老人と猫(八部)
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はだい悠
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「もう、やめよう。今日の君はどうかしてる。」
「あっ、そうそう、それなら、どこがどう変なのか、あれ、精神分析ってあるでしょう、それをやっていただけません。」
「それは僕の専門じゃないから判らないなあ。」
「へえ、あなたにも判らないことがあるんですか。なんにでも知ったかぶりをしてロを出すあなたにも。」
「学問と云うのは素人がロを挟むような安っぽいものではないんだ。もっと奥深くて秩序があって体系的で、君のような感覚的な人間にはわかりっこないよ。」
「そうでしょう、そうでしょう。最も身近にいる人間のことなんかちっとも判らないんですからね。結局、学問と云うのは、実際にはなんの役にも立たないという意味なんでしょうね。」
「それは、ちょっと言いすぎだよ。役にたっているじゃないか。お前だって人並み以上の生活が出来るのは、私がやっている心理学という学問のおかげじゃないか。」
「あなた、あなたに私がこれからやろうとしていることが判ります。」
「判りません。私は超能力者じゃありませんから。」
「そうでしょうね。わたし、わたしね、あなたのことが嫌いだってことにようやく気が付いたの。それで離婚しようと思っているの。」
「なにを言うんだいきなり。子供たちはどうするんだよ。」
「子供たち、あら、あなた、子供を抱いたことありましたっけ。」
「あるよ、あるさ、そうそう生まれたときに、、、、」
「そのときだけよね。私はあなたがほんとうは冷たい人間のような気がするわ。あなたは家にいるときもテレビに出ているときも同じ様に話をする人なのね。」
「なにを訳の判らないこと言ってんだ。君と違ってね。僕にはやることがいっぱいあるんだよ。色んな学会やシンポジウムに出たり、論文や報告書を書いたり、とにかく忙しいんだよ。」
「そうかしら。あなたはあれね。あなたにとっての愛情というものは、すべて一度あなたの頭の中を通って言葉に翻訳されてから出てくるのね。」
「訳の判らないことごちゃごちゃ煩いんだよ。君はあれだね、昔、本でこんな事を読んだことかあるけど、ほんとうだね。女には子供とムチが必要だってね。」
「あら、それでどうするつもり、わたしをぶつつもり、やって見なさいよ。」
「なにをバカな、、、、どんなものでも、暴力と名のつくものはすべて否定してきた僕にそんなことが出来る訳ないじゃないか。」
「そうなの、そうなのよ。あなたはそうやってすべての暴力を否定してきた。でも、いつのまにかその暴力と同時に感情までも否定するようになったのよ。わたしにはそれが絶えられないのよ。」
なんか落ちつかないところだなあ。他に行こう。よいしょっと。静かだなあ。ここはどこだろう。みんな居ないな、どこへ行ったんだろう。あれ、ここは見たことがあるぞ。なんだコウエンじゃないか。やっぱりコウエンは良いなあ。あっ、ニンゲンがいる、なにやってんだ。
「ペッタ、ペッタ、ペッタ、ペッタ。」
「ああ、もう、倒れそう。」
「ねえ、おかあさん、これで何周目。」
「五周目かしら。」
「やっぱり無理よ。ああ、情けない、普段はあんなに威張ってるくせに。」
「ねえ、一周ってどのくらいあるの。」
「三百メートルぐらいかしら。」
「それを一分間で走るんでしょう。」
「今はどのくらいかかったの。」
「ええと、七十秒かな。」
「ねえ、おかあさん、おとうさんになにがあったの。」
「なんか、最近仕事がね、うまく行ってなかったみたいだから、むしゃくしゃしてたんじゃない。」
「びっくりだよね。おとうさんがジョギングをやるなんて、あんなことしたってなんの役にも立たないってバカにしてたのにね。」
「でも、なんで私たちまで付き合わなくてはいけないの、テレビ見ていたいのに。」
「昼間走れば良いじゃん。」
「恥ずかしいんじゃない、知ってる人に見られるの。」
「最初から無理だってわかっているのに、おかあさんなぜ反対しなかったの。」
「だってお父さんは何でも自分ひとりで決めてやる人じゃない。」
「それなら自分ひとりで走れば良いのに。」
「お父さんはね、ほんとうは怖いのよ。最近この公園で色んなことがあったでしょう。」
「もうやめて帰ろうよ。」
「来たわよ、今度はどのくらいかかっている」
「さっきと変わんない。」
「ねえ、ユウトにマミ、みんなで応援しようよ。お父さん、がんばって。」
「がんばれ、がんばれ、おとうさん。」
「それを言うなよ、がんばっているのに、がんばってないみたいじゃないか。」
「ずっと、一分以上かかっているよ。」
「わかってる。」
「がんばれ、がんばれ。」
「もう、うるさい。」
「あいかわらずね。」
「もしかしたら、お父さん照れてんじゃないの。」
「出来ないならやめたほうか良いのに。」
「それが出来ればね。お父さんは一度決めたことは最後までやる人だから。よく言えば真面目、悪く言えば頑固なのよ。」
「お父さん、年取ったわ、きっと頑固ジジイになるんだろうね。」
「生まれつきの職人だから。」
「ショクニンって。」
「職人って云うのは、仕事しているときが一番幸せな人たちのことよ。」
「じゃ、おかあさんは何をしているときが一番幸せなの。」
「おかあさん、おかあさんはご飯を食べているときかしらね。」
「だから、こんなにデブなんだ。」
「言ったわね。」
「ねえ、おかあさんも一緒に走ったら。」
「わたし、わたしはいやよ。もったいないじゃない、せっかく貯め込んだのに。」
「あっ、来たわよ、どうタイムは。」
「なんか、おかしい、さっきより早くなっている。」
「お父さん、がんばって、がんばって。」
「今度は何も言わなかったね。」
「そうだね、おこりん棒のお父さんらしくないわね。」
「ねえ、なんとなく元気が出てきたような感じがしない。」
みんないないなあ、どこへ行ったんだろう。静かだなあ。また暗くなってきた。ニンゲンいないな、あそこのベンチの下で眠ろう。みんなどこへ行ったんだろう、、、、マヌケにカタミミ、、、、ウレイにクロトラ、、、、チビどもに、コワソウに、ツヨソウ、、、、ツヨソウはやられたか、、、、カワイイ、カワイイの脚を切ったのは、、、、どうしたんだろう、なんか変だな、なんかあったのかな、体がおかしい。あっ、空が光っている。なんだろう。なんだろう。木がなんか変だ。何か聞こえる。なんだろう、なんだろう。
「タイガーじゃないか、どうした、そんなに毛を逆立てて、怒っているのか、いや違うな、まさか、もしかしたら、やっぱりそうか、そうだったのか、お前は他のネコと違うと思っていたが、やっぱりそうだったのか。お前には判るんだな、いや感じるんだな。何かおかしいって。そうなんだよ。これは地震が来る前触れなんだよ。大地震がこの町にやって来るんだよ。ワシはお前と同じ様に感じるんだよ。何十年も大地に寝そべっているからな、どんな地震が来るかって判るようになったんだよ。でも、誰も信じてくれないけどな。いや、なあに心配するな、お前たちはそのときになったら木にでも登ればいいんだよ。大変なのはニンゲンさ壊れるものをせっせと作り続けてきたニンゲンさ。ニンゲンは壊れるものが壊れると都合が悪いみたいなんだ。なあ、そこでだ、ワシは町に出て行って、みんなに知らせるつもりなんだ。大地震がやってくるぞってな。まあ、でも、いまは夜明け前だ、まだニンゲンは寝ている。その前に少し話しでもして時間をつぶそうと思うんだ。タイガー、さあ、こっちに来いよ。まあ、すっかり体がこわばちゃって、恐いのか不安なのか、でも、もう、だいじょうぶさ。お前なんて不思議な目をしているんだろう。単純で空っぽな人間の眼よりも色んなものが詰まっている。そうだよな、色んなことがあるかにな苦しいんだろうな、寂しいんだろうな。なあ、タイガー、ニンゲンはもうだめだ。人間はもう変われない。なぜなら人間は何か問題がおきるとすぐ頭を使って解決しようとするからさ。でも、お前たちは変われるぞ、良いか、困ったことや危険な目にあったら、みんなで必死に思うんだ、全身で思うんだ。大きな牙がほしい、大きな牙がほしいって、速く走りたい馬のように早く走りたいって、そうすればライオンや本物のトラように強くなれるぞ。もうだいぶ楽になってきたみたいだな。タイガー、お前だけだよ、ワシの言うことを判ったような顔をして聞いてくれるのは。でも、ほんとうはどうなんだ。まっ、良いか。昨日は結局誰もワシの言うことを信じて入れなかったよ。まあ、慣れてるから平気だけどさ、最もワシだって、本気で判ってもらおうとは思ってなかったけどな。タイガー、ワシは若いときたくさんのニンゲンを殺したんだよ。おや、ちょっと驚いたかな。五十年前、日本はアジアに新しい世界をつくろうとしていたんだよ。理想郷のような世界をね。そこでワシもそれに貢献できるならと思って、はるばる海を渡って隣の国へ行ったんだよ。そしてそこでたくさんのニンゲンを殺したんだよ。いや、それだけじゃないんだ、、、、日本に帰ってきてから、ワシはこの世で最も愛しているものを、、、、この世で最もワシを信頼してくれるものを、そうワシの唯一の生きがいである妻と幼い息子を殺したんだよ。恐いか、タイガー、そうでもない、どうして、まっ、良いか。ところがだ、なぜか誰もワシの言うことを取り合っていくれないんだよ。みんな狂人扱いしてさ。そうだ、タイガー、良い物を見せてやろう、ワシの若いときの写真じゃ。たった一枚しか残っていないワシの写真じゃ。これがワシだ。なんて端正な顔立ちをしているんだろう。これじゃ今は見る影もない。このワシと同じ人物だなんて、誰も思わないだろうな。周りにいるのがワシの同僚じゃ。この帽子をかぶっている人たちはだな、そうだな、勇者といってな、ワシが若いときに二番目になりたかった職業なんだよ。ユウシャ、勇者と云うのはだな、祖国のため家族のため、そして自分の名誉と誇りの為に、死をも恐れず勇敢に戦う人たちの事を言うんだよ。どうだ、みんな格好良いだろう、凛々しい顔をしているだろう。なにせ、みんな夢を抱き、遠くを未来を見つめているからな。わしだって夢を抱いていたさ、いやワシだけではない、日本中が熱狂的に夢見ていたんじゃよ。なあ、タイガーよ、ワシは物心ついたときから、三つ年上の兄と一緒にな、医者をやっている父や叔父から、人間の生命を救うことが最も尊いことだと教えられて育っていたんじゃ。そこでワシらは父のような有名な医者になることを目指して、小さい頃から勉強に励んでいたんじゃよ。幸いにも、わしらの家は周囲の家よりははるかに裕福であった所為か、友人たちよりは恵まれた環境で勉強することが出来、成績のことで両親を心配させるようなことはなかったね。それは両親が期待していたことでもあり、またワシもその期待に応えることが、親孝行となり、ひいては家の為になると思っていたからなんだろうけど、とくにワシは兄より幾分大人しく真面目であった所為か、大学を卒業するまでずっと優秀な成績を収めることが出来たんじゃよ。そしてひと通り医学の勉強が済んだ後、さて、ではどの道に進むかと云うことになって、ワシは研究者の道を選んだのじゃよ。なぜかって、それはな、すでに兄が医者になっていて、家を継ぐことが決まっていたし、ワシには研究者の方があっていると思ったからじゃよ。そのほうが医学の発展、ひいてはニンゲンの幸福により多く貢献できると思ったからなんじゃよ。学業の成績から見てもワシにはその能力があると思っていたし、周りね人たちもその事を大賛成してくれたからね。そしてわしは研究生活に入ってのじゃ。地味ではあったが、選ばれたもののような誇りと自身を感じながら、充実した日々が始まったんじゃ。そんなあるとき、ワシは、海を渡った隣の国で研究をやってみないかと声を掛けられたんじゃ。そこでは豊富な研究費と最先端の施設のもとで、やりたい事を自由にのびのびと研究できるということじゃった。なあ、タイガーよ、ワシら研究者にとっての最大の目標は、まあ、それが同時に生きがいでも喜びでもあるんだが、まずは一刻も早く研究に成果をあげることなんじゃよ。つまり、人に先んじて病気の原因や新しい薬や治療方法を発見することにあるんじゃよ。まあ、はっきりいってしまうと名声を得ることかな。だからその話はワシにとってはまさに渡りに船じゃったよ。当時、日本はだな、アジアで最もすすだ文明国としてな、あらゆる面で西洋に対抗できる唯一の国としてな、他のアジアの国々の発展と平和の為に、その中心となって積極的に貢献しようとしていたんだよ。まず日本はだな、アジアに西洋に対抗しえる文明圏を建設しようとして夢と希望に満ちあふれていたんだよ。そんなときにワシが、最新の医学を身につけたこのワシが、あまり進んでいない隣の国に行って研究をやるということは、つまり、みんなの先頭に立って指導的な立場でやらなければならないということでもあり、ひいてはそれは新しい理想社会の建設に医学を通して貢献できるということでもあるんだよな。だからワシはどんなに夢が膨らんだことか。そしてワシは、夢の実現を信じ、魂が打ち震えるような使命感を抱きながら海を渡り隣の国へ行き研究に取り掛かったのじゃよ。色んな研究がおこなわれた。様々な実験がおこなわれた。動物を使ったりニンゲンを使ったりしてな。そこでの毎日は日本に居たときとそれほど変わらなかったな。それはワシが、医学の発展が人類の幸福につながると云うことを心から信じて、わき目も降らずに研究に没頭できたからなんだろうけど、とにかく一刻も速く目に見えた成果をあげることが研究者としての責務だったからね。なにしろ研究費も研究施設も申し分なかったから根、期待に添えないと悪いじゃないですか。そんな中で酒好きの同僚が酔っ払ってよくこんなことをいうのを耳にした。それは実験にされる人間についてだった。奴らはニンゲンじゃない、奴らは犯罪者なのだ、生きていたってしょうがない連中なのだ、これで世の中から悪いやつがいなくなって良いじゃないかってな。ワシは酒を飲まなかった所為か彼らの気持がよく判らなかったので、これといって賛成することも反対することもなかった。当時、ワシが正直に感じたことは、実験用として送られてくる人間は皆汚くて、みすぼらしくて、生きる気力を失ったようなニンゲンばかりだった。たまに獣のように暴れ出す元気なものもいたが、たいていは大人しく従順だった。そのあまりの従順さは、もしかしたら彼らは自ら進んで積極的に実験に協力しているのではないかと思われるほどだった。それだからワシにとっては実験は順調だった。ワシはいつも冷静だった。それは、おそらくワシが普段から科学者というものはどんなことがあっても、理性的で客観的でなければいけないと自分に言い聞かせていたからではないかと思うんだな。そのことは科学者には最も必要なことなんだよな。だからさワシに取っては、新しく彼らを迎えることは新しい試験管を手にするときと同じ様な気持だったし、彼らと別れるときは壊れた試験管を捨てるときと同じ様な気持ちだったんだよな。とにかく実験しているときの気持って云うのは、日本にいるときとそれほど変わらなかったな。そのことは他の研究員にもいえるみたいだったな。実験の最中はみんな真剣で気難しそうな顔をしているが、いったんその場を離れると朗らかで、たわいもない冗談を言い合ったり、お互いの家族の話をしたり、なかには懐かしさのあまり家族からの手紙に人目もはばからずに涙を流したり、それをわざわざ他の人に聞こえるような声で読んだりするものがいたりして、みんなそれなりに日本人であることに満足しているみたいだった。たまにではあったが映画を見たり春には花見をやったことなんかほんとうに楽しい思い出として残っているくらいだ、、、、ニンゲンがたくさん死んでいるというのに、、、、ニンゲンが何にもいわずにたくさん死んでいるというのに、、、、もしかしたわワシは、、、、動く歯車のように一生懸命誠実にひたむきにたくさんのニンゲンを殺した最初の人ではないだろうか、、、、恨みや憎しみからではなく、ましてや自分の生命を守るためでもなく、まるで機械の故障を見つけるかのように冷静に理性的にたくさんのニンゲンを殺した最初の人ではないだろうか、、、、いつのまにか戦争に負けてそこを離れるとき、ワシらは言われたんじゃ、ここであったことは決して人に言ってはならない、すべて忘れろって。そして日本に帰ってきた。その頃日本は自分が生きるだけで精一杯で、だから、そこであった事を人に話すどころか思い出しもしなかった。まあ、ほとんだ忘れてしまったと言っても良いくらいだった。そしてワシは再び研究生活を始めた。そうなんだよ、タイガー、ワシはあそこのケンキュウジョに勤めていたんだよ。生活が落ちついた頃ワシは見合い結婚をした。若くて美しい女性だった。その上やさしくて献身的で、しかも賢くて教養もあり、こんな女性がまだ日本にいたのかと思うような天女のように素晴らしい女性だった。最初わしは直感的に自分にはなぜかもったいないような気がしたのを覚えている。そして人がうらやむような新婚生活が始まった。まもなく息子が生まれた。とにかく元気な太陽のような笑顔の子供だった。始めてこの両手で抱き上げたとき、地の底から沸き起こってくるような生命のほとばしりを感じた。そしてわしは生きる喜びを感じ始めた。妻も息子もワシの事を心から信じ頼りにしてくれていた。ワシは生まれて初めて幸せと言うものを実感しいた。妻と息子のことを思うと自然と顔に笑みが浮かんでくるような毎日だった。ワシは自分が神様か何かから選ばれて祝福されているような気がしていた。そんなあるとき、妻と息子が悪い風にかかった。ワシは、、、、ワシ、、、、ああ、今でもあのときの気持が思い出せない。なぜ、なぜ、あんなことをしてしまったのか、、、、判らないんだ。でも、わしがやったことははっきりと覚えている。ワシは、ひそかに研究所から持ち出した毒薬を、良く効く薬だといって二人に飲ませ殺した。愛して、愛して、愛してやまなかった妻と息子をワシは殺した。わしに生きる喜びを与えてくれた妻と息子をワシは殺した。ワシは警察に行って、何があったかをすべて正直に話した。ところが、ところがだ、タイガー、なぜか警察はワシの言うことを聞いてくれないんだよ。それは事故だというんだ、自分の不注意で妻子を死なせた罪の意識からそんなことを言うんだろうって言うんだよ。日頃から、あなた方家族を見ている近所の人たちは皆そんなことはありえないって、あんなに仲むつまじい夫婦に、あんなに幸せそうな親子にそんなこと起こる訳ないって言ってるって、ぜんぜん取り合ってくれないんだよ。挙句の果てになんて言ったか、こうだぞ、愛する妻子を突然失ったんで、その悲しみのあまり少し精神に変調をきたしたんじゃないかって、そんなことはない、絶対になかった。わしは帰るところを失ってしまった。なぜなら、ワシを狂人扱いにするところには戻ることは出来ないからだ。生きる気力もなくなってしまったワシは死んでも良かったのだ。でも、なぜか死ぬ理由が見つからなかった。ほんとうは何にも考えることが出来なくなっていたんだろうけどな。ワシはどこをどう歩いたか判らないくらい歩いて歩いて、さまよった。そしてワシはなるがままに任せることにした。喉か乾こうが腹が減ろうが何もしないことにした。それで死ぬならそれでも良いと思った。何日か経ってのどの渇きも空腹もあまり感じなくなって意識が朦朧としていたとき、雨が降ってきた。雨は頬を伝わりロに流れてきた。わしはそれを飲んだ。自分の意識とは関係なくロや喉が自然と動く感じだった。わしはそのまま飲み続けた。さぞやうまかったんだろうな。それでもワシは自分で何かを探して空腹を満たそうとは思わなかった。それから何日かして体が思うように動かなくなってきたとき、通りかかった見知らぬおばあさんがワシにおにぎりをくれた。ワシはよっぽどものほしそうな顔をしていたんだろうか、とにかく必死に食べるように薦めた。ワシは手を伸ばしてそれを受け取るとさっそく食べ始めた。ワシは無意識のように何も考えずに食べ続けた。今でもそれがとのようにうまかったか思い出せないくらいなんだからな。その日からわしは成り行きに任せて生きることにしたんじゃよ。水があれば飲むし、食べるものがあれば食べるし、道があれば歩きたいだけどこまでも歩いていくし、人の邪魔さえならなければどこにでも寝るといったぐあいにな。なあ、タイガーよ、あれからもう五十年にもなるんだな。よく死ななかったもんだ。なぜだろう。ワシみたいな役立たずが、病気さえしなかったもんな、不思議なもんだ。見ろ、ようやく夜が明けてきた。雲が流れているな、風が吹いてきた。雨が降るのかな、でも、そんなことは関係ない。さあ、これから町に出でみんなに知らせなくては。大地震だ、大地震がくるぞって叫びながら走り回るんだ。きっとみんなは見向きもしないだろうな。それでも言い、力尽きて倒れるまで走って走って走り回るんだ。さあ、行くぞ、タイガー、お前にはもう会うことはないだろうな、元気でな、良いか決してうろたえるなに、地震が来たらとにかく人がいるところから離れろ良いな。そうすれば助かるからな。タイガー、それから、もしこれから威張り腐った奴に会ったら決してひるむな、戦え、全力で戦え、そうすればいつか必ず勝てるようになる。それから、もしこれから何か食い物に困ったら、盗め、ニンゲンから盗んで食べろ、決して遠慮するな。タイガー、とにかく生き延びるために戦え、盗め、奪え、そして化けろ、、、、」
ああ、行っちゃった。これからどうすればいいんだろう。みんないないな、眠ろうか。揺れている、揺れているキがゆれている、カゼなのか。おっ、冷たい、なんだアメか。チビは、、、、そうだ、あのチビのところへ行こう。どうしているかな、ちゃんと食べたかな。揺れてる、揺れてるこれはカゼなんだ。みんなどこへ行ったんだろう。こっちに行けばいいんだな。
「居たわね、やっと見つけたわ。さあ、良い子だからこっちにいらっしゃい。食べるものあるわよ。ねえ、他のみんなはどうしたの。」
おっ、この間のクソババアだ。
「どうしたのよ、いつものように食べなさいよ。あら、いやだっていうの、まったくお前たちはわがままなんだから。こら待ちなさいってば、恩知らず。今度見つけたらただじゃおかないからね。」
さあ、はしれ、逃げろ。どうしたんだろう、急に。怒り出して、恐いな。変なクソババアだ。そんなに食いたくはないって言うのに。はしれ、はしれ。たしか、こっちだったな、はしれ、はしれ。ドーロだ、クルマは、クルマは、さあ、いまだ、わたろう。はしれ、はしれ、はしれ、こっちに行けば、たしか、、、、あった、あった。いるかな、いるかな、ヘイをわたってと、カゼが強いな、よして、ここから降りよう、よいしょっと、チビ、チビ、いるか、チビ、チビ、どうした、いないのか、タイガーだ、どこにいるんだ。なんだ、居るじゃない。こんなところに隠れるようにして。どうしたネズミ食ったか。
ネ、ズ、ミ、って。
いやなんでもない、どうだい、腹減ってないか。
あんまり食べたくないの、お腹が痛くって。
そうか、そうか。どうしよう、どうやって、チビをここからだそうか。あっちのイシガキはむりだしな。こっちのヘイはチビには高すぎるしな。おい、チビ、歩けるか。
あんまり歩きたくない、でも、なんとか歩いてみるよ。
よろよろだな。どうだいチビ、ここを出て、セカイに行かないか。
なあに、セカイって。
セカイって云うのはだな、いろんな奴がいてな、とにかく、、、そうだナカマがいるぞ。
なあに、ナカマって。
ナカマって云うのはだな、チビ、とか、タイガーとか言って寄って来てな、こうやって触ったり触れたりする奴らのことだよ。
ふっ、なんだ、あんまり会いたくないな。
そうか、そうなのか、あんまり会いたくないか。どうすりゃあいいんだよ。ちくしょう、あんなものを作りやがってさ。みんなニンゲンが悪いんだ。ニンゲンはだめだ。
なあに、ニンゲンって。
ニンゲンって云うのはだな、いやな奴、だめな奴のことなんだよ。なんにも出来ないくせにさ、いつも威張りくさっている奴らのことなんだよ。
タイガーより強いのか。
いや、強くない、強くない。
だったら、やっつけちゃえば良いのに。
そうだな、たいしたことないからな。まあ、やっつけるのはいつでも良いんだ。
なあに、あれは。
あれ、あれは、カゼっていうんだ、ソラにあるんだ。
なあに、ソラって。
うっ、ソラって云うのはだな、こうやって、こうやって、そうだ。こっちのほう、こっちのほうのことだよ。おい、チビ、今なんか当たっただろう、冷たいのが、それはアメって言うんだ、ソラから落ちていたんだ。
アメ、アメって言うんだ、当たっても痛くないんだね。ちょっと冷たいけど。音がしないから痛くないのかなあ。
そうだね、当たっても痛くないんだね。そうだ、チビ、イシがいっぱいあるここにあがろう。ここにあがればきっとカゼがあるぞ。だいじょうぶか、歩けるか。
なんとかやってみる。
ゆっくり、ゆっくり気をつけてあがれ、もう少しだ。もう少しで一番高いところだ。
よいしょ、よいしょ。わあ、これがカゼなの、気持良いなあ。なんかとっても元気が出てくるみたい、ねえ、セカイってもっと気持良いの。
うっ、うん、そうだな、いろんなことがあるからな、、、、チビは、ユウシャみたいだな。
なあに、ユウシャって。
ユウシャって云うのはだな、チビみたいに、がんばって、がんばって歩く強い奴のことを言うんだよ。
わあ、そうなんだ。でも、もう降りないと、なんかとても疲れた。
チビ、なんか食べるか。
良いよ、もう、なんにも食べたくない。
そうか、そうか。どうやってチビをここからだそうか。チビ、生きたいか。
なあに、イキタイって。
イキタイって云うのはだな。そうだな、イキル、イキヨウとするこ、、、、チビ、チビ、どうしたんだ、どうして頭を下げてんだ、、、、動かない、動かない、チビは動かない、いったいどうしたんだ。なんにも感じない、なんにも感じない、、、、もういい、もういい、、、、ここから出よう、ここからでよう、、、、もういやだ、もういやだ、、、、どこかに行こう、どこかに行こう、、、、

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