭く鼻を刺激した。ネオンサインや町の光が目に付きさすように飛び込んできた。おさまっていた頭痛が再び始まり、歩きながら思わず身震いをした。
勇三は方向感覚を失い自分が今どこを歩いているのか判らなくなった。そして自分がいまなにをしようとしているのか、これからどこへ行こうとしているのかも判らなくなるほど自分を見失っていた。
勇三は歩いた。ただやみ雲に歩いた。前から来る通行人にぶつかりそうになり、すれ違うとき、その男の舌打ちの声が後頭部から聞こえ、頭痛がさらに激しくなった。寒気を全身で感じ、コートのポケットのぬくもりだけが頼りとなった。勇三の頭は混乱し完全に自分を見失っていた。そして勇三の頭のなかにふと、この都会の全景が広漠とした廃墟の広がりのように浮かんだ。その全景が怪物のように頭上にのしかかり自分を押しつぶすかにような恐怖感を覚えた。背中に冷や汗が流れ、その背後にも後ろを振り向きなくなるような恐怖を感じた。顔を上げることができないほどに、打ちのめされたように歩いていると、舗道に捨てられた紙くずやタバコの吸殻や反吐が目に付いた。
そして舗道の敷石の間に踏み潰されずにいるいている冬のアリが眼に入ってきた。
鼓動を耳元で感じた。自分の体が他人のようなただの冷たい塊のように感じた。自分の頭も体もバラバラになりそうに感じた。何かを考えようとしたが、集中ができなく完全に思考力を失っていた。
勇三は自分取り戻さなければと直覚し、喫茶店の赤くともされ看板を眼にすると、引き込まれるように、最後の気力を振り絞り、よろめきながらそこへ入った。まるで、騒音から逃れ、人ごみから逃れ、夜の光から逃れるかのように。
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勇三はだれにもジャマされないような片隅に席を取った。
店内には空いていて静かだった。窓には外の風景をさえぎるかのように藍色の落ち着いたカーテンが掛かっていた。そしてオレンジ色の薄い照明がテーブルを照らしていた。緩やかな音楽が流れ、ときおりコーヒーかっぶと受け皿の擦れ合う音がかすかに響いた。
注文を終えた勇三は、ぐったりと椅子に背を持たせかけながら、眼を閉じては流れる音楽に耳を傾けた。
勇三の頭はだんだん思考力を回復していった。
そしてにじみ出るような思いにひたすら身をゆだねた。
《オレはあの時、どうして仲間たちと一言も口を下図に黙っていたのだろう。遅れてきたことに申し訳なくて、遠慮していたのだろうか? 確かに、十代のころは会合などに遅れると、申し訳なくて最後まで口を聞けずに終わってしまうことがあったが、だが今の俺は違う。それにあんなことはたとえ心の中でどう思っていようと頭のひとつでも下げれば、それですむ問題なのだ。それなのにどうして、、、、、オレが仲間や上司が急に嫌いになったわけでもないし、オレが皆から嫌われたわけでもなさそうだ。皆はいつものように朗らかで屈託がなく、相変わらずばかばかしい話題に夢中になっていた。急に頭痛がしたことにも原因があるのだろうか? だがあれくらいの頭痛は皆と話していれば以前は自然と消えていたものだ。たしかにオレは最後までだれとも口を聞かなかった。かといって、頭の中が空っぽで、なんにも考えることなくただ酒を飲んでいたわけでもない。オレは空想することか嫌いではないし、とくに酒を飲むといろんなことがゴチャゴチャと頭に浮かんできて、言いたいことでいっぱいになるのだ。つまり話す機会や雰囲気さえ整えば、結構饒舌になるのは自分でも知っている。たださっきはそれを口に出せなかっただけのことである。それに人の話しを聞かなかったわけでもない。部屋がそれほど大きくなかったせいもあるが、部屋のあっちこっちから、ほとんどの人の会話がオレの耳に入ってきた。つまり考える材料は十分にあったし実際に考えてもいたわけだ。話しに夢中になっている人間に限って、自分のことだけに精いっぱいで、人の話は聞いていない傾向がある。その点オレはみんなと違っている。今でもオレはあのとき誰がとんなことをいったか、だれがどんな笑い声で笑ったかをハッキリと思い出せる。つまりオレはあのとき、
皆の会話に無関心であるかのように下を向いて一人で酒ばかりを飲んでいたが、実際は皆の会話に注意深く耳を傾けながら、部屋全体の雰囲気を感じ取っていたのだ。たしかにそうだった。最初にあの係長に話しかけられてから、その後オレはふと、自分がみんなといっしょに同じ部屋に居ながら、その部屋の外からもう一人のオレが部屋の様子を覗っているかのように感じたのだ。あのときオレは一瞬驚いた。オレが最初に部屋に入ってきたときと、酒も料理も仲間たちの様子も皆もとのままだったのに、なにかが変ってしまったのだ。そうだ頭痛が始まったのはちょうどその頃だ。それ以来みんなの会が奇妙に聞こえてきた。話している声の響きや内容ではない。なぜみんなが今ところに集まって、いつもと変らない話をしていなければならないのかということだった。オレは趣味の話しや女の話しはきらいではない。だがあのときは違っていた。そんなことからもう興味を失っている自分がハッキリと感じられ、みんなが見知らぬ人のようによそよそしく感じられたのだ。たしかに会社の未来には、自分の将来とその生活がかかっている。これから常識的な平均的社会人としてやっていくためには、ぜひとも先輩や上司の話を聞いて知識を増やしていかなければならないのだろうが、しかしオレはあのとき、あの心の変化をどうすることもできなかった。そしてみんなから話しかけられることもみんなに話しかけることも苦痛だった。そんな心の状態を押し隠してみんなに話しかけることはかえってわざとらしくさえ思われ、そのままじっとしてみんなの話しを聞いているのが精いっぱいだった。そしてオレはその間ずっと頭痛に悩まされていた。とはいえオレはそんな自分を惨めだとは思わなかった。むしろオレは、自分はみんなと違うような、自分が大きくなったような気さえした。そしてオレは、みんなと同じようなことをしてはいられない気持ちになったようだ。そう思うとオレは、みんながこんな風にいつもと代わらぬ会話をかわしながらよくあきもせずに平気でいられることに不思議さを感じ、みんなが矮小な人間に見えてきた。そしてオレは頭痛のせいもあったが、その場に居ることが苦痛となり外に出たのだった。しかしオレは、しばらく夜の街を歩いていると自分がなんなのか判らなくなってしまった。いままでどんな道を歩いてきたのか、なにを考えていたのかもまったく判らないくらい、やっとの思いでこの場所にたどり着いたのだから、、、、それにしても何が起こったのだろう? 確かに歩いてあるとき頭を締め付けるような場しい痛みがしたことは覚えている。それに原因の判らない恐怖を感じた。あのときは確かにこの都会の全景が頭の中でちらついたいたような気がする。その前後からかオレは恐怖に襲われた。不思議なことだ。なぜ、この住みなれたはずの都会の風景に恐怖を覚えたのだろう? いまでもそのときのことがハッキリと思い出せないのだから、そのとき俺はよっぽど混乱していたのだろう。きっと何かが起こったのだ、、、、、それにしても、もし恐怖を感じた理由があるとしたら、、、、ない訳でもないような気がする、、、、、
オレは日頃から、この都会を知りたいと思っていた。知りたいというのは、どこにどんな建物があり、と語を何の電車が走り、どこに誰が住んでいるというように知りたいということではない。ひとつの生き物のように、ひとつの自然のようにこの都会の全体を何の違和感もなく見渡すことができ、手を伸ばして身近な人間のような安らぎとぬくもりを感じ取ることが出来るようになりたいと思っていたのだ。ひとつの自然としての都会を宇宙のなかの都会を、オレはどのように深くかかわっているのかを知りたいと思っていたのだ。そして朝起きて平穏に一日を過ごし夜になり眼を閉じて眠るとき、自分を取り巻く一日のさまざまな出来事や、あらやる人々の考えや行動を理解して、この都会の風景を何の不安もなく親しみを持って思い浮かべることができるようになりたいと思っていたのだ。そのためにオレは、そうなれるように自分の心を開いて、いつでもどんなことでも受け入れることができるような状態になっていたに違いない。さっきオレが夜の街に出て歩き出したときも、きっとそんな心の情態であったのではないだろうか。しかしどうしたわけか、オレは激しい頭痛に襲われ、何にも考えられないほど混乱し打ちのめされてしまった。オレは無防備に心を開きすぎたのだろうか? オレはそれを受け入れるほど大きくはなっていなかったのだろうか? とにかくオレは、やっとの思いでこんな見知らぬ場所に辿りつくほどに打ちのめされいた。打ちのめされたということは、つまり余計なことを考えずに、みんなと同じように、その場その場を楽しくやれということらしい。自分の心を開いてこの都会を捉えようなどと、そんな人間離れした了見を二度と起こしてはならないということらしい。でも俺にはあのときの仲間や上司がそれほど取るに足らない小さな人間に見えてきたという心の変化を隠すことはできない。しかしかといって、オレは決してみんなをくだらないやつ、取るに足らないやっといって、見下したり軽蔑したりしようとしているのではない。できるならみんなと協力して楽しくやって生きたいのだ。だがその方法がみんなと食い違っていて、また、もしその方法があるとしたら、まだその方法が見つからないだけなのだ、、、、、、それにしてもいのとき、井上がやってきて、黙っているオレに話しかけてくれた。それなのにオレはあいを無視してしまった。なんだがすまない気がする。今度機会があったら埋め合わせをしよう、、、、、、 》

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