風の音が聞こえない(6部)

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          はだい悠








「よく男の人たちは、男同士で色んなところにのみに行くようですが、そういうところには行かないんですか?」
「前は仲間に誘われてイヤイヤ行きましたが、最近は行きません。僕は独りで飲むほうが良いんですよ。相手に気を使うこともないし、なんてったって、僕には独りのほうが似合っているんですよ、、、、」
 すると亜衣子は急に真剣なまなざしで勇三を見つめながら言った。
「お酒を飲むって、どうして楽しいんでしょうね?」
「うーん、どうしてでしょうね、、、、、他の人のことはわからないが、、、、僕の場合、、、僕の場合は、そうだな、ストレス解消っていうか、疲れがよく取れるんですよ、、、、」
「疲れが取れるんですか?」
「ええ、一日の仕事がやっと終わり、緊張から開放される、でも、そのときはまだ自分が本当に疲れているのかいないのか、よく判らない。頭のなかがまだ色いろなことでゴチャゴチャしていて、仕事が終わったのか終わってないのかもハッキリしない。そんなときに酒を飲む、すると体中の血液がぐるぐるまわって良い気持ちになる。体が温まる。そしてそのまま何も考えないでじっとしているんですよ。そのうちだんだんと覚めてきて落ち着いてくる。それがちょうど暑いところから涼しいところに来たように気持ちが良いんですよ。飲む前の自分と覚めたときの自分が別人になったように感じる。するとこれでやっと一日が終わったんだなあと思う。ちょうど風呂から上がったときのような気持ち良さと同じですよ」
 頷きながら聞いていた亜衣子が言葉を挟んだ。
「それじゃ、なにか辛いことがあって飲むとか?飲んで暴れるというようなことは?」
「いやぁ、僕は自分では大人しいと思っていますよ。なかにはそういう人もいますけどね、、、、亜衣子さんのお父さんは飲まないんですか?」
 亜衣子はふと何かを思い出すかのような表情をしたあと、ゆっくりと話し始めた。
「ええ、以前父はよく飲みました。今でも飲みますが。父は酒を飲まないときは、大人しくて優しいのですが、日によって、飲むとときどき突然人が変ったようになり、よく母を殴ったのを覚えています。そんな父を、わたしはそん気持ちはないのですが、じっと見つめました。すると父は、少しすまなさうな顔をして、父らしくない怯えた目をして私の視線を避けました。きっとわたしに睨みつけられたと思ったのでしょう。そんな父ですから、子供に暴力を振るうようなことはありませんでした。でも私が中学生のとき、私が、あっ、私には兄が一人います。二人兄妹なのです。その兄が、母を殴る父を見かねて、父に反抗的な態度を取り、父と取っ組み合いの喧嘩になりました。でもその場は父が折れて収まったのですが、そのとき父が兄に、おまえには何が判るかと悲しそうな声で言ったのを覚えています。兄も情けなさそうな顔をして、俺は一生酒など飲まないと言いながら部屋を出て行きました。でも最近、あれは私たち子供には判らないような色いろと辛いことが父に在った所為だと思うようになりました。それにそんな父が母を殴ることは、父の甘えであったような気がします。なぜなら父と母は普段はとても仲がよかったのですから、、、、」
「それでお兄さんはお酒を飲まないんですか?」
「いいえ、昔言ったこともさらりと忘れ、いまでは父といっしょによく飲んでます」
 二人は初めていっしょに笑った。
 勇三は亜衣子の明るい性格とその豊かさを感じ取った。
「それで亜衣子さんはのん兵衛には理解があるんですか?」
「いいえ、理解が在るというわけでは在りません、ただ男の人ってどうしてあうなるのか気になるんです」
 窓の外はもう暮れていた。
 勇三は亜衣子の優しい心を感じ取ると、亜衣子をまともに見ることができなくなり、ちょくちょく窓の外を見るようになった。勇三は夕暮れの街を見ながら次の言葉を探した。
「亜衣子さんのお父さんはこの町の生まれですか?」
亜衣子は一瞬不思議そうな顔をしたがすぐ笑みを浮かべながら答えた。
「ええ、そのようです。祖父もこの街で生まれたようです。それ以前はよく判りませんが、それから母もこの町の生まれです。」
      「それじゃ亜衣子さんは生まれてからずっとこの町に住んでいるんですね」
 言い終わると勇三はまた窓の外に眼をやった。
「ええ、そうなんです、、、、、あっ、わたしまだあなたの名前知りませんでしたわ」
 勇三はその声に振り向いたが、自分の名前を名乗るのが照れくさかったので、まだ一枚もつかったとのない名刺を差し出した。亜衣子に名刺を渡しながら勇三は、自分と亜衣子との関係が新たな段階に進みつつあることにを予感した。
 勇三は思った。
《、、、、、今までは自分が亜衣子のことをなんと思おうと、亜衣子にとって自分は他人のようなもので、そして二人の関係は煎じ詰めればただの通りすがりの男と女の関係に過ぎない。しかし今からは違う、自分の正体をさらしたんだから、二人はある可能性を秘めた関係になったのだ、、、、》  そう思うと勇三は自分を取り囲むこの都会も、この喫茶店もそれほど重要でないような、眼の前に居る亜衣子だけが自分にもっとも親しく、そして深く関わっているように感じられた。

   勇三はそれまであった他人行儀で張り詰めたものを失い、ますます亜衣子をまぶしいものに感じて、まともに見ることができなくなっていった。勇三は窓ガラスに映る亜衣子を盗むように見た。亜衣子は勇三から渡された名所注意深く読んでいた。ときどき髪の毛に隠れそうになるすっきりと伸びた鼻筋が目に付いた。
「勇三さんは生まれはどこなの?」
 亜衣子の声には以前にも増して親しみがこめられていた。勇三は自分の生まれや、育った環境、出身大学、そして今の会社を思い出すように、しかもときおり支えながら話した。勇三は自分のことについて言うのが苦手であった。とくに亜衣子に見つめられているときは。
 亜衣子は勇三の話を聞き終えると、ほっとしたように笑みを浮かべ、そして言った。 「さっき今年の冬はイヤなことが在ったって言ったでしょう、あれはどういうことですか?」
「いやぁ、あれですか、あれにはたいした意味はないです。むしろ良いことが在りましたよ。あなたと知り合えたんですから、、、、、」
 そう言い終わると勇三は思わず眼を窓の外に向けてしまった。いっしゅん二人はお互いに沈黙を感じ取った。亜衣子は勇三の視線を追いかけるように見つめ、身を乗り出し、声をさらに弾ませて言った。
「すると勇三さんは今までずっと独りで暮らしてきたんですね、寂しくはないんですか?」
「もう慣れましたから、それに独りのほうが煩わしくなくて良いんです。亜衣子さんには独りで見知らぬところに住むなんて考えられないでしょうね」
「いいえ、そんなこと在りませんわ、わたしも時々家族からもこの町からも離れて、誰も知らない遠いところに行きたいと、ふと思うときもあります、、、、」
 そういう亜衣子の顔から一瞬明るさが消えた。だがすぐ元の亜衣子に戻り言葉を続けた。 「故郷を思い出すこともあるでしょう。どんな所なのかしら?」
「自然のあるところに興味ありますか?」
「ええ、、、、」
「そうですか、通り過ぎるだけなら楽しいと思いますが、、、、そこへ長く住むとなると大変ですよ。それに町に住んでいるのと変わりなくイヤなことも在ります。それは普段あまり目立たないのですが、突き詰めると同じ原因に行き付くのです。あっ、なんか、むずかしくなっちゃったね。でもやっぱり町に住み慣れた人には死ぬほど退屈でしょうね、、、、、」
 亜衣子は不思議そうな顔をして聞いてた。そして勇三がいい終わると、すぐに言葉を継いだ。
「休みの日は何をしているのかしら、、、、、」

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 勇三は亜衣子から、亜衣子の家や会社の住所、そして電話番号を訊いた。  そして同じ電車に乗り、亜衣子の降りる駅で別れた。


 二月末の土曜日、勇三は会社同僚の結婚式に出席した。しかし勇三はずっと退屈だった。会社の仲間たちは他の列席者のように、終始笑顔でハヤシ立てたり祝辞を述べたりして祝宴の雰囲気を盛り上げ、また自らも楽しんでいるかのようであった。
 式場で繰り広げられているものは、華やかでにぎわしく日々の生活を忘れさせてくれるものではあったが、勇三はどうしても他の出席者のように、その雰囲気に溶け込め巣、祝福の気持ちも起こらないまま、収支無表情で、眼の前にある料理や酒ばかりに注意を向けていた。とくに列席者たちの雰囲気に酔った笑顔の裏にある様ざまな日常の顔が気にかかり、少し息苦しさを覚え陰鬱になっていた。
 勇三は、彼らは本当に心の底から祝福しているのだろうかと怪しんだ。そして勇三は、たとえ男と女がどんな絆で結ばれていようと、またこの社会の仕組みに従っていようと、二人の結婚後の生活を考えると、子の華やかな祝宴もまたそのなかでも祝辞も、人間の実生活を曖昧にし誤魔化すもののように思われ、この式場という日常生活から隔離された作り物の世界で、皆で主人公を祭り上げ、祝い酔いしれ、幻想に世界を楽しむという、卑小な人間の集まりのように思われ、ますますここに居ることが苦痛となった。得に未婚のものならいざ知らず、既婚者までが空々しい祝辞を述べることか不思議でたまらなかった。そしてケバケバしい飾り付け、豪華な衣装、招待客の多さとその種類、それら全体の印象から来る無邪気でばかばかしく、滑稽ともいえる祝宴の進行状態、勇三は自分が小さいときに見たものは、もっと質素で慎ましやかで、生活者の深い知恵があらわれていたような気がした。そう思うと勇三は、肌に寒気を覚えるほどの不快感にとらわれた。勇三はこの場から逃げ出したい気持ちになったが、皆の前から堂々と席をはずすほどの度胸はなかった。
 不快感のなかで、勇三はふと、'浪費' '馴れ合い' 'バカ騒ぎ' '虚栄' '家族エゴイズム' という言葉に突き当たった。それらの言葉を思うと勇三はますます憂鬱になり、眼の前に繰り広げられているような結婚式には否定的な気持ちになっていった。
 みんなの前に披露している花嫁や花婿の姿を見ても、それが男と女の最も美しい完成した愛の形であるとか、一生に一度のことであるとか、また人生の思い出になるというような感慨は、勇三にはどうしても起こらなかった。むしろ花婿の上気しながらも取り澄ました窮屈そうな顔を見ていると、自分もいずれはあそこに座らなければならないのかとおもい、ちょっとゾッとした。そして花嫁は。 《、、、しかし不思議だ。不思議な魅力だ。花嫁は美しい。昨日までどんな女であったにせよ。そして結婚後の生活にどんな幻想を抱いているにせよ、顔を紅潮させ、その恍惚とした潤んだ瞳の美しさは、少なくとも列席するすべての男性を魅了するに違いない、、、、これはたしかに美しい、日々の生活とかけ離れたものだ、夢心地にさせる、、、、》 そう思うと勇三は、この祝宴の雰囲気に引き込まれ、自分も皆と同じように酔いしれ、楽しめそうな気がしてきた。そして先ほどとは違う考えに頭が満たされた。

《、、、いや彼ら結婚経験者は人間の現実をイヤというほど知っているのだ。体にしみこむほど知っているのだ。それが意識的であろうとなかろうと、結婚後の生活はこのように華やかで甘美なものではないことを百も承知なのだ。だが彼らは、この華やかな席上では、そんな自分の日々の生活も忘れ、その灰色の現実を忘れ、自分たちが当初抱き、そして破れた夢を眼の前に居る新しい主人公たちに託すのだ。人類が始まって以来、数知れぬかと子と女の組み合わせがあった。しかしすべて失敗ばかりであった。なぜならこのような夢は実際に生きることによって生まれ、そして実際に生きることによって破れるからである。抱いていた夢を実現するためには、夢を抱いたまま死ななければならないからである。そして彼らも見事な失敗作品であるだけでなく、また彼ら自信もそう思っている。でも今眼の前に居る新しい夫婦は失敗作品ではない。まだ判らない。ましていずれ失敗するであろうなどとは考えない。というより彼らがこの式場に居るあいだは考えられない。彼らは正直なのだ。心から祝福しているのだ。そしてこの間だけ彼らは眼の前に居る二人を完成品としてみながら酔いしれているのだ。彼らは一度夢破れても何度も夢見ることができる人たちなのだ、、、、、》

 そう思うと勇三は安心した。またそう思わないことには、ここに居るものたちが気の毒に思えた。

 式が終わると勇三は独りで外に出た。外は曇り空ながら薄日が漏れていた。しばらく歩いていると後ろから勇三に声をかけるものがあった。振り向くと同じ結婚式に参加していた先輩の三島が勇三に近づいてきた。
 三島は勇三より七年先輩で、いまま結婚をして子供もいた。三島は会社内ではあまり目立たなく、まだ役職もなく、勇三とは仕事上の話を二三度した程度の関係だった。
「勇三君、いっしょに帰ろうじゃないか」
と言いながら三島は勇三に追いつき並んで歩いた。
「どうだい、うらやましかったろう、、、、」
 三島は華やかな酒宴の余韻を味わうかのように、上機嫌で勇三に話し続けた。勇三は元気のない声で、ハァとだけ応えた。
「君も早く結婚しなさい。良い人いないのかねぇ、、、、」
「、、、、、いいえ、まだはやいですから、、、、」
「いや、早くない、早くない、何歳になった?」
「二十四です」
「二十四か、僕は二十六のときだ、どうせ君もいつかん結婚するだろうから、もうそろそろ準備しとかないとね、、、、」
 勇三は三島の顔をのぞきこむようにして言った。
「そんなに良いもんですか、結婚って?」
「そりゃあ良いに決まってるさ、良いから結婚するので、そのよさは君には判らないだろうな。生活は安定するし、仕事には針が出てくるし、会社からは信用されるし、良いとこずくめよ。さっき見た会、皆に祝福されて、あの花嫁の幸せそうな顔、あれはいつ見ても最高だね、、、、」
「花婿は幸せそうな顔をしてなかったんですか?」
「そりゃあ、花婿だってしてたよ。これで奴も落ち着くだろう、、、、」      三島感激のあまり終始興奮気味に喋り続けた。二人は駅で別れ、勇三はそのまま自分のアパートに帰った。

 その夜。勇三は疲れを感じたのでいつもより早く寝床に入り本を読んでいた。
 十時ごろ、周囲の異様なざわめきに気がついた。近所の洗濯物の激しく揺れ動く音、トタン屋根風をはらんだときのボゴッボゴッという音、窓枠を誰かがゆするかのようにゴトゴトという音。全体としてはなにかただ事ならぬことが起こっているかのような気配を感じさせた。
 勇三は単なる風かなとも思ったが、鼻腔にムズムズとするものを感じた。勇三は勢いよく飛び起き窓をあけた。

 それはまさしく風だった。
 例年よりはるかに遅かったが、待ちに待った春を告げる風であった。
 勇三はこのまま部屋に閉じこもって寝てしまうのがもったいないような気がして、急いで身支度を整えると、飛び出すようにして外に出た。
 勇三は歩いた。上空にはあわただしく雲が流れているのが見えた。勇三は全身から喜びが沸き起こるのを感じ、このまま叫びながら走っても良いようにも思えた。風は板塀を烈しく揺さぶり路地の紙くずを舞い上げていた。勇三は風に身をさらすようにしてときおり両手を広げながら歩いた。そうしていると疲れがどこかに吹き飛んでしまうかのように感じた。ときおり砂塵を巻き込んだビル風が勇三に顔に吹きつけた。でも勇三にはそれが少しも苦にならなかった。冬のあいだ寒さのために縮こまっていた全身の筋肉が,いまいっせいに緩んでいるような、そんな開放感を味わいながら歩いた。街路樹のこずえが烈しく揺れていた。勇三は日頃歩いたことのないようなところまで足を延ばした。坂道があった。その坂道を上り詰めたとき、いま自分が住んでいる町が見わたすことができた。勇三は立ち止まると、しばらく風に吹かれながら夜の町の風景を眺めた。風のせいか町の光が星のようにきらめいている様に見えた。すぐ近くには、家族の灯りを燈している家々が群がり、遠くには、町の繁華街のネオンサインやおびただしい広告塔が輝いていた。そんな夜景のあっちこっちには、所々の窓から光が漏れている高層ビルが黒ぐろとそびえ、その周りには大小さまざまなビルが立ち並んでいた。そしてその果てには、数え切れないほどの建物ときらめく夜の光が。
 勇三はこの都会の果てまで見ることはできなかったが、頭ではこの都会の全景を思い浮かべていた。

 暖かい南風は、勇三のカチカチになっていた脳みそを引き伸ばして、その間にたまっていたカス、つまり勇三を苦しめていたこの冬のさまざまな出来事や、この都会に抱いていた暗く絶望的なイメージを皆吹き飛ばしてしまうかのようだった。そう感じながら眺めていると勇三はこの都会を捉えたような気がした。そして今までにない親しみと愛情がこみ上げてきた。勇三は今までこの都会に住んでいながら、いつも自分は余所者のように感じ、少しも親しみがもてず、仮の住まいのように感じていた。しかし今からは自信をもって愛し住めそうな気がしてきた。そして勇三のアパートに住む若い夫婦のように、つつましく小さな幸福を求めて生きていけそうな気がしてきた。
 勇三はその後しばらく夜の街を歩きまわったあと、夜遅くアパートに帰った。

 翌日勇三の目覚めはいつになく爽快であった。窓ガラスにはまぶしすぎるくらいの陽の光が反射していた。勇三は窓を開け空を見た。空は青く晴れ渡っていたが、さくやの南風の名残を思わせるかのように、空いちめんに薄いベールのような雲が掛かっていた。空を見上げている勇三の眼に、きらきらと光るものを感じた。それは青だけでなくさまざまな色に光る空の色だった。それを見ながら勇三はふとある表現を思い当たった。空は虹色だと、それは空一面に漂う薄い氷の雲、つまり氷の粒に太陽の光が当たり、反射屈折してさまざまな色に見えるのであったが、勇三は自分の視覚の思わぬ発見に喜び、そういう言葉の表現をしたかったのである。


 季節がだんだん春めくなかで、勇三は眠っていた感覚が急に目覚めたかのように、自分を取り巻く周囲の変化が気になりだした。日増しに暖かくなる陽気、かすかににおう南風、日毎にに変る街路樹の若芽、狭い路地の塀越しに見える花壇に咲き始める早春の花々。それらに勇三は都会のなかに小さな自然を発見して喜んだ。そして勇三自身も新しい生活が始まったかのように、生き生きとし躍動に満ち溢れたきた。

 そんななかで勇三は亜衣子と週に二三度会い充実したときを過ごした。勇三は亜衣子との関係を大事にしたかったので、また自分たちの関係を深めていくためには、その方法がいちばん良いと考えていたからであった。亜衣子と会わない陽でも電車が亜衣子の乗る駅に着くと、亜衣子が乗り込んで来るのではと、ドアのほうが気になった。
 四月になった。二人はいつもの喫茶店で待ち合わせた。勇三はこの喫茶店を、客の出入りも少なく、広々とし、音楽も静かで落ち着いて会話ができるという理由で、ずっと今まで亜衣子との待ち合わせ場所に利用していた。
 亜衣子は思ったよりも遅くやってきた。
「ごめんなさい、遅くなって。昨日、足をくじいちゃって、思うように歩けないの」
そういいながら亜衣子は窮屈そうに足を曲げて椅子に腰をかけた。そういえば亜衣子が歩いてくるとき、なんとなくぎこちなかったかのように勇三には思い出された。
「歩いても大丈夫なの?」
「ええ、歩くぐらいは平気、でも階段を下りるときちょっとつらいわ」
そう言いながら亜衣子は笑みを浮かべた。
「どこでくじいたの?」
「、、、、、駅の階段、、、」
「どこの駅?」
「、、、、、わたしって、そそっかしいのね。挫いたときとってもいたくって、独りでは歩きづらかったわ」
そう言いながら亜衣子は自分の足のほうに目をやった。勇三はさらに聞いた。
「何時ごろ?」
「、、、、、ええと、何時ごろだったかしら、たしか八時ごろだったわ、、、、」
「夜の? 惜しいなあ、昨日の夜の八時ころなら、僕はまだ会社に居て残業していたころだ。電話をかけてくれれば、飛んで行ったのに」
「、、、、、、、、、、、、、、ほら、見て、ここなの、、、、」
 そう言いながら亜衣子は両膝をテーブルから横にずらして足元を見せようとした。
 勇三は眼の前のテーブルが少し邪魔になって亜衣子の足がよく見えなかったので、やや腰をかがめて亜衣子の足元にチラッと眼をやった。
「、、、、、、ほら、こんなに脹れているでしょう、ねえ、、、、」
 勇三は身を乗り出し腰をかがめた。テーブルの近くまで顔を下げたとき勇三の頬に亜衣子のかの髪の毛が触れるのを感じた。
 亜衣子はくじいたところを指で示してはいたが、勇三の眼はその部分には止まらず、最初亜衣子の両脚全体が眼に入ってきた。若葉色の床の上に膝はきちんと閉じられてはいたが、足元は力なく開かれ、両脚がよく手入れの行き届いたレンガ色の靴からスッと伸びていた。足首に止められた靴紐が弾力のある亜衣子の肌にやわらかく食い込んでいた。喫茶店の薄い照明の下でストッキングがつややかな光沢を放っていた。亜衣子が指し示すところは、そのストッキングの下に薄く包帯が巻かれていた。勇三は亜衣子の香水の匂いを感じ、亜衣子の体温を顔の肌で感じた。テーブルの下の薄暗い世界で、勇三はふと自分の手で亜衣子の足に触れてみたくなった。また触れてもなんら不自然な行為ではないように思えた。それに亜衣子のほうでもそれを望んでいるかのように思えた。勇三は頭を上げるとき、スカートに覆われてはいたが、わずかに開いた両膝の隙間から、亜衣子の白い太ももが瞬間眼に入ってきたように感じた。勇三は椅子にもたれかかり、亜衣子のスカートで覆われた腰や太ももに眼をやりながら、亜衣子の何も身につけない下半身へと意識を向けた。すると勇三は甘くとろけそうな恍惚とした気分になった。そしてもう二人はどうにでもなれる関係であるかのように感じられた。
「、、、、、ほら、まだこんなに硬いわ,、、、」
 亜衣子はまだ自分の足にこだわっていた。勇三は今度は亜衣子の足に触れてみようかと思った。だが急に不安になった。先ほどの例からそれはなんら不自然な行為ではないと判っていたし、そのことによって亜衣子との関係が新たな段階に発展するかもしれないのだが、しかし、それまでに至る二人の精神的な結びつきが、まだ十分に熟していないので、このままありきたりの男と女の関係に終わってしまうのではないかと、勇三は懸念したのだ。それに今亜衣子の足に触れることによって、この恍惚とした喜びが、さらに増大するのか、それても変らないのか、なんら確証はなかった。むしろ減退するのではないかという恐れがあった。なぜなら、勇三には精神的結びつきの熟していない女性に欲望や憧れを感じることがあっても、直接その肉体に触れることによって喜びを感じて恍惚とした気持ちになることは今までになかったからであった。

 勇三は過去のことごとく失敗した体験を色いろと思い浮かべた。そして最近の出来事もこれと同じ原因によるものであると結論した。勇三は過去の色いろ体験を考え合わせながら、自分の心のなかにも、亜衣子の心の中にも、なんら不安を抱かせずに二人を結びつけるものが、なにか精神的なものが、まだ欠けているような気がした。それにはもう少し時間が必要であると思った。とにかく勇三は亜衣子との関係を大切に育てていきたかった。
「、、、、、ねえ、なに考えているの?」
 勇三はその声に気がつき、亜衣子のほうを見た。亜衣子はすでにもとの姿勢に戻り勇三のほうに見ていた。そして、うっとりとするような笑みを浮べながら言った。
「勇三さんて、ときどきそんな顔をするのね。なに考えているというか、、、、」
「いや、ゴメン、ゴメン、、、何にも考えていないけどね」
 勇三はすまなそうな顔をしてそう言った。

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「勇三さんは文学がスキでしょう」
「ええ、判る、、、、、」
 勇三はまだ亜衣子に自分の文学趣味を言ってなかった。それで亜衣子が自分のことをこのように見てくれたことがとても嬉しかった。亜衣子のやさしい心遣いから、勇三は亜衣子が世界中でもっとも身近な人間になったような気がした。そして今まで、家族にも友人にも秘密にしていたことを、亜衣子に打ち明けたくなった。勇三は興奮のあまり自分の顔が厚くなるのを感じた。そして途切れ途切れに話し始めた。
「今はまだ、読んでいるだけなんだが、そのうち自分で書きたいと思っている」
「まあ、そうなの、すばらしいことだわ」
 勇三は安易に賛成する亜衣子に反感を覚えはしたが、自分のヒミツを知った亜衣子の前で妙に甘えるような気持ちになった。そして言った。
「でも、僕には才能がないような気がして、、、、、」
「そんなことないわ、勇三さんにはあるわ」
 亜衣子の瞳は姉のような優しさに輝いていたが、勇三には見えなかった。励ましてくれる愛には悪いと思いながらも、勇三はだんだん卑屈な気持ちになっていった。
「でも僕が買いでも、またひとつクズが出るような気がして、、、、あんなものは少数の天才たちに任せておけば良いんですよ、、、、、今の時代は過去の天才たちの業績を食って食いつぶして、そのおかげでかろうじて救われているんですから、それ以外皆クズですよ。今はどこへ行ってもクズの山だらけ、、、、」
 亜衣子は今まで決して見せなかった勇三の思わぬいちめんを見て、そのまま黙ってしまった。言い終わると勇三は、窓の外に眼をやった。しばらくして亜衣子が話題を変えた。
「この間ね、ええと、勇三さんが駅でわたしに声を掛けた日だったかしら、、、、わたしあの日昔の友達にばったり会って、相談を持ちかけられたわ、その相談って言うのは、その友達が二人の男性に交際を申し込まれて困っているというの。そのとき私、そういう問題が苦手で、何にも答えられなかったの、もし勇三さんだったら、そういう相談持ちかけられたらどうします?」
 亜衣子は不安をはらんだ真剣な眼をしてそう言った。
勇三は亜衣子がそれほど真剣になるほどの問題ではないとおもうと同時に、その友達に少しも良い印象を受けなかった。
「もし相談を持ちかけられても僕には答えようがないな、その友達っていうのは自分がもてるって言うところにあなたに見せたかったんじゃないかな。そんなものはモテる人の贅沢な悩みですよ」
 と勇三は笑顔の亜衣子に戻そうと、自分も笑顔を
作り冗談ぽく言った。
「でも、とっても困っていたみたいでした、、、」  勇三は上を向きながら、しばらく黙って考えていたが、いまの二人にとって、そんなことは大して重要な問題ではないように思え、いちいちそのことにこだわる亜衣子に、少し腹立たしさを感じながら、やや荒っぽく言った。
「でもね、なんのかんのと言っても、結局一人の人しか結婚できないんだよ。君がそんなことで頭を悩ますことはないと思うよ」
「、、、、、でも、、、、、」
 勇三は言い終わると、窓の外の夜景に眼をやり、しばらく眺めたあと、なにかを思いついたように顔に笑みを浮かべ振り向きながら、そして今度は勇三が話題を変えた。
「あっ、そうだ、君が小さいころどんな少女だったのか聞いてなかったね。どんな子だったの?」
「どんな子って、、、、、普通だったわ」
「普通ね、、、、もててもてて困ったことは?」
「そんなことなかったみたい」
「、、、、、初恋はいつ頃だったの?」
「初恋、、、そうね、、、いつだったかしら、、、」
 そう言いながら亜衣子は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。勇三はそれが妙に気になり言った。
「何も隠すことないじゃない、、、、」
「いいえ、隠してなんかないわ、昔のことだからよく覚えていないの、、、、聞きたい?」
 勇三は子供っぽく反応した。
「うん、聞きたい」
「高校一年のころだったかしら、、、」
「先生?」
「いいえ、、、」
「先輩?」
「いいえ」
「同級生?」
「ええ」
「どんな子?」
「どんな子だったかしら、、、、」
「格好よかったとか、ハンサムだったとか、、、」
「そうねえ、普通のこ子っていうか、ちょっとハンサムっていうか、、、だって若かったから、いまと違うでしょ」
 ゛今゛という、そのどうにでも取れる言葉を勇三は噛みしめた。そして少し声を弾ませて言った。
「これから町に出て歩こうか、あっ、そうか、君は足を痛めていたんだっけ、、、、」
「だいじょうぶ、ゆっくり歩けばなんともないわ」
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 二人は夕暮れの街を並んで歩いた。町には二人の歩調に合わせるかのように、緩やかな音楽が流れていた。
 勇三にとって人通りの多い繁華街はいつもは気後れして歩きづらいものであったが、歩行者天国の道の真ん中を亜衣子と並んで歩く心地よさが、勇三に力強さを与えた。ときどき勇三は心配そうに亜衣子の足元に眼をやった。そのたびに亜衣子は大丈夫よといわんばかりに明るく笑みを浮かべた。

 道路の両側に立ち並ぶ店の照明や、色様ざまな広告塔の光が、道いっぱいに歩く人々の顔を照らしていた。
 勇三は歩きながら、その人々の顔を観察した。 勇三の眼に入ってくる人々の顔は生き生きとし、幸福そうで、皆この華やかな町の雰囲気に合った満ち足りた表情をしていた。そしてそれらの顔の表情から、マイホームに帰るもの、遊びにいくもの、食事にいくもの、待ち合わせの場所に行くものと、皆それぞれの目的を持って歩いていることが判った。

 二人はしばらく町の雰囲気を楽しみながら歩いていたが、ふと勇三の眼に、先ほどのように判断することができない、女が独りで歩いてくる姿が入ってきた。厚化粧のせいか年齢もハッキリしない。それよりも無表情なほど生気のないくらい表情をしていた。
 










     
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