老人と猫(五部)

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         はだい悠



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 いやじゃないのか、ツヨソウに頭を下げるのは。

 へっちゃらですよ。

 そうか、、、、、良いやつだ、良いやつだ、カシコソウは良いやつだ。なんて良いやつだ、なんて良い奴だ。オレはだめだ、オレはだめだ、オレはほんとうにだめだ。ありがとう、ありがとう、ほんとうにありがとう、、、、 

「やあ、トラ、どうしたんだ。そんなに情けない声を出して鳴いて。ひさしぶりだな、元気だった。どうしたんだそんな張り詰めた顔をして。あっ、これかい、この包帯かい。これはなんでもないさ。お前たちの遠いキョウダイのライオンにかじられてな、いやあ、参ったよ。奴ら、わしをかじるだけかじっておいて、ちっとも食おうとしないんだよ。なんてこった。ワっ八八八八。おい、トラ、良いものがあるぞ、さあ、食べろ。うまいぞ。おい、どうしたんだ、どこへ行くんだ。いらないのかい。」

ニヤーオ、ニヤーオ、カシコソウ、こっちへ戻ってこい。

 なんですか、どうしたんですか。

 こっちに、食い物があるぞ

「なんだ、そうだったのか。仲間を呼んだのか、相変わらずだな、トラは。来たか、さあ、遠慮しないで食べな。おや、トラ、どうした。お前は食べないのか。そうか、後輩に先に食べさせようとしているのか。お前はやっぱりタイガーという名前にふさわしいやつだな。若いの、お前はほんとうにカシコソウな顔をしているな、将来はきっとタイガーのような立派な大人になれるぞ。ところで、ワシのいない間に何かあったか。タイガー、そうか、ないわけないよな。何にもなかったらそんなに恐そうな顔をしてないよな。どうだ、なにかして遊ぼうか、これはどうだ。なんだ、どうしてじゃれないんだ。そうか、そうだったか、お前はもう子供じゃなかったな。もう、ニ年になるんだな、お前が始めてここに来たときはほんとうにチビだったな。だから、お前がタンポポの間から顔を出したときは、てっきりお前が地面から湧き出てきたのかと思ったぞ。そして、そこらじゅう楽しそうに走りまわってさ、なんにでもすぐじゃれ付いてさ、覚えているかい。覚えてないだろうな。あれから二年になるのか。二年といっても判らないか、キノウがいっぱいってことさ。キノウのキノウのキノウのずっとキノウってことさ。わかるか。キノウっていうのは、たしか前に教えたよな。キノウというのは、眼を閉じて、そのときは決して眠らないんだよね、そして仲間のことや恐いことや食べたことや遊んだことを思い浮かべるんだってね。判ってた。タイガー、お前さっきよりだいぶ穏やかな顔つきになってきたな。それでは今日はついでにアシタを教えようか。アシタというのはだな、あれ、あの太陽があっちのほうに行って見えなくなって暗くなって、静かになって皆がひと眠りして、そのうち今度はあっちのほうから出て来て明るくなって鳥が鳴いて、みんなが動き出すことをアシタというんだ。判るかな、わかんないか。ちょっと難しすぎたかな。じゃあ簡単に言おう。アシタというのはだな。腹をすかしているときに何かを食べること。だから、だから楽しいことうれしいことをいうんだよ。どうだ、今度は判ったろう。うん、どうだ、このくすぐったのか、気持いいだろう。今まで色んなネコを見てきたけど、お前のような変なネコは初めてだな。不思議なネコだ。なあ、タイガー、お前、ずっとここにいろ。お前たちは二年ぐらいすると、ふと、どこかに行っていなくなるんだもんな。いったいどこへいくんだ。まあ、良いか。おい、若いの、うまかったか。今度はアシタのアシタのアシタのあたりになるからな、そのときはまた食べに来いよ。さあ、お前もこっちに来ていっしょに話をしよう。お前もタイガーのようにワシの話を聞くようになれば、将来はきっと賢くてみんなから好かれるようなリーダーになれること間違いないぞ。判るかな、若大将、頑張るんだぞ。」

「わあ、うっそう、ねえねえ、おじいさん、おじいさんはさっきから、そうやってネコに話し掛けているけどさ、まるでネコと話が出来る見たいね。嘘でしょう。」
「もちろん、できるよ。」
「うそつき、だって猫はなんにも話してないじゃない。」
「言葉を話さなくたって、ちゃんと表情や態度でわかるんじゃよ。」
「信じられない。じゃあ、今なんて言ってるの。」
「いま、いまは、のんびりとして気持良いなあって。」
「うそみたい。ねえ、触ってもいい、かみつかない。」
「だいじょうぶだよ。人間の心がわかる賢いネコだからね。いま、あなたが近寄ってもぜんぜん態度を変えなかっただろう、ということは、あなたがとても良い人だと思って、安心しているということなんだよ。」
「ふうん、名前なんて言うの。」
「これがタイガーで、ご飯を食って眠そうにしているのがワカダイショウだ。ああ、そうかそうか、なになにこのお嬢さんはとても良い子だって。でも、なにか引っかかるものが心の奥底に、そうか、悩みを持っているというのか。」
「うそ、やっぱりうそ。おじいさんのロから出任せじゃない。タイガーはさっきからなんにも変わっていないよ。」
「出任せじゃないよ。良いかい、さっきまで軽快に動いていたタイガーの尻尾が止まったじゃない。表情だって少し落ち着かなくなったよ。それは、タイガーがお嬢さんの心の中に何か居心地の悪いものを感じたからなんだよ。」
「うそばっかし。だって、あたしはお嬢さんじゃないもの。それにあたしは暗くなんかないし、悩みだってちっともないし、毎日が楽しくって楽しくって、ほしいものは何でも買えるし、食べたいものは何でも食べられるし、あたしお金持ちなのよ。」
「へえ、お嬢さんはお金持ちなの。」
「そうよ、お金持ちよ。だって、花の女子高生だもん。いまどきお金持ちじゃない女子高生なんていないわよ。」
「ほう、お嬢さんは女学生なんだ。」
「女学生じゃなく、女子高生よ。ねえ、タイガー、人間の心がわかるなんてうそでしょう。ねえ、あたしに悩みがあるというのなら当ててごらんよ。」
「おい、タイガー、お前はうらやましいなあ。こんなやさしいお嬢さんになでられてもらって。この幸せものが。いっそのこと、このお金持ちのお嬢さんに飼ってもらったらどうだい。」
「えっ、飼っても良いの、おじいさんのものじゃないの、ほんとに良いの。」
「良いさ、このあたりにいるネコは誰のものでもないんだ。みんな自由なんだ。ああ、世の中の人がみんなお嬢さんみたいに良い人だったら、この公園にいる猫はみんな幸せになれるのになあ。ねえ、お嬢さん、あそこを見てごらん、あのウエコミの中を、ネコがいるだろう。あのやせたネコ、いくら人が呼んでも寄って来ないんだ。決して人の手からエサをもらって食べようとしないんだ。」
「どうして、あっ、ニンゲンが嫌いなのね。」
「まあ、はっきりいってしまえばそうなんだけど。あの猫のあるき方がちょっとおかしいんだ、酔っ払いのような歩き方をしてさ、たぶん、ニンゲンに頭を蹴られたか殴られたかしたんだろうね。ほらあそこにもいるだろう、小さいのが、あれはまだ若いんだが、生きる気力をなくしたみたいで、あそこにじっとしたまま動こうとはしないんだ。えさも食べようともしない。たぶん、仲間にいじめられたんだろうが。実は、このコウエンにはあういうのがいっぱい居るんだ。ほとんどは何かに怯えるように隠れたままで、人前に出てこようとしないんだ。」
「どうして、自由じゃなかったの、自然の中で伸び伸びと生きてるんじゃなかったの。」
「そうなんだけど、自由といっても、自分の力で生きなければならないから大変なんだよ。人間のように助け合うというわけには行かないしさ。みんなそれなりに競争して生きているんだよ。このタイガーやワカダイショウだって、そんなかで一生懸命生きているんだよ。でも、なかには、ちょっと要領が悪いのとか、動作が鈍いのとか、不器用なのとか、頑固で意地っ張りなのとか、臆病なのとか、一生懸命やろうとしてもやれないのとか、努力しようとしても出来ないのとか、色々居るんだよ。そういうのは、みんなに遅れをとってえさにありつけなかったり、変わっているということで仲間から目をつけられていじめられたりしているうちに、だんだんいじけてしまって、結局生きることが嫌になっちゃうんだろうね。」
「へえ、ネコにも性格が悪いのが居るのね。あたしたちと同じ見たいね。」
「そうなんだよ、お嬢さん。人間の世界と同じなんだよ。ほとんどが一人ぼっちで、プライドは高いんだが意外と寂しがり屋なので群れを求めたりして、そのなかには特別に意地悪で暴力を振るうものが居たり、仲間を侮っていきがるものがいたり、自分勝手で欲張りなのが居たり、どうしようもなく弱く泣き虫なのが居たり、自分を大きく見せようとする見栄っ張りが居たりするところなんかは、人間の世界とほとんどそっくりだよ。だから喧嘩やいじめはしょっちゅうあるんだよ。いじめのきっかけなんていい加減て云うか、どうでも良いというか、ほんのちょっとしたことみたいだよ。みんなとなんとなく形が違うとか、感じか違うとか、そんなこと言ったって生まれつきだものしょうがないのになあ。それから天気がいいとか悪いとか、その場に集まった猫の数によって出来る雰囲気によっても、いじめが始まったり、始まらなかったり、ほんとうに気まぐれみたいだよ。だから、みんなと特別に形が違っていて弱そうで見たことがないネコだったりすると、たちどころに標的にされるみたいだよ。そのうえ、そいつが頑固で意地っ張りだったりすると、邪魔者余計ものみたいに、目を付けられて徹底的に、もう二度と立ち直れないくらいに痛めつけられるみたいだよ。でも、お嬢さん、そういう犠牲者が居るからこそ、結局他の者が強い者として優位にたっていられるんで、それでだいぶ助かっているみたいだよ。なぜなら、いちいち全力を出して競争をしなくても済むからね。人間にだってあるだろう、誰かが失敗すればなんとなくほっとする気持になることが。」
「そんなにいじめられるんだったら、どっかに逃げれば良いのにね、意地悪ネコの居ない、、、、」
「人間と同じで、ネコも仲間から離れては生きていけないのさ。それがどんなひどい仲間でも、いや、ひどければひどいほど離れられないのかな。依存症みたいになって。」
「ねえ、おじいさん。あの猫たちはこれからどうなるの、誰も助けてくれないの。」
「そうだね、残念だが、だんだん食べれなくなって、やせて骸骨みたいになって、がたがたになって歩けなくなって、ますますやせていってぼろぼろになって、眼が見えなくなって、動けなくなって、冷たい雨に打たれて寂しく死んでいくのかな。でもそれが、このようにしか生きることが出来なかった野良猫としての運命なんだよ。でもね、お嬢さん、助かる希望がないわけでもないんだよ。それはね、お嬢さんのような良い娘さんが、毎日声をかけ食べ物を上げて面倒を見てくれたら、きっと彼らも人間が好きになり再び生きる気力を取り戻すかもしれないよ。間違いなく元気になるよ。お嬢さんのような良い娘がやさしくしてくれたら、、、、」
「あたし、あたしは、そんなに良い娘じゃないもん、、、、」
「おや、どうしたんだろう。眠ったのかな、気を失ったのかな。おい、タイガー、お前わかるか。どうなんだ、、、、そうか、気を失ったのか、疲れているのかな、大変なんだな。    おっ、気がついたみたいだな。」
「はあ、あたし、どうしたのかしら。急に胸が苦しくなってきて、めまいがして、気を失ったのかしら。おじいさん、あたし帰るわ、もし、良かったらまた来るね。タイガー、バイバイ。」
「なあ、タイガー、いつのまに悪魔も住めないような町になったんだろうね、、、、なんだ、タイガー、お前結局なにも食べなかったのか。ワカダイショウは気持良さそうに眠っているな。いっぱい食ったからなあ。どうだ、お前もひと眠りでもするか、、、、ゴロニャーン、ゴロニャーンとな。」
「ふん、あきれたもんだ。いったいどういうつもりなんだろうね。あんなに世間を騒がせておきながら、こんな所でネコとふざけあっているなんて。テレビニュースでお宅を見たとき、以前になんどかこの公園で見かけたことがあるホームレスじゃないかと思ったが、やっぱりそうだったか。なぜお宅はあのとき満足そうな顔して映っていたんだ。普通なら、ライオンに噛まれたんだから、恐怖で引きつった顔をしているはずなのに、お宅はあのとき、妙に落ちついた声で、確かこう言った。『野生を忘れたライオンはつまらない、つまらない。』周りのみんながどうなったと心配して集まってきているときに、よくも平気であんな人を食ったようなことが言えるね。どれほど多くの関係者に迷惑をかけているのか判っているのかね。お宅たちはいつもそうなんだ。ほんとうに人騒がせなご老人だよ。まあ、もっとも、お宅がまともな頭を持った人間であるということでの話だがね。」
「なんでもない、なんでもないさ。良いから良いから安心して眠ろうじゃないか。」 「少し失礼でしたかな、わたしよりはるかに年上と見られる方に向かってこんなロの聞き方をして。こうやって近くからお宅を伺っていますけど、はっきり言ってわたしには、お宅がどのような見識の持ち主の方か、それともまったく持ち得ない方なのかさっぱりわかりません。さっきから少しも表情をかえずにおられるので、わたしの声が聞こえているのか聞こえていないのか、それとも聞こえない振りをしているのかも、さっぱり判りません。まあ、それならそれで良いでしょう。わたしとお宅とは何の関係もないのですから。でも、せっかく来たんですから、もう少し話させていただきます。お宅はどうしてライオンの檻の中に入ったんですか。」
「−−−−−−−−」
「そうですか、無視ですか。では、あなたはその痛々しい包帯姿で、あのときテレビのインタビューを受けて、なぜあんな幸せそうな、いや、とても満足そうな顔をしていたんですか。」
「−−−−−−−−」
「また無視ですか。まあ、良いでしょう。でも、話は続けさせていただきます。あなたの心の奥底に眠っているに違いない常識が目覚めて、私に誠実な答えを返してくれることを期待しまして、、、、わたしが最初にあなたを見かけたのが、大学を卒業して就職をしたときですから、ちょうどいまから三十六年前の春でしょうか。確か、昼休みに、この人通りの少ない細い道を歩いていたときでしたか。それからいままで何度見かけたことでしょうか。二度目は確か、わたしが二十代にして課長に昇進したときでした。夕方、帰りのバスの中から。三度目は、わたしが独立をして新しい会社を創ったときでしょうか。あなたがここの公園通りの楓の木の隣にじっと立ち尽くしているのを、通りがかった車の中から。四度目は確か、わたしの会社が予想以上に発展して、株式を上場したときでしょうか、経済界のある会合に出たとき、あのビルの窓からあなたが木立の中に居るのを。そして、今日が五度目になる訳です。しかし、わたしは、あなたの印象深いというか、風変わりな姿に特別に興味が引かれ、記憶にとどめるかのようにじっと見ていたわけでは決してありません。風景の中の変わった古木のように、または、さび付いてもはがれずに残っている古い看板のように、覚えているに過ぎないのです。ということは、あなたとわたしはいうまでもなく赤の他人ということになります。ですから、あなたがわたしの質問に答える義務もなければ必要もまったくありません。わたしがあなたのことを、わたしの質問を無視した失礼な人間と思うのも、本来は筋違いのことなのです。しかし、わたしにはどうしてもあなたに言わずにはおれないものを、胸の使えのように感じているのです。わたしはこの三十六年間、国のため社会のため家族のために一生懸命誠実に働いてきました。おかげで人並み異常に地位や名誉を得ることが出来、財産も築くことが出来ました。しかし、あなたはこの間、なんにも変わっていないでしょう。もちろんこれは憶測ですが、たぶん、変わっていないでしょう。あなたは国や社会の為にいままで何か役に立つことをやりましたか、あなたには大切にすべき地位や名誉はありますか、あなたには守るべき財産や家族はありますか。そうでしょうね、ないでしょうね。それなのに、あなたなぜそんなに幸せそうというか、満足そうな顔をしてネコなんかと遊んでいられるのでしょう。もし神様がわたしたちのことを公平に見てくれていたら、わたしはあなたなんかよりも十倍も百倍も幸せになっていいはずです。ねえ、そうでしょう。もう、こうなったら、はっきり言わせてもらいましょう。わたしはお宅のような人間が居ることは、まあ、お宅にも何か事情があるんでしょうから、わたしもそれなりに理解しているつもりなんですがね、でも、お宅ん゛無邪気な子供のように幸せそうな顔をしてネコと遊んでいるのを見るとなぜか無性に腹が立ってきてしょうがないんですよ。わたしがいままで社会のためにやってきたこと、お宅は何にも知らないでしょう。さっきいったほかにもまだまだいっぱいあるんですよ。企業のあり方についての会議やシンポジウムに積極的に参加したり、住みやすい町作りのために地域の会合やボランティア活動に参加したり、事故や災害、それに貧困や飢餓で困っている人々のために寄付をしたり、慈善活動をやったりとね。ところが、お宅らはそういう社会活動は、自分たちとは関係ない思ってまったく無関心である。その一方では何かと援助を受けるだけ受けといて、それがさも当然であるかのような顔をしている。一度でもありがたいと思ったことがあるんだろうか。おそらく感謝したことなんか一度もないんだろうね。それどころか当然の権利であるかのように思っているでしょう。一人前の社会人としての義務も果たさず、ほんとうに度し難いというか、無責任極まりないですよ。とにかく、お宅らはわがままなんですよ。自分かってなんですよ、そうは思いませんか。わたしたち一般人から見たらお宅らは、一応表向きは社会的弱者ということで、同情を受け援助されるべきものということになっているが、だが実際は、わたしたちが一生懸命に秩序を守り社会を発展させ生活レベルを上げようとすればするほど、なにかにつけた妨害し社会を悪くしよう悪くしようとしているかのようにしか見えないというのが、偽らざる気持なんですよ。だから、もしお宅らが居なかったらどんなにかスッキリするだろうって、、、、ふう、少し言い過ぎましたかな。見たところ傷ろの腫れはまだ引いてないようだし、痛みもまだ相当なものでしょうに。そんなあなたに対して、少し酷でしたかな。ホームレスだからといって、幸せになってはいけないという法はないですからね。それこそ個人的な問題ですからね。これじゃまるで私があなたの幸せを妬んでいるみたいですよね。ワッ、ハッハッハッハッハ。まあ、そんなことありえないですよね。私よりあなたのほうが幸せだなんて、笑い話にもならない。」
「どうしたタイガー、お前なんか感じるのか、落ちつきないぞ、なんか気になることがあるのか。」
「あなたって云う人はほんとうに何を考えているんでしょう。少しぐらいは私の言葉に反応しても良いでしょうに。そうか、どうやらわたしは、あなたのことを最初から、私たちと同じ人間とみなしていたみたいです。それだからこそ、わたしはあなたのことが気になり、批判的に見ていたようです。でも、もしも、もしもです、あなたがライオンに噛まれても笑っていられるような、また、こんな真昼間から、地べたに寝そべってネコと無邪気に遊んでいられるような変わった人間だったら、わたしはあなたの言動に本気でいらだったり、腹を立てたりすることはないでしょう。なぜなら、あなたがどんなに幸福そうな顔をしていようが、それは私たちが決して知ることが出来ない世界の幸福でしょうから。もう、これ以上なにを話しても無意味なようですね。でも、わたしはそれほど忙しい身ではないですから、もう少しここにとどまって、私がこの三十六年間やってきたことを詳しく話させていただきます。それを聞けばあなたはきっと、私のほうがあなたよりもずっとずっと幸せであると思ってくれるでしょう。わたしはT大学を、ええ、正式な名称をいうと、なんか自慢しているように聞こえるので、イニシャルでTといわせてもらいます。そりT大学を卒業した後、今でも一流と呼ばれる会社に入りました。最初はやはり大変でした。なにせ、それまでと違って、朝決まった時間に起き、満員電車に揺られて会社に行き、そしてなりない仕事を。とにかく右も左もわからない新人でしたからね。でも、意外とスムーズに仕事に慣れましたね。わたしには不思議なほど適応能力があるみたいです。すぐ仕事に夢中になって、やりがいを感じるようになりました。満員電車だって初めはこれは何事かと思いましたが、そのうち慣れて来るにしたがって快感になったというか、今でもその当時のことを懐かしく思い出しては、ときどき乗ることがあるんですよ。良いですよね、あの緊張感が、なんか力が湧いてきそうで。あの頃はまだ私にとっては青春みたいなものでしたから。それからはとにかく順調でした。会社が、日本の高度経済成長の波に乗ってどんどん大きくなって行ったときでしたから。わたし自身もやればやるほど給料が上がっていくということで、ますますやりがいを感じるようになっていきました。でも、わたしは決して猛烈とか仕事一筋とかいう訳ではありませんでした。そうですね、八分ぐらいの力と云いますか、いや、やるときはもちろん真面目ですよ。一生懸命ですよ。それでも、そうですね、自分から言うのもなんですが、自然と他のものをぬきんでるようになっていきました。そうですね、気がついたら上司や後輩から信頼されるような存在になっていたというんでしょうか。そして、二十五歳のとき結婚しました。その後も仕事は順調でした。プライベートも楽しく毎日が充実していました。朝決まった時刻に起き、決まった電車に乗って会社に行き、決まってはいたがやりがいのある仕事をやり、そして、決まったように妻と子供が待つ家に帰ってくるという毎日でしたが、とにかく楽しかったです。こんな日々が永遠に続けば良いなあ知思うくらい充実してました。とにかく幸せだったでしょうね。今でもそうなんですけどね。当時は家に帰ってきて、冷えたビールを飲みながら、大好きな巨人戦のナイターを見るのが、なによりの楽しみでした。そして二十九歳のとき課長に昇進しました。みんなが祝福してくれましてね、とても嬉しかったです。その後も順調でした。子供たちも健康に育っていきましたし、とにかく申し分のない充実した毎日でした。いや、、毎日というより歳月といったほうが云いでしょうね。一年というのは、まず春の公園の花見に始まるんだ。そして、五月のゴールデンウィークのキャンプやドライブ。夏休みは家族で国内旅行だろう。秋には会社の運動会と社員旅行。くれにはクリスマスパーティと忘年かい。そして、新年は初詣といったぐあいに。あっ、それから時々のゴルフコンペや学校の父兄会。それにけっこう頻繁に冠婚葬祭もあったね。それから毎年ではないが、海外旅行だろう、その他にも色んな行事や活動に参加したりしてるうちに、これといった事故や事件にみまわれることなく、あっという間に過ぎ去っていったという感じですね。ちょうどそのころでしょうか、それまであまり好きでなかった自民党が好きになっていたのに気がついたのは。そして、三十二才のとき、わたしは一大決心をしました。それまでこれといって不満のなかった会社を辞めて新しく自分の会社を創ったのです。わたしはけっこう用心深いというか、完全主義者というか、なにかをやるときはいつも論理的に徹底して考え、きちんと計画をたて、ある程度予想をして行動するタイプですから、うまく行くのは当然だったかもしれません。会社は飛ぶ鳥を落とす勢いで発展していきました。社員も見る見る増えていきました。そして、五年後には株式を上場するまでになりました。でも、その間、わたしは少しも大変だとか、苦しいとか感じたことはありませんでした。むしろ人生のなかで、最もやる気と生きがいを感じていた時期といっても過言ではないでしょう。子供たちも問題なく成長し、皆それぞれにT大学を卒業後有名企業に就職してくれました。ほんとうに何も言うことはありません。自分から言うのもなんですが、わたしは成功者だと思っています。何の不満もなく、充実した人生を過ごして来たと言っても良いでしょう。そうですね、まあ、しいて言うなら、あの時ぐらいでしょうか。あの時は、さすがに夜眠れませんでした。生まれて初めてでしょうね、一睡も出来ずに朝を迎えたのは。悔しいというか、いったいどうしたんだろうかとか、なにがいけなかったんだろうかとか、色々と反省したり思い悩んだりして、その後も二、三日はほんとうに目覚めが悪かったですよ。それまで家族同然のように思っていた社員が突然組合を作ったんですからね。はっきり言ってその当時、わたしの頭の中は、いつも業績を上げ会社を大きくすることでいっぱいでしたよ。でもそれは、究極には社員の為にもなるということですからね。社員の生活を向上させ、それぞれの人生を素晴らしいものにしてあげたいという親心があったからですからね。いったい彼らかなにが不満であんな行動に走ったんでしょうね。誰かにそそのかされたとしか思えないですよ。私ほど社員を大切にして、会社を経営してきた人間は他には居ないと思いますよ。なんか裏切られたような気持でしたね。まあ、経営者仲間からは、これで立派な会社として世間から認知された証拠じゃないかとか、ますます会社が発展する兆候じゃないかとか言われて、慰められましたから、ほどなく眠れるようになりましたけどね。そうそう、そうなんですよ。社員というのは、経営者が社員のために考えているほどには、会社のためには何にも考えてないんですよ。お宅らと同じでみんな自分勝手で我がままなんですよ。わたしがどんなに会社のため社員のために知恵を絞り神経を使い孤独な決断をしてがんばってきたか、ときには言いたくもないお世辞を言ったり、下げたくもない頭をとげたりしてきたか、なんにも判っちゃ居ないんだよ。たとえて言うなら、自分ひとりで大きくなってきたような顔をして、親を批判したり馬鹿にしたりしながらも、実際は、親のすねをかじって生活している世間知らずな子供のようなものですよ。彼らは視野が狭いために、ほんとうの社会の仕組みやなにがほんとうに社会を動かしているかが判っていないので、自分では何ひとつ決定できずに自分の親のように会社に頼り切ってと云うか、寄りかかってというか、いざというときにはこれまた何ひとつ責任取らずに生きている万年青年のようなものですからね。そう言えばこんなことがありましたね。わたしが勇退を決意する二、三年前のことでしたが、社内にこんな噂が広まったことがありました。内の社長はほんとうは無能じゃないかとか、指導力がないんではないかとか、もしかしたらボケたんではないかとか、今すぐにも世代交代が必要なんじゃないかとか、ひどいもんですね。会社が大きなトラブルもなく順調に行ってる時にですからね。何にも判っちゃいないんですよ。誰の目にも判るように、先頭にたってですよ。目立つことをやらないからそう見えるんでしょうけど、でも、どうでしょう、たとえばこんな場合、会社に将来を左右するかのような危機がおきたとしましょう。そのとき社長がリーダーシップをいかんなく発揮して、危機を乗り超えたとしましょう。おそらく社員たちはみんなその社長をすぐれた指導者として褒め称え尊敬するでしょう。でも、どこかおかしいとは思いませんか。そもそもあらかじめ会社に危機などが起こらないように先のことを見通して経営に当たるのが社長としての勤めではないですか。まあ、そうは言っても、こっそり神社でお払いをしてもらったこともありましたし、それからこれはあんまり役に立たなかったですが、占い師に相談したこともあるんですけどね。」
「おや、どうしたんだ、タイガー。何か気になるのか、そんなに驚いた様な顔をして。ああ、もったいない、もったいない。」
「まあ、良いでしょう。小さいことですよ。わたしが今まで国のため家族のためにやってきたことに比べたら取るに足らないことですよ。ですから、それほど気にしませんでしたけどね。まあ、社員に判ってもらえなくても、わたしが会社で築き上げた功績が消えるわけではないですからね。これだけお話しすれば、あなたも、わたしが、人がうらやむような成功者で、多くの人々の賞賛の拍手と尊敬のまなざしにかこまれて、どんなにか充実した人生を送ってきたかがお判りいただけたと思います。そして、そういうことなら、当然のようにあなたは、わたしのほうがあなたよりも十倍も百倍も幸せだと思うはずです。ああ、もうたくさん、これ以上話しても意味はない。あなたはいったに何をしているんですか。人がせっかく真剣に話しているときに、聞いているんだか、聞いていないんだか、ネコが食い散らかしたものを拾って食べたりして、汚いと思わないんですか。あなたは変だ。頭がおかしい。わたしはいままであなたのことをなんだかんだと批判めいたことを言ってきましたが、でも、もしかしたら、もしかしたらですよ、あなたが高い見識の持ち主ではないかと密かに期待もしていたからなんです。でも、とんだ期待はずれでした。もういい、たくさんです。あなたはやっぱりまともじゃない。頭がおかしい。もう私は帰る。ああ、無駄に時間を過ごしてしまった。今度妻と一緒に、船で世界一周旅行に出かけますから、もう二度とあなたと会うことはないでしょう。さようなら。」
「ああ、怒っちゃったよ。もう少しなのになあ。もう少しなあ、、、、あれ、タイガー、また、面倒なのがやってきたぞ。良いではないか、善がどこまでも善である時代に、報われる時代に生きたのだから、、、、」
「こんにちは、福祉課から来ました。やっぱりここでしたか。お怪我のほうはいかがですか。どうして病院を抜け出したりしたんですか。今日は、お客さんをお連れしましたよ。動物園の園長さんと、弁護士さんと新聞の記者さんですよ。」
「おやおや、すっかり眼がさめたみたいだな。どうだい、タイガー、ワシにはちっともわからないんだが、良い人たちなのか、悪い人たちなのか。まあ、まあ、ええ、なになに、いやな人たちが、ああ、あれか、向こうからやってくる二人組みか。なあに、だいじょうぶさ、奴らはどうせ飲んだくれの腰抜けさ。」
「ほう、そのネコ、人間と話しが出来るんですか。」
「どうだ、おどろいたか。」
「ほう、ということは、人間の言葉が判るんですか。」
「当たりめえよ。特にこいつはタイガーといってな、言葉がわかるだけじゃないんだ。見ただけで人間が何を考えているか判るんじゃ。まあ、いって見れは天才猫だなこいつは。ワシに何でも話してくれるんだから。どうだすごいだろう。」
「ほう、そうなんですか。すごいですね。あっ、わたしは動物園の園長をやっているんですが、長年いろんな種類の動物を扱ってきていて、もうロでは言えないくらいの貴重な経験をたくさんしてきました。そのなかで、それまでは、まったく考えられなかったようなことをする、たとえば、人間に恋したり人間のように道具を使ったりするというようにね、不思議なと云うか変わったというか、そういうことをする動物をたくさんたくさん見てきたんですよ。でも、人間が考えていることが判るなんて、こんなおとぎ話みたいなのは初めてですよ。そうですかすごいですね。そっちのネコもそうですか。」
「こいつは、ワカダイショウといってな、それほどでもないな。ネコは見掛けじゃないからな。でも、人間の言う事は良く判るぞ。いや、こいつらだけじゃない、この公園にいるネコはみんな人間のいうことは判るぞ。なにせ、生活が掛かってるからな。」
「昼食、いかがですか。持ってきたんですよ。少し遅くなりましたけど。いかがですか。」
「あっ、これはこれは、ご馳走だ。でも残念ですね。さっき食べたばっかりで、あっ、そうか、ワカダイショウ、仲間を呼んで来いこっちに食い物があるぞって、行って来い、さあ。」
「あのう、おじいさんの名前を聞いてもいいですか。この間はなんかショックで思い出せなかったみたいですけど。どうですか、いくらか思い出せるようになりましたか。」
「ナマエ、名前、ワシのか、ない、忘れてしまった、とうの昔に忘れてしまった。」
「それじゃ、出身地や年齢でも良いんです。」
「うっ、うわあ、思い出したぞ。たしか、トウジョウヒデキっていったかな。」
「トウジョウヒデキさんですか。どっかで聞いたことがあるような名前ですね。」
「いや、いや、ヒトラーって言ったかな。」
「、、、、それじゃ、これからおじいさんと呼んで良いですね。」
「おじいさん、怪我のほうはまだ治らないんでしょう。病院に戻られたらどうですか。」
「ビョウイン、病院は嫌いじゃ。医者も嫌いじゃ、なんだかんだ言ってうるさいじゃないか。」
「それじゃ、怪我は治らないでしょう。」
「かまわんさ、時間が経てば何とかなるさ。なるようになるさ。ああ、もう、そんなことよりワシはもう年じゃ、こんな年寄りこれ以上長生きしたってなんの役にも立たないよ。わしのようなものは野垂れ死にしたほうが良いのさ。だいいちお金はどうするんだよ。死ぬべきものは死んだほうが良いのさ。」
「まあ、おじいさん、そんなに気を落とさないで元気を出しましょう。お金のことは心配しなくてもいいのよ。わたしたちのほうでなんとかするから。」
「なんてやさしいんだろう、やっぱり女の役人さんは違うのう。どうですか、草に坐ってみたら、汚いですが、良いでしょうたまには、そんなに冷たくもないですよ。でも、なんでお金を出してくれるんじゃ、ワシのような者に。」
「それはね、おじいさん、そういう社会の仕組みって云うか、決まりなんですよ。」
「へえ、ワシは社会のために何にも良い事はしてないよ。もしかしたら迷惑ばっかし掛けているかもしれないよ。それでも、、、、」
「ええ、かまいませんわ。困っている人たちがいたら、どんな理由があるにせよ、助けてあげるのがわたしたちの職務ですから。」
「へえ、それじゃ、あそこにいる飲んだくれの奴らも、仕事をせずに朝から飲んでいる奴らでも、それでも良いのかい。」
「えっ、ええ、もちろん良いですよ。いくら仕事をしたくても仕事がなければしょうがないですからね。どんな人手も助けてあげるというのが、わたしたちの社会の大切な考え方ですから。」
「へえ、たまげた。ワシは税金を払ったこともないし、働いたこともないのに、それでも良いのか。」
「ええ、良いですよ。」
「へえ、たまげた、それじゃネコでも助けてくれるのかい。」
「えっ、ネコ、ネコですか、それは、、、、」
「おい、なあ、聞いたか、ネコはだめみたいだぞ。まっ、良いか。あっ、そうだ、もしかしたらワシはとんでもない悪党かも知れないぞ。それでも良いのかい。」
「ええ、かまいませんよ。」
「おい、タイガー、聞いたか、悪党でも助けてくれるんだってよ。お前たちはどうしてるんだ。誰かが仲間の食い物を横取りした場合、なになに、そうか、みんなで引っかいたり噛み付いたりして追い出すのか。そうだろうな。それにしても変だよな、お金っていうのは働いてその報酬としてもらうのに、なんにもしないのにもらうなんて、まるで盗人みたいじゃないか。それじゃ、怠け者はますます怠けるし、働き者はますます嫌になるじゃないか。どうもおかしい、納得できねえ。」


 六部に続く









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