風の音が聞こえない(3部)
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はだい悠
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ここまで思うと勇三は、我に返ったように静かに静かに周囲に注意を向け始めた。テーブルには飲み干されたコーヒーカップはなく、水の入ったコップと吸い蛾のない灰皿だけが置いてあった。誰にもジャマされずにここまで自分の考えをまとめることができたことに、勇三は満足した。頭痛も治まりからでも温まっていた。そして両手で軽く眼をマッサージしてから腕時計を見た。
勇三はシッカリとした足取りで外に出た。
だいぶ人通りの少なくなった薄暗い舗道を歩きながら最寄りの駅を探した。前方に駅らしい灯りの建物を眼にすると勇三は、安心したように立ち止まり、先ほどとは違って見える夜の町の風景に眼をやった。そして猛吹雪から逃れてきたような開放感を味わいながら、バス停に取り付けられたベンチに腰をかけるとポケットからタバコを取り出してゆっくと吸い始めた。
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「今日はもうダメかな」
そう言いながら、だらしなく着込んだ服やズボンに枯れ草や泥をつけた浮浪者が、勇三の前をおぼつかない足取りで通り過ぎると、路上に積んであったゴミの山に何やら探し始めた。
勇三はさっきの言葉が自分に話しかけられているようにも、浮浪者自信の独り言のようにも聞こえていた。
「やっぱりだめだ、、、、」
そう言いながら浮浪者はゴミの山をあさり続けた。これは明から浮浪者の独り言のように勇三には聞こえ、安心した。
「あんたどこから来たなぜ」
ゴミをあさることを諦めた浮浪者は、そういいがら勇三のほうを振り向き、その黒光りのする煤けやれた顔に、なにかに怯えるようなオドオドとした眼はしてはいたが、親しみを込めた笑顔で勇三のほうを見ながら近づいてきた。勇三はいっしゅん何が起こったのか理解的なかったが、ずくに決まり悪さを覚え、とっさに席を立つと、浮浪者を振り切るようにして駅へと急いだ。
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勇三は眠る前、寝床に入りながら、なぜ浮浪者が見知らぬ自分に話しかけてきたのか、その理由をあれこれと考えた。だが結局、自分があまりにもみすぽらしい格好をしていたので、浮浪者仲間と身まちがえられたのだろうという結論に達した。勇三は眼を閉じたまま苦笑いをせざるを得なかった。
年末年始、勇三は家には帰らず自分のアパートで寝てばかりいた。
冬休みはあっというまに終わり再び会社勤めが始まった。
周囲の同僚たちは普段と変わりなく仕事を続けてはいたが、勇三は、自分が以前よりは少し気分が沈みがちになり、仕事にもやる気が出ないことが気にかかっていた。
給料日前のある日曜日、勇三は持ち金がないことに気がついた。
今までは、もらった給料でそのつきをなに不自由なく、無計画ながらも何とかやりくりしてきたのであったが、今月は違っていた。なぜそうなったか、勇三は考えたが思い当たることはなかった。
今日は日曜日、銀行は開いていない、どうしようと考えていると、勇三はふと敬子のことを思い出した。そして先日の敬子の言葉を思いだしあいたくなった。だが会う理由が見つからなかった。家に遊びに来なさいよ、とは言われたが、勇三は自分の叔父や叔母にあまり会いたくはなかった。できれは敬子だけに会う理由でたずねたいと思った。しばらくすると名案が浮かんだ。勇三は以前から、自分の過去の怠惰な生活の産物である本を処分したいと思っていた。古本屋に売ってもたいした金にならないし、それにいざ手放すとなるとなんだか惜しい気がした。それに整理をしたいといっても、かつて多少とも愛着を持った本を、見知らぬ人間に渡るよりも知っている人に大事に読んでもらいたかった。
勇三は考えた。敬子は大学生になって少し暇をもてあましているようだ。きっと本を読む時間があるに違いない。そしてその本と引き換えに、何とか頼み込んで今日と明日の生活費を都合できたら、敬子ならきっと姉のような笑みを浮かべて、まあいやねえ、シッカリしなきゃだめよ、などと言いながらも、なんとか都合してくれるだろう。そしてこのことは叔父や叔母に内緒だよてといえば、自分と敬子の間がヒミツめいた関係になり、敬子もきっとそんなヒミツめいた関係になることを少女のような好奇心で受け入れてくれるだろう。さうすれば、それからそれから、、、、、勇三は自分の名案にうなった。
勇三は急いで身支度を済ませ外に出た。
町は寒気が厳しく今にも空から雪が落ちてきそうな曇り空だった。
勇三は自分の計画のことで頭がいっぱいだったので、寒さも曇り空もまったく気にならなかった。
敬子の家の前には見慣れない車があった。これは叔父の車ではないと思うと勇三は気持ちが動揺した。
玄関に入ると叔母は懐かしそうな笑顔で勇三を出迎えてくれた。叔母は、敬子は今はいないが、もうじき帰ってくるだろうというと言ったあと、すぐに叔父の敬三に勇三がきたことを知らせてくれた。敬三は出かけるところらしく、外出着のまま出てくると、やあ、久しぶりと言いながら、親しみを込めた笑顔で手を差し伸べてきた。勇三はそのまま応接室に通された。そこには、入ってくる勇三たちには目もくれずに、テーブルに向かって書きものをしている一人の若い男がいた。勇三のイヤな予感が当たった。勇三はとっさにこの男は先ほどの車に乗っている学生であり、そこで書いているのはレポートかなんかであり、敬子の言うボーイフレンドであることを悟った。
勇三のすぐ後から入ってきた敬三は、親しみをこめた目で勇三を見つめたあと、顔色が悪いね、と言いながら、そこにいる学生にこれといった挨拶もせず、ソファーに座った。勇三だけではなく敬三もその学生を無視したかったようだ。
敬三は小さな不動産会社を経営していた。しかし社長であるので勇三から見るとかなり裕福に見えた。
勇三は自分の叔父である敬三があまり好きではなかった。よく悪評の立つ不動産業をやっているからではなく、またそれほど悪い人間とは思っていなかったが、全体の印象から来る近寄りがたいという感情だけはどうすることもできなかった。話しをするときの相手を萎縮させるような威圧的な態度や、くせのある鋭い目つきが勇三には苦手であった。ヘビや毛虫を見たくないように、できるなら相手にしなくても済むならと思っていた。
「寒かったから、そのせいですよ」
と勇三はこともなげに答えた。
「いや、違うね。君のその憂鬱そうな顔は、それだけじゃないね。ハキがないよ」
「気のせいですよ」
と勇三が少し無愛想気味に答えると、敬三は鋭い眼つきで見つめながら、背をソファーに持たせかけ、勿体をつけて話し始めた。
「いや、ワシにはよく判るんだよ。人の顔を見ただけで、その人の健康状態から経済状態がね。それから将来そいつがオオモノになるかならないかや、悪人が善人かも、手に取るようにわかるんだよ」
「悪人が善人か、もですか」
と勇三が少し怪訝そうな表情で言うと、敬三は得意げな笑みを浮かべて、さらに言葉を続けた。
「うん、そうだよ、まあ、悪人か善人かというより、信用できるか出来ないかと云うことだけどね。こういう商売をしていると、ワシのとこに来る客が、けっこういい身なりをしているので、これは言い取引ができるな、なんて思っていると、ところがそうじゃない、よくよく顔を見ると、なるほど裕福そうな顔はしてないやってことで、いまではもうすっかり慣れてきてさ、お客が最初に入ってきたとき、その顔つきを見て、今度はこれくらいの商売だなと予想をする。すると、ずばり的中だ。そうだな、勇三君のはなんだろう? まだ一人もんだからそれほどお金に困っているわけでもあるまいし、体も丈夫そうだし、そうだなあ、欲求不満って顔かな、しいていえば、その顔を女に不自由してるっていう顔かな。ワッハッハッハッハッハ」
敬三が笑いながら学生の方をチラッと見たとき、勇三はそこから野卑な印象を受けたが、敬三のいっていることも半分は当たっていたので、軽く頷いた。敬三にとって勇三はもう良い聞き役だった。敬三は得意げにさらに喋り続けた。
「そんなことで健康を害してはいけないよ。せっかく両親が大事に育ててくれた体なんだから、まあ、君のような若い者は遊べるときに遊んでいたほうがいいよ、、、、ところで仕事のほうはうまくいっているのかね?」
「まあまあです」
「頼りないねえ、まあ、いまの会社がいやになったら、内で雇ってやるから、そう心配しなくても良いよ」
そういい終わると敬三は、外出の時間が気になるらしく、腕時計に眼をやった。勇三は敬三と一緒に居ることに、苦痛になり始めたので、なんとなく話題を変えた。
「これからどこかに出かけるんですか?」
「うん、まあね」
「時間をまだいいんですか?」
「うーん、まだ、、、、それにしても顔色が優れないね」
話題が元に戻ったことに、勇三は少しイライラして思わずぶっきらぼうに答えた。
「そうですが、たぶん考えごとのせいでしょう」
それを聞いて敬三は吹き出し薄笑いを浮べて言った。
「考えごと? なにをいまさら考えることなんてあるのかね。仕事もうまくいっているだろうし、体も元気そうだし、お金にこまっているわけでもないだろう。そうか、なにか発明でもして、一発当てようとしているのかな。それならわかるが、、、、それでなにを発明しようとしているのかね?」
勇三は、敬三が自分が発明について考えていると決め込んでいることに困惑した。
「別に発明でもして、それでもうけようとか、そんなことじゃないんです、、、、うーん、なんていうか、いろいろと、、、、、」
三は答えるのが煩わしくなり言葉に詰まった。勇三のそんな曖昧な態度にイライラしたのか敬三の口調が荒々しくなった。
「君を見ているとなんか心配になってきたね。勇三君は小さいときからそんなハッキリしないところがあったね。性格がおとなしいて言えばそうなんだろうけど、でも若者らしくないよ、いったい誰に似たんだろうね。まあ、おそらく君のことだから、何の役にも立たないようなむずかしい本を読んで、いや、気を悪くしないでね、わしにとって役に立たないだけで、でもワシにはあういうものはジジ臭くていけない、あんなもので世の中がよくなった試しはいまの今まで一度もないからね。年をとってからゆっくり読むには良いだろうけど、とにかく君のことだから、そんな本の影響を受けて、いまの世の中に不満を感じているんだろうけど、でも何にもくよくよ考えることなんかないよ。君もこんなことは判っているだろうが、昔から何のかんのいったって、人間の究極の目的は、いかに豊かに生活をするかということしかないんだよ。いまの日本はそれを見事に解決してこんなに豊かになって、平和になに不自由なく暮らしている。多少問題があったとしても、皆が力をあわせて何とかうまく切り抜けている。そして大部分の人が面白おかしく暮らしている。これ以上の平和はない。面白おかしく暮らしていけるのが最高の幸福じゃないかね。そうは思わんかね。どうせ考えるなら皆の為になることを考えなければいけないよ。それ以外は体にも悪いし不幸になるだけだよ。何の役にも立たないよ。これから君たち若い者には、我われの後をついで、この日本のいまの豊かさを守る仕事をしてもらわなくては、、、、そのためには学生はまず勉強をする、、、、」
そう言いながら敬三は学生のほうにチラッと目をやった。そして再びしゃべり始めた。
「しかし日本が豊かになったといっても、外国から見ればまだまだ住宅が粗末だよ。これからはいかに広い家で快適に住むかということに掛かっている。そこでだ、そこでワシの登場だ。いかに安く、しかも住み心地の良い広い住宅を提供するか、それでワシも毎日考えているわけだよ。こういうのを本当に役に立つ考えっていうんだろうね、、、、、」
そう言い終わると敬三は満足したような低い笑い声を挟みながら再び話し始めた。
「ところで、わしはこれから出かけなければならない。なにしろ色いろと忙しくてね、、、、まあ、ゆっくりしていきたまえ。」
そういい終わると敬三はやや薄笑いを浮べて席を立ち、大またで歩きながら部屋から出て行った。
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応接間には勇三と学生だけが取り残され、嵐が過ぎ去ったように静かになった。勇三はその学生と話す気がまったくなかったので、意識的に無関心を装い、タバコを取り出して吸い始めた。そして、部屋に飾ってある骨董品や趣味の悪い安物の絵画に見たあと、窓の外に眼をやった。
窓の外には、冬の薄暗い曇り空が広がり、庭の八手の葉が鈍いひかりを放ちながら風にかすかに揺れていた。紙の上を走るペンの音や紙をめくる音が聞こえた、勇三は学生の咳払いが妙に気になり自分もひとつした。
しばらくして玄関に足音がした。勇三は話しもせず学生と一緒に居ることに気詰まりを感じていたので、敬子が帰ってきたと思うとほっとした。
敬子の母が出て敬子に何かを話している。ふんふんと頷く声が聞こえたあと、敬子がドアを開けて入ってきた。勇三は敬子が最初にどちらかを見るか、賭けた。敬子はいっしゅん勇三見て微笑むと、そのまま、遅くなってゴメン、と言いながら勇三の前を通り過ぎ、学生の前に座った。敬ちゃん遅いじゃないか、と言いながらもその学生は、この部屋には自分たち二人だけがいるような親しさで敬子と話し始めた。《敬ちゃん》だと、なれなれしいと勇三は思わず頭の中で呟いた。
二人がなにを話しているのか、近くに居ながら勇三にはなぜか聞き取ることができなかった。というよりそんなことはどうでもよかった。
勇三は妙に苛立ち興奮し始めた。このままだと出かける前に考えた妙案もダメになるような気がした。何とかして敬子と話す機会を作らなければと思うと、勇三はますます焦った。
勇三は敬子の注意を引こうとしてわざわざ大げさな身振りをして敬子を見た。敬子を話を中断して、鼻先をうえに向け、なにか考えことにふけっていた。その様子が妙に大人びて、よそよそしく、先日まちで偶然あったときの敬子とは別人のように勇三には感じられた。
「本、欲しくない?」
と勇三は口をきったが、上気していたせいか、言葉が口のなかにモゴモゴと留まっているだけで、敬子の耳にうまく達したかどうかわからないほどだった。
「あっ、わたし?」
勇三に声に気がついた敬子はそういいながら、勇三に方に無表情な視線を向けた。勇三は心にかすかに動揺を感じながら言葉を続けた。
「昔読んでた本を整理したいと思っていてね、、、、」
「うーん、でも私あんまり興味がないから、、、、どんな本?」
「、、、、小説とか、、、、、」
「ふーん、、、、、」
敬子はそうそっけなく言って、再び学生とはし始めた。勇三は自分の思惑が見事に失敗したことを悟り、その思惑の外れた悔しさと恥ずかしさで全身が熱くなるのを感じた。そして勇三は自分はまるで余所者であるかのように、ここに居ることが場違いな感じがして、これ以上留まることに堪えられなくなっていった。勇三は興奮している自分を悟られまいと、ゆっくりとソファーから立ち上がりその場を離れた。そして少し残念がる表情を見せる叔母をあとにして玄関を出た。
いつのまにか、冬の曇り空からはみぞれが落ちていた。学生の車のフロントガラスはみぞれに濡れしずくを流していた。勇三とどうしようもなく自虐的な気分になり、頭や顔をビショビショにぬらしながら歩いた。歩きながら勇三は先ほどまでの色いろな出来事を思うと、心が乱れた。
《、、、、、オレはなんてタイミングが悪いのだろう。機転が利かないのだろう。アパートを出て敬子の家に向かうあいだ、オレは自分の計画の完璧さに酔いしれて、寒さなんかまったく気にならなかった。敬子の家の前に見慣れぬ車があった。イヤな予感がした。それが当たった。でもそれはまだ良い、オレは自分の計画で頭がいっぱいだったし、それがオレの計画にどんな影響を与えるか判らなかったんだから、、、、そしてそんなにすきでもない、できるなら会いたくない叔父が出てきていつもの調子で喋りだした。それまではまだよかった。というより、そんなことはどうでもよかった。オレは自分の計画のために、叔父が何を言おうと、あんまり耳に入らなかったし、聞き流していればよかったのだから、なんの苦にもならなかったはずだ、、、、、敬子がかえってきた。俺を見て微笑んだ。それまではよかった。問題はそれからだ。敬子とあの学生が、オレの存在を無視するかのように親しげに話し始めた。そのへんからオレはおかしくなった。そしてついはオレは場違いなことを口走るに至り、自分の計画をムチャクチャにしてしまった。ああ、オレはなんてタイミングが悪いんだろう。そうだ、オレはあのとき、あの学生が妙に気になりライバル意識を持っていたのだ。俺はあの学生が、学生のくせに車に乗っている生意気やつだと決め込み、気に入らなかった。そして慣れなれしく敬子に話しかけるのを見て、オレはあのときのけ者にされたような気持ちになり嫉妬したのだ。それでますます二人の親しげな関係をぶち壊して、また同時に自分の計画を遂行するために、二人の会話に割って入りたかったのだ。そして敬子の先日とは違うよそよそしい表情を見て、オレは何か裏切られたような気がして、ますます自分を見失ってしまった。そしてこのままでは自分の計画がだめになる、でも引き下がってはオレの負けだと思い込み、結果がこうなるだろうとうすうす感じてはいながら、オレはどうしても言わずにはおれなくなり、つい間の抜けた場違いなことを言ってしまった。その結果この見事な失敗だ。オレはなんて機転が気かないのだろう、、、、だが敬子の表情がよそよそしかったのは、あれは考え事をしていたので当たり前のことなのだ。あの学生が車に乗っていようと、敬子になれなれしく話しかけようとそんなことは関係ない、それは本当に親しかったに違いないのだから。それなのにオレは、自分のあの一石二鳥の計画がぶち壊れたと思い、気が動転してしまった。そしてあの場にいたたまれなくなり思わず飛び出してきてしまった。あのまま残って、学生が帰ってからもう一度気を取り直してから落ち着いて頼み込めば、きっと成功したに違いない、それなのにオレは子供みたいに、つい自分を見失ってしまった。なんて大人気ないのだろう。ああ、くだらない、結果がくだらないなら、こんなことでくよくよしている自分がもっとくだらない。まったくこのみぞれが悪い、オレを妙に悲劇的な気分にさせる、、、、叔父に言わせれば、オレは何の役にも立たないことを考えているわけだが、どうやらオレの性分はそのようにできているらしい。面白おかしく生きられないのだから仕方がない。つまらないことを考えているというのなら、現代はものを考えることがひとつの不幸や悲劇をもたらす時代ということなのか。少し大げさかな、、、、とにかくオレはくよくよする自分をどうすることもできない、、、、それにしても敬子が部屋に入ってきて、最初にオレのほうを見て微笑んだのは確かなのだから、悪いことばかりじゃないわけた。今日のことはみんなオレの思い違いかもしれない、、、、、》
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夜になると霙は雨に変った。アパートの部屋で勇三はいらだつ神経を鎮めるかのように、横になって雨音を聞いていた。トタン屋根に激しく降り注ぐ雨の音は、町の騒音を遮断して、部屋の中は奇妙な静寂に包まれていた。
勇三はふと、自分は荒野に立てられた小屋に一人いるような、そんな錯覚に捕われた。窓をあければそこは人っ子一人いない荒野、勇三はそんな孤独感を味わっていた。
一月の末、冬の終わりを告げるかのような大雪が降った。
そしてその後二三日暖かい日が続いたかと思うと、再び寒気がおしよせ雪が降った。そして二月に入ってもそんな不安定な日々が続いた。
そんな気候にあわせるかのように、勇三は自分でも気づかないくらい日増しに憂鬱になっていった。そして自分を取り囲む外界の物音や動きがいちいち気になり、イライラするようになった。乱暴にドアを閉める音や廊下の足音、車の排気音や人の話し声が異常に意識され耳障りになった。仕事中にも他のことを考えるようになりあまり身が入らなくなっていた。同僚たちの話し声や話し方に、おせっかいとも言える反発や不快さを感じるようになり、ますます無口に、そして陰鬱になっていった。仕事が終わっても、仕事中に緊張や神経の高ぶりがそのまま持続していた。その神経の高ぶりはアパートに帰り自分ひとりになってもなかなか収まらなかった。
そんななかで勇三は、知らず知らずのうちに自分の身の周りに起きた一日の些細な出来事や、幼少時代から今までの思い出を思い返しては、あうでもないこうでもないとくよくよ考えるようになった。
そんな日々が続いたあと、勇三は頭の中にしこりを感じるようになった。そしてそれが自分をこのように神経質にさせているに違いないと思うようになった。そしてそう思う自分にある不安を覚えた。そこで勇三はその不安を取り除こうと、あれやこれやと考えるのだが、考えれば考えるほど、神経を高ぶらせ、ますます不安になっていった。
そうしているうちに勇三は何の解決もできないまま不安と緊張のため寝付かれなくなってしまっていた。
勇三はそんな自分を救うために睡眠薬が欲しくなり、近くの病院にいった。
朝のすがすがしい日の光が差し込む診察室で、仕事始めで上機嫌な内科医と、やや緊張気味の勇三が、医者は医者らしい威厳を持って、勇三は会社員らしいプライドをもって、問診が始められた。
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「それで、風邪はひいていますか?」
「いいえ」
「どこか他に悪いところは?」
「いいえ」
「以前に大病を患ったことは?」
「いいえ」
「心配事は?」
「いいえ」
「仕事の疲れが残るとか?」
「いいえ」
「なにか考えごとでも?」
「いいえ」
勇三の返答は終始ぶっきらぼうだった。その内科医はジロリと勇三を見たあと、不機嫌そうに顔をゆがめた。
「どうしてよる眠れないのかね、、、、、」
「判りません」
「なにか理由があるだろう、悩み事とか?」
「別にありませんが」
いっこうに拉致があかないためか、医者は朝の機嫌をそがれたことにイライラし始め口調がとげとげしくなった。医者にとって勇三の態度は、医者に信頼を置かない患者らしくない高慢で無礼な態度であった。
勇三は医者に、悩み事は? と訊かれたとき、思い当たるフシがないでもなかったが、いちいち最近の出来事を掘り起こして自分を説明するのが億劫であった。またそれをうまく説明できそうにもなく,もしそれを出来たのならこんな所には来ない、と思っていた。それに医者に自分の心を探られるのがイヤだった。とにかく多少の屈辱的な思いをしたが、勇三は睡眠薬を手に入れることが出来た。しかしどうしたわけか、効き目は二三日しか続かなかった。
勇三は眠れぬままに夜が明けるのを目にすると絶望的な気分になった。
そうこうしているうちに勇三は会社をサボることを覚えた。そう決断するには勇気がいった。それは勇三が真面目で会社のためを思っていたからではなく、起床して会社に行くという、知らず知らずのうちに身についた毎日の習慣を断ち切ることへの勇気であった。
勇三が今の会社に入ったころは、毎日が与えられた仕事をやることと、その仕事になれることに精いっぱいで、緊張の連続であった。そのことは同時に、勇三に周囲の様子を見る余裕を与えないので、仲間の仕事振りや会社の業績も、勇三自信と同じように、緊張と活気のあるものと思っていた。
最初の頃、勇三は、とにかく一生懸命であった。同僚たちとも仕事以外のムダ話はしなかったし、休み時間と仕事の時間の区別も分単位でハッキリとつけていた。しかしだんだん自分の仕事に慣れてくると、勇三は周囲の同僚たちの仕事振りや会社全体の様子を見る余裕が出てきた。
同僚たちは思っていたより気まぐれで、投げやりで、怠惰で、暇つぶしや無駄話はしょっちゅうあり、皆それぞれに忙しそうに動きまわってはいるが、効率の悪さが目立った。そんなとき、なぜこの会社がこのような社会位置にとどまり満足しているのか、勇三はおのずと理解できた。そこで勇三が、こんなことではダメだと奮起して、自分の会社の社会的地位の向上のために、自分の持っている能力を発揮すればよかったのだが、考えれば考えるほど、それはこの会社自体の問題ではない、ある根源的な問題が眼に見えない壁のように立ちはだかり、それ突き破るには、自分一人の能力や頑張りだけでは、どうしても不可能であることを思い知らされた。
そんな息苦しさを感じながらも、勇三は自分の生活の糧のために、同僚からも上司からもそれほど悪評を受けることなく、自分のペースをつかみながら、いままで仕事を続けてきたのだった。
会社には風邪をひいたから休むと連絡した。それは季節がらちょうど都合のいいものであった。
だが会社を休んだからといって勇三は自分の不安が解消されたわけではなかった。生活が不規則になり休んだあとに会社に行っても自分の仕事のペースがつかめず、馴染みのある仕事場も妙によそよそしく違和感のある場所に変っていった。
勇三は、このままでは自分は廃人になってしまうのではないかと思うと、ますます投げやりで絶望な気分になっていった。
そんなある日、勇三は後輩の井上に声を掛けられた。勇三は忘年会のときの埋め合わせをしたいと考えていたので、夜に一緒に飲むことを約束した。
勇三はあの屈託のない井上と話すことを楽しみに思いながら、退社まで落ち着きなく仕事をしていた。
そして夕刻、勇三のいる部屋の窓からは、はるか遠くに、この都会を風景を象徴するかのような超高層ビルが、夕日を受けその上方だけが赤く染まっているのが見えた。それはまるで、わたしは誰よりも早く、そして誰よりも遅くまで日の光を受けながら、誰よりも美しく、あらゆる喜びを独占し誰よりも注目を浴びていたいと主張しているようであった。
ちょうどそのときその窓を通りかかった女子社員が、その風景を眼にすると、まあ、きれい、と言いながらそのまま通り過ぎていった。
勇三はその声にいっしゅん注意を向けたが、再び仕事に専念した。
退社後、勇三と井上は夕暮れの町に出た。空気は冷たく澄んでいた。
勇三は今日はどこでの猛火と考えながらゆっくりと歩いていると、前方ビルディングの屋上に、高々と掲げられたある清涼飲料水の広告塔が、勇三の心のスキをつくように眼に飛び込んできた。このとき勇三はとっさに思った。あれを眼にしているものは、無意識のうちに自分の欲望の水準が決定されているに違いない、、、、、そう思いながら勇三は、夜空に映える様ざまなネオンサインに眼をやった。すると勇三は腹の底からこみ上げる不快感に苦しめられた。
勇三と井上はしばらく夜の街を歩いた。そして手ごろな飲み屋を見つけるとそこに入った。勇三が酒を注文しているあいだ、井上は水蒸気に曇っためがねの水滴をふき取っていた。
二人が改めて向き直ったとき、井上の表情が、普段の屈託のない道化者の井上とは違う変に真面目ぶった堅苦しい表情になっていることに勇三は気づいた。勇三は井上のそういう表情には息苦しさを感じたが、それを無視するかのように、いつもの井上の前でするおどけた笑顔を作り酒を飲み始めた。
「寒くなったり、暖かくなったり、いったいどうなっているんだろうね。君もそれじゃ、いつも大変だろう。今度曇らないめがねでも買ったら?」
そう言いながら勇三は明るく笑った。だが井上はいっこうにその真面目そうな厳しい表情を崩さず、勇三を非難するような口調で話し始めた。
「先輩はいつもそうして自分を誤魔化しているんですよ」
以前のような会話が成り立たないとわかると勇三は戸惑どった。しかし勇三はそれを押し隠しながら再び冗談ぽく言った。だが井上は少しも表情を変えずに厳しく言った。
「先輩は、何でも笑って誤魔化そうとする、、、、」
「僕は笑ってごまかそうなんてしてないつもりだよ、、、、」
「いゃ、してますよ、、、、」
井上の断定的な言い方に、勇三はいつもの口数の少ない自分に帰らざるを得なかった。井上は平然と話し始めた。
「結局、先輩には協調性がないんですね。」
勇三は、井上の非難めいた口調に少し腹が立ち、不愉快になった。だが、反論しようとしても、適当な言葉が浮かんでこなかった。そして、井上がなぜこんなことを言い出したのか理解に苦しんだ。勇三は自分は酒が入ると饒舌になることを知っていたので、もくもくと飲み続けた。しばらくすると井上を睨みつけながら身構え、話し始めた。
「僕がいったいなにに協調性がないのかね?」
「、、、、先輩は、いつも自分だけがよければ良いと思っているんですよ。会社の仲間たちとあまり付き合わないし、自分の仕事だけやれば、さっさと帰ってしまう、自分だけよければ良いという、現代的なエゴイストですよ。それじゃダメですよ」

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