老人と猫(六部) はだい悠 「でもね、おじいさん、世の中には色んな場合があるでしょう。たとえば、病気とか体が弱いとかで働けない人とか、それに働きたくとも仕事がないので働けない人とか、そういう人たちは自分から望んでそうなった訳ではないでしょう。わたしたちの社会がそうさせているんだから、そこでわたしたちの社会はそういう人たちの生活を援助するために、みんなで相談して決まり事を作って、つまり法律を作って、それで生活に困った人たちを助けることにしているのですよ。わたしたちもその法律に基づいてやっているのでいよ。」 「へえ、そんなこといつ決めたんだ。」 「そうね、判りやすく言うと、日本が戦争に負けて、そのときみんなが集まって過去のことや未来のことを考えて日本国憲法というものを作ったの、そして、それを基本にして、さらはわたしたちが生きていくために必要なたくさんの法律を作ったの、そのときからよ。」 「へえ、知らなかった。おい、タイガー聞いたか、お前は知っていたか、みんなが集まって考えて決めると、盗人は盗人でなくなるんだって、なあ、お姉さん、そういうことだよね。」 「あっ、ちょっと良いでしょうか。わたしはこのたびの動物園の事故のことで園長さんから相談を受けていましたので、今日はいっしょにここにやってきました。弁護士をやっています。それで皆さんよりは多少法律に詳しいと思いますので、少し話をさせていただきます。なんか、おじいさんは無理なことをいって、せっかくおじいさんの力になってあげようとしている福祉課のお姉さんを困らせているように見えるんですが。どうでしょう、おじいさんは、もしかすると法律というものを間違って解釈しているように思われるんですが、いかがでしょう。いや、ほんとうは何もかも知っていて、あえて知らない振りをしているだけかもしれませんが、でも、このさい非礼を恐れずに率直に言わせていただきます。いいですか、おじいさん、よく聞いてくださいね。法律という者は、わたしたちが安心して生きていくためにはどうしても必要なものなのです。なぜなら、わたしたちの社会という者は、いつの時代でも、他人に迷惑をかけたり傷つけたりする人がいますからね、そんな犯罪や、それから事故やトラブルを解決するためには、前もって、こういうことをした場合にはこういう結果が待っている、つまりこう云う罰が下されるということを、みんなの約束事として、大勢が集まったところで相談して決めておかなければならないのです。その約束事が、つまり判りやすくいうとルールですが、それが法律なんです。ですから決して犯罪者が容赦されることはありません。もちろん法律は、揉め事を解決するだけのものではありません。わたしたちが目標といる社会を作るために、こういうことをしてはいけないとか、こういうことは積極的なやらなければいけないということが、政治や経済や教育や生活など、社会全般に渡って、決められているのですよ。たとえばですね、どんなに貧しくても学校にいけるようにするためとか、誰でも好きな職業につけるようにするためにとか、弱い立場のことを助けてあげるためにとか、そのほかにも私たちの生活を豊かにする為にはどういう事が必要かという事について、あらゆる方面に渡って隅々まで細かく決められているのですよ。ですから法律というものは、とくに現代のような複雑や社会にあっては、ほんとうに必要不可欠なもので、わたしたちが生きていくうえで道しるべとなる大切な大切なものなんですよ。それからここでいう、私たちが目標とする社会について語られているのが、先程ちょっと話がでましたが、憲法というものなんですよ。それは簡単にいうと、法律の上にあってというか、法律を作るときの元になるものであって、そこにはわたしたちが目指す社会、いわゆる私たちが理想とする社会のあり方や基本的な考えが述べられているんですよ。人間としての権利を何よりも大事に使用とか、人間はとにかく自由で平等であるとか、戦争のない平和な世界を作るために努力しようなどしてうことが述べられているんですよ。あっ、それから、今わたしたちが話題にしている事も述べられているんですよ。それによると日本国民である限り誰でも、人間らしく健康で文化的に生活出来るように保障されているんですよ。だから困っている人がいたら、誰であっても、どんな理由であっても、援助を受けられるようになっているんですよ。ですから援助を受ける事は決して悪い事ではないのです。ましてや、やましいとか恥ずかしいなどと感じる事もないのです。当然の権利なのです。」 「ようするに、あなたは、ワシは人間らしい生活をしてないって言いたいんだね。」 「いや、そんな事は言ってません、曲解ですよ、おじいさん。」 「それにしても、たまげたな。何にもしないのにお金をくれるって言うんだから。なんかわかんねえんだけど、普通人から物をもらうときは、少しぐらいは頭を下げるもんだけどなあ。それが当然の権利かよ、なんか変だよな。おい、タイガー、お前たちだって、食い物をもらうときはちっとは申し訳なさそうな顔をするだろう。みんなが集まって考えて決めるってすごい事なんだな。あっ、そうだ、どうだタイガー、お前たちも人間のように集まって、色んなことを決めてみたら。喧嘩をしないようにしようとか、みんなで食い物を分けて食べようとか、そしたら少しは仲良くなってあんないじけた猫は出なくなるかもしれないよ。でもなあ、決めたからといって、お前たちのその鋭い牙や爪が消えてなくなるわけではないからなあ。こりゃあだめか。まあ、良いか、、、、いやあ、それにしてもほんとうにすごいな、そんなにすごい事が出来るなら、憲法や法律っていうのは、神様や王様みたいなもんなんだ。えらいんだ、、、、」 「うっ、えっ、え、えらいというか、そうですね、もしかしたら現代の社会においては、それは神様や王様の代わりをしているのかもしれませんね。なぜなら、憲法や法律には、神様のような全能さと王様のような権威がありますからね。」 「ところでさ、その憲法や法律というのはいったいどこに居るんだい。」 「えっ、はあ、どこに居るかですか。居るって云うか、それは文章となって、本の紙の上に書かれてありますよ。」 「うえ、たまげた、紙の上に書かれてあることっていうのは、そんなにえらいのか。そんなに力があるのか、こりゃあ、たまげた。なあ、タイガー、お前たちも何かを決めて紙の上に書いたらどうだい。そしたら人間たちからもっともっと大事にされるかもしれないぞ。えっ、こんな真ん丸い手じゃ字も書けないって、そうか、そうだよな、こりゃあ、だめか、まあ、良いか。」 「あのう、おじいさん、良いですか、紙の上に書かれてあるということで力があるんじゃないんですよ。みんなで集まって考えて決めた事だから力があるんですよ。みんなが守るべき大切な約束事だから力があるんですよ。もしもそれを守らないものが居たら、仮にそれが総理大臣であっても、社長であっても罰を加えることが出来るんですよ。とにかく誰であってもそれに逆らうことは出来ないのですよ。」 「へえ、偉いだけじゃなくって、強いんだ。」 「まあ、強いというか、とにかく、私たちが社会生活をしていくためには本当に守らなければならない大事な約束事なのです。誰であっても従わなければならないのですょ。」 「へえ、そんなに大事な約束事なの。それなら、あれか、雲や木や花やネコや天気も従わなければならないんだろうね。」 「クモ、キ、テンキ、、、、」 「そうさ、あの空にある雲だよ。ここに生えてる木だよ。今日の天気だよ。」 「あっ、なんか、こっちが変になりそうだ。良いですか、おじいさん、よく聞いてださい、。憲法というのは人間のためにあるんですよ。雲とか木とか天気とはまったく関係ないんですよ。」 「そうかな、ワシには大いに関係があるぞ。だって、前にいったじゃないか、憲法というのは、生活のためにあるんだって、ワシはいつも雲を眺めたり、木に寄りかかったり、ネコと遊んだり、天気のことを気にかけたり、みんなワシの生活には関係がある、なくてはならないものばかりじゃないか。それなら雲や木やネコや天気だって、憲法に従わなければならないんじゃないのか。それは、おかしいじゃねえか、、、、まあ、良いか、、、、滅びるものはほろ非りゃあいいのさ。ワシが死んでも、また新しい生命が生まれるんだから。死は喜ばしいことではないか。水だって高いところから低いところに流れるんだから、なるようになるさ。」 「もう、困りましたね。どうしましょう。おじいさん、良いですか、よく聞いてくださいね。とにかく憲法というのは人間のためにあるんです。さっきも話しましたが、神様のように全能で王様のように権威があって、人間のためになるあらゆることを決める事が出来る大切なものなんです。ですから、おじいさんはもうこれ以上変なことを言わないで、福祉課のお姉さんの言うとおりにすれば良いんです。そうしたほうが良いですよ。」 「、、、、そんなに偉いんだったら、雲や木やネコや天気も従わせりゃあいいのに。あっ、そうだ。昔々こんな噂話を聞いたことがあるんじゃよ。自衛隊っていうのは憲法より強いってな、、、、」 「あっ、それはおじいさんの聞き違いじゃないですか。というよりも根本から間違ってますね。だって憲法というものは考えて決めたことが紙の上に書かれた文章ですが、自衛隊というのは、誰にも判るように形があって、実際に動くものですから、どっちが強いとか弱いとか比較できるものではですからね。」 「、、、、あっ、それから、こんなことも聞いたよ。自衛隊はアメリカより弱いって、、、、まあ、良いか、なるようになるさ、滅びるものは滅びりゃあ良いのさ。破壊されるべきものはどんどん破壊されれば良いのさ。衰えは喜ばしいかな、ある町が衰えれば必ずどこかの町が繁栄するだろうから。水だって高いところから低い所に流れるんだから、なるようになるさ、、、、」 「おじいさんはすぐそうやって自分の世界に入ってしまう癖がある見たいですね。」 「どうしたんでしょう。仲間を呼びにいったネコ、なかなか戻ってきませんね。ほんとうに呼びに行ったんでしょうか。」 「おじいさん、病院が嫌なら施設のほうでも良いんですよ。わたしたち福祉課としてはこのまま放っておくことは役目柄どうしても出来ないんですよ。本当は怪我が治るまで病院に居てもらいたいんですけどね。そのあとはおじいさんの好きなようにして良いんですけどね。なにしろ、世間から注目を浴びてる事故ですからね。」 「なんかますます悪くなりそうだな。」 「そんなことないですよ。栄養のある食事が取れるし衛生的ですから。」 「おじいさん、この方はおじいさんのためを思ってやっているんだから、わがままなことを言って困らせないようにしようよ。体が弱っているときに変なものを食べてこれ以上悪くしたらどうするんですか。」 「なに大丈夫さ。ワシはいままで草を食べようが、何を食べようが病気になったことなど一度もないぞ。なぜだと思う、うまいからじゃよ。うまければ体に悪いことはないんだよ。ワシは腹が減ったから食べるんじゃないんだよ。うまいから食べるんじゃよ。まあ、良いか、どうせワシなんかこれ以上長生きしたってしょうがないのさ。みんなは何にも知らないんだ、噂を聞いたことがないんだ。ワシがどんなに悪い奴か、とんでもない人殺しかもしれないのに。まあ、良いか、ワシなんか野垂れ死にしたほうが良いのさ。まあ、良いか、なるようになるさ。滅びは喜ばしいかな、たとえこの国が滅びても、どこかにまた新しい国が起こるだろうから。破壊されるべきものは破壊されたほうが良いのさ。破壊こそ最も創造的じゃないか。水は高いところから低い所に流れるんだから、なるようになるさ。どうせワシは人間らしい生活をしていないんだから。」 「またですか。またおじいさんの世界ですか。それでは、もうそろそろ今日の本題に入ってはどうでしょうか、園長さん。」 「そうですね。では、当事者だあるわたしから話させていただきます。おじいさん、今日こうしてみんなで伺ったのは、実は、この間の動物園での事故のことについてなんですよ。わたしとしては、あの事故がわたしたち動物園側としては何の落ち度もないことを世間の人々に判ってもらいたいのですよ。まあ、色々ありますよね。いろんな人がいますよね。酒を飲んで酔っ払って、自分から入っていったというようなね。よくあることですよね。それなら世間の人たちも納得してくれると思うんですがね。おじいさん、そうなんでしょう。あの日酔っ払っていて、ライオンの檻とは知らずについつい自分から入って行ったんでしょう。」 「いや、いや、酔っ払ってなんか居なかったぞ。もともとわしは酒なんか飲まんからな。そうなんだよな、、、、たまにはいいと思ったんじゃ。いつもいつも人間だけが動物を食べているだろう。たまには動物が人間を食べてもいいと思ったんじゃよ。まあ、良いか、なるようになるさ。」 「うっ、まっ、そうですか。まあ、まあ、要するにおじいさんが自分からライオンの檻に入っていったということですね。」 「おい、そこのクソジジイ、嘘付くなよ。本当は腹へってエサを盗みに入ったんだろう。人殺しのくせに。」 「ええ、まあ、このさいなんでも良いんですよ。とにかくおじいさんが自分から入ったということが判ればそれで良いんですよ。そうですよね記者さん。」 「でも、まだ、よく判りませんね。それがほんとうに真実かどうか。」 「おい、ジジイ、嘘つくんじゃないよ、人殺しのくせに。」 「ねえ、聞いたでしょう。奴ら、根性なしの言う通りなんですよ。わたしは人殺しなんです。たくさんの数え切れないくらいのね。噂は本当なんです。まあ、良いか、これも宿命よ。ワシなんか野垂れ死にしたほうが良いのさ。」 「おじいさん、もう良いですよ。あの人たちの言うことなんか気にしないでください。」 「僕もそう思います。おそらくそういう時代だったのでしょうから、仕方がなかったと思います。」 「ああ、なんてこった。あの時もそうだった。みんなよってたかって良いんだ良いんだって。人が大勢死んだというのに。まっ、良いか、もう終わったことだなるようになるさ。これも運命よ、、、、なあタイガー、昔々あるとき、氷の国々が滅んだとさ。そしてこの国々はますます栄えたとさ。すると炎を食べる怪物が目を覚ましたとさ。怪物は炎を食べながら大いなる破壊と想像を繰り返したとさ。そして人々は認めるようになったとさ、破壊こそもっとも創造的なことであると云うことを。その怪物は勢いのある炎だけが好きなので、やがて第一の炎の国をあっさりと食べ尽くして捨てたとさ。だから第二の炎の国はあっという間になくなったとそ。そして、自分を持つものはいずれ滅びるように、その怪物はすべての炎を食い尽くして滅びたとさ。ああ、無は喜ばしいかな、なぜなら、時間と空間が失われても、無限の衝動に満たされるに違いないから。おい、タイガー、いったいどうしたんだ。また、驚いたような顔をして。何かあったのか。ふう、なになに、よく判らない、でも、なにか気になるのか、そうか、それにしても、みんな遅いなあ。」 「このままでは話がまとまらないように思われるんですが、どうでしょう皆さん。弁護士さんはどう思いますか。」 「そうですね、どのような結論が最善なのか、少し長引きそうですね。ところで、動物に詳しい園長さんにお聞きしたいんですが、動物が人間と会話をするなんて云うのはほんとうに可能なんでしょうか。」 「皆さんはだいぶ興味がありそうですね。だも、残念ながらわたしたち動物関係者の間ではもう結論が出ているんですよ。いわゆる人間と会話が出来るためには、言葉を発する器官、つまり人間のように発達した発声器官と、ある程度の知性が必要なんです。でもどう見てもネコがこの二つを持っているとは思えないですよね。」 「よくテレビなどに、動物と会話が出来る人間が出てきますけど、あれはどうなんですか。」 「わたしも実際にそう云う人にあったことがありますよ。でも、よく観察してみると、ほとんどは、人間の勝手な解釈というのでしょうか、決してお互いに声を出して会話をしているという訳ではないのですよ。おじいさんのことを云ってるわけじゃないから気を悪くしないでくださいね。」 「人間側の思い込みでしょうが。」 「そうでしょうね。それともテレパシーってやつですかね。」 「あっ、そうですね。そうか、テレパシーか。それなら判りやすいですね。きっと若い人たちも納得してくれるとでしょうね。あっ、それからもう一つ疑問があるんですよ。ライオンはどうしておじいさんを食べようとしなかったんでしょうね。」 「それは簡単ですよ。ライオンはお腹がすいてなかったからですよ。」 「そうなんですか、意外でしたね。」 「おい、そうじゃないよ。ジジイの肉がまずかったから食わなかったんじゃないか。干からびていたんじゃなあ、ライオンだってな、食えねえよ。」 「そういうことだな。タイガー、腰抜けどももたまには良い事も言うなあ。おっ、来たか、来たか、やっと来たか。もっとこっちに来い、ちっとも恐くないからな。大丈夫だよ、悪い人間たちじゃないから。さあ、食べな、みんなどうだった、、、、元気がないな。おい、喧嘩するなよ。なんだって、なぜオレに声をかけなかったって、お前は虫を追っかけていたじゃないかって、まあ、いいじゃないか、仲良くしろよ。ウレイ、どうしたんだ。元気がないぞ。こっちにこい。嫌か、それなら投げるぞ。ほうら。ウレイはめっきり元気がなくなったな。どうしたんだろう。あいつは大人しいって言うか、何にも話してくれないからな。」 「意やあ、判りましたよ。もう、判りましたよ。おじいさんがすごい人だってことは。だって、ネコと話が出来るんですからね。これはすごいことですよ。でもねえ、おじいさんのためを思ってみんなここにきているのに、こうも話が噛み合わないんじゃなんにも解決しませんよ。おじいさん、お願いですから、もうこれ以上話をはぐらかさないでください。もう少し真剣に話しましょう。とにかく、おじいさんの為なんですから。それにしても、おじいさんは凄いですよ。もしかしたらネコだけじゃなく、犬なんかとも話が出来るんじゃないですか。」 「もちろんだとも、どんな動物でも出来るさ。」 「ライオンはどうですか、この間のライオンなんか言ってましたか。」 「わからん、あいつらとわしとは初対面じゃったからなあ。話が出来るようになるには、ちと時間がかかるんじゃよ。まずお互いに相手のことがわかって、好きにならないとな。」 「そんな能力いつ身につけたんですか。」 「自然とじゃよ。」 「おじいさんは若いとき何をやっていたんですか。」 「オオカミと暮らしていた。いや、キツネもウサギもクマも居たな、、、、」 「オオカミですか。あの絶滅したというオオカミとですか。おじいさんの若いときはオオカミはまだ生きていたんですか。」 「そうか、そういう動物たちと暮らしていたから、動物たちの考えている事が段々判るようになっていったと言うことなんでしょうね。」 「そういうことじゃないんだな。動物のほうから話し掛けてくるんだな。」 「まあまあそういうことにして、とにかくおじいさんの良い事は、動物を人間と同じ様に見ているということなんでしょうから、それはとても良いことだと思います。」 「違う、違う、同じ様にじゃない、同じにみているんだ。皆さんだってきっと見ているはずだ。人間より人間に似た動物や動物より動物に似た人間を。ワシが若いときじゃった。春になったので、牛に鋤を引かせて田んぼを耕そうとしたら、牛に元気がないのじゃ、どうやら病気になったみたいで、でも、牛のやつは何があってもとにかく耕すだけは耕さなければならないということで、ぜいぜい言いながら頑張ってくれた。そしてちょうど全部耕し終わったその晩に、安心したような顔をして死んでしまったのさ。皆さんには信じられないことかもしれないが本当の話なのさ。」 「へえ、おじいさんは農業をやっていたんですか。そう言えば昔から、不思議な行動をする動物の話しが、農業をやる人々の間で色々と語り継がれてきていますから、その話しも本当かも知れませんね。」 「まだ、あるぞ。そのネコはウレイといってな、あまり自分のことを話したがらない大人しいメスネコなんだが、たしか二年ぐらい前だったかな、子供が生まれてな、そこで子供をつれてワシに見せに来たんだよな。生まれたらアイサツに来いと言ったわけじゃないのにさ。その前に食べ物を良くやっていたから気を使って挨拶に来たのかな。紙に書いた字が読めるわけでもないのに、法律が判るわけでもないのに、偉いもんだ。なあ、みなさんよ、どうしてそうつまらなそうな顔をするんじゃ。そんなに信じられないですかね。それならこんな話はどうでしょう。あれはこの町が焼け野原となって、その日の食うものにも困っているときじゃった。あるところで数人の男と雨宿りをしていたとき、犬が近寄ってきていっしょに雨宿りをすることになったのじゃ。他の男たちはそのイヌを殺して食べようと密かに相談を始めたんじゃ。そこでわたしは提案した。いまは痩せているから、なにかエサをやってもう少し太らせてから食べたほうが良いって。すると男たちの中には手名づけようとして食べ物を与えるものが出てきた。ワシはその場を去った。そして数ヵ月後、そこから何十キロも離れたところを歩いていたとき、そのイヌに再びあった。その犬があのときの犬とわかったのは、片方の耳が喧嘩で噛みきられたのか、ほとんどなかったからだ。ワシは知らん振りして歩くことにした。ところが、その犬は、ワシといっしょに散歩しているかのように、ワシの斜め前、二、三メートルのところをずっと歩き続けるんじゃよ。ワシは、これは偶然に違いない、犬があの日のことを覚えている訳はないと思いながら、ときどき早く歩いたりゆっくり歩いたり、するとイヌのやつもそれに合わせるかのように早く歩いたりゆっくり歩いたりするんじゃよ。ワシは、イヌがいつあの日のことを持ち出すのかと思うと本当にびくびくしていたよ。そこでワシは、用もないのに駅に入ってそのイヌをやり過ごす事にしたんだよ。本当の話じゃ。なあに、そんなに不思議そうな顔をして。それでは不思議ついでにこういう話はどうだろう。ワシはよく真昼間に星を見るときがあるんじゃか、どうだい月じゃないよ、星だよ。笑いましたね、そんなにおかしいですか。」 「いえ、笑ったわけではないですけど。でも、よっぽど視力が良いんですね。それにしても不思議な経験をしているんですね。おじいさんは。」 「ワシにとっては不思議でもなんでもないんだが。そう言えばこんな経験もしたことがあるよ。ワシは雪の結晶が出来るところを見たことがあるんじゃよ。」 「へえっ、それは凄いですね。ということは空の上に行ったという事じゃないですか。」 「そうじゃ、空の上に行ったんじゃ。」 「まるで仙人みたいですね。それでどのようにして雪の結晶は出来るんですか。」 「それはだな、まず空中に小さな氷の粒が浮いているんだよ。するとその粒から伸びるように六方向に、同時に、しかもまったく同じ形の結晶が作られていくんだよ。なぜ前も後ろも、右も左も、斜め前も斜め後ろも、同時に同じ物が作られると思う、それはだね。もし、右と左が違っていたら、バランスガ悪くて浮いていられないじゃないか。浮いていられなければそれ以上結晶が出来なくなるじゃないか。どうだい納得できましたかな、いや信じられないって。それなら良いでしょう。よしこうなったらこんな不思議な話はどうですか。何の感情もなく、ましてや憎しみや怒りからでもなく人を殺した男の話とかは。いや、まだ他にもありますよ。愛するがゆえに、愛するがあまり妻子を殺した男の話しとか。どうですか、不思議な話し信じられない話はいかかですか。」 「もうたくさんです。おじいさんの話しを聞いていると、不愉快というか、だんだんいらいらしてきました。皆さんだってきっと同じ気持だと思いますよ。そうでしょう。」 「へえ、どうして、こりゃあたまげたなあ。ワシはどうみたって捨てられたぼろきれ、いやいや傷ついて今にも死にそうにして草原にうずくまっている老いたサルかな。そんな無力なサルを捕まえていらいらするなんで、皆さんはどうかしてますよ。そんなやつは自然の成り行きに任せていれば良いじゃないですか。わしにいったい何が出来るっていうんでしょうかね。ワシは誰にも迷惑をかけずにですよ、そうですね、道端の雑草のように、ひっそりとですよ、なるがままに生きてるだけじゃないですか。まあ、このたびは、ちょっと迷惑かけたかもしれませんけどね。そうですか、それら誤りますよ、ごめんなさい。さあ、タイガーお前も一緒に誤るか、ごめんなさい、ごめんなさい、、、、そうじゃない。それならどこが気に入らないというんでしょう。あっ、そうですか、雑草のくせに一人前のロを聞くのが気に入らないというのでしょうか。それともワシがないか皆さんの気に触るようなことを言いましたかね。うっ、そうですか、ワシがロから出任せを言ったということですか。つまり嘘をついたということですか。それが皆さんをいらいらさせていることですか。でもなあ、ワシに嘘をつかせたのは、皆さんじゃないですか。というのも、ワシはこの十五年、いや二十年間というものは嘘をついたことなどなかったのだから。なぜだと思う、それはなこの二十年間というもの人間と話したことなでなかったからじゃよ。ところが、あなた方はワシのところに押しかけて来て無理やりしゃべらせた。だからワシも久しぶりに嘘つきになるほか仕方がないじゃないか。なあ、タイガー、だからさ、しゃべればすぐ嘘つきになってしまう人間がいまさら、嘘だ、出任せだと言ってみたって始まらないんじゃないですかねえ。」 「いや、参りました。このなかで、年齢がもっともおじいさんに近いと思われるわたしでさえ、おじいさんの言うことは理解ではませんね。そんなに人生を無駄に生きてきたつもりはないんですけどね。いま流行に言うなら、まるで宇宙人と話しているみたいって言う感じですかね。どうでしょうか、皆さん、わたしたちは今日こうやって集まって、おじいさんのためには何が一番良いだろうかと、誠意をもって真剣に今まで話し合ってきましたが、しかし、どうしても話がかみ合いませんでした。おじいさんは真剣でなかったと批判しているわけではないのですが。でも、わたしたちはやるべきことはやったと思います。まあ、おかげで、おじいさんが自分から進んでライオンの檻に入ったことが判りましたので、この問題もこれ以上大きくなってこじれるようなことはないと思います。それに、おじいさんも病院に戻るのも施設に入るのも心から望んでおられないようなので、そこでどうでしょう。このままおじいさんのやりたいようにやらせてあげるというのは、皆さん、どう思いますか。」 「わたしたちの言うとおりにやってくれるのが、おじいさんには良いことなんですけどねえ。でも、いくら職務とはいえ、それを強制するわけにも行きませんからねえ。もちろん上の方にも相談してみますけどね。しかたがないんでしょうね。」 「なにはともあれ、人々のトラブルを円満に解決しなければならない弁護士の私としましては、とりあえず園長さんの意見には賛成ですね。」 「この中で最も若いと思われる記者さんはどうですか。」 「私ははっきりいって反対ですね。なぜなら、おじいさんをこのままにして置いたらどうなるかは目に見えてますからね。たしかに、おじいさんと私たちとは話しがかみ合いませんでした。 でもそれは仕方がないことい゛はないでしょう。長くこのような生活を続けていたみたいですから、世の中が変わったということが判らないんではないでしょうか。それよりも、おじいさんがなぜこのような生活に入って行ったかということを、もう少し考えてあげるべきだと思います。私が思うには、何かの体験で深く傷ついたからだと思います。それはおじいさんの言葉の端々から伺えるんですが、この前の戦争体験ではないかと思います。後遺症と云いますか、あの不幸で悲惨な体験で深く傷ついた心が癒されなかったために、戦争が終わってもまともな生活に入ることが出来ずに現在に至っているのだと思います。それで私たちとは正常な会話が出来ないというか、私たちの理解に苦しむような言動しか出来なくなっているのだと思います。でも、こうなったのは決しておじいさんの所為ではないのです。当時のゆがんだ社会の所為なのです。むしろおじいさんは犠牲者なのです。ですから、おじいさんの為を本当に思うなら、もう少し時間をかけて説得すべきだと思います。何も今日中に無理やり結論を出す必要はないと思います。もし、このままおじいさんの望むとおりにさせて置いたら、それこそ見殺しにしてしまいかねませんよ。入社以来、私は社会部の記者として、社会の片隅で、様々な理由から、あまり恵まれない生活をしている弱い立場の人たちを取り上げては、わたしたちの社会の力で、そういう人たちをどうにか人並みの生活が出来るように援助してあげるべきだと訴えてきました。ですから、このままおじいさんを放っておくような意見にはとても賛成できません。」 「偉い、偉いなあ。このお兄さんは弱いものを助けたいんだって。でもなあ。タイガー、お前、どう思う。弱い仲間が居なくなったほうが本当にいいと思うか。お前たちは弱い仲間が居るおかげで、安心してられるんじゃないか。それに、いじめたりいじめられたりしているから退屈しないんじゃないか。みんな同じ様に強かったら喧嘩にならないようにって、いつも気を使ってばかりいて大変だろう。」 「ええと、私がなぜ、そのような弱い立場の人たちに特別の関心を持って新聞記事を書いているかと言いますと。それは私たちの社会が目指している理想の社会、つまり、先程からも何度も出てきましたが、日本人である限りどんな人でも人並みなというか、人間的な文化的な生活が保障されている社会の実現に少しでも役立ちたいと思っているからです。」 「ブンカテキ、文化的ってなんだろうね。」 「えへん、それはですね、文化的な生活というのは、ある程度の教養を身につけて、スポーツとか芸術に親しむことが出来て、あまり病気にもならないような、たとえなったとしても、すぐ医者に見てもらえるような、健康的で衛生的な生活ということでしょうか。」 「エイセイテキ、衛生的ね。ワシは皆さんからみれば汚いんでしょうね。ばい菌がいっぱいなんでしょうね。でも、病気なんかしたことないよ。そうだ、そうだ、ばい菌だって精一杯生きたいんだろうね。なんといわれようときっと生きたいんだろうね。」 「そして、ええと、今の日本はその理想とする社会には、まだまだほど遠いんですが、しかし、徐々にではありますが、着実に近づきつつあることは間違いないんです。それには、私たち新聞記者がやってきたことが、つまり、社会の矛盾や不正に翻弄されながら貧苦にあえいで居る弱い立場の人たちのことを、私たちの繁栄する陰の部分として、または、ある種の犠牲者として積極的に取り上げて人々に訴えてきたことが、幾分が貢献したのではないかと自負しています。」 「へえ、たまげたなあ、弱いもののことを新聞に書いてみんなに知らせたら、世の中が良くなるんだって、おい、タイガーどうだい、お前たちの生活良くなっているかい。おっ、そうか、お前たちは、悔しいことや腹の立つことがあってもさ、新聞に書いてみんなに知らせることが出来ないから、生活が良くならないんだ。そうかあ。」 「ええと、それからわたしは、おじいさんの言うことは、はっきり言って良く理解できません。でも、やっていること、つまり、おじいさんの生き方にはどことなく共感ができるような気がします。なぜなら、現代のほとんど浪費に近いような消費社会にあって、おじいさんのような贅沢とはまったく無縁な生活は、わたしたちに今の生活をもう少し見直してはどうかと暗示しているだけではなく、このままいったら大変なことになるに違いないと警鐘を慣らしている様にも見えるからです。それからこのような自然のなかで動物や植物と親しむ生活は、自然を破壊し数多くの動植物を絶滅の危機に追いやっているわたしたちは、もう少し見習うべきだと思います。」 「おっと、それは違う、間違いだ。これだけは言わないと。みんながワシのような生き方をしたら、日本はあっという間に滅びてしまうではないか。これは良くない、なあ、タイガー、でも、まあ、良いか。滅びるものは滅びれば良いのさ。それよりさ、世の中が良くなっているって言ったけどいったい何が良くなっているんだろうね。なにが変わったんだろうね。」 「おじいさん、それはもう良くなりましたよ。判りませんが、この二十世紀というもの日本は画期的に変わりましたよ。ねえ、皆さん。まずは、主権はわたしたち国民にあるという民主主義に変わりましたし、人間は皆平等で個人として尊重されるようになりましたし、そのほかにも色んな権利が認められ保障取れるようになりました。また他人に迷惑をかけない限り何をやろうがどんな職業につこうが自由ですし、何をどんな風に表現しようが自由ですし、どんな意見や考えを述べようが自由ですし、どんなことを報道しようが自由ですからね。まあ、そのなかでも最も変わったのは、平和を愛し二度と戦争を起こさないようにしようという国民の意識でしょうか。それもこれもみんな、先程弁護士さんからお話があったように憲法のおかげなんですよ。」 「いや、またですか、また憲法の話しですか。その憲法というやつ、ワシには難しすぎてよく判らんのじゃよ。」 七部に続く ![]() |