風の音が聞こえない(8部)

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          はだい悠








   事務室は午前のうちは精力的に動きまわる男性たちであわただしく活気に満ちているのであるが、午後も深まり仕事も一段落して西日がさすようになるころ、男たちの顔にはドロンとした疲労の色があらわれ、閉じられた部屋の雰囲気が沈んだものになると、亜衣子もそんな空気につれらるように眠気を誘うような甘ったるい気分になりながら、四角い窓からのぞく、いつもと変らない都会の風景をぼんやりと眺めるのであった。すると周囲の男たちは、そんな亜衣子に気がついて、アイちゃんどうしたのと声をかけるのであった。声を欠けられた亜衣子は、その声にはっとして我に帰り、恥ずかしそうな笑みを浮かべて、再び自分の残り仕事に取り掛かるのであった。
 亜衣子は男性というものが未知であった。というより知る方法とか、その基準というものが判らなかった。自分の父や兄を物差しにしてもよかったが、職場の男たちの仕事中の態度と、仕事外での態度が、あまりにも違いすぎるので、どう理解してよいかわからなかった。とくに、亜衣子の周りの男たちが、同じ社内の女子たちを口汚く耳障りな噂話をするのをふと耳にしたりするとき、自分も影ではあのように言われているのかと思い恥ずかしくなった。そこで自分もそう言われないように心がけるのであったが、普段口汚く言う男たちも、いざ亜衣子を眼の前にすると、そんな感じを微塵も見せず、人が違ったように親切で在ったりする。だからそういう男たちを見ていると、亜衣子はますます男というものが判らなくなっていたのである。
 亜衣子は事務室で働いているため、自然と、以前の職場の女たちとは疎遠になっていった。亜衣子は自分から避けているつもりではなかったが、向こうから避けられているような気がしてときおり寂しいと感じるときもあった。
亜衣子は生まれたときから住んでいる自分の街をあまりよく知らなかった。知り始めたらキリがないためか、あんまり興味がないためなのか自分でもよく判らなかった。とにかく疎かった。ましてやこの都会のこととなるとまったく判らなかった。長く家を空けたのも女子高での修学旅行のときぐらいで、小さいときからずっと通学、また通勤のためのそれぞれの決まったコースを通うだけだった。亜衣子にとって、通いなれたコースを外れて、見慣れぬ場所に足を踏み入れるだけで、心細く不安になるのであった。勤め始めてからも、ときどき会社の仲間たちが夜の盛り場に誘ってくれることもあったが、それでも夜遅くまでということもなく、総じて見慣れたコースで、自宅と会社を往復する単調な毎日であった。


 そんな毎日が続くある日、亜衣子は勇三と出会った。出会いが出会いだっただけに、最初亜衣子は、勇三がどんな人間であるのかつかめず、勇三を眼の前にしていることが怖く不安であった。それに勇三の表情や話し方に、亜衣子が今まで接したことのないような、その気安く人を寄せ付けない男性の厳しさというものを感じてどことなく緊張していた。しかし勇三と話を進めていくうちに、それらの厳しさは亜衣子には体験のない孤独な生活や、他の男たちとはどことなく違う誠実さから生まれてくるものであることが判ると、緊張感も和らぎ安心して接することが出来たのであった。そう思いながら付きあっていると、勇三の何気ない仕草や表情に、以前父親に見られたような不思議な寂しさや優しさ、そして奥深い包容力が感じられた。そしてとくに、自分とはまったく違った生活環境に育った人間ということに亜衣子は興味がわき、ときどき自分がふと感じることがある、この都会風景から脱出したいという願望をかなえてくれそうな人物であることを予感した。そして何度もあっているうちに、亜衣子は勇三に、会社の男たちや自分の兄にはないような純朴さや思慮深さを見い出して特別の好意を感じるようになり、さらに頼りがいのある尊敬できる人物に変っていった。
 しかし、それでもなお亜衣子は、勇三が時折見せる深刻そうな表情を見て、皆のようにもう少し気楽に生きれば良いのにと思い同情の気持ちが起こる反面、自分には入っていけないような、すべてをさらけ出した自分を受け入れてくれないような、ぼんやりとしたヨソヨソしさを感じるときもあった。
 そんな勇三との付き合いに平行して、亜衣子は会社の先輩の岡村に誘われた。  岡村は亜衣子の仕事のおぼえたてのころ最も親切に指導してくれた人物であった。それ以来亜衣子にとって岡村は、会社の中でもっとも身近で親密な人物となり、よく仕事中でも手を休めて世間話をしたり、亜衣子がぼんやりしていたりすると、亜衣子の正面から声をかけてくれたりした。

 岡村には妻子がいたが、最近よく亜衣子を、ちょっと話しが在るといっては誘い、仕事の話とか自分の家庭の話をした。
 亜衣子は黙って聞いているだけであったが、そんなはなしをするときの日頃と違う投げやりで辛そうな岡村の態度を見て、亜衣子は、自分には判らない夫婦のことや、男の人たちの世界を思い、岡村に同情の気持ちが芽生えた。
 亜衣子は岡村と勇三の両方から誘われたときは、よほどのことがない限りはなるべく先約を果たすことにした。また亜衣子は岡村と勇三のことを同時に思ったり、比較してみたりすることはなかった。それに岡村には勇三のことを話していなかった。なぜなら、岡村との関係と勇三とのそれは、根本的に違っているようにな気がしたからである。しかし妻子のいる岡村との関係はあまり好ましいものではないと感じていたので、勇三には岡村のことを話してみようかと思ったときがあった。でもそのことを話そうとして、勇三を眼の前にすると、それほど切迫した問題ではないように思えてきて、うまく切り出せなく、またそんなことは勇三にすべきことではなく、自分自身で解決しなければならないことのように思われ、結局勇三には話せなかった。しかし、いつかはそういう曖昧な自分の立場をハッキリさせたいと思い、いつも心のどこかに引っかかっていた。
 そして昨夜、いつになく暖かく、亜衣子は岡村と二人で桜の木の下をとおり、誘惑的夜の街を歩き、酒を飲み、そして岡村に誘われるままに、初めて男の人とホテルに入った。酒を少し飲んでいたせいか、亜衣子は昨夜の気持ちや、そのときのことをハッキリとは覚えていなかったが、自分の肌に触れた岡村の手の冷たさと、自分の呼吸が少し乱れたのを薄ぼんやりと覚えていた。


 結婚という言葉を聞いて、亜衣子の心は今にも舞い上がろうとする風船のように膨らんだ。しかしそんな亜衣子をつなぎとめるかのように、昨夜のことが脳裏をよぎった。亜衣子の心は動揺した。それに、言い終わったあと、顔は紅潮しているが自分の興奮を懸命に抑えようとしながら、少年のような潤んだ瞳でじっと見つめている勇三の姿を見て、亜衣子の心はますます動揺した、亜衣子は自分が何を思い何を言おうとしているのかわからないほど混乱した。そして岡村との関係を話さずに入られなくなった。
 話しながら亜衣子は勇三の顔をまともに見ることはできなかったが、勇三の顔から血の気が引いていき、肘掛に置いている手で、椅子から崩れ落ちようとする自分の体を懸命に支えているのが判った。
 膨らんだ風船玉は破れた。言い終わると亜衣子はなぜか溢れる涙を抑えることができなかった。

 亜衣子の喜びの言葉を待っていた勇三は、亜衣子のいっしゅん翳った表情のなかに、烈しく乱れた亜衣子の心を読み取ることは出来なかった。勇三は、それは自分の突然の結婚の申し込みに亜衣子が驚き、女性特有の恥じらいとためらいの感情が入り乱れて、その喜びをうまく表現できないための表情であろうと思った。しかし、その語の亜衣子の苦しげな表情から繰り出される予想外の告白を聞きながら、勇三は顔から血の気が引いていくのを覚え、思わず椅子からずり落ちそうになった。勇三はそんな自分を意識しながらも、こんなことはありうることだ、こんなことは予想しえたことだと、何度も自分に言い聞かせた。だがいったん落ち込んでしまった生理作用はどうすることも出来なかった。眼がかすんでいった。風もないのに窓のカーテンがゆれたように感じた。そして涙ぐむ亜衣子の姿をぼんやりと感じながら勇三は、いま自分は何かを言わなければならないと思った。だが、適当な言葉が見つからなかった。亜衣子はずっと泣いているばかりでなにも言おうとはしなかった。
 大炎上のなか凍りつくような沈黙が続いた。そして亜衣子はこれ以上仕事を脱け出せないといって席を立って行った。勇三は独り残された。

   勇三は、いま自分のみに何が起こったのかを考えることができないほど混乱していた。立ち上がろうとしたが、脚に力が入らず腰が上がらなかった。喫茶店に流れる感傷的な音楽や、他の客の話し声がいやに耳に入ってきた。亜衣子の涙を思うと自分も泣きたくなった。勇三はこれは感傷的な音楽のせいであると思った。いっこくも早くこの場から逃げ出したい気持ちになった。勇三はありったけの力を振り絞って立ち上がった。一歩踏み出すと眩暈がしてよろけた。震える足で地を探るようにして歩いた。両腕が今にも方から抜け落ちそうに、ただだらりとぶら下がっているように感じ、手を握り締めようとしたが力が入らなかった。吐く息が小刻みに震えた。
 そして外に出た。


 春の午後の陽はまだ高く町を黄色に染めていた。その陽光が肌に突き刺さるように冷たく感じた。腕にかみそりで切られたような痛みを覚え、不快な寒気を感じた。歩きながらすれ違う女たちの香水の匂いが鼻につき息苦しくなった。女たちのスカートからのぞいたストッキング色の脚が目に付き思わずそむけた。歩きながら勇三は何とかしてもとの冷静な自分に戻らなければと思った。陽の光を受けてまぶしくそびえるビルディングに底知れぬ恐怖を感じ不安になった。勇三は何かにすがりたい気持ちになった。そして誰かに今のこの苦境を打ちあけ、自分を助けてもらいたいと思った。だが、どう考えても勇三の混乱した頭にはそんな人間は浮かんでこなかった。それにもともとそんな人間はこの都会に住んでいなかった。勇三は不安のなかで改めて自分の孤独を思い知った。
 町はいつものように人々で溢れ賑わっていたが、それはただの騒々しいバカ騒ぎのように思われ、勇三は町の賑わいや、その華やかな風景に底知れぬ嫌悪を感じた。かすかな頭痛を伴う吐き気を覚えた。  さらい歩きながら勇三は、いまこの危機から脱出するために、静から物を考えることの出来る場所が欲しいと思った。しかしどう探し歩いても、この都会にそんな場所を見つけることはできなかった。不安が高まった。勇三は気が狂うのではないかと思うと焦った。  勇三はやっとの思いでタクシーを拾い自分のアパートに帰った。
 部屋に入るとそのまま敷いてあった布団の上に力尽きたように倒れた。そしてしばらくそうしていると、考えごとを整理できるほどに自分を取り戻していることが判った。
 やがて勇三の頭に言葉の洪水が尽きることなく押し寄せてきた。

《オレはすっかり有頂天になっていた。オレは今朝、その無限の広がりとうごめきで俺を無邪気にさせる海を見ながら、それまで耳にしたり考えるだけでも嫌悪な感情が起こった結婚という言葉をハッキリと頭に思い浮かべた。そしてそれまで結婚という言葉にまとわりついていた地上的で、猥雑な愚かしいイメージがすっかり剥ぎ取られ、その言葉は天上的な美しいイメージや心地よい響きに変った。オレはあのとき、昨夜の夢で亜衣子を抱きしめていたときのことを思い浮かべていたのだ。そしてあの夢は、それまで混沌とし謎であった男と女の根源的関係を解き明かし、オレに、オレと亜衣子の新しい関係を暗示してくれたと思ったのだ。そして、オレと亜衣子との間にある地上的で将来的なさまざまな障害が希薄になり、取り除かれ、オレは亜衣子の心も体も完全に捉えたと思った。そしてオレは、なんのためらいもなく、長い間夢見ていた男と女の関係の完成品の実現のために、亜衣子との結婚を決意した。それからはもう何もほかのことを考える必要はなかった。ただその決意を亜衣子に伝える喜びと、それを聞いたときの亜衣子の喜びを思うだけでよかったのだ。電車のなかでも、亜衣子の住む町についたときでも、ずっとそのことばかりをくり返しくり返し頭のなかで呟いていた。そしてその間、オレを取り巻くすべてのものが生き生きとし、美しく、オレと深くかかわっているように感じられた。世界が変ったのだ。世界が意味を持ち始めたのだ。あのよそよそしくなじめなかった都会の風景も、雑踏も、町の匂いも、愛するものが住んでいるというだけで、オレは妙に懐かしく感じ、親しみを覚え、心の底から安らぐのを感じたのだ。すべてが順調だったのだ、、、、、、、

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だが、オレはあのとき、亜衣子の予想外の告白を聞いて、愕然としてうろたえてしまった。いや、うろたえたというような生易しいものではなかった。オレの頭も体もパニックに陥ったのだ。なぜそうなったのか? 何がそうさせたのか? 今の少し冷静になってオレにもわからないが、とにかくパニックに陥ったことはたしかだ。事実なのだ。そして心も体も石のようになってしまい、オレはどうしてよいか判らなくなってしまった。オレはあのときまで、自分の計画に酔いしれ有頂天になっていた。亜衣子との将来を夢見ていた、、、、、それが破れて、、、、そのせいで、、、、、いや、破れてはいない、破れたと瞬間思ったのだ。なぜ破れたと思ったのか? オレは亜衣子に何を求めていたのか? 判らない、、、、それにあるものが、それまで亜衣子を眼の前にしているときいつも感じていた手に取るように確かなものが、、、、言葉で言えば、生きがいが、価値が、意味が、唯一の信頼できるものが、崩れ落ちたような気がした、、、、、、

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それにしても、あれしきのことで混乱してしまうとは、オレはなんて情けないやつだ。あんなことは予想しえたはずだ。考えられることだ。オレはまだ、亜衣子と知り合ってから三ヶ月しかたっていない。亜衣子にはオレよりもっと、イヤイヤいくらか親密な男が、いや男友達がいても別に不思議ではない。在りうることなのだ、、、、そこで、オレはもう少し、亜衣子の周囲のことを考えて、心の準備をして慎重に申し込めばよかったのでは、、、、しかし、亜衣子にオレよりも親密な男がいたというのなら、なぜ亜衣子は、オレにそのことを話さなかったのだろう?  それを黙って思わせぶりにオレと付き合っていたなんて、、、、、いや違う、、、、そうだ、たしかにいつか亜衣子はそのことでじぶんの友達にかこつけてオレに相談を持ちかけたことがあった。あれは本当は亜衣子自身の問題だったのだ。もしあのときオレが亜衣子の胸のうちを察して相談に乗ってあげればこんなことにはならなかったのでは、、、、、それにこのあいだ、亜衣子が用事があるといって帰ったとき、あのときもその男と会っていたのでは、、、、そういえばあのとは、妙によそよそしく落ち着気がなかった。もし本当にそうならオレはあのとき気づかなければならなかったのだ、、、、でも、もうこれ以上悔やんでもしょうがない、いまを、これからを、どうにかしなければならないのだ、、、、

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それにしても、オレはあのときそんなことは問題ないと言って、泣いている亜衣子に向かって、優しく微笑みかけることがどうして出来なかったのだろうか?もしかして亜衣子はそれを待っていたのでは、、、、もしそうなら、混乱して何も言えなかったオレはなんて情けないのだろう、、、、たしかにオレはあのとき、その男のことが瞬間頭のなかをかすめるのが、、、、、いやもっと正確に言うと、亜衣子とその男のことが頭に浮かんだのだ。そしてオレは、愛するものが、もともとオレのものと思っていたものが奪われたような気がして、嫉妬し、その正体不明の男に烈しい憤りを覚えたのだ。そしてその男には妻子がいるというのに、よくも平気で亜衣子を誘惑したな、と怒りを感じ、その男を許せないと思ったのだ。さらによりによって、オレが夢の中で亜衣子を抱きしめていた昨夜に、ということにオレはとてつもないショックを受けたのだ、、、、、、、
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だが、どうして、亜衣子はあんなことを言ったのだろう? その男と亜衣子はそれ以上どうにもならない関係だから、オレに黙っていればすべてうまく言ったのに、、、、、もしかして、亜衣子はオレを信頼するあまり、亜衣子はじぶんを隠すことが出来なかったのでは、、、、もしそうなら、、、、、そんな信頼なんてくそくらえだ。それにオレはそんなに出来た人間じゃない、、、、、そして亜衣子はすべてはさらけ出してしまったあと、オレの思わぬ動揺を見抜いて、これで何もかも終わったのだと思い込み、それで溢れる涙をこらえきれずに泣いてしまったのだ。ああ、もしそうなら、混乱して何も言えなかったオレは、悔やんでも悔やみきれない、、、、、これで何もかも終わったなんて、そんなことはありえない、、、、

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オレは亜衣子のことを大事にしすぎたのだろうか? それでいつまでたってもハッキリしないオレの態度に亜衣子は不信を抱き、その男と、、、、、いやそんなことはない、亜衣子と会っていたときのことを思い返してみれば判る。あの時間は、あきらかに、たしかに、申し分なく、いつもお互いに感じあい、交流し合い、充足していた。ボクの前には亜衣子が、ボクだけのために居て、亜衣子の前にはボクが、亜衣子のためにだけ居た。ボクの喜びも亜衣子の微笑みも皆たしかだ。みんな現実だ。みんな二人が自分たちの心を惜しみなく出し合って二人のために作り出したものだ。みんな二人から生まれたものだ。それにもし亜衣子が本当に不信を抱いていたのなら、泣かなかったに違いない、それにその男とはどうにもならない関係だから、オレにあんなことを話さずに黙っていたはずだ。亜衣子はオレのことを信頼していたから話したのだ。そうだ、やっぱりオレのことを信頼していたのだ。ああ、またイヤな信頼が出てきた、、、、、それなのになぜ亜衣子はその男と、、、、ああ、オレは亜衣子を憎み始めているのだろうか? なんてこった。オレと亜衣子の間には、なんのたしかな約束があったわけじゃない、オレには亜衣子を憎む権利なんてない、、、、、だが、、、、、

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ああ、このまま本当に、何もかも終わってしまうのだろうか? いや、そんなことはない、そんなことはイヤだ。オレは前と変らず亜衣子のことが好きだ。亜衣子はあれのあのイヤな冬の思い出を忘れさせてくれた。そしてなんといっても、オレの精神的な危機を救ってくれたのだから、これからもオレには亜衣子が必要だ。オレは亜衣子を失いたくない、、、、、
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しかしいったいどうすれば良いのだろう? このままではやっぱりダメになるのではないか? そうだ今日もう一度会おう、とにかく会おう、、、、、そして何もかも忘れ、何事もなかったかのように、亜衣子にやさしく微笑みかけるのだ。たかが昨日今日のことではないか。みんな住んでしまったことだと思えば良いのだ。そうだ、そうすればすべてがうまく行く、オレと亜衣子との関係は以前とちっとも変っていないのだから、、、、

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しかし待てよ、オレは、たかが昨日今日のことだといって、本当に忘れることが出来るのだろうか? 今日のショックが後まで引いてシコリとなって残らないのだろうか? 亜衣子を本当に許せるのだろうか? 、、、、、ああ、なんてイヤな言葉だ。許すのではない、忘れるのだ、、、、そして、もし亜衣子とうまく行き、今日のことや、亜衣子とその男のことが、二度と思い出さないことが在るのだろうか? 二度と思い出さないと言い切れるだろうか? それに、、、、亜衣子と今後うまく行くためには、これから解決しなければならない障害が、あまりにもたくさんあるようなきがする、、、それに、、、、、、》

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ここまで来ると勇三は喉に異常な渇きを覚えた。そこでゆっくりと立ち上がり水を飲みに言った。そして再び布団の上に体を横たえた。勇三は先程よりも冷静になった自分を感じながら、しばらく何も考えずに居た。そして再び思った。 《それに、、、、、、、いや待てよ、、、、少し冷静になって考えてみれば判ることだが、そもそもこんなことは、これからのオレにとってそれほど重要な問題なのだろうか?もっと大事なことがほかに在るのではないだろうか? 今のオレはショックを受けて冷静に考えることが出来なくなっているだけではないだろうか? たかが女一人のことでオレの全存在をかけて、うろたえ、混乱し、くよくよ考えたり悔やんだりするほどの価値のあるものなのだろうか?むしろあとで考えればきっと笑って済ませるような馬鹿げた問題ではないだろうか? そもそも、このオレがただ一時の感情的な問題で不覚になるなんて、いっぱしの男としてなんと情けないことか、、、、、たかが女の一人や二人、他にはもっといる。亜衣子はオレのすべてではない、、、、、

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しかし後でなんと思おうがかまわない、、情けなくても良い、オレは亜衣子を失いたくない、以前と変わりなく好きだ、ああ、オレはどうしてこんな回りくどい言い方をするんだろう、いまは自分を隠している場合ではない、もっと思ったことをハッキリと言え、、あれは亜衣子がほしいのだ、この腕で抱きしめたいのだ。オレはその男に負けたくないのだ。その男の鼻をあかしてやりたいのだ。もし会うようなことが会ったら、ぶん殴ってやりたいのだ。そしてオレは亜衣子をオレの物にしたいのだ。

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イヤなことは時間が解決してくれると三島は言った。たしかにそうに違いない、そう信じよう。今日のことは遠い過去の出来事と思えば良いのだ。そして今日もう一度会って、何事もなかったかのように、昨日までのオレの顔をして、亜衣子に優しく微笑みかければ良いのだ。そうすればこれですべてがうまく行く。これでオレは亜衣子を失わなくて済む、、、、、、

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 布団に伏せていた顔を上げると、窓ガラスに西日が射しているのに気がついた。勇三は自分がどの位回復しているのか判らなかったので、ゆっくりと立ち上がった。体はだいぶ温まっており、手足に充実感がみなぎった。そして歩けるほどに自分が元気になっているのを知ると、勇三は身なりを整え、夕暮れの町に出た。

 春の夕方の空気はまだ冷たく、勇三は少し肌寒さを感じたが、数時間前の不快な寒気とは違い、たるんだ皮膚が引き締まるようで、ちょうど気持ちがよかった。勇三は心地よい開放感を味わいながら歩いた。そして亜衣子の乗る駅から電話して、再び亜衣子を呼び寄せた。

 勇三はいつもの喫茶店で亜衣子と待ち合わせることは、喫茶店独特の沈んだ雰囲気や、部屋に流れる音楽によって、感傷的な気分になり、再び数時間前のイヤな出来事を思い起こさせることを恐れ、駅前の路上で亜衣子を待った。それにその喫茶店は、二人にとってはもう思い出の場所ではなく、汚された場所であった。そこで勇三は、二人の新しい出発のために、誰にも邪魔されない静かな場所で、何もかも忘れ、二人っきりで話し合いたいと思い、会社の近くの公園に行こうと考えていた。


 薄暮の町に夜の光が輝きだした。駅前は帰宅を急ぐ人々あふれ出してきた。勇三は亜衣子がって来る方角をときどき見ながら、こわばり気味の頬を両手でたたいて緩め、笑顔を作ったり深呼吸をしたりして、沈みがちな自分に気合を入れ、今度は亜衣子の前ではできるだけ陽気に振舞おうと決意した。

 しばらくして勇三は、薄暮の舗道に、混雑して来ているために人の顔が見分けにくくはなっていたが、その全身の雰囲気から、人ごみに見え隠れしながらも、駅のほうに歩いてくる亜衣子の姿をハッキリと捉えることが出来た。

 勇三は歩いてくる亜衣子を見ながら、《あれだ、あれが本来の姿だ。何事もなかったときの亜衣子の姿だ。》と思った。そして頃合を計って亜衣子に向かって歩き出した。

 亜衣子は近づいてくる勇三に気が付きいっしゅん驚きの表情を見せた。そして、満面の笑顔を、、、、、、だが、どうしたわけか、勇三は、夜の光に照らされる亜衣子の顔が、突然のように苦しそうな表情に変るのを眼にすると、急に胸が締め付けられるようになり、涙がこみ上げそうになった。そして笑顔を作れないまま、数時間前と同じようにまた何もいえなくなってしまった。自分の計画がまたダメになってしまうのかと思うと、暗く絶望的な気持ちになった。勇三はもう一度自分の決意を思い起こした。そしてまだチャンスはあると、奮い立たせるように自分に言い聞かせ、そのまま亜衣子を後ろに歩かせて、駅のホームに向かった。


 電車は夕刻のラッシュ時で込んでいた。後から乗り込んできた男が二人の間に割ってはいった。勇三の前から亜衣子の姿が消えた。勇三はその傍若無人な男に怒りを覚えた。窓ガラスに映る亜衣子の横顔を見て勇三は再び、あの顔だ、あれが何事もなかったときの亜衣子の顔だ、あの顔が欲しいと思った。そして何とか亜衣子に話しかける機会を狙った。次の駅で割り込んだ男は降りた。勇三は今がチャンスだと思い亜衣子の顔を、、、、、、、だが、亜衣子の苦痛の色を浮べた表情を眼の前にすると、言葉が支え、無理に出そうとすると、口元がかすかに引きつるのを感じた。今の二人にとって日常の会話はかえってわざとらしい気がして、勇三はどう切り出してよいかますます判らなくなった。勇三は、亜衣子ほうこそ自分の言葉を待っているに違いないと思うと焦った。勇三は二人を巻き込むような大事件が起こってくれないかなと密かに願った。そうすれば二人の関心はそのほうに向けられ、いま、陥っている息苦しい状態から解放され、二人の間に新しい状況が展開するに違いないと思った。そのためには今乗っている電車が転覆しても良いと思った。

 電車から降りて公園までのあいだ、二人は並んで歩いたが言葉は交わさなかった。

 勇三は最後のチャンスにかけた。


 公園に入ると、ほうぼうから酔っ払いの笑い声や歌声が耳に入ってきた。
    桜の木の下で人々が集まり宴会を開いていた。春の夜の公園は決して静かな場所ではなかったのだ。
 勇三はここに来たことを後悔した。だがこれ以上他の場所を探している余裕は、いまの二人には与えられていなかった。
 二人はより静かな場所のベンチに腰をかけた。


 










     
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