老人と猫(二部)

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          はだい悠



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「なぜ、なぜ乗れるんでしょうかね。判らないです、考えたこともないですから。」
「そうでしょう、私だってそうですから。いや、誰だって、そうですよ。なぜ乗れるかなんて考えることは、人間はなぜ歩けるかって考える事と同じぐらいナンセンスなことかも知れませんからね。だって、そう聞かれたら誰だって、歩けるから歩けるとしか答えようがないでしょうからね。同じ様に自転車だって乗れるから乗れるとしか答えようがないでしょうね。仮にあるとしても、せいぜい体が覚えているくらいでしょうか。いわば、それは呼吸と同じくらいに自然なことであり、ほとんど無意識のうちにやれるってことなんでしょうね。でも、最初はそうじゃなかったはずですよ。みんな悪戦苦闘をしたはずです。なんとか乗ろうとして、バランスをとることに一生懸命で、しかし、なんども転んでは擦り傷を作り、痛い思いをし、そのたびに止めようと思ったり、自分には無理なんじゃないかと絶望的な気持になったり、でも、しばらくすると、再び勇気を沸いてきて練習を始めると云うことを繰り返しているうちに、ある日突然のように、乗れるようになったはずです。ところが今ではそんな苦労も忘れて、あたかもオギャアと生まれたときから乗っているかのように思っているんですよね。ところで、このことは、わたしたちが日本語をしゃべっている事とどこかにていませんか。先程の、なぜ自転車に乗れるかっていう質問を、なぜ日本語をしゃべれるかという質問に置き換えたら。そっくり同じじゃないですか。
もし、今わたしたちが、なぜ日本語をしゃべれるのかって聞かれたら、おそらく、たいていの人はこう答えるでしょうね。しゃべれるからしゃべれるとか、日本に生まれたからしゃべれるとか、あたかも自然に身についたかのようにいうでしょうね。でも、言葉を身につけたのだって、自転車に乗れるようになったのと同じだと思いますよ。ほとんどの人は赤ん坊のときのことなので、忘れているだけで、意欲と努力とくり返しの練習が必要だったと思いますよ。たとえば、赤ん坊は生きることに一生懸命で、とにかく周囲の状況に耳を傾けることがまず意欲の現れであり、また多くの愛情を受け入れ、より多くの欲求を満たすために、周囲とコミュニケーションをはかろうとして言葉を発することは努力であり、そして、そのなかで、親や兄弟たちの語り掛けを何度も耳にすることや、その片言の言い間違いを直されることは、くり返しの練習であったはずである。そのおかげでわたしたちは今では無意識のうちに自転車に乗れるのと同じ様に、自然にまるで、この世に生まれたときから話せるかのようになっているのである。アッ、そうそう、また話題を変えて申し訳ないんですが、ここで一つ質問しても良いですか、もしあなたがですね、いま一輪車に乗ることを義務付けられたとしたら、さあ、どうしますか。」
「まあ、とりあえず、一輪車を買ってきて練習ということでしょうか。」
「そうですよね。間違っても一輪車に乗れるための本など買い求めたりしませんよね。仮にそんな本があったらの話しですが。わたしもまずは練習でしょうね。実は、わたしの小学生の娘は乗れるんですよ。確か、二年生のとき一週間ぐらいで乗れるようになったんですよ。なんか聞くところによると、乗れるようになるためには、その人の年齢に比例した時間がかかるそうで、そうなるとわたしの場合、少なく見ても四十日ぐらいかかるってことでしょうか。それから運動というのは小脳というやつが、頭の中のね、その小脳が関わっているみたいですね。しかし、ほんとうは小脳の話しなんてどうでも良いなですよね。大事な働きをしていることは判りますが、いまさらそれを知ったからといって、そのおかげで早く乗れるようになるわけじゃないですからね。
とにかく今のわたしには、真面目に熱心に、そしてより多くの体験をすることが大切だとわかっていますから、ひたすら練習でしょうね。それも、たとえ転んで多少痛い思いをしようが、、より早く身につくようにと、足をペダルに縛り付けたりして、体に覚えこませるように繰り返し繰り返し練習に励むんでしょうね。ところで、今村さんはもう気付いていると思いますが、これは英語を聞き分けるためにくれ返しくり返し聞いていることとそっくりではありませんか。運動と聴覚とは多少の違いはあると思いますが、先程の自転車に乗れるようになったことと、日本語を話せるようになったことの例からも判るように、もうほとんど同じと見て良いでしょうね。
ですから、当然、英会話を身につける上で本物の英語をなんどもくり返し聞くことは、間違いなく効果があると云うことを、きっとあなたに賛成していただけると思います。」
「なんだか判った様な判らない様な、そう思えば思えないこともないのですけど、まるで、宗教の勧誘を受けているみたいですよ。と頃で、その方法を始めて半年ということですが、効果は出ているんですか。」
「ええ、まあ、出ていると言えば、出て、いや、出ていますよ。」
「なんか辺ですね。自信なさそうですね。青野さんのお話しだと、文字や文法を覚えることはなんの役にも立たないことのように聞こえるんですが、ということはですよ、いま学校では無駄なことをやっているということですか。わたしにはどうしてもそうは思えませんね。文字や文法というのは、語学の基本中の基本ですから充分に役にたっていると思いますよ。」
「いや、役に立たないというのは、英会話のとき、その外国人がしゃべる英語を聞き取る能力の向上には、まあ、ほとんど役に立たないだろうということなんです。その他のとき、たとえば、本をよんだり手紙を書いたり翻訳したりするときには、充分過ぎるくらいに役立っていると思いますよ。だって文字や文法、つまり、単語や構文を覚えることは、人間に生まれつき備わっている素晴らしい能力の一つですから、わたしは意味もなく否定しようとは思いません。それはそれでどんどん活用していくべきだと思います。知識を広めたり、研究や学問を発展させるためには、絶対に必要なことだと思います。しかし、そのことはすべての人に当てはまるでしょうか、それは、そうことに携わる本の一握りの優秀な人たちにだけ必要なのではないでしょうか。
わたしたち普通の人にとっては、そうですね、外国に旅行に行ったときにそれほど困らない程度に日常会話ができ、洋画を見たときには、字幕スーパーを見なくてもストーリーが判ればそれで充分なんです。ところが、今のわたしたちはそれさえも出来ないんです。何年間も学校で勉強してきたというのに。わたしたちはよっぽどバカなんでしょうか。それとも、学校教育が悪いんでしょうか。でも、わたしは、わたしたち普通の日本人がそんなにバカとはどうしても思えないので、やはり、学校で教える勉強方法のどこかに欠陥があると思わざるを得ないのです。たしかにですよ、頭のいい人たちは、人並み以上に単語や構文を覚える能力があり、英会話のときも、聞きながら同時に頭の中には文字であらわされた文を思いうかべて、それからすばやく意味を理解するんでしょう。そして、しゃべるときも同様に、まず最初にしゃべりたいことを文字であらわされた文を頭の中で作り、それらを思い浮かべながら、なぞるようにしゃべるんでしょうね。
でも、わたしにはその方法はゆがんでいるというか、遠まわりをしているというか、あまり良い方法だとはとても思えないんです。言葉が本来持っている機能や役割に反しているような気がするのです。    さっきわたしが、少しあいまいな答え方をしたので、なんか自身がないように見えたんでしょうけど、それは効果がないからではなく、いや、効果はほんの徐々にではあるんですが、たしかに出ているんですよ。そうではなくて、その効果が出ていることを、あなたのような他の人に、いや他の人だけでなくわたし自身にもはっきりと判るようにね、どうすれば示すことができるんだろうかと、ふと思ったからです。文や構文を覚えるときは、これとこれを覚えたんだぞと自分にもはっきりと判りますからね。そして、その成果をペーパーテストでもって、はっきりと確かめることができますからね。ところが聞き取るということは、わたし自身の内部の問題ですから、つまり、生きた感覚のことですから、現実になにかを聞くことによってしか、しかもその聞いているときだけしか、その効果を確かめることができませんからね、それから今でも相変わらずこんなことがあるんですよ。以前に聞き取れたことが、何日か後に再びそれを聞いても、すぐに同じ様に聞き取れないということが、、、、それでちょっと言いよどんだのですよ。」
「やっぱりそれは覚えることを無視して、聞くことばかりに偏りすぎているからじゃないですか。」
「いや、はっきり言いますが、それは違いますね。覚えることは覚えるんです。文や意味を覚えるということはとても簡単なことなんです。なぜなら、物を覚えるということに深さなんてありませんからね。それはもう機械的にあっさりと一度覚えるだけで充分なんです。今問題にしているのはそう云うことじゃなくてですね、、、その再び聞いたときに聞き取れないというのは、その音の流れはどうにか追って行けるんですが、その内容というか、雰囲気というか、そう言うものがつかめないので入っていけないというか、しっくりとしない感じなんですよ。ですから、しばらくしてちょっとしたきっかけで、たとえば、単語やフレーズが聞き取れたり、文の全体の内容を思い出したりすると、そのあとは以前の同じ様に聞き取れるようになるんですよ。」
「それは記憶しているからこそ、できることじゃないですか。それならやっぱり覚えることは重要だということになりませんか。」
「ええ、記憶、つまり覚えることが重要だということは、確かにその通りなんですが、でもそれは、文字であらわされた文章の記憶ではなく、全体の内容の雰囲気、とくに音で表された感覚的な記憶、つまり、簡単に言ってしまうと音の記憶ですか。ですから、後で再び以前のように聞き取れなかったというのは、その音の記憶が良くできていなかったと言う事になります。よく音の記憶ができていなかったということは、よく音を聞き分けることができなかったということですから、つまり、よく音に慣れていない、またはなじんでいなかったということです。ということは、まだまだくり返し聞くことがたりなかったということですよ。
それよりもですね。わたしはむしろ、どうしてもテキストに頼りがちになるのが我ながら心配ですね。聞き取るということが苦痛なのか、それとも不安なのかわかりませんが、まずとにもかくにもくり返し聞くことを自分に課していながら、最初からテキストに目をやりその内容を覚えて、少しでも楽に聞き取ろうという安易な方法に頼りがちになるんですよ。なんど聞いてもどうしても判らないときだけ見ればいいものをその方法こそが集中力が出て最も良い訓練になると自分では思っているのですが、どうしても辛抱できないんでしょうね。文章を記憶すれば、それで理解したと思い込む長い間の癖からどうしても抜け出せないんでしょうか。
あれ、いつのまにか、また繰り返し聞くことが大切だということになっちゃいましたけど、アッ、そうそう、先程わたしは、この半年の間、わたしの聞き取り能力がどのくらい上達したかを示すのはほとんど不可能の様なことを言いましたが、でも、それは客観的にと言いますか、つまりどんな人にも納得できるような形では、ということでして、実際にわたし自身の内部では、この間いろんな変化が起こっておりまして、改めて色んなことに気づいたり、言葉と云うものに関して深く考えさせられるような様々な発見がたくさんあったんですよ。改めて気づいたことといえば、たとえば、冠詞がありますね、アとか、ザとか、聞き始めたときは最初言ってないんじゃないかとか、省略しているんじゃないかとか思っていましたよ。だって、ぜんぜん聞き取りなかったですからね。ところがそのうちに慣れてきて、なんとか聞き取れるようになると、ちゃんと言っていることが判りましたね。かすかにではあるが微妙なタイミングで、たしかに発音されているんですよ。決して省略なんかされていなかったんですね。それはまるで冠詞が本来持っている意味的な重要性からというよりも、表現の語調を整えて言い易いようにするために発音されているかのようなんですよ。
それから、わたし自身の内部の変化としては、たとえば、単に聞き取りやすくなったというだけどゃなく、聞いている最中になんとも懐かしいものを耳にしている様な、そんな感情的なものを感じるようになってきたんですよ。それこそまさにくり返し聞くことによって、音に慣れてきて徐々に身にいてきたという証拠なんでしょうか。日本語に置いては、わたしたちはもう日常的に経験していることなんですけどね。それからこんなこともありましたよ。英語では複数や三人称にはエスをつけたり、過去形にはイィディをつけたりしますが、今までは決まりごとなんだからと機械的に知識として覚えてきましたが、なぜそうするかの本来の感情的な意味や、感覚的な広がりとか雰囲気といったものが、からだの内側から接しているかのように、なんとなく判るようになってきたんですよ。たとえば三人称のとき、動詞にエスを付けるとき、そうするとによって、それは私達ではなく私達から区別されはなれたものと云うことを感じさせるようになっているんですよね。それから、複数を表すとき、エスを付けることによって、なんとなく簡単でないような、ごちゃごちゃしたような勢いが在るような雰囲気を感じさせるようにできているんですよね。それから過去形だって、イィディを付けることによって、今現在でないもの、なんとなく重そうな時間の広がりを感じさせるようにできているんですよね。発声に関する発見としては、アクセントや発音が正確であるというよりも、リズムや抑揚が大切だということでしょうか、だってリズム感があまり必要でないとされる日本語でさえも、アクセントや発音が多少違っていても、理解できないとはないが、リズムや抑揚がぎこちなかったりずれていたりすると、意味がまったく通じなかったりすることが在りますからね。英語の場合、リズムや抑揚を重要視するあまりですね、日本語では考えられないような文の区切りや省略の仕方や言いまわしがあるので、戸惑うくらいですよ。でも、そもそも日本語で身についたやり方が英語に通用すると思っていたのが間違いなんですけどね。英語にはなんか日本語とは違う独特の法則みたいのがありますね。
それは、おそらく、日本語にだってあるんでしょうけど。英語だからこうなるんだというなんか有無を言わせないものがありますね。でもかといって、でたらめで乱雑かというと決してそうではなく、無理がないというか、自然というか、こうなるからこうなるんだという合理的で必然的なものがありますね。そして、それは、わたしたちが頭の中で安易に考えたような理屈ではなく、感覚的というか、身についた肉体的というか、そんなものを含めたものの中からわき起こってきたというか、そんな理屈なんですよね。
たとえば文ですが、これは見た目は単なる単語の配列ですけど、わたしたちは文法として主語の次は述語とか、助動詞の位置はこことか、この場合の前置詞はこれであるとか、まるで文が作られる以前からその文法は存在している法則であるかのように覚えこんであり、また実際にも文章を書いたり理解したりするときには、それを厳密に当てはめたりしているんです。でも、現実には、これはたぶん、日本語においても同じなんでしょうけど、後から頭の中で考え出され付け加えられた理屈なんですよね。ですからわたしは、そもそも最初は、しゃべる者と単語があり、そして次に単語の配列があると考えたいですね。そこでは単語はどのように配列されるかによって、その単語自身は、おのずと色々な役割をその文の中で負わされるようになるんですよ。
英語の場合はとくに、単語の順番が重要視されるみたいですね。なぜなら、これはなんどもくり返し聞いているうちに肌で感じるように判ってきたんですが、しゃべるものは単語だけでなく、その配列の仕方に感情的な意味や意志を付け加えたり込めたりしているみたいです。そのことがはなつれる内容に奥行きや深みや生き生きとした感じを与えているんでしょうけど。そしてこのことは前にも触れましたが、しゃべる者の内部から自然と沸き起こってきたように、無理なくしかも非情に合理的で必然的でさえあるんですよね。ときどきなるほどと、なんて絶妙なんだろうと感じさせる表現が在りますからね。もし英語を日本語のような配列で意味を持たせようとしたら、きっと助詞のようなものが必要になったり、前置詞が後ろについたりするようになったりするんでしょうね。そうしたほうがしゃべりやすく聞きやすいという理由でね。このような事は日本語の場合にも充分に当てはまりますよね。たとえばわかりやすい例で言えば、鉛筆を数えるとき、わたしたちは、いっぽん、にほん、さんぼんと、助数詞の部分を、ぽん、ほん、ぼんとそれぞりに言い換えますよね。はたしてこのときわたしたちは言い換えていると云うことを意識しているでしょうか。これは誰かに教えられて出来るようになったのではないですよね。ほんとうに自然ですよね。わたしたちはなぜそうするのか判らないけど、とにかくそうせざるを得ないんですよね。しかし、かといって、それは決して思いつきや気まぐれで言ってるのでもないですよね。
でも、よくよく注意してみると、前の数の部分の言い方と関連していることからして、そこにはなんか法則のようなものがありますよね。わたしはそれは、少し前に述べたように、ことばをしゃべるときに、しゃべるものを支配しているというか、その体内に流れているというか、それと似たような必然性や合理性の働きによるものだと思います。そこでわたしは今まで述べてきたこのようなですね、英語にも日本語にも、いやすべての言語にも当てはまるような合理性をですね、わたしたちが頭の中で考えるような合理性とは区別してですね、それとは違う合理性、つまり、わたしたちの肉体の中に生まれつき備わっている所の合理性と考えてはどうでしょうか。
今これを仮に内的合理性とよびましょう。そうですね、このことをもっと判りやすく説明するのに何か言い方法がないでしょうか、アッ、そうそうこんな話しはどうでしょうか。音楽についてですが、その前に、ニ、三、質問しても良いですが。今村さんは音楽が好きですか、よく聞きますか。」
「ええ、好きですよ。聞くのも、歌うのも。」
「そうですか。わたしも好きですけど。ところで、クラシックはどうですか。」
「ええ、聞きますよ、たまにですけど。」
「うん、これはちょうど良い、実はわたしもそうなんですけど。クラシックってなんか変ですよね。わたしにはこんな体験があるんですよ。中学のとき、音楽の時間に始めたレコードで聞いたんですけど、なんか大げさで騒々しく、雑音みたいな感じで良く判らなかったです。でもその後なんどか耳にしながら年を経ていくうちに、だんだんじわっとしみるように判るようになって来たんですよ。これはなんでしょうね。簡単に言えば、聞きなれて親しみやすくなったという事なんでしょうけど、やはりくり返し聞く事の効果が音楽にも当てはまるという事なんでしょうか。不思議ですよね。こんな事もありませんでしたか。子供の頃、歌詞の意味も良くわからない大人の歌を覚えてうたっていたことが。どうして意味も判らない言葉のつながりを覚えられたんでしょうね。
まあ、考えられる事は、これはたぶん、まず覚えやすいメロディを先に覚えて、その流れのなかで、その流れに従わせるかのようにして自然と歌詞を覚えたんでしょうけど、まだ良く判りませんね。あっ、本当はこんな話しじゃなかったですよね。だいぶわき道にそれましたね。話しを元に戻しましょう。ところで今村さんは音楽に理論があることご存知ですよね。」
「ええ、詳しい事は知りませんが、でもあるんでしょうね。」
「そうなんですよ。わたしも詳しいことは知りませんが、在るんですよ、たしかに。一般にはあまり知られていませんがね。これからあげる例は音楽の基礎みたいなもので、理論というほどのものではないんですが、簡単で判りやすいので上げますが。音階というものが在りますね。ドレミファソラシドと。その始めのドから終わりのドまでは一オクターブなんですが、音の周波数は機械で計ったようにちょうど倍になります。たとえば、いま仮に、始めのドを四百ヘルツだとしたら、その次のドは八百ヘルツというふうに。これはこの後も一オクターブ上がるごとに同じことが言えます。つまり次の一オクターブ上のドは千六百ヘルツ、そしてその次は三千二百というふうに。とにかく倍、倍になるんです。それからその一オクターブの間には十個のそれぞれ周波数が違う音があってそれらの音の周波数には、確か高校の数学で習いましたね、あの等比級数という法則を当てはめる事ができるんですよ。
それから和音なんですが、それぞれ周波数が違う音が組み合わさってできているんですが、もしその音の組み合わせがでたらめだと、その和音の感じは不快で落ち着きのないものになるが、もしその組み合わせがなんとなく理屈に当てはまりそうだと、その和音の感じは、聞いて気持の良い調和の取れたものになるという具合にですね、その組み合わせというものが、なんともびっくりするくらいに絶妙で、まるで計算され尽くしたかのように法則的なんですね。そこには美しすぎるくらいの合理性が働いていると云うことを、誰もがきっと納得するに違いありませんね。これはまさに数学であり科学ですよね。音楽というのは数学や科学とはまったく正反対である感性の産物と考えられているのに、裏ではひそかに通じ合っているなんて不思議ですよね。しかし、わたしたちが歌を歌ったり聞いたりするときに、そんな周波数がどうだこうだとか、和音がどうのこうのとか、質面倒くさい理屈なで意識しているでしょうか。いやまったく意識していませんよね。
というより、そんな事を知らなくたって、わたしたちは十分に音楽を楽しむ事ができるんですよ。なぜなら、そういう合理的なことを感じたり理解したりする能力がわたしたちの肉体には生まれつき備わっているからです。もう今村さんはわかりましたね。こういうことだったんですよ。わたしが先程言った内的合理性というのは。これで十二分に納得いただけるんではないでしょうか。ところで、こういうことは音楽だけに限らず、他でもいえますよね。
たとえば、動作とか運動のときにも。わたしたちが行為として何か新しいことをやろうとするとき、最初はたいていぎこちないですよね。でも、そのうちにだんだん慣れてくると、体からは余分な力は抜けて動きがスムーズになってきますよね。とくにスポーツの場合はそれがハッキリとでますよね。練習してうまくなっていくにしたがって、動きはますます無理のないものなっていきますよね。そして無駄な動きが完全になくなって、それがあまりにも自然で理にかなっているように見えるときは、美しいと形容されるほどですよね。
これなんかも、わたしたちが意識してやっていることでなく、わたしたちの内的合理性のおかげなんですよね。時間もだいぶたちましたので、もうそろそろ本題に入らないといけないのですが、まだちょっと言いたりない気がするのでもう少し話させてください。このようにわたしはこの半年のあいだ、単に英語をくり返し聞くという事から、こんなにも色んな事に気付き、また色んなことを発見しました。そのなかでもとくに、たった今お話ししましたように、人間の誰にも備わっている内的合理性に従って行動する事の大切さですか、
つまり、人間はある程度自分の思い通りに自由に伸び伸びと行動する事が非常に大切であると云うことを知りました。この事は言い換えれば、自分の感覚や気分を信じろということで在ります。つまり、人間は何かをやるときはありのままの自分というものにもっと自信を持って自然にやれという事なんです。わたしはこの事を重要な成果と考えて、ということは、わたしのやってきたことは決して間違いではなかったということですから、今後もいままでのやり方を続けていくつもりです。前にも少し話しましたが、すでにうまく行きそうだという手ごたえは感じていましたから、最近では、ほんとうに英語を聞く事が楽しみなんですよ。時折驚くようなわくわくする事もありますよ。テキストの文を目で追うだけで、音が頭の中で響くようになるんですよ。英語の独特のリズムや抑揚をもってね。ですから聞く事はまるで躍動感にあふれた生き物を相手にしているような感じなんですよ。こんな事は昔学校で英語を勉強していたときには決して味わえなかった事ですよ。わたしが思うには、学校の勉強は、音楽にたとえれば、実際に演奏された音を聞くことなくその楽譜を一生懸命覚えているようなものだと思います。
そうですね、もっと判りやすい例にたとえれば、こんなのはどうでしょう。英語という言語を生きている人間にたとえるんですよ。英語を感情や表情や大きさや形を持った具体的に生きている人間とすれば、学校での勉強は、その人間の骸骨について勉強しているようなものではないでしょうか。ここには骨は何本在るとか、ここの骨はこういう構造をしているとか、といった具合に、まったく生命のないものを相手にしているようなものではないでしょうか。それはそうですよね。あえて言うまでのことではないんですが、わたしたち日本人が日本語を覚えたっていうのは、まだ何も知らない赤ん坊のときから、愛情を注ぐ両親や兄弟など、周囲の表情や感情に満ちあふれた人間のいうことをくり返し耳にしながら、その言うことを真似したり、ときにはその微妙な言いまわしや間違いを言い直したりするという豊富な日本語体験のおかげなんですよ。
ですから、とにかくそれは、見るだけでも聞くだけでもない、人間の全部の感覚を通して、その全体の生き生きとして雰囲気のなかで、言葉というものを身につけてきたんですから、英語を覚えるのにそれと同じ様な体験をするというのも当たり前であり、必要不可欠なことなんですよね。
ところで、今ふと思いついたんですが、なぜ九官鳥が長い昔話を話せるのか良かったような気がします。それはこういうことではないでしょうか。わたしたちは、日本語の歌だけでなく英語の歌でも、その歌詞の意味が判らなくても覚えて歌ううことができますが、それは前にも話したように、まずその歌の持つ雰囲気ですね、リズムとか調子とか、そういうものに自分をあわせるかのようにするとともに、メロディは覚えやすいので覚えながらその流れのなかで、その流れに従わせるかのようにして自然と歌詞もいっしょに覚えていったということなんですけど。九官鳥もその雰囲気やメロディに当たるものを、なんども繰り返して聞かせる飼い主の中に感じ取っていたのではないでしょうか。たとえば、わたしたち人間が話しているとき、その相手の表情や語調から言葉の意味以上の色んなことを感じてるように、その九官鳥も飼い主がしゃべっているときに、その動作や表情やロ調の中に、人間にも識別できないような微妙な違いを感じ取っていたので、それで覚えられたんではないでしょうか。
もう、すぐ話しがわき道にそれてしまいますね。これまでの話しからすると、すべてが順調にいっているように見えるかもしれませんが、実はちょっと問題があるんですよ。というのも、それはわたしがこの方法を始めたときからずっと解決されずに続いていたことなんんですけどね。それはですね。テープの英語にも慣れ、聞き取りもだいぶ上達したに違いないと自分では思っているんですが、にもかかわらず、テキストの新しい章に入るとき、どうしても最初にその文章の部分を見て、単語の意味を覚え大体の内容をつかんでから聞いているんですよ。そうするのは実は楽だからなんですけどね。何も知らずに始めて聞くのとは、判る量がぜんぜん違いますからね。とにかく聞くことが大切だ大切だといっておきながら、現実は昔のように文字に頼っているありさまなんですよ。
まず最初は予備知識なしに聞くことが、意識を集中させて耳を鍛えるという意味で、大変に重要だということは充分すぎるくらいにわかっているのですが、情けないことに我慢できないんですね。聞き取れないという苛立ちのために。
そもそも聞き取れないということがいまだに文字に頼る様るさせている最大の理由なんですけどね。聞き取れないのでなんとか聞き取ろうとするから、なんか変に緊張して帰って聞き取れなくなる。そこで今の葉なんだろうと思っていたりすると、そのあいだにテープはどんどん先に行ってしまい、ますます聞き取れない部分が増えていって、そのまま意味も内容もわからずに最後は混乱状態で終わってしまうという悪循環に陥ってしまうということがね。まあ、仕方がないというば仕方がないことかもしれませんね。まだ初めて半年ですから、こんなに早く身についたとしたら、この年で、二、三日の練習で一輪車に乗れるようなものですからね。ですから、たしかに聞き取れないというのは現実なのですから、それを潔く認めて、混乱して先に進めならくらいなら、あらかじめその内容を知っておくのも、今の段階では必要なことかもしれませんね。とにかく、完璧に身につくまでは仕方がないことかもしれませんね。
わたしが試みていることは、自転車に一度乗れるようになれば一生乗り続けることが出来るように、一度身につけたことは決して忘れることがないような方法です。ご存知のように学校での英語の勉強は主に単語や構文を暗記することですが、これはある程度時間をかければ誰でもできます。しかし、その反面、時間が経つにつれて、それは徐々に忘れ去られてしまうということもまた事実なんですよ。その点、わたしの方法はそんなことはまずないでしょう。
では、わたしの方法に欠点がないかというと、そうでもありません。わたしの方法はごく稀には、ものすごい短時間で身に付けることが出来るような人がいる一方で、どんなにがんばっても一生身につけることが出来ない人が出るかも知れません。なぜなら、どんなに努力しても、結局一輪車に乗ることが出来ない人がいるようにね。
このようにいろんなことがありますが、今のところ、わたしはどうしても聞き取れないときには、とくに長い文のときですが、、そのときは、そこだけテープを巻き戻してなんどもくり返し聞くようにしているんですよ。それでも正直いって、ときには聞くことが本当に嫌で嫌でたまらなくなるときがあるんですよ。まるで体の芯から英語に対して拒絶反応を起こしているような感じでね。
まあ、それはおそらく、わたしがそれだけ生きた英語体験に接しているということなんでしょうけど。というのもわたしの方法というのは、日本語のリズムや発声のやり方から出来るだけ離れて、英語のそれを、まだ何も知らない赤ん坊のような気持で信頼して、耳に聞こえることだけを頼りに、耳に聞こえるようにありのままに受け入れることですから。これは、言い換えれば、日本語の持つ雰囲気や世界を捨て、英語のそれに身も心も委ねてしまうことですからね。もう少し大げさに言うと、日本人をやめて外国人になろうとしていることですからね。
前に確かこんなことを話しましたね。英語を聞きながら、それからほんの少し遅れるようにして頭の中で反復出来るようになったことは英語が身についてきた証拠だって。まさにその通りなんですが、実は、その反復が出来るというのは、決して発音やアクセントをきちんと聞き分けられるようになったからではなく、ましてや、単語の正確な知識や記憶のおかげでもないんですよね。それこそまさに英語のリズムが体全体に染み付いたかのように、身も心も英語が作り出す雰囲気や世界に完全にのめりこんでいるということが、最終的には重要な役割を果たしているみたいですね。
それにしても聞くって不思議ですね。文法的におかしいと思っていても、聞いてみるとちっとも変じゃない、言葉って聞いて感じが良ければそれで良いのかも知れませんね。とにかくわたしは色々なことにめけずに、真面目に聞き続けているよけですよ。まあ、余談になりますが、フランスは英語によって文化が侵略されるといって、英語を使うのを止めようとしていますが、日本ではそのような心配はまったくないと思います。なぜなら、いまのような頭を使うだけの教育を続けているかぎり体から沸き起こるような拒絶反応は起こりませんからね。ああ、ようやくこれで今日の本題に入れそうです。ここまで来るのにだいぶ時間がかかりましたけど、。先程も言いましたが、聞き取れないときテープ巻き戻して聞くというのは、それはそれで良いんですが、でも、よくよく考えてみますと。もう少し効率のいい方法は果たしてないんでしょうか。この先端技術の発達した時代にですよ。巻き戻して聞くというのはそれなりに大変なんですよ。感できちんと決められたところに止めないといけないのでけっこう神経を使うんですよ。それもなんどもくり返しですから。そうなるとむしろ操作のほうに神経が行ってしまって、聞くことに集中できなくなるんですよ。なんとなく時間の無駄をやっているような気がします。そこでこう考えるのは当然じゃないでしょう。



 三部に続く







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