青い精霊の森から(1部)



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          はだい悠



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*    *    *




 遥か昔、私たちの祖先は森の中で人間になろうとしていた。
 だが、彼らを取り囲む自然は常に厳しいものであった。
 しかし、かといって、それほど耐え切れないものではなかったはずだ。
 原始の生命力を持ってすれば、風雨や、暑さ寒さにはそれなりに対処できたはずだ。
 ときおり、猛獣などに襲われることもあったろうが、結果的に誰かが犠牲になればそれで済むことだったろう。
 そのうち何度かくり返しているうちに、知恵もついて戦うことも出来たはずだ。
 また、まれには、突然の自然災害に遭遇することもあったろうが、その場を逃れて別のところに移れば、それで解決することだったに違いない。
 それらのことはとてつもない恐怖であったに違いないが、今日、我われが考えるほど悲劇的なことではなかったはずだ。
 時間の経過とともにある程度は忘れ去られるようなものだったに違いない。
 それよりも周囲の自然からは、食べ物などではるかに多くの恩恵を受けていたはずで、むしろ感謝の気持ちを捧げるべき対象となっていたに違いない。


 そしてなん世代もかけて色んなことを身に付けながら、我われの祖先は人間性を育み、精霊の力を借りて徐々に人間になっていったに違いない。
 このとき、育まれていった人間性とは、身近なもの同士が、お互いに相手の声や動作をよりどころにして、いっしょに狩をしたり、物を作ったり、食べ物を食べたり、遊んだりすることから生まれてきたものに違いなく、それは単なる仲間のことを考え、そして思いやるということだけではなく、相手の話し方の違いや、表情の微妙な変化から、複雑で豊かな相手の気持ちを理解できるようになったに違いない。
 そのことは身近なもの同士を、さらに近づけさせて、より信頼しあうようにさせ、ますます穏やかで親密な関係にさせて行ったに違いない。
 そしてそれは、まだあまり顔見知りでない多くの人たちと仲良くやっていくことに役立つものであったに違いない。
 ということは、精霊とは、穏やかで創造的で平和的なものだったということになるが。


 現在、われわれの周りには、かつて我われの祖先を養い育てたような自然はない。
 あるのは人間を威圧するような高層ビルや巨大建築物、高速で人や物を運搬する車や飛行機、瞬時に世界中の誰とでも顔を合わせることもなく話が出来る通信機器、自分とは直接関係のない出来事を知ることが出来るテレビなどのマスメディア、そしてその結果として洪水のように押し寄せる膨大な量の情報と商品、それにめまぐるしく移り変わる流行の数々、さらには、そこから外れたら、誰であってもまともな生活がおぼつかなくなるような緻密で効率の良い巨大な社会システムである。
 その中でほとんどの人間は適応して生きている。
 こざっぱりとした服装でわき目も降らずに舗道を歩き、こじんまりとした表情で行列を作っては電車に乗り、物分りがよさそうな表情で見知らぬ人たちと話しをしては、顔色も変えずに世界中の悲惨な出来事を知識のように受け入れ、何事にも要領がよく、規則正しさや礼儀正しさに誇りとプライドを持ちながらである。  それこそまさに現代の精霊の成せる業ではないのか。


 では、その精霊とは。
 うなりを上げる巨大重機の鋼鉄の精霊であり、
 膨大なエネルギーを生み出す爆発の精霊であり、
 新幹線やジェット機のスピードの精霊であり、
 通信機器によって人と人とが無限につながる連鎖の精霊であり、
 溢れるように押し寄せる商品や情報による波動の精霊であり、
 移り変わる流行による加速度の精霊であり、
 テレビなどの視覚情報による膨張する空間の精霊であり、
 そしてすべての人と人、物と物とを分けよう分けようとする分離の精霊である。


 だが、これはあくまでも社会に適応して生きているものたちにとっては精霊となるであろうが、何らかの理由で、適応できないもの、たとえば、人より不器用であったり要領が悪かったりするもの、それに偏った性格が災いして、周りの人と協調することが出来ないものにとっては、果たして己をよき方向へと導くような精霊となることができるだろうか。
 その結果、おそらく彼らは、理屈には合わない破壊や暴力、そして陰鬱な悪へと駆り立てられるだけだろう。  しかし、もしこれが、周囲の大人たちが望むように行動できない重大の若者ならどうだろう。  これは、それまで子供としてはふさわしくないような過酷な体験をしたために、社会や大人たちに対して反感を抱いている若者のことだけを言っているのではない。
 それまでは周囲の大人たちのいうことを素直に聞いて、社会や自分のことをほとんど意識しないで生きてきたのだったが、なにかのきっかけで、社会や自分のことを強く意識するようになった若者にも言えることなのだ。  そのきっかけとなるのは人によってさまざまであるが、決して特別なことではない、ほとんどが日常的なことである。
 自分の性格や肉体のことが急に気になり始め、それを他人と比較するようになったために、友達だけでなく家族とも、それまでのような関係を保てなくなったり、さらには自分が眼だないからではなく逆に目立つことが気になったり、勉強がが出来ないからではなく、むしろ勉強が出来すぎることが気になったり、大人に反抗的ではなく、今まであまりにも従順で良い子であることに気がついたりすることによってである。
 また、どの若者がそうなるかはあらかじめ予測は出来ない、ある者にとっては必然的であるが、あるものにとっては偶然的であったりして、宿命的というべきか、あるいはちょっとよそ見しているうちに、皆からそれてしまったというべきか。
 そして彼らは皆いちように希望や目標を持てないでいる。
 しかも決して表には現さないが、漠然と自分に自信がもてないということで不安でいっぱいである。
 このとき現代の精霊は確実に悪霊となって彼らに襲い掛かるに違いない。

 そうなるとなんら防御の手段を持っていない若者たちは、例外なく地獄の季節を走り抜けなければならないだろう。

 繁華街から少し外れたところに人の出入りがないビルがある。その二階の一室に髪を金色に染めた二人の少年が眠っている。カギをこじ開け無断で住んでいるのだ。部屋の中にはベッドの代わりとなるダンボール以外は何もない。
 東の窓には、隣のビルの壁が立ちふさがり、北の窓には高速道路の高架が覗いており、車の音がひと塊の騒音となってかすかに響いている。
 二人は着ていたTシャツを下に敷き、上半身は裸ではある。外は六月の強い日差しが照っているが、彼らの表情は眠りの精に征服されたかのように涼しげで穏やかである。やや赤みがかった透き通るような肌は、どんな悪条件のなかでも行き続ける植物のようにみずみずしく、薄暗く殺風景な部屋のなかでは、黄金のような輝きを放っている。
 それは、彼らが、いまを、どのような悪意に満ちた考えを持って生きていようが、それらさえも無意味にしてしまいそうな勢いで、肉体だけはひたむきに成熟していきながら、日々その外見を変化させている。
その肉体の純粋な営みを思うと、彼らの多少の犯罪にも眼をつぶりたくなる。



 普段二人は、夕方になると起き出し、繁華街に出かけ、仲間と合流してたむろし、彷徨いながら遊び暴れ、戦っては逃げまわり、そして、必要に応じてエサを採取し、ときにはエモノを狩り、やがて太陽が昇り、町が昼間の賑わいを見せ始めるころ、へとへとに疲れた体を休めるために、再びここに戻ってるのである。

 二人はお互いをショウとトキュウと呼び合った。  ショウは翔平のショウであるが、トキュウはショウが名づけたもので、久作のキュウに"ト"を付けたのであるが、その意味するところは久作には判らなかった。でも悪気はなさそうだったのでまったく気にはならなかった。年齢についてはお互いに中学生ではないことを感じてはいたが、正確には知らなかった。というよりもお互いに知ろうとはしなかった。
 だからそれ以外のことは何も知らなかった。なぜなら二人にとっては、過去はそこの抜けたスニーカーのように不恰好で無意味なものであり、今現在、関わっていることだけが、カッコよく、意味があり、生きているすべてだったからである。


 二ヶ月前、トキュウは学校に行くのを止めた。
簡単に言えば面白くなくなったからであったが、本当の理由は、周囲の仲間がなにを考えているのか突然判らなくなったからである。しかし、学校が面白くないからといって、自分の家が面白いというわけではなかった。同じころ同様に、家も面白くなくなった。

 トキュウの家は特別に貧しくもなく豊かでもなく平穏でありきたりだった。家族もそれ以前と少しも変らなかった。だから何らかの具体的な不満を感じたわけではなかった。
 でも、なぜか、それまでのように気軽に接することが出来なくなっていた。そこでトキュウはなんとなく家にいずらくなった。そして頻繁に町に出るようになった。

 町にはトキュウ同じような年ころの男女が昼よるとなく溢れていた。トキュウの足は自然と彼ら若者が出入りしそうな場所に向かっていた。彼らと同じ種であることを本能的に嗅ぎ取っていたからである。

     町はいつも賑やかである。おびただしい人間と、おびただしい人工の光と音に溢れ、華やかである。そして人間を圧倒し、挑発し、変容させる。


 若者は様ざまである。自分の肉体を進んで傷つけたり染めたりするもの、広場や路上でダンスやスポーツに夢中になるもの、漫画や音楽に子供のように熱中するもの、異性だけでもなく同姓にも特別の興味を示すもの、分不相応な大金を持って遊びほうけているもの、熱帯地方の鳥や魚のように化粧し着飾るもの、みんな風景の一部となって熱烈に、そしてみんな夢見るように自分を主張していた。
 トキュウにとって、彼らはみな自由でのびのびと生きているように見えた。ちょっぴりうらやましさを感じるほど立った。だがどのひとつにもなれなかった。なぜなら、それらはみんな以前からあったものであり、人に知られているものであり、そして古臭いものだったからである。自分が彼らと同じことをやることは、真似である屈辱的なことだと感じていたからである。

 そういう彼らの姿は確かにトキュウの眼には映ったが、決して心には映らなかった。このことは町の華やかな風景にもいえることである。写真のように眼には映るが決して心には映らなかった。
 人はだれでも夢見ることができなければ心は凍結するしかない。
 トキュウにとって学校や家族だけではなく、町もわからないものになった。そしてトキュウにとって、世界は徐々に不透明とを増していき、混沌となった。
 しかし、トキュウは町に行くのを止めなかった。なぜなら、ほかにいく場所がどこにもなかったから。それにこのまま家に閉じこもることは、自分がこの世界から抹殺されてしまうような気がしたからである。そう感じさせたのは、ひとつの肉体としてのひとつの純粋な生命体としてのトキュウのプライドであった。

 トキュウま戸惑いながらも、惰性で遊び、無感情に人とすれ違い、孤独にそして不安げに町をさまよった。その姿はまさに、群れからはぐれてしまった小型草食動物のそれであり、その戸惑いや無感情は、いつ大型の肉食動物に襲われるかもしれないという、不安と心細さと同じものである。  来る日の来る日もトキュウは、町に出かけ群集にまぎれ、習慣のように遊び反射的にさまよった。しかし町を少しも変らなかった。《町は自分から意味を見い出すものだけしか受け入れない》ということを、まだ独りで生きていく知恵もない動物のようなトキュウに気づくはずもなかった。群集のなかの無名な一人に過ぎないトキュウは、一本の街路樹や、一個の舗道の敷石や、一個の広告塔と同じように、町の風景を構成する一要素に限りなく近づきつつあった。


 まだ喧騒の続くある日の夜更け、普段気にも留めなかった光景がふと眼に入り、トキュウは足を止めた。駅舎の壁が低い窓のように切り抜かれ、そこからホーム上に居る人々の足元が映画のスクリーンを見ているかのように見えるのである。かがんでも膝までしか見えなかったが、トキュウの眼はなぜか釘付けとなった。音もなく電車が入ってきた、ドアが開き、寂しそうに四本の脚しかなかったホームは、急に様ざまな足取りで溢れ、賑やかになった。急ぐ女の足取り、だらしない男の足取り、弾むような足取り、疲れたような足取り。トキュウは人々の足取りを見ながら、人々の表情を見ているような気がしていた。ドアが閉まると電車は出て行った。そしてホームはふたたび静かになった。トキュウは舗道にかかんだまま次の電車の様子を好奇心の強い子供のように無心に眺め続けた。そして五つめの電車がホームから出て行ったとき、後ろのほうから声をかけるものがいた。 「おい、何やってんだこんなところで?」
振り向くと制服に身を包んだひとりの若い警察官が見下ろすように立っていた。
 トキュウは別に歩行者のじゃまをしているわけでもないと思い無視することにした。しかし警察官を立ち去らなかった。
「おい、おまえ、ノゾキやってたろう」
「ちがうよ」
「さっきからずっとなに見てた? お前まだ学生だろう。とんでもない奴だな。子供のくせに、こんな夜更けに出歩いているんじゃないよ」
 その乱暴な言い方に、トキュウは押しつぶされそうになった。警察官はなおも続けた。
「おい、ヘンタイ、へんたい野郎、ちょっと交番に来るか?」
トキュウは激しく恐れ動揺した。そしてその場を離れた。その姿はまるで、せっかくたどり着いた水場から、肉食動物に脅されてすごすご逃げ出す草食動物と少しも変らなかった。歩きながらトキュウは、
《何も悪いことはしてない》
と思うと、動いていた時計が止まってしまったような気配とともに、悔しさがこみ上げてきて涙が溢れそうになった。しかし一時間もするとトキュウの心は平静さを取り戻した。

 町をさまよっているうちに、夜の色鮮やかな光の群れが、深くえぐられた心の傷を覆い隠してくれたようだった。
 町は恐れもしなければ動揺もしない、建物も車も舗道も硬い、もし町から人間を除けば、それは無機物の塊に過ぎない。その町のなかで人間はさまざまだ。高速で移動しているもの、機械のように歩くもの、地べたに座り込むもの、亀のように歩くものがいる。進んで善を行うものもいれば進んで悪を行うものもいる。騙すものもいれば騙されるものもいる。命令するものもいれば命令されるものもいる。電車や映画館で隣同士になっても、おたがいどんな人間かわからない。アパートの隣室に殺人犯が住んでいようと気づかない。判らなくても気づかなくても人々は住み分けるように共存することができる。町のなかでは、風は季節によって時刻によってさまざまな方向から吹くように、たとえ同じところに居合わせても、人々の感じ方はさまざまであり、人々の思いは無限に反射し衝突し、そして交錯する。そして人々は自分と同じ種の人間を本能的に嗅ぎだし、群れ集い、交感しあい、所有し合い、いっしょに意味を見出し夢を見る。

 トキュウにはまだ仲間も大切にしている物もなかった。持ち物といえば、いまだ日々成長を続けている生まれたままのようなつややかな肉体だけだった。実際トキュウの体には傷はなかった。そもそもトキュウには今まで大きな怪我や病気の経験はなかった。それだけではなく、ほんとうの飢えや渇きの経験もなく、身をよじるような苦痛や快楽を味わったことがまったくといっていいほどなかった。それに思い出すほどの友達との喧嘩や遊びなどの体験の記憶もなかった。だからある意味ではトキュウの心は、肉体同様、まだ喜怒哀楽も知らず生まれたままのように何の傷もなく純粋であるともいえるのである。
 しかしそれは、人並みに夢の見方も知らないことであり、まだ人との付き合い方も知らないことであり、そのまま社会に出ることは、まだよちよち歩きしかできない幼な子のように、非常に危なっかしいことである。
このようにトキュウがこれまで平穏無事に過ごしてこれたのは単なる偶然ではなく、日々の生活にあまり変化を望まない、温厚な人々のなかだけで育ってきたからである。

 トキュウはいつもポケットにお金を入れて、闇雲に欲望を満足させようとして町をと迷い歩いているわけではなかった。毎日どうにか工面だ来たのは、たいていは最低限の欲望を満たす程度のものでしかなかった。
 それでもトキュウは、なぜかそれほど苦痛ではなかった。 しかし、それも日増しに難しくなってきていて、だんだん慢性的な空腹状態に陥っていた。
 ある夜トキュウは同世代の若者にまぎれてゲームセンターで遊んだあと、外に出て歩き出すと、耐え難い空腹を感じた。
 眼の前にあふれるほどの食糧をウィンドーから覗かせているスーパーマーケットが現われた。それに眼を奪われながらトキュウは、ポケットに入れている手の指先に千円札の感触を感じた。
 トキュウに店に入った。
 閉店まじかの客もまばらの店内を、商品の群れの中を、うろついた。何しろ始めてはいる店だったので。  そしてパン売り場を見つけると、菓子パン二つ手に取り、こんどはレジをもとめてきょろきょろ周囲を見まわして歩いた。そしてレジの場所を見つけそちらに向かおうとしたとき、いきなり腕をつかまれ、周囲からは見えない商品の棚の影にひきづられて、その勢いで倒された。戸惑いながら見上げると、底には店の店員である若い大人の男が立っていた。その男はトキュウの前に立ちふさがるようにして言った。
「何しにきた。取るつもりだったのだろう。もう許さないぞ、お前らのせいでどんなに大変だか判るか?」
店員は大声ではなかったが、激しい怒りを顔に表していた。トキュウは戸惑いながら男を見た。
「なんだその眼は、この泥棒やろう。お前らクズはみんな同じ眼をしているな。キツネみたいにいやらしい眼をしてさ、どうせ金なんか持ってないんだろう」
トキュウは急いでポケットに手をいれ先ほどの札をつかむと、それを勢いよく出して店員に見せながら言った。
「金なら在るよ、ほら!」
しかし、それは金ではなかった。二つに折られた何かの割引券だった。店員はこぞとばかりに怒りを込めたまなざしで睨みながら言った。
「このうそつき野郎、どうせこんなこったろう、お前らの考えることはみんな判ってんだ。やっぱり盗むつもりだったんだな、正直にいえよ!」
そういいながら店員はトキュウの脚をけった。そしてさらに興奮して言った。
「お前ら見たいクズは警察に突き出しても良いんだけど、それじゃ面白くないな、お前らは何もされても文句は言えないんだぞ、いいか、昔はお前らみたいなのはみんな手を切り落とされたんだぞ」
そう言いながら店員は前よりも強くけった。
「いいか、もう二度と来るなよ。今度きたらどうなるか判ってるんだろうな」
そういい終わると店員はじっとトキュウを睨み続けた。戸惑いの表情を見せながらトキュウは何も言い返すことができなかった。
 そして追い出されるように店を出た。
 トキュウの頭は混乱していた。あまりにも店員の男が一方的だったので、何が起きたのかよく理解できなかったからだ。大きな悔しさや憤りよりも、自分はいったい何か悪いことをしたんだろうかという思いでいっぱいだった。
 店員の顔を思い浮かべるたびにトキュウは、なぜあの男はあんなに激しく怒るのだろうかと不思議な気持ちでいっぱいだった。


 トキュウは繁華街のメインストリートを臨める公園に向かった。
 舗道沿いの階段を数段昇ると、視野が開けた。周囲は植え込みとまばらな樹木でかこまれていた。

 トキュウは階段を上がったところで、空腹を満たすかのように思いっきり水を飲んだ。
 公園は大たい三つの部分からなっていた。多くの人々が出入り口のように利用する階段部分と、その階段を降りきったところから始まる平らな広場の部分、そして、これは大部分を占めているのだが、高い樹木が寄り密になっている森林部分。
 階段は下りで扇型になっていた。そしてその先の広場の周囲には所々にベンチがおいてあり、ほぼ真ん中のステージのように高くなっているところには花壇になっており、花が植えられていた。

 トキュウは人ごみに飽きると、よくここに来て休んだ。いつも色んな人たちが時間に関係なく、入れ替わり立ち代りやってきてはみんな好き勝手にやりたいことをやっていた。
 トキュウにとってはここにきても友達に会えるわけでもなく、これといって楽しいことがあるわけでもなかったが、いつものびのびとした雰囲気を感じることが出来て気に入っていた。

 トキュウは広場に面した階段の真ん中辺に腰を下ろした。そして横になり星の見えない空にぼんやりと眼をやった。もう先ほどの事は忘れてしまったかのように何にも頭には浮かんでこなかった。
 またしても町の色鮮やかな光の群れがトキュウの心の傷を覆い隠してくれたのだろうか? それともトキュウの若くて未熟な心があまりにも柔軟でやわらかすぎるために、針のような言葉にも傷つくことはなく、いったんは受容しながらも、やがては何事もなかったかのように、それを通過させて、どこかの道端に捨て去ってしまったのだろうか?


 真夜中に近づいても公園に集まってくる人々の数はそれほど変らなかった。
 突然入り口のほうで奇声が上がり、弾んだような話し声が響くと、ダンスのステップを踏むように軽快な足取りで、若い男がが一人二人と通り過ぎていった。トキュウは彼らを見て反射的に緊張した。なぜなら、彼らはみな自分と同年代の若者たちであったからだ。
 そして彼らが自分から離れていくにしたがって、その緊張も徐々に和らいでいき、やがて彼らが自分から遠くはなれてベンチに陣取るのを見てようやく、もとの自分に戻っていった。


 少し落ちつくとトキュウは、いつものびのびとした雰囲気を感じるようになっていた。そして周囲を見まわすと老若男女さまざまな人たちがここに集まって来ているのが判った。トキュウに最も近いのはトキュウの斜め後ろに座っている少女たちの集団だった。


 その若い女たちは自分たちの美意識や流行を極限まだ極めているようだった。
 ほとんどが肌もあらわに、熱帯地方の魚や鳥のような配色で、可能な限り原色の衣服を身につけ、顔は限りなく黒に近く、眼や口は緑や白で縁取られ、髪の毛は銀色の光沢を放ち、耳や鼻や口元にはピアスがつけられ、色鮮やかなアクセサリーは手や首だけでなく、体中いたるところにつけられぶら下がっていた。それはまるでどこか遠い世界に住む自立した少数民族のようであった。
 もし初めて彼女たちを眼にする人が顔の部分だけを見たとしたら、きっと白と黒が反対になっている写真のネガを見ているような気がするだろう。いったい何が彼女たちの美意識を反転させているのだろうか?


 その少女たちにせよ、軽快なステップでトキュウの傍を通り過ぎていった若い男にせよ、トキュウは、日頃から自分とはまったく違う世界にすむ若者たちのように感じていたので、出来るならあまり近づきたくないと思っていた。いったい何がそうさせているのか?

 彼女たちの話し声はだんだん大きくなり、トキュウにはまるで口げんかをしているかのように聞こえてきた。すると一人の女が群れから離れて歩き出した。そしてトキュウの前のほうの階段に腰を下ろすと、はき捨てるように独り言を言い始めた。
「ああ、むかつく、なんであいつらに英語かわかるんだよ。ふん、進行形の意味も判らないくせに。あたしにはってもダメ、これはこういう意味だとか、これは文法的にどうだとか、そんなことばっかりすぐ頭に浮かんでくるんだから。ああ、つまらない。今日はこのまま帰ろうかな?」
もう一人の女が群れを離れ、トキュウの前にいる女に歩み寄りながら言った。
「ねえ、ミュウ、あんた暗いよ、どうするの? 行かないの? みんなカラオケにいくんだけど、おいてくよ」
「アタイは、今日いい、もう帰る」
そう言いながらミュウと呼ばれた女はコツコツという高い音を立てながら、トキュウの横を通り過ぎ、階段をあがっていった。ほどなくその音も聞こえなくなった。そして気がつくと他の女たちも見えなくなっていた。
 トキュウにとってミュウが撒き散らした強い臭気が初めて嗅ぐ匂いのように印象に残った。


 公園内に若者たちだけが目立つようになったころ、トキュウは、あちこちにたむろする若者たちを中心に話しかけている身なりのかなりきちんとした大人たちに気づいた。その大人たちはひとりの女性を含む三人だった。トキュウは急に沈んだ気持ちになった。以前、繁華街で会ったことがある、あの例のやつらに違いないと思ったからである。

 あの例の奴らとは、深夜繁華街にたむろする若者たちに、自分たちから進んで話しかけては、それがまるで自分たちの使命であるかのように若者たちの悩み事を聞いてあげたり、相談に乗ってあげたりする大人たちのことである。
 しかしトキュウにとって彼らと話をすることは、なぜか気が重く、とても煩わしいことであった。というのも、彼らのなれなれしい余裕のある態度や物分りの良さそうな笑みを浮かべた冷静な態度は、なんか自分見下されているような気がして、眼には見えない圧迫感のようなものを感じていたからである。
 しかも、彼らのその物分りの良さそうな笑みもトキュウにとっては、彼らの自信と優越を誇示するものとしてしか受け取ることができなかった。
 それでしつこすぎる彼らに対して余計なお世話と反撥心を覚えるのも時間の問題だった。

 やがてその大人たちはトキュウのところにやってきた。そしてそのうちの一人の男が
「ちょっと、すいません」
と丁寧にトキュウに挨拶をすると一枚の写真を示しながら言った。
「この子、見たことがないですか? 実は私たちの娘なんです。この辺で見かけたことがあると聞いたもんですから」
トキュウは写真に写る一人の制服姿の少女にぼんやりと眼をやりながら言った。
「、、、、ないっす」
「ないですか」
「こんな真面目そうな子、この辺にはいないっすよ」
「そうですか」
トキュウにとってはほとんど関心がないことだったが、写真からではどうにも少女のイメージがつかめないような気がして、つい次の言葉が口から出てしまった。
「写真はこれ一枚だけですか?」
「今はこれだけなんですよ。これでも最も新しいものなんですよ。そうですよね、、、だいぶ変っているかも、、ありがとうございました」
そう言って大人たちはトキュウから離れて行った。
 トキュウはあの例の奴らでなくて良かったと思った。

 しばらくすると先ほどの男がトキュウのところにやってきて言った。
「この写真あなたにあげますから持って行ってください。私たちはこれで帰らなければなりません。時間がないものですから。もし見かけることがありましたら電話ください。裏に番号書いてありますから。よろしくお願いします」
そう言い終ると男はゆっくりとした足取りでトキュウから離れて行った。
 トキュウは《なんで俺が》と不満そうにつぶやきながら渡された写真にもう一度眼をやったあと、無造作にズボンのポケットに入れた。


 時計は十二時をまわっていた。
 そしてトキュウは抑えていた空腹感にふたたび悩まされ始めた。とりあえず家に帰るしかないのかなと思った。《でもお金がない、歩いて帰れば時間がかかって遅くなる。でも家のものはたぶん寝ていて、だれとも顔をあわせなくても済むに違いない、それで良いのだ》とトキュウは思った。


 そしてトキュウは通りに向かって歩き出した。
 舗道に面した階段をおり始めてとき、先ほど公園内で見かけたのと同じような服装をした少女たちが、夜の町の華やかな風景をひとつの絵のなかの背景のようにしてたむろしているのに気づいた。彼女たちのところを通り過ぎるとき、トキュウはさっきと同じ連中だと思った。なぜなら、ミュウと呼ばれる少女が撒き散らしていたのと同じ香気を感じたからである。


 その後もトキュウにっては変り映えのしない日々が続いた。
 ある日の午後、トキュウが地下鉄のホームから地上に通じるエスカレーターに乗っていたとき、後ろから歩いてきたスーツを着た若い見知らぬ女が、トキュウの右の手を強くたたいた払いのけた。トキュウの両手が左右の手すりにおいてあったからである。そしてその女はさも当然のごとくに無言のままトキュウを追い越してエレベーターを昇って行った。トキュウは一瞬呆然とした。いったい何が起こったか判らなかったからである。でもすぐに状況が理解できた。そしてそれと同時に激しい怒りが爆発するかのように沸き起こってきた。
《許さない、何がっても絶対に許さない》
という気持ちになった。舗道に出ると真っ先にさっきの女を探した。しかし見つけることはできなかった。

 町は生暖かく、まだ午後の強い陽射しが差し込んでいた。トキュウの怒りはなかなか収まらなかった。汗のようにへばりつく不快さは耐え難いものがあった。そして
《まあ、いいさ、もしまた同じようなことがあったら、今度は思いっきり後ろからケリを食らわせてやる》
と思うと徐々に気持ちが和らぐのを感じた。

その怒りもほとんど消えかかってきたころ、トキュウは異質な光景に出会った。頭髪を金色に染めた一人の若者が背の高い独りの男に腕を捕まれてスーパーマーケットの建物の後ろのほうに連れて行かれるのを目にしたのだ。その背の高い男とはこのあいだの店員であることからして、トキュウは一瞬にして今何が起こっているのか、またこれから何が起ころうとしているのかを悟った。
《あの男はこのあいだ俺を泥棒扱いにした奴だ。どんな理由があろうと俺はあいつを許さない》
そう思うとトキュウは怒りと憤りで気持ちがとてつもなく大きくなっていくのを感じた。
 トキュウは気づかれぬように二人を追った。二人が日陰に入り建物の角を曲がったときにはトキュウは二人のすぐ後ろにまで近づいていた。そして二人が地下に通じる階段をおり始めたとき、トキュウは早足でその店員の背後に迫り、踊り場のところで、思いっきり体当たりを食らわした。するとその店員は手摺りを越えて落下し何かくずれるような音が響いた。トキュウは叫ぶように言った。
「いまだ、逃げろ、いいから逃げろ!」
二人はまるで前々から打ち合わせていたかのように走った。振り返りもせず全力で走った。角をまかり道路を横切り、ふたたび角を曲がると、ようやく後ろを振り返りながらゆっくりと歩き出した。
 トキュウが激しく息を切らしながら言った。
「はあ、はあ、もういいだろう、ざまあみろってんだ。いい気持ちだ。はあ、はあ、あいつはとんでもない奴だぞ。人を泥棒扱いして苛めるんだぞ。お前も今頃何をされていたがわかんないぞ、何にも悪いことしてないのにさ、なあ、そうだろう、はあ、はあ」
もう一人の若者はまだ声にならないようだった。
「少し休もう」
そういいながらときゅうは舗道沿いの小さな緑地帯に誘った。そして木陰に身を潜めるように座った。二人は生暖かい空気と奇妙な静寂に身をゆだねた。やがて吹き出る汗も、乱れて呼吸も徐々に収まっていった。そして二人は初めて顔を見合わせた。トキュウが助けたその若者は顔をゆがませながら言った。 「おまえもやるな、びっくりしたぞ」
「なあに、たいしたことないさ」
「大丈夫かな?」
「どってことないさ、もとはといえばあいつがみんな悪いんだから」
「そうだよな、たいした額でもないのにさ。しつこいよ。俺はショウヘイ、君は?」
「キュウイチ」


 二人は話しながらお互いをじっくりと観察した。
 トキュウはショウヘイのことを、自分より体が大きく、眉毛も太く整った顔立ちをしているので、少し自分より年上かなと思った。ショウヘイはトキュウのことをこれといった特徴ある顔立ちには見えなかったが、思ったほどめちゃくちゃなことをやるような人間には見えなかった。
 トキュウ急激に喉の渇きをを覚えた。
「ショウヘイ喉が渇いただろう」
「ああ、そうだな」
「云いか、まってろ、今もってきてやるからや」
そう言いながらトキュウは立ち上がると一人で歩き出した。道路を横切り角を曲がって適当な店を探した。

 そのときが近づくに従って、トキュウは気持ちが高ぶり緊張した。しかし五感は鋭くなり、集中力は増し気持ちは充実していた。まるで普段の十倍もの速さで頭が回転しているような感じだった。それはかつて経験したことがないような、限りなく無意識に近い攻撃的な気持ちだった。そしてキツネのような狡猾さすばしっこさで、生まれて初めての盗みを完璧に成し遂げたのだった。
 悠然と戻ってきたトキュウはショウヘイに缶ジュースを渡した。
「さあ飲んでくれ、お金は良いよ、どうせ只なんだから」
「サンキュウ」
「ああ、あんまり冷えてないな、まだ入れたばっかしだな」
「お前、ずいぶん慣れてるみたいだな」
「まあな、これで生きてるようなもんだからな」
トキュウは嘘をついた。しかし自分では嘘という意識はまったくなかった。むしろ話すたびに誇らしい気持ちになり自分を大きく感じた。


 町は夕暮れが近づいていた。
 それまでぼんやりと風景に眼をやっていたショウヘイがトキュウを見ながら言った。
「とこに寝ている?」
「うんと、いえ、いや、たまにだけどね、ほとんどはこんなところかな」
「俺は、良いとこ知ってるぞ。空き家なんだけど、なにもないんだけど、でも、なにをやろうが自由だから、俺んとこ来ないか?」
「うん」
それを最後に二人の会話は途切れた。そしてしばらくのあいだ疾走する車群に眼をやっていたが、ショウヘイが不安そうな表情で言った。
「お前、喧嘩やるか?」
「けんか?」
「そうか、まあ、良いや、どうしてもむかつく奴がいるんだよ。でも一人じゃ、、、、あいつらはいつも二三人なんだよ。どうだいキュウイチ、力を貸してくれるかい?」
「いいとも、どこだい」
「まだ良い。夜だ。夜をまとう。どうも昼間は元気が出ない。ああ、今夜は面白くなるぞ。ところでキュウイチ、お前どこかで見たことがあるぞ」
「そりゃあ、どこかでは見たことがあるだろうな、あっちこっち歩いているから」
「お前、フンスイ広場にいなかったか?」
「フンスイ広場? なんだそれは?」
「電波塔の隣にある公園の広場のことだよ」
「ええ、あそこにフンスイなんてないぞ、なんでそう言うんだ?」
「判らない、みんながそう言うんで、、、、まあ、良いじゃないか、何でも」
「そうだな、フンスイのないフンスイ広場か、変なの!」
二人の会話が途切れた。
 しばらくするとショウヘイが突然犬のように「ウォ、ウォ」と叫んだ。トキュウが驚いて訊いた。
「おい、なにがあったんだ?」
「いや、何にも、自分にもわからないんだ。なんか無性に叫びたくなるんだよ。今頃になるとね」
「変なの!」
ふたたび会話が途切れた。 

 あとはそこまで来ている夜を待つだけだった。

 ネオンサインは輝き町は夜になった。

 二人は沸き起こる精気に促されるように動き出した。 二人になってトキュウは人が変ったように大胆になっていた。それまでトキュウは周囲にあまり眼もくれず機械のように単調なリズムで歩いていたのだったが、その夜からは、夜の街の光景にじっくりと目をやりながら、通りにあるすべてのものは自分の持ち物であるかのように、手で触れたり、ときには脚でけったりしながら、ゆっくりと歩いたり、また相手に合わせるかのように小走りになったり、そしてときには人目を気にせずに、いたるところに座ったり腰をかけたりしては、あたかも自分の庭に居るかのように振舞った。










     
  

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