老人と猫(七部)

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          はだい悠



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「そんなことはないですよ。憲法は誰にもわかるような文章で書かれてありますから、読めばおじいさんにだってきっと理解が出来るはずです。それよりも今の私たちの生活とどんなに深く関わっているかが判るはずです。とにかく私たちの社会は良くなりました。何もかも人間が望むように便利になりました。生活レベルは劇的に向上しました。衣食住に困るような人はほとんどいなくなりました。教育も望むものは誰でも高いレベルまで受けられるようになりました。おかげで科学も学問も発達し色んなことを知ることが出来るようになりました。病気になっても誰でも医者に見てもらえるようになりました。そのおかげで世界一の長寿国になっているではないですか。他にもまだまだありますよ。誰でも充分な余暇がもてるようになり、趣味やスポーツだけではなく、芸術や自然にも好きなだけ自由に親しめるようになりました。行きたいと思えばどこへでも自由に旅行が出来るようになりました。まさに文字通り健康で文化的な生活が出来るようになったわけですよ。もちろん、便利になって生活レベルが向上したからといって、何の問題もないわけではありません。その意味ではおじいさんの疑問もなんとなくわるような気がします。交通や産業の発達に伴って、公害で健康を損なったり、それまでなかったような病気に苦しむ人々が多く出てきましたし、事故や災害の危険に会う確率が考えられないほど高くなっています。犯罪だってだんだん凶悪化してきていますし、その数も増える一方で決してへる様には見えません。社会がめまぐるしく変化し複雑になるに従って。予期せぬ事件やトラブルに巻き込まれたりする人々や、人間関係で悩む苦しむ人々が増えてきました。それから、いくら私たちの生活が豊かになったといっても、失業の不安は常に付きまといますし、いくら人間の権利が保障され自由で平等だからといっても、放っておけば、強い者はますます強くなり、弱いものはますます弱くなり、貧富の差もどんどん拡大する傾向にありますし、権力を握る政治家だって、私たちがちゃんと監視しておかないと、何をしでかすか判らないというありさまですから。まあ、このように問題点を取り上げたらキリがありません。そのせいでしょうか、わたしたちは夜も眠れないほどに忙しいんですけどね。本当にまったくもう、今日もこれから夜にかけて、取材に行かなければならないところがあるんですよ。まあ、でも、これが仕事ですからね。しかし、それでもですよ、わたしたちの社会は確実に良くなっていることは間違いないんですよ、。理想とする社会に確実に近づいていることは間違いないんですよね。それもこれもみんな私たちマスメディアと、理想社会の実現を信じている国民がですよ、力を合わせて、わたしたちの社会の発展の妨げるような不正や悪を批判し取り除いているおかげなんですよ。こんなにがんばっているのに、未来が希望のないものにされたらたまりませんからね。もし今よりも悪くなったら私たちマスコミの責任にされかねないでしょうね。あっ、それから今までは日本についてでしたが、眼を世界に転ずると、世界にはいまだに、至る所で、人ロの増加に伴う食糧不足から、飢餓や貧困や戦争に苦しむ人々がたくさんいますよね。それは日本のことじゃないから私たちには関係ないとは、ヒューマニズムの立場からしてとてもそんなことは言えませんよね。同じ人間ですし、突き詰めれば、どこかで日本と関わり合っていますからね。しかし、戦後日本はいろんな問題を抱えながらも、見事に復興したわけですから、世界じゅうの人々が力をあわせ、知恵と努力を結集すれば、そのような難問も解決することは決して不可能ではないと思います。そうすればきっと世界の人々が、私たちと同じ様に文化的で豊かと言いますか、快適で衛生的な生活が出来るようになるんでしょうね。」
「ほう、なんて自信たっぷりときちんとしゃべる人なんだろう。あっちこっちに問題を抱えながらも、それを整理できているんだから、若いのに偉いのう。ワシなんか今日のことで目先のことで精一杯じゃ。それに、もう年なのか、頭が悪いのかワシにはちっとも判らんのじゃよ。そりゃあ、食い物がなければ人ロは減るだろうし、あれば増えるだろうね。それゃあ腹が減れば盗んでも食べるだろうし、そうなりゃあ喧嘩にもなるだろうな、なあ、タイガー。それから、放って置いたら強いものはますます強くなって、なんでも独り締めするようになるって言うけど、いったい何になるって言うんだろうね。人間はどこまで行っても人間だろうが、まさか、ライオンやクマにでもなって、人間を食っちまうって言うんじゃないだろうね。見たたことも聞いたこともないからな。さあ、どうだろう。強い者を一度放っておいて好きなようにさせてみたら、どうなるか見たいもんだ。あっ、それから戦争や飢餓のない世界のほうが良いみたいだけど、本当にそうなのかな。」
「おっ、それは、おじいさん、当然、当然じゃないですか。戦争や飢餓というものがどれほど人間を不幸にし悲惨な目に合わせているか、おじいさんならきっと判っているはずです。まあ、冗談なんでしょうけどね。」
「ああ、判らない、ワシには判らない。なんか聞いていると、事故とか災害とか危険なことのない世界が良いみたいだね。」
「それはそうでしょう、当然でしょう。」
「なんか聞いていると、便利でほしいものがすぐ手に入る生活が良いみたいだね。」
「それはそうでしょう、当然でしょう。」
「なんか聞いていると、快適で衛生的な生活が良いみたいだね。」
「それはそうでしょう、当然でしょう。」
「なんか聞いていると、知識がいっぱい有ってスポーツや芸術に親しめる生活が良いみたいだね。」
「それはそうでしょう、当然でしょう。」
「なんか聞いていると、ワシみたいに汚くて知識もなくて、スポーツにも芸術にも親しまない人間は居ないほうが良いみたいだね。」
「そっ、そんなことは言ってないでしょう。ああ、本当に本当に、おじいさんは世界が変わったということが判らないみたいですね。それも誰が見てもよく変わったということに。」
「そうかな、そうかなあ。何にも変わっていない様に見えるんだけどなあ。おお、あそこで遊んでいる幸せそうな母親と子供、幸せそうなことは五十年前とどこが変わっているのかなあ。おお、あそこにうずくまっているネコは、もうエサをだべようとしない、死ぬしかないんだろうか。誰も助けてくれないことなんか五十年前とどこが変わっているのかなあ。ああ、今朝、黒ありの群れと赤ありの群れが戦争をしていたけど、どっちが勝ったんだろう。戦争が絶えないことなんか五十年前とどこが変わっているのかなあ。ああ、あそこの酔っ払い、暇でしょうがないから。わしに因縁を付けようとしている奴らの性悪なとこなんか五十年前とどこが変わっているのかなあ。夕べ、流れ星をみたが、五十年前の流れ星とどこが違うのかなあ。春になれば葉をつけ、秋になれば葉を落とす木々は五十年前とどこが変わっているのかなあ。この名もない小さな花もこの鳥の鳴き声も、五十年前とどこが変わっているのかなあ。良いことは良い事は何もない何もない。良いことはないが悪いこともない。忙しくもないが、そんなに退屈でもない。いったい何が変わったんだろう。いったい何が良くなったんだろう。まあ、良いか、なるようになるさ。滅ぶものは滅べは良いのさ。」
「もしもし、おじいさん、おじいささんの言っていることは、こうやって目に見えるだけのほんの身近な狭い小さな世界のことではないですか。地球というのは、とてつもなく大きいのです。世界というのはもっともっと広いのです。 それに複雑でいろんなことがたくさんあるんです。とにかく世界は間違いなく発展し、進歩しているんです。私たちがこんなに頑張っているんですから、良くならないわけないでしょう。」
「そうなの、でもワシにはよく判らない。この目で見たわけじゃないからなあ。なんか聞いていると、世界中がみんな同じ様に豊かにならなければだめみたいだね。なにがなんでも将来が今よりも良くならないとだめみたいだね。」
「それは当然じゃないですか。それこそ人類が長い間抱いてきた夢じゃないですか。誰もが生活が豊かになって、誰もが健康で長生きが出来るような世界になることを望んでいたんじゃないですか。」
「そうなの、でもワシにはよく判らない。なんか聞いていると、なにが何でも健康で長生きが出来る生活が良いみたいだね。」
「それは当然じゃないですか。もちろん生活が豊かになるということは、犯罪とか災害とか失業もなく安心して生活が出来る社会ということも意味しているんですよ。」
「へえ、これはたまげたなあ。いつでも仕事があって、暴力や悪いこともなく、揉め事も、危険なことも、病気もない社会がそんなに良いのか。」
「それは当然でしょう、おじいさん。冗談もそこまで行くと、ちょっとね、、、、」
「へえ、するってえと、働かないものはいないほうが良いんだ。悪いやつは居ないほうが良いんだ。揉め事を起こすやつも居ないほうが良いんだ。病気に掛かるやつも居ないほうが良いんだ。危険な物はなくなったほうが良いんだ。ワシは働いていないからいなくなった方が良いんだ。それに知識もないし広い世界も知らないしな。あそこにいる酔っ払いはすぐ揉め事を起こすからいなくなった方が良いんだ。ばい菌だらけのネズミも、盗みをするネコも、人に噛み付くイヌもみんないなくなった方が良いんだ。腐った落ち葉もボーフラのいる水溜りもなくなった方が良いんだ。泥んこの道も、歩いていてつまずく石もなくなった方が良いんだ。風が吹いて倒れるような木も、美しくない変わった花もなくなった方が良いんだ。糞を撒き散らすハトもいなくなった方が良いんだ。」
「そんなことは言ってないですよ。ああ、もう良いでしょう。おじいさんの話しを聞いていると本当に頭が変になりそうです。このままだとおじいさんは、なんで人殺しはいけないんだと言いかねない様な気がしてきました。私は何とかして弱い立場にあるおじいさんを弁護しようとしてきました。しかし、もう限界です。できません。どうやら私たちはおじいさんのことを買いかぶっていたようです。この前の悲惨な戦争の犠牲者として、その後の後遺症に苦しみながらも、このような自然のなかで、植物に接したり動物に接したりして、 この物質中心の現代の生活の中にあって、その物質的には決して豊かとはいえない精神的生活を大事にして、自由に穏やかに、そして余裕を持ってもんびりと生きているんだと思っていました。でも、よくよくおじいさんの話しを聞いていると、私たちが毎日生きていくために心のよりどころとしているような夢とか希望とかを感じさせるようなものはどこにもなく、むしろ、まあ、良いか、とか、なるようになるさ、とか言う言葉から読み取れるように、投げやりで無気力な感じを与えるだけで、それでは、わたしたちの将来や地球の未来はどうなってもかまわない、自分さえ良ければいいんだという、鈍感なエゴイスト以外のなにものでもないですよ。それから、私たちは、それまでおじいさんと話がかみ合わなかったのはおじいさんの精神的な傷の所為ではないかと思ってきましたが、どうやらそれは私たちのとんだ勘違いでした。おじいさんがわたしたちを、からかおうとしてわざとそうしていたのではないかと思うよすになって来ました。それだけじゃない、おじいさんはネコと遊んだりエサをやったりして、いかにもネコを大切しているかのように見せながらも、実際は、傷ついたり死にかけたりしているネコを助けようという気持ちはさらさらなく、むしろ喧嘩やいじめをけしかけて喜んでいるような冷たい人間に思えてきました。それだけじゃない、平和や平等を愛するような穏やかな外見を見せながらも、実際は、戦争や災害を期待するようなことを言ったり、暴力や破壊を賛美するようなことを言ったり、憎しみや嫌悪をかき立てるようなことを言ったり、差別や犯罪を助長するようなことを言ったり、誰もが望まないような不幸や病気を肯定するようなことを言ったりして、ほんとうにあなたは訳の判らない支離滅裂な人だ。ほんとうにあなたは自分さえよければいいというかってわがままな人だ。ほんとうにあなたは世界がどうなってもかまわないという無責任な人だ。ほんとうにあなたは他の人たちが一生懸命になって、世の中を良くしようとしているのに、自分ではまったくその気はなく、他の人が苦労をして築き上げた豊かな社会に頼りきって、まるで寄生しているかのようにして生きている怠け者です。もともとあなたは働く気などまったくない敗北者です。」
「へえ、てえってことは、あれだな、今、そんなに良い世の中だから、自分はほんとうに幸せなんだろうかって疑ってはいけないんだな。それから、もし誰かが困っていたら決して見ぬ振りをしてはいけないんだな。それから、奥さんや子供が言うことを聞かないからといって、決して殴ろうなどとは思っていけないんだな。それから、人がどんなに大勢集まっていても、なんの役にも立たないとか、無責任などと思ってはいけないんだな。それから、もしかして自分はみんなが望むような意見だけをいっているんではないかなどと決して思ってはいけないんだな。それから、人と違ったことをする人間を、あいつは変わった奴だなどと決して思ってはいけないんだな。それから、あいつはオレより仕事が出来ないくせに、なぜオレより給料が高いんだなどと決して思ってはいけないんだな。それから、上から命令されたとおりにみんなと同じ事をやると楽だななどと決して思ってはいけないんだな。それから、ホームレスを怠け者だと決して思ってはいけないんだな。それから、どんなに忙しくても自由がないなどとは決して思ってはいけないんだな。」
「それは、そうでしょう。」
「へえ、民主主義ねえ、自由平等ねえ。そんなに良いのかい。おい、タイガー、どうした。そんなにたまげた顔をして何か起こったのかい。」
「「それから、おじいさん、あなたは自分では自由に生きているつもりかもしれませんが、しかし、実際は、わたしたちの社会生活に絶対必要な約束事や規則を守らない、いや初めから守る気などまったくない、いわゆる自由というものを履き違えた自己中心的な人間なのです。あなたは傲慢なのか無知なのか、冷酷なのか無頓着なのか、ペシミストなのか単なる運命論者なのか、人の弱みにつけ込む疫病神なのか、狂人気取りの嘘つきなのか、根っからの悪人なのか、子供のように無垢なのか、頭がおかしい人なのか、夢を見すぎる人なのか、破壊者なのか、獣なのか、あなたはいったいなんなんだ。私にはもうさっぱり判らなくなりました。今わたしは、貴重な時間を無駄にしたような嫌な気持になっています。できるなら一刻も早くこの場から立ち去りたいです。」
「いやあ、またですか。どうしてそんなにいらいらするんだろう。何かよっぽど不愉快なことでも言いましたかな。でも仮に言ったとしても、それはしょせん老人の思いつき、それも死にかけているね。そんな老人のたわ言をどうして真に受けるんでしょうね。まさかまさか、ワシになにか力があるとでも思ってるんじゃないだろうね。ワシは誰が見たってこの通りの無力な老人、まさに見たとおりのサルのような老人、それ以外の何者でもないですよ。おい、どうした、タイガー、なにを恐がっているんだ。ああ、あれか、向こうから来る白い服を着た二人か。あれはケンキュウジョの人間ではないか。奴らがどうかしたのか、お前、まさか、あれを見たのか。そうか見たのか。いや、大丈夫だ。怖がることはない、ここでじつとしておれ。」
「先輩、あのネコじゃないですか、わたしたちの実験装置を壊したのは。」
「そうだ、あのネコだ。たしかにあのネコだ。ちょっとすみません。お宅の後ろに隠れているそのネコ、そのネコはおじいさんのですのか。そのネコ、今日私たちの実験室に無断で入ってきて実験装置を壊して行ったんですよ。」」
「それで、どうしようというんじゃ。」
「いえ、捕まえてどうしようという訳じゃないんですが、いちおう言っておいた方がいいと思って。」
「そうだって、安心しな。お前を実験材料にしないってさ。みんなも、ああ、逃げていく、きっと何かをされると思ったんだな。無理もないな、やってる事がやってることだからな。」
「そんな悪人呼ばわりしないでください。私たちは医学の発展のためにやっていることですから。ほんとうは動物は好きなんですよ。おお、よしよし、何もしないからね。」
「まだ、恐がっているよ。どうしても好きになれないみたいだね。ふん、ふん、そうか、そうか、犬にネコにネズミにサルか、なんでもやるんだな。そう医学の発展のためだからね。」
「おじいさんは私たちがやっていること見てきたようなことを言いますね。」
「いや、こいつがね、タイガーがね自分で見てきたことを話してくれたんだよ。」
「ほんとうですよ、このおじいさんは、ネコと話が出来るんですよ。」
「そうか、そうか、それで階段をあがったところに富士山の絵がある。誰のかは判らないが、そうだろうな。天井には壊れた扇風機があるのか。薄暗い廊下があって、便所があって。窓から銀杏並木が見えるのか。その隣に動物の居る部屋が有るんだな。」
「まさか、偶然さ。」
「そうだよ、あてずっぽうだよ。だってネコはさっきから黙っているだけだよ。みんなも、笑っているじゃないか、わたしたちからかわれているんだよ。」
「このおじいさんはテレパシーで話が出来るんだって。」
「あっ、そうなんですか、そうでしょうね。だって話が出来るってことは、人間と同じように考えたり思ったりすることが出来るってことですからね。わたしたちの先生が言ってました。動物というのは現在を漠然と生きているだけだって、なぜなら、人間のように自分のことや過去のことや未来のことを考えたり思ったりする知性がないからって。だからもし、動物がそのような知性を持っていたら、動物は人間に復讐のための戦争を仕掛けていたろうって。それは、人間が動物にやっていること、またやってきたことを動物自身が知ることになるからって。でもそんなことは歴史上起こらなかったわけですから、動物には人間のやっていることを知る能力がないということなんでしょうね。そもそも動物に自分たちより知性の高い人間の事なんか判るはずないですよね。」
「そうですよ、そうですよ。お互いに殺しあって食い合うような動物に人間のことなん判るはずないですよ。」
「へえ、たまげた、たまげた。こりゃあたまげた。百回でも、千回でもたまげてやる。今まで動物が人間に戦争を仕掛けたことがないからといって、どうして動物に人間のやっていることを知る能力がないといえるんだい。それから、動物にその知る能力がないからといってどうして人間の事が判らないといえるんだい。こりゃあたまげた。ほんとうにたまげた。じゃなにか、このワシが、この年老いて死にかけているサルが、この誰が見たって捨てられたぼろこれのようなサルが、人間のやっていることや、人間のことが判らないとでも言うのかい。そうなことはないだろう。それなら、草原で年老いて死にかけている人間が、誰が見たって捨てられたぼろきれのような人間が、人間のやっていることや人間のことが判らないはずはないだろう。皆知っているんだよ。みんな人間のこと判っているんだよ。でも、みんな自分の生命を生きるのに精一杯でさ、いまさら人間の横暴さに異議をとなえたからって、どうにもなるもんでないとあきらめているんだよ。だってそうじゃないか、この年老いて死にかけているサルが何か言ったら誰か聞いてくれるか。いっぱいいっぱい人間に付いて知っていることがあるのに、娘たちよ、息子たちよ、誰も聞いてくれないじゃないか。こうやればこうなる。こういうことをやれば、こういう不幸や悲惨なことが待ち受けていることが判っているのに、いったい誰が聞いてくれるというのじゃ。若者たちは聞いてくれるか、人の上に立つ者は聞いてくれるか、誰も聞いてくれないだろう。だからワシはもうあきらめているんじゃよ。いまさらなにを言ったって無駄だって、なるようになるのさ。人間のワシでさえそうなのだから、それなら動物たちがあきらめるのも当然じゃないか。なあ、タイガー。やあ、皆さん、もうワシの話しには興味がなさそうですね。それぞれにひそひそ話をし始めたりして、あの飲んだくれどももどっかに行ってしまたようだし、それではどうでしょう、退屈しのぎにワシの詩などは、おほん、ええと、

 死は喜ばしいかな
 なぜなら、たとえ
 私が消えうせても、私がいたところには
 必ず新しい生命が住み始めるから

 衰えは喜ばしいかな
 なぜなら、たとえ
 この町が衰えても、どこかの町が
 必ず繁栄するだろうから

 滅びは喜ばしいかな
 なぜなら、たとえ
 この国が滅びても、どこかに
 必ず新しい国が興るだろうから

 もうそろそろ認めよう
 破壊が最も創造的であると云うことを
 氷の国々が滅び火の国々が栄えようとしている
 そして炎を食い物とする怪物が目を覚まし
 大いなる創造とともに、大いなる破壊を繰り返すだろう
 その怪物は、いざとなれば第一の火の国を捨てるだろう
 だから第二の火の国はひとたまりもないだろう

   やがて自己を持つものが必ず滅びるように
 その怪物もすべての炎を食い尽くして滅びるだろう
 無は喜ばしいかな
 なぜなら、たとえ
 時間と空間が失われても
 必ず存在への無限の衝動に満たされるに違いないから


おい、どうした、どこへ行くんだ。そうか、少し退屈じゃったかな。良いか、タイガー、つまらん喧嘩はするなよ。」

 ケンカスルナヨ、ケンカスルナヨ、、、、嫌だったなあ、恐かったなあ、なんだあのケンキュウジョって奴らは、安心して眠れもしない。みんなどこに居るんだろう。居ないなあ、たしかこっちのほうだったな。気味の悪いな鳴き声が下のは。みんなどこへ行ったんだろう。静かだなあ、静かだなあ。ハトもいない、カラスもいない、あれ、モノオキの屋根にいるのはマヌケじゃないか。おい、マヌケ、そんなところで何しているんだい。ちっちゃくなって隠れているのか、降りて来いよ。

 あっ、タイガー、そんなに大きな声を出すなよ。良いからお前もあがって来いよ。

 どうしたんだろう。ヨイショっと。どうしたんだ、マヌケ、そんなにおっかない顔をして、お前らしくもない。

 ツヨソウがやられた。ケンキュウジョのゴミ箱のような匂いのするやつにやられた。ツヨソウはあの通りだから、奴に向かって行ったんだ、そしたら、あっというまに首を噛まれて、動かなくなってしまった。凄い奴だ、イヌみたいに大きい。奴はツヨソウの頭をくわえてどこかに行った。もしかすると、まだこの辺にいるかもしれない。

 そうか、奴がついにここに来たのか。

 タイガー、お前は奴を知っているのか。

 うっ、いや、知らない。

 みんな恐がって、どこかへ行ってしまったよ。タイガー、お前も逃げた方が良い。

 そうだな。マヌケ、オレは行くけどお前はどうする。

 もう少しここにいるよ、からだが、体が動かないんだ。

 じゃ、気をつけてな。どっこいしょっと。ツヨソウが、ツヨソウがやられたのか。どんなに凄い奴なんだろう。でも、これでツヨソウと喧嘩しなくでも済んだのか。静かだ、静かだなあ。ああ、眠い、今度はゆっくりと眠ろう。ここがいい、このウエコミの中が、ちょうど良いや。ツヨソウがやられた、ツヨソウはもういないんだ。ツヨソウは、、、、


「キーン、コーン、カーン、キーン、コーン、カーン。」
「カア、カア、カア。」
「チッ、チッ、チッ。」
「カサ、カサ、カサ、カサ。」

 なんだ、うるさいな。ネズミか。ちょろちょろして目障りな奴だ。なんか、むずむずする。やったことがないけど捕まえて見るか。それ、このやろう、まて、このやろうまて、このやろう、このやろう、まて、このやろう、ふう、なんだ、簡単じゃないか。動くな、このやろう、ちっちゃいくせに生意気な奴だ。なに言ってんだ、チューチューと、もうあきらめろ、お前なんか食われちまえばいいんだよ。」

「ガリ、ガリ、ガリ。」

 ああ、なんていい気持なんだろう、もう、たまんないよ。このやろう、もう動かないな。食っても良いんだけど、あまり腹も減ってないからな。あっ、そうだ、これをあそこのチビに持っていこう。さあ、いそげ、いそげ、ハシをわたって、ハシをわたってと、ドーロをわたってと、はしれ、はしれと、まっていろよ、チビ、いま持って行くからな。ロジだ、ニンゲンは、ニンゲンはと、いないな、よし走れ、走れ、あっ、ニンゲンだ、よしヘイにあがろう、ヨイショっと、落とさないように気をつけないとな。ふん、なんだ、この匂いは。この匂い、この匂いは、あの研究所のゴミ箱の匂いだ。まさか、やつが、やつが近くにいるのか。どこだ、どこだ、だんだん匂いが強くなってくる。やばい、奴はいったいどこにいるのだ。なんてこった、こんなときに体がひくひくして、あっ、腰がいてえ、でも、そんなこと言ってる場合じゃない。どこだ、どこだ、どこに奴はいるんだ。見えない、だんだん匂いが強くなってくる。もう、だめだ、よし、引き返そう。ネズミはごうごうとするドーロから落とせばいい。さあ、走れ、走れ、まて、とまれ。いったいどんなやつだろう。いた、屋根を歩いている。あいつか、でかい、なんてでかいんだろう。すごい、何ですごい顔なんだろう。恐い、おお、恐い、あれじゃいくらツヨソウでもひとたまりもないな。良かったあのまま行かなくて。そうだ、そのままあっちに行けこっちに来るな。これで良いんだ。さあ、早くチビのところに落としてやろう。走れ、はしれ、チビは大丈夫かな、奴に見つかってないだろうな。はしれ、はしれ、はしれ、やっとついた。いるか、おうい、チビ、おうい、チビ、どうしたんだろう、見えないな、まあ、良いか、落としてやれ、それ、チビ、食べるんだぞ。さあてと、とにかくこの辺りから離れないと、いぞげ、いそげ、はしれ、はしれ、もう、だいじょうぶだろうな、ひやあ、危なかったなあ。ここはどこだろう。初めてだな。静かだなあ、暗くなってきたな、大きなイエだ。静かだな、ここも大きなイエだ。ここに入ってみるか。人間は、ニンゲンはいないな。静かだなあ。

 ねえ、そこでなにしているの。

 おっ、びっくりした。なんだいたのか、なにって、歩いているんじゃないか。

 ふあ、変なの、歩くって楽しいの。

 お前は変なやつだな。そうだこっちに降りてこないか。

 だめなの、外に出ちゃだめって言われているの。

 そうかい、そうかい、首になんかつけちゃって。

 ねえ、こっちにあがってこない。

 良いのかい、ニンゲンいないかい

 ふあ、いないの。

 よいしょっと。ニンゲンはと。いないな。あっ、うまそうな魚だ。

 だめよ手をだしちゃ。おこられるから。ふあ、お腹すいてるの。それならこっちに来て、これを食べて、おいしいよ。

 どれ、どれ、ふう、お前はいいもの食ってるんだな。

 ねえ、これ、これ、楽しいよ。こうやって飛びつくのよ。やってみて。

 うは、そうだな。ふう、お前、良い匂いしてるな。

 ふあ、変な匂い。

 いや、そんなに変な匂いか。これはネズミだな。

 なにネズミって。

 ネズミって云うのはだな。汚くてちっちゃくて、いつもチョロチョロしていて、見てるとつい追っかけまわして捕まえて、食いたくなるやつのことだよ。

 ふあ、なんか楽しそう。

 ほんとに嫌な匂いがするか。

 ふあ、でも、なんか力が湧いてきそう。

 そうかい。お前はほんとに良い匂いがするな。どうれ、、、、

 ふあ、やめて、どうしたの、重いわ。

 あっ、そうかそうか。お前はほんとうに外に出たことがないのか。

 ないわ。外って楽しい。

 そりゃあ、楽しいさ。お前はほんとうに良い匂いしてるな。どれ、どれ、、、、

 ふあ、また、やめてよ。どうしたの、重いじゃない。

 ふう、そうかい、そうかい。  

「まあ、たいへん、いったいどこから入ってきたんでしょう。なんて汚い野良猫なんでしょう。うちのミィちゃんになにしようてんの、あなた早くこっちに来て。」
「どうしたんだい。」
「あれ、見てよ、野良猫よ。」
「まて、近づくな。噛まれるかもしれないよ。」
「さあ、ミィちゃん、こっちに来るのよ。あんたはさっさと出て行きなさい。えいっ。」
「ガシャ。」

 それ、よいしょっと。

「ミィちゃん、恐かったでしょう。」
「まだいる。こら、えいっ。」
「ビュウ、バサ。」

はしれ、はしれ。ひゃあ、危なかったな。何もぶっつけることはないだろう。いったい何をしたっていうんだい。まったくもう。」

「ワン、ワン、ワン。」

 なんだよ、うるさいな、馬鹿イヌが。人間といるイヌはみんなバカだ。チクショウ、うるさいな、まだ吠えてる。ふう、もう良いだろう。休もう、暗い家だ、静かだな。そうだあそこにあがって休もう。よいしょっと、ニンゲンいないな。

「子供たちはどうしたんだ。」
「あら、気になるんですか。普段、子供のことなんか話もしないあなたが。あっ、やめてください、お花に触るのは。」
「どうして自分の家にあるものに触ってはいけないんだい。」
「だって、それは私が買ってきて活けたものですから。」
「元をたどれば同じようなものじゃないか、自分の物のような言い方をして。」
「やめてくださいってば、お花が嫌がってるじゃないですか。」
「お花が嫌がってる、なんて滅茶苦茶な。ところで夕食はどうししたんだ。」
「どうしたっ、あら、食べるんですか。私は何にも聞いてませんよ。いつ、食べるって言いましたっけ。」
「そんなこと言わなくたってわかってるじゃないか。今頃の時刻になれば夕食だって決まってるじゃないか。どうしたんだ今日に限って。」
「あら、そんなこと言ったって、食べるといわないのにどうして作ることが出来ますか。何か私の言ってることが間違っていますか。何か理屈に合わないことを言っていますか。」
「そうじゃないけど。今日の君はどうかしてるよ、まったく。君はだんだん母親に似て来たね。その奥歯に物が挟まった言い方をするところなんかそっくりだね。それにおしゃべりが好きなところなんかもね。」
「やめてください私の親の悪ロを言うのは。それなら、私にも言わせたいただきますが、あなただってそっくりじゃありませんか。その堅苦しそうで理屈っぽいところなんか、あなたの父親にそっくりじゃありませんか。」
「子供たちに見せたいね真の母親の姿を。」
「あら。私だって見せたいわ。あなたの真の姿を教え子たちに。大学ではみんなに慕われて人気があるんですってね。実力もあり、将来も嘱望され、さぞや人格者として通っているんでしょうね。でも、家では何にもできないつまらない人なのにねえ。」
「もうやめよう。どうしてこんな事になってしまったんだ。まるで僕に対して不満があるみたいじゃないか。」
「見たい、みたいじゃないの、あるのよ不満が、はっきりと。あら、いやだ、あなたたしか大学で心理学を教えていらっしゃいましたよね。それなのに妻である私のことが、私がどんな不満を抱いているか判らないなんて、あなたはいったい何の為に心理学を教えたり研究したりしているんですか。それじゃなんの役にも立たないじゃありませんか。」
「役に立つとか役に立たないとか、そういう問題じゃないんだ。あくまでも人間の心理を科学的に研究することにあるのであって、、、、」
「あら、それじゃ、何か重大犯罪が起こってから、テレビに出て来てなんかもっともらしいことを言う評論家とちっとも変わらないじゃないですか。そう言えば、あなたもいつかテレビに出ていましたよね。なぜそのような重大事件を防げなかったんでしょうね。後から、あうだこうだと言ってみたって、それじゃなんの役にも立たないじゃないですか。あなたに判りますか、私の今の不満が、心理学者であるあなたに、、、、」




 八部に続く








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